使徒言行録」カテゴリーアーカイブ

地の果てに至るまで(2019.6.23)

宣教題 「地の果てに至るまで」      宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 使徒言行録1章6~11節

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」私たちは、信仰を持つと同時に、宣教する事が神の命令であると言われ、努力してきたのではないでしょうか。

1.聖霊が降るとき
 しかし、イエスは宣教に行く前に、する事があると言われます。それは、聖霊が降るのを待ち、聖霊によって力を受けることです。宣教には、困難が待ち受けています。それは、異教との闘いであり、文化との闘いであります。海外宣教は更に多くの困難があります。気候や病気、食べ物、言葉の壁、経済的な事、クリスチャンの仲間、命の危険、人手不足等々、上げればキリがありません。その様な中で、失敗し挫折し、自分を見失ってしまう事があります。
 聖霊が降るとき、自分が罪人であることがはっきり分り、イエスが救い主であることが分かり、自分が救われていることが分かります。それは、自分が何者であるかが分かる事です。宣教(doing)をする前に、自分が何者(being)であるかが分かっていなければ、困難にあったとき、踏みとどまる事ができません。

2.わたしの証人となる
 地の果てには、頼りになるものがあまりありません。支えになってくれる家族、友人、頼れる医者、慣れ親しんだ食事、本や漫画、教師。それらは遥か遠くにあります。遠くにありますが、それらの支えがなければ、証人としてその地に立ち続ける事はできません。使徒たちが地の果てに宣教に出て行ったとき、エルサレムでそれを支援する使徒もいました。宣教は、出て行く人と残って支える人のチームです。どちらも主の証人であり、聖霊による力でする事が必要です。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.3MB)

主に信任されて(2017.1.1)

宣教題  「主に信任されて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  使徒言行録2章41~47節
初代教会から今日に至るまで、神の子とされた「仲間」たちは、神の家族としての生きた歩みをする場を教会とし、そこが主に信任されて拡充してきました。その教会は、どのような群なのでしょうか。

2.基本に忠実な聖徒の群  41~45節
教会は、「仲間に加わった」人々によって形成されていきました(41節)。そこにどんなに人が加えられても、どんなに忙しくても、主から委ねられた権威に基づいて、主の教えに基づいて一糸乱れず教会は導かれていきました。
その秘訣は、基本に忠実であったからです(42節)。聖徒たちは、主の教えをしっかりと握った使徒たちを通して伝えられた教えに信仰生涯の基礎をおいていました。礼拝を通しての交わり、それが具体的な姿となった愛の交わりをもって恵みを分かち合いました(44~45節)。聖餐や愛餐を通して心を開いていました。そして、祈りに忙しくしていました。彼らは、このようなこと以外に関心を奪われていなかったのです。そこには、神の臨在が分かるほどに、神への畏敬があったのです(43節)。

2.一つ心にされている聖徒の群  46~47節
その結果、「心を一つにして」いる一致した群が生まれていきました。そして、順境であれ、逆境であれ、喜びが満ち溢れていました(46節)。
「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」と、教会が成長し、成熟していったのです(47節)。私たちは、このことにいつも心を用いていることが大切です。
一致し、成熟し、安定した教会は、用いられていきます。その群は、神にとっても、聖徒たちにとっても、そして教会を取り巻く社会にとっても有益な群れとなっていくのです。主に信任される聖徒一人ひとりであり、聖徒の群であるように!

聖霊による心のきよめ(2016.5.15)

宣教題  「聖霊による心のきよめ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  使徒言行録15章6~11節

ペンテコステに聖霊の降臨を経験し、力強い前進を見た初代教会は、ほどなくして様々な課題に直面することになりました。それは、聖霊の働きが一方的なものではなく、人の側の在り方と無関係でないことを明らかにしているのです。神が聖霊を与えて人々の心をきよめてくださるのも、信仰によるのです(8~9節)。

1.心がきよくされる必要
異邦人も割礼を受けるべきだと主張したユダヤ人たちは(5節)、きよめられる必要のあるクリスチャンの姿を表していると言えます。それは、彼らの心にあったもので、差別意識あるいは優越感(8~9節)、律法主義あるいは無慈悲さ(10節)、神を試みる思い(10節)が問題なのです。
これらは、クリスチャンの心にもあり得るもので、きよめられる必要があります。そのままであったら、自分自身が自由でないし、人を苦しめることにもなるし、教会を混乱させることにもなって、神の栄光を現すことができないのです。聖書は、人の心がきよくされることの幸いを強調しています。

2.心がきよくされる道
クリスチャンは、主イエス・キリストによる救いの恵みを信仰によって受け取った者です(11節、エフェソ2章8~9節)。その心がきよめられ続けるのも同じです(1ヨハネ1章7節)。それを可能にしてくださるのが、聖霊なのです。クリスチャンは、自分の姿に気づかせられて、そこからきよめられることを祈り求め、扱われ、悔い改め、示さけるままに従うのです(使徒言行録5章32節)。
私たちは、「人の心をお見通しになる神」であるからこそ(9節)、きよめられる必要のある性質、とりわけ「かたくなな心」(マルコ3章5節)を聖霊によってきよめていただき、聖霊に満たされて歩むことが求められています。
あなたの「ペンテコステ」は!

私たちが熱望するもの(2012.9.12)

宣教題  : 「私たちが熱望するもの」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 19章21~22節

ここに、パウロの宣教の途上における幻が語られています。それは後日、パウロが、「・・・何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので・・・」(ロ-マ15章23節)と同じことを伝えていますが、エフェソ伝道以前から彼の内にあった熱望でした。

1.福音の拡がりを熱望する
パウロは聖霊に導かれて、これまでエルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、小アジア、マケドニア、アカイア、そしてエフェソ伝道と進めてきました。その後に、「ロ-マも見なくてはならない」と、ロ-マそしてイスパニアへの伝道を神の御心と計画していたのです(ロ-マ15章24節)。その前に彼は、遠回りするように、マケドニアとアカイアの各州を通り、エルサレムに行くことを考えていました。
このような熱情は、どこから生まれてきたのでしょうか。それは、神が私たちを救おうとされた熱情からであり、その神の愛の熱情に打たれ、救いの恵みを信じ、従ったところから生じました。福音の拡がりを熱望する私たちは、福音のたすきを途切れることなく受け渡していくことが必要です。

2.福音の交わりを熱望する
パウロが、遠回りしてエルサレムに向かい、テモテとエラストをマケドニア州に先に送りだしたのには理由がありました。彼が、福音の拡がりに対する感謝をエルサレム教会に報告するときに、経済的に困難を覚えていた同教会に、異邦人教会からの献金を届けるためでした。彼がこうした行動をとったのは、ユダヤ人教会と異邦人教会が、キリストに在って一致するという福音の交わりを熱望したからでした。彼は、目前の急務を先行させつつ、福音に仕える歩みを踏みしめて行ったのす(ロ-マ15章25~29節)。
以上のように、パウロを熱望させた根底には、「・・・わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピ1章20節)との信仰がありました。これは、私たちの切望でもあります。

福音の継承と拡大(2014.9.8)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 使徒言行録28章23~31節

使徒言行録から教えられることは、主の弟子たちが万全の態勢、万全の準備が整ってから、伝道に着手したのではありませんでした。むしろ、彼らは聖霊に強いられて、伝道の場に引き出され、そこで苦闘し、悩み、祈ることを通して、訓練され、鍛えられ、吟味させられ、成長していったのです。それは、神戸中央教会の歴史も同様です。
福音宣教は、エルサレムからローマ、そして地の果てに至るまで続いています。

1.どのように福音を継承するのか  23~27節
ローマでのパウロは囚われの身でしたが、そこに訪れるユダヤ人たちに、神の恵みを具体的に実現してくださったイエス・キリストの福音を熱意と迫力をもって語たりました(23節)。聖霊によって、霊の目が開かれて、イエスこそ救い主であると信じ受け入れた者がいました。しかし、その福音に対して、聞こうともせず、心で理解しようともせず、神に立ち返って悔い改めようとしない者もいました(24~27節、イザヤ6章9~10節)。
イエス・キリストの救いは、信じ受け入れた時から始まり、人間の一生にかかわり、生活の全領域すべてにかかわることがらです。私たちは、今も変わらない普遍的で人を造り変えるキリストの福音を継承しているのです。

2.どのように福音が拡大されるのか  29~31節
パウロのローマでの日々は、独立のあるところに自由があり、自由のあるところに絶えざる創造的な働きがあったことを証ししています(30~31節)。囚われの身である彼にとっては、訪問客が大きな喜びであり、自由に伝道できたことも大きな喜びでした。もちろん、彼を通して語り続けられた福音は、神の恵みの世界へ導いてくださる主イエス・キリストとその救いでした。
さて、「使徒言行録」は、ここで終わっていますが、続く29章以降は、今日までの教会の歴史の中で書き続けられてきました。そして、福音が全世界に拡がっていきました。私たちの神戸中央教会もアンティオキア教会の姿勢に溢れて宣教を進めていくことにより、書き続けてきましたし、これからも書き続けていくのです。今、どんな書き方がなされているか、いかなることを書くかということが問われているのです。

真実で動かされないもの(2014.8.3)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録 28章11~16節

パウロは、「ローマでも証しをしなければならない」(23章11節)との御言葉を主イエスからいただいてから、災難また災難を乗り越えて、ついにローマに 到着しました。そこで彼は、「神に感謝し、勇気づけられた」(15節)のでした。ここには、復活の主によって、真実で動かされないものをいただいている者 たちの証しがあります。

1.復活の主の力を共に知る信仰
難破したパウロ一行は、マルタ島に上陸して三か月を過ごした後、シチリア島のシラクサ、続いてイタリア半島のレギオン、そしてプテオリに入港しました。 そこでは、パウロたちは『兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した』のでした(14節)。この時、聖日礼拝を含む日々を主にある信仰の交わりを深 め合い、祈りと御言葉を共にしたことでしょう。また、パウロたちがローマ近くまで来ていると聞いたローマ在住の信徒たちは、彼らを心から歓迎をしたのでし た。ルカは、その時のパウロを「神に感謝し、勇気づけられた」と語っています。
この感謝と勇気は、復活の主の御言葉から、また復活の主が共におられるとの信仰からくるのであり、聖霊の力によるものでした。周囲が揺れ動く中で、私たちも、真実で動かされることのない復活の主の力を共に知る信仰を抱き続けたいものです。

2.復活の主に共に仕える気概
ルカは、パウロたちがローマに到着したこと、そこで囚人でありながらも伝道する自由を与えられた不思議な摂理を淡々と語っています(14、16節)。そ う語られている背後には、パウロたちの意に反するようなことが起こっていたにもかかわらず、その意に反した事柄の中で復活の主が何をなされておられるのか を汲みとって、復活の主に仕え、宣教の業に勤しむ彼らの気概がありました。
私たちは、その信仰生涯で経験する病や事故、また人々の反対や批判といった困難と思われることも最善に用いなさる復活の主に共に仕える気概をもたせていただき、その自覚に生きることができるよう祈り求めていきたいものです。

元気を出しなさい(2014.7.6)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録27章13~38節

パウロのローマ行きという神の御計画は変わらず、度重なる困難を経て実現されていきました(13~20節)。彼は、暴風で荒れ狂う海に漂流する船の中で、神の必然を信じつつ、同船者に「元気を出しなさい」と語り続けたのでした(22節、25節)。

1.愛の励ましをもって  21~26節
暴風が激しく吹きすさぶので、「ついに助かる望みは全く消え去ろうとしていた」(20節)時、同船者たちはパウロの救いの言葉を聴くことができたのでした。彼は、絶望と無力のどん底にある彼らに、「元気を出しなさい」と励ましたのです。
パウロは、なぜこのように並はずれの寛容と愛をもって人々を励まし、助けようとしたのでしょうか。彼がローマに行って福音を語ることは、神からの必然的 使命だったからです。神は、航海中の全ての人を彼に任せておられたからです。神が彼に告げられたことは、必ずそのとおりになるとの御言葉信仰に立っていた からです。彼は、死をも乗り越えさせる復活信仰に立って、最後まで諦めなかったからです(24~26節)。このように、いかなることが起こったとしても、 それを神の恵みへの応答のチャンスとしようという捉え方で歩む生き方が求められます。

2.愛の連帯感をもって 27~38節
漂流中の船か浅瀬に乗り上げようとした時、船員たちは乗船員を助けようとしないで逃げ出そうとしたのをパウロは阻止しました(27~32節)。そして、 すでに全員が助かると語っていたパウロは(22~26節)、疑心暗鬼になっている乗船員に、信仰の確信に立って元気づけたのです。それは人々の心を奮い立 たせました(33~34節)。
さらに、復活の主イエスが共におられ、人々に元気を与えてくださることを分かち合うために、パンを裂いて共に食しました。自分たちだけ助かろうとした船員 を排除することなく、愛の共同体として受け入れ合ったのです(35~37節)。そこにいた全ての人が、同じ苦難を経験した者として、愛の連帯感の中に導か れたのです。
このように、神の御業は、日々に御言葉を聴き従いつつ歩む信仰者を通して展開されていくのです(23章11節、27章23~24節)。

天からの光(2014.6.1)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録26章1~23節

使徒言行録には、パウロの回心の証しが3回記されています(9章、22章、26章)。その回心は、決して人間の思索の積み重ねによって生まれたのではあり ません。「天からの光」によるのであり(13節)、パウロは「天から示されたことに背かず」、「光を語り告げる」ことに専念しました(19節、23節)。

1.人生を変革する  1~15節
回心するまでのパウロは、律法を重んじ、律法に生きることが何よりも第一のことと考えていましたので、復活のキリストを信じる信仰によって生きている 人々の群れがあることを受け入れることができませんでした(9節)。そこで、彼らを壊滅させることに熱心になったのでした(11節)。キリストは、そんな パウロの行く手を「天からの光」で遮られたのでした(12~13節)。
キリストは、キリスト者の群れの傍らに身を置いて一つになっておられるので、「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけられ、「わたしは、あなたが迫害し ているイエスである」と語りかけて、パウロを捕らえられたのでした(14~15節)。このように、キリストは、様々な状況にある一人一人に出会ってくだ さって、その全生涯を変革されるのです。

2.周囲に波及する  16~23節
キリストは、人生を変革されたパウロに、「起き上がれ、自分の足で立て」と命じ、キリストの証人として遣わされました(16~17節)。それは、キリス トを信じる人々を大いなる救いの祝福に与らせるために、福音を宣べ伝えるためでした(18節)。かくして、パウロは天から示されたことに忠実で、福音の光 を語り告げたことにより、それが周囲に波及して行ったのです(19~23節)。
このようにキリストは、キリスト者がその言動と存在をもってキリストを証しするように遣わされるのです。私たちは、いかなるところであっても、その置か れたそこを足場として、復活のキリストの証人となるのです。そこにおいて、福音の光が放たれ、波及して行くのです。

キリストを主とあがめる(2014.4.6)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録24章1~27節 1ペトロ3章15節

私たちがキリストに対する信仰の歩みに徹していくとき、キリストの受難と同じような試練を通されることがあります。その経験は、パウロと同じように、十字 架に死んで復活されたキリストにある望みを弁明し、キリストの勝利を先取りする歩みに導かれます。それが、「キリストを主とあがめる」歩みなのです(1ペ トロ3章15節、マタイ6章2節)。

1.キリストにある希望を弁明する  1~23節
パウロは、大祭司アナニアの弁護士テルティオのおべっかと偽りの訴えを受けて、フェリクス総督すなわちローマ法廷に、たった一人で立っています(1~9 節)。彼は、神と人に対して、確かな信仰と責められることのない良心を保ちつつ、弁明しています(10~21節)。彼は、一人で戦ったのではなく、神の前 に、神と共に戦っていることを証ししたのでした。
私たちは、いかなる状況下にあっても、神からの知恵をいただいて、揺るぐことのない復活信仰の希望を、穏やかにして尊大ぶらず、神を畏れて敬意を持っ て、正しい良心で、「あなたがたの抱いている希望について」弁明し語ることが大切です(1ペトロ3章15~16節)。

2.キリストの勝利を先取りして生きる  24~27節
パウロは、総督フェリクス夫妻を救いに導こうとして、「正義や節制や来るべき裁き」について語りましたが、彼らは信仰の応答をしませんでした。このよう に、パウロが潔白で純粋かつ堂々と語ることができたのは、彼自身が、来たるべき神の最後の法廷を目指して、否それを先取りして今を生きていたからです (24~26節)。十字架と復活のキリストが弁護人ですから、常勝不敗の勝利者となれるのです。
さらに、パウロは、時間が経過して状況が変わっても、復活のキリストの約束に立って、神の時を待ったのです(27節)。私たちは、このように待つことを通して、忍耐を学び、御言葉を深く学び、自分自身を深く掘り下げることかできるのです。

私たちにあるものを知っているか(2014.3.16)

宣教: 小平 牧生 牧師
聖書: 使徒言行録3章1~10節

東日本の大震災以来、私たちの国全体を覆っている言いようのない不安と恐れがさらに増しています。政治家の語る「日本をとりもどす」とか「日本の力を信じている」という言葉もなんだかカラ元気のように聞こえます。
しかし、このような中にあってこそ、私たちは神様が私たちに与えておられるものをはっきりと知ることができます。あなたにあるもの、それは何でしょうか?

私たちに与えられているものは何か。

1.人々を見つめる
「使徒言行録3章3~5節」。
「マタイによる福音書9章35~38節」。

2.イエス・キリストの御名に対する
「使徒言行録3章6節」。
「使徒言行録3章16節」。

3.立ち上がろうとする人々を助ける
「使徒言行録3章7~8節」。
「ヨハネの手紙一 3章16~18節」。

人知を越えた神の導き(2014.3.2)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録23章12~35節 イザヤ書55章11節

私たちは、主イエスとその御言葉に信頼し続けることにより、神の導きの中を歩ませていただくのです。ここでは、パウロ殺害の陰謀と露見とカイサリアへの護送という出来事の中に、人知を越えたとしか言いようのない神の導きを証言しています。

1.神の導きの不思議さ
ユダヤ人によるパウロの暗殺計画が実行されようとしました(12~15節)。これがそのまま放っておかれたなら、パウロによるローマでの伝道ができなく なるという危機を迎えたのです。「しかし」、そのことを聞きこんだパウロの甥によって、その情報がパウロに伝えられ、そのことがローマの千人隊長にも知ら されることとなったのです。千人隊長には、ローマの市民権を有するパウロの権利を守り保護する義務がありました(17~22節)。すかさず、千人隊長は、 万全の策を講じてパウロをローマ総督のもとに護送するようにしたのでした(23~35節)。こうした中にも、パウロは切迫した情況の中で、冷静な信仰的総 合判断をしたのでした。
神の救いの歴史を導いておられる神が、ご自身の計画を実現するために、パウロの甥や千人隊長を用いられたことに、不思議さを覚えます。神の時に、神の方法で、神の人を用いられるのです。私たち一人一人も、そうした神の人なのです。

2.神の導きの確かさ
こうした神の導きの背後には、先にパウロに語られた復活の主イエスの御言葉が゜働いていました(11節)。その導きは、復活された主イエスが共におられるという確かさであり、導きの時は確かであり、導きそのものに誤りはないという確かさです。
このことは、イザヤ書に語られている神の約束の御言葉にあるように(55章11節)、神は、苦難の中にあっては特別の支えをもって、試練の中にあっては希望を与えて導き、その使命を果たさせてくださるのです。
私たちの中に、神の導きを必要としない人は、一人もありません。また、教会も世界の全体も、神の導きを必要としています。神は、人知を越えた不思議な導きを、御言葉に立った確かな導きを与えてくださいます。皆が、それに従えますように。

勇気ある日々(2014.2.2)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書 : 使徒言行録23章6~11節

キリストは、十字架の受難を前にして、弟子たちに「しかし、勇気を出しなさい」(ヨハネ16章33節)と語られ、また宣教の前進を命じられるなかから、パ ウロに「勇気を出せ」と語っておられます(使徒言行録23章11節)。キリストは、今日の私たちにもキリストを信頼し続けて生きる勇気を必要としておられ ます。

1.苦難の中にあって
キリストは、私たちに「世で苦難」を経験することを避けるようにとは言われませんでした(ヨハネ16章33節)。その苦難には、試練があり、嘆きもあり、闘いもあるでしょう。それによって、キリストのものとされた信仰者が、整えられ、造り上げられるのです。
同様に、教会も苦難を経験することによって前進してきました。パウロは、キリストを証しすることが最も難しいと思われたユダヤの最高法院の議員たちに対 して、キリストが救い主であることを証しするチャンスを与えられました。しかも、彼は不思議な方法で、危機一髪のところで助け出されました(使徒言行録 23章6~10節)。伝道の画期的な展開は、迫害などの危機の中で推進されていくのです。

2.主の勝利に与る
私たちは、世にある苦難にあっても、キリストの十字架と復活によって明らかにされた究極的な勝利に与っています(ヨハネ16章33節)。それは、私たち の罪と死という最大の敵に対する勝利です。従って、勇気を出すとは、このキリストの勝利に信仰によって与ることなのです。
さて、パウロは、願っていた通りに最高法院においてキリストを証しできたことにより元気づけられました。にもかかわらず、その夜、勝利の主がパウロのそ ばに立たれて、エルサレムでと同じように、ローマでもキリストを力強く証しすることが必ずできると語られたのです。伝道の画期的な展開は、キリストの臨在 の確かさの中で推進されていくのです。私たちは、ただキリストに信頼し(マタイ14章27節)、勇気ある日々を歩ませていただくのです。

 

家族に祝福を(2014.1.1)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録16章31節

今年、私たちの教会は、「祝福の源である家族」を標語に進んでいくように導かれています。私たちは、世界の礎である家族に祝福がもたらされるために、何を大切にしなければならないのでしょうか。

1.家族の大切さ
天地創造、世界の起源、創造の冠として人間を造られたことなど、壮大なスケールから始まる創世記が、その本論に入るとアブラハム家の物語に絞られ、その後の家族が全世界に祝福を及ぼす源となっていったことを語っています(創世記18章19節)。
また、主イエスは、家族を重く見ておられました。その十字架上で、母であるマリアのために配慮された事実にも(ヨハネ19章26~27節)、それを知るこ とができます。そして、パウロは、家族を顧みることの大切さを語っています(1テモテ5章8節)。聖書は意外なまでに家族を大切にしています。
私たちは、家族を大切にして、具体的にどのように家庭を作っているか、また作ろうとしているかが問われています。

2.家族が主の救いに与る大切さ
神の祝福の源である家族であるためには、主の救いに与り、天の喜びに息づく家族に変えられることが大切です。
人類は、その祖であるアダムとエバが神に背いたことによって、神の祝福を失いました。今もなお家族や家庭に見られる混乱や乱れのルーツは、ここにありま す。神の救いの御計画は、神と人との関係の回復だけではなく、それを起点とした人と人との回復、家族の救いを意図しておられます。
フィリピにあった牢の看守一家が、主イエスを信じ、全員洗礼を受けて、喜び溢れる家族になりました(使徒言行録16章16~34節)。彼らは、主イエスに人生の土台を置いて、主に信頼する歩みを始めたのです。
一人の人の救いの祝福は、その家族に及んでいく始まりとなります。私たちの一人一人と家族の「主」が、イエス・キリストなるように祈り願いましょう。

良心に従って(2013.10.13)

宣教題  : 「良心に従って」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録22章22節~23章5節
神が私たちに与えていてくださる「良心」は、大切な賜物です。しかし、人が良心的に生きると言いつつも、全てが良い心であるとは言えないようです(マルコ7章20~23節)。だからこそ、パウロのように、「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前に生きてきました」(23章1節)と言える人は、何と幸いなことでしょうか。

1.新しく造り変えられた良心
聖書では、信仰と良心の関わりの深さと大切さを明らかにしています。そこには、「正しい良心」を持つように勧められていますが(1テモテ1章19節a)、健全な状態にない良心についても語られています。それは、良心が鋭い感覚を失ってしまい、罪を罪と感じなくなってしまったり(同4章2節)、良心を意識的に捨ててしまったりすることです(同1章19節b)。ですから、神の御業や御言葉に対して素直に応答する「正しい良心」をもたせていただくことが大切なのです。
パウロは、教会を迫害することが罪であることを復活の主イエスから知らされた時、聖霊によって良心の導くところに従って回心しました(22章6~11節)。主イエスの語りかけに対して、良心が忠実となり、新しく造り変えられることか大切です。

2.神の前を生きる良心
ここでの迫害に対しては、パウロが持っていたローマの市民権が用いられ、救出されました。彼に与えられた異邦人伝道の使命が果たせなくなってはいけなかったからです(22章22~29節)。彼は、翌日の大祭司アナニアの前で、堂々と落ち着いて、気迫あふれた発言をしています(23章1~5節)。このように、パウロは、神の前に、神に向かって、神から与えられた使命に従って生きていこうとしたのです(24章16節)。
私たちが、その良心を死んだ業から清められて、神を礼拝し、神に仕える者となるために、主イエスが十字架で血を流して永遠の救いを全うしてくださったことを覚え続けたいものです(ヘブライ9章14節)。

真実な証人(2013.8.11)

宣教題  : 「真実な証人」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章37節~22章5節 1ペトロ3章15節
真実な証人は、キリストの救いと今も共に働かれるキリストを生き生きと証言します。それが「キリストを主とあがめ」ることなのです(1ペトロ3章15節)。さて、絶対絶命の窮地に追い込まれた時のパウロの「ひと言」が、状況を一変してしまいました。

1.聖霊によって  21章37~40節
「ひと言お話ししてもよいでしょうか」とのパウロの申し出によって、千人隊長との問答が始まりました。千人隊長は、正直に語るパウロの安全を確保しつつ、民衆に対してパウロが弁明する許可を与えました。ヘブライ語で弁明するパウロには、気迫があったのでしょう。民衆は、すっかり静かになりました。
こうした正直な証言は、驚くべき力を持っています。全ては、聖霊によったからです(使徒言行録1章8節)。それは、ステファノが殉教した時と同じように(同7章54~60節)、聖霊に満たされているならば、人の憎悪の中にあっても、復活の主が見え、その救いに与かった者としての生き方がなされるのです。聖霊は、証言すべきことも教えてくださるからです(ルカ12章11~12節)。

2.揺るがない希望を抱くゆえに  22章1~5節
パウロがヘブライ語で弁明したことは、多くのユダヤ人に対して最適の言葉でした。彼は、ユダヤ人で名門の家に生まれ、律法の厳格な教育を受け、「熱心に神に仕えて」いたことを強調しています。さらに、キリスト者と教会の迫害者であったことを正直に証言しました。このようにして、彼は、律法に熱心で、どんなに名門に生まれても、人は救われないことを証ししたのです。彼は、恥はわがもの、栄光は主のものという信仰に徹していたのです。
ところで、キリストの大いなる救いに与かるという信仰は、私たちの希望であり、「いつでも弁明できるように備えて」いる必要があります(1ペトロ3章15~16節)。このような弁明こそが、人の目と心を開くのです。