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恵みの賜物(2019.9.1)

宣教題 「恵みの賜物」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章1~13節

 この手紙は、教会とは何なのか、教会に生きることと教会に仕えることとはどういうことなのかを中心に語ります。本箇所では、話題を転じて挿入するようにして、神の恵みを賜わっている者の生き様を伝えています。

1.ひとり一人の生涯が変えられる  1~9節
 神の救いの「計画」の全貌は、キリストによって、聖霊の御働きによって「啓示」され開かれました(3節、4節、5節、9節)。そのご計画は、ユダヤ人も異邦人も皆等しく、神の民としての約束と救いに与ることを定められ、それをキリストによって実現されました(6節)。この福音こそが、神の恵みの賜物であり(7節a)、それを受け入れた者の生涯を変えるのです。
 さらに、「この福音に仕える者」とする恵みの賜物でもあります(7節b)。この恵みの生涯を歩み続けるならば、恵みにより謙遜にされ続け、深められていく歩みとなります(8節、1テモテ1章15節)。

2.その苦難の中に栄光を見る  10~13節
 こうした神の恵みを賜わっている者の生涯は、苦難を経験しないとは限りません。むしろ、キリストのために、他者の救いのために受ける「苦難」の歩みでもあります(1節、13節)。それゆえに、パウロは、キリスト者とその教会に「落胆しないでください」と励ましているのです。そのことの中に神による「栄光」を見るからです(13節)。

 教会のための苦しみは、教会に生きる喜びと分かち難く結びついています(コロサイ1章24節)。それは、キリストが十字架と復活を通してたどられた価値ある歩みです。私たちも、この信仰の確信を高らかに宣言しましょう(12節)。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11MB)

主に信任されて(2017.1.1)

宣教題  「主に信任されて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  使徒言行録2章41~47節
初代教会から今日に至るまで、神の子とされた「仲間」たちは、神の家族としての生きた歩みをする場を教会とし、そこが主に信任されて拡充してきました。その教会は、どのような群なのでしょうか。

2.基本に忠実な聖徒の群  41~45節
教会は、「仲間に加わった」人々によって形成されていきました(41節)。そこにどんなに人が加えられても、どんなに忙しくても、主から委ねられた権威に基づいて、主の教えに基づいて一糸乱れず教会は導かれていきました。
その秘訣は、基本に忠実であったからです(42節)。聖徒たちは、主の教えをしっかりと握った使徒たちを通して伝えられた教えに信仰生涯の基礎をおいていました。礼拝を通しての交わり、それが具体的な姿となった愛の交わりをもって恵みを分かち合いました(44~45節)。聖餐や愛餐を通して心を開いていました。そして、祈りに忙しくしていました。彼らは、このようなこと以外に関心を奪われていなかったのです。そこには、神の臨在が分かるほどに、神への畏敬があったのです(43節)。

2.一つ心にされている聖徒の群  46~47節
その結果、「心を一つにして」いる一致した群が生まれていきました。そして、順境であれ、逆境であれ、喜びが満ち溢れていました(46節)。
「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」と、教会が成長し、成熟していったのです(47節)。私たちは、このことにいつも心を用いていることが大切です。
一致し、成熟し、安定した教会は、用いられていきます。その群は、神にとっても、聖徒たちにとっても、そして教会を取り巻く社会にとっても有益な群れとなっていくのです。主に信任される聖徒一人ひとりであり、聖徒の群であるように!

祝福の基となる教会(2011.1.23)

宣教題  : 「祝福の基となる教会」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 13章1節~3節
神の新たな御業が展開される時には、アブラハム以来の神の祝福が世界大に拡がっていきます(創世記12章1~4節)。パウロ一行が世界宣教に出発した際に、アンティオキア教会が共有していた恵みがありました。それを通して、神の祝福が拡がっていったのです。

1.信仰を共有する  1節
ここに、教会を構成していた指導的な人物が五人紹介されています。彼らは、人種も異なり、社会的立場も異なり、性格も賜物も異なる人々でした。
そんな彼らに共通するものは、イエス・キリストを信じる信仰によって結び合わされていたということです(2コリント5章17節)。
教会の魅力は、さまざまな壁を越えて、信仰を共有し、福音の素晴らしさと力に生きるところにあるのです。

2.礼拝を共有する  2節
人々が神を礼拝し、御言葉のメッセ-ジに聴従していく中から、聖霊が宣教の業を発案・計画され、人を宣教の道へと召し出されます。この時、宣教の業は、聖霊の業であると同時に教会全体の業となります。このことは、宣教の業に召された者にとって、どんなに大きな力、また慰めとなることでしょうか。
私たちは、礼拝を共有することによって、宣教のための資金のサポ-トをはじめ、祈りのサポ-ト、霊的なサポ-トを進めていきたいものです。

3.宣教を共有する  3節
教会の会衆は、宣教に遣わされる者と一体となって、断食し祈っています。教会全体が一つとなって、宣教者を「出発させた」のでした。これは、送り出す会衆も、送り出される宣教者も聖霊に満たされ、一体となって宣教を共有している姿です。
私たちが、キリストの救いの福音をたずさえて出発させていただくなら、様々な危険に遭遇しつつも宣教は前進していきます。教会は、主なる神の臨在の支えと導きとをいただきつつ、宣教を共有するところだからです。

教会の起源(2009.5.31)

題   : 「教会の起源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章1節~13節
五旬節の日が来て」とは、イ-スタ-から50日目にあたるペンテコステの日を言います。この日は、キリスト教会の起源として祝いの時でした。また、キリストの救いがあまねく拡大していくという、豊かな霊の収穫の時の始まりでした。

1.神の霊によって  1~4節
「一同が一つになって集まっていると」、突然聖霊が降りました。聖霊は、風が激しく吹くように、神に背を向けて生きていた者に新しい神の命を与え、次から次へと新しい命を生み出していきます。聖霊は、炎のように、私たちの罪や汚れを焼き尽くし、キリストのお姿を私たちの内に焼き付け、私たちをキリストのものとして燃え続けさせてくださいます。そして、聖霊は、舌に象徴されるように、私たちが福音の言葉を語れるようにしてくださいます。
聖霊は、「突然・・・天から・・・一人一人の上にとどまった」のであり、その結果「一同は聖霊に満たされ」たのです。このようにして、教会は、聖霊によって始められたのであり、今も変わらず聖霊が働いておられるのです。

2.神の言葉によって  5~13節
ペンテコステの出来事は、宣教する教会が始まった時でした。聖霊に満たされた人々は、「゛霊゛が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のでした。人々が驚いたことは、各地から来ていた人々の生まれ故郷の国語で、「神の偉大な業」が語られていたことです。この時、「天下のあらゆる国から」の人々によって福音が語られています。しかも、文化・国語・地方性にマッチした形で「めいめいが生まれた故郷の言葉」によって語られています。このように、聖霊が一人一人に降る時、神は私たちをご自身の器として用いてくださるのです。
ところで、聖霊が降ったその時から、教会は宣教の群れとなりました。聖霊の満たしとその支配の中にあったからです。私たちは、失敗や挫折があっても、閉塞感を覚えることがあっても、時が良くても悪くても、宣教する教会を導かれる聖霊の働きに、心と思いを向けていく必要があるのです。

聖霊に励まされる教会(2009.1.4)

題   : 「聖霊に励まされる教会」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 9章19節b~31節
生きておられるキリストの体である教会は、当然いのちと感情を持った人格ある存在です。喜んだり、望みに溢れたり、また悲しんだり、痛みを感じたり、失望したりすることもあります。そのために、教会は、慰められ、励まされて前進していく必要があるのです。聖霊によって励まされる教会とは、どういう教会なのでしょうか。

1.キリストが崇められている
教会は、その誕生から今日に至るまで、聖霊による御業が進められてきました(使徒言行録1章8節)。
エルサレムから始まった福音宣教は、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方」まで進展していきました。そこに至るまでは、エルサレム教会への迫害から始まって、サウロの回心と福音宣教への召し(9章1~18節)、そして大胆な宣教が進められました(9章19~30節)。
そのために、主はダマスコの教会メンバ―であったアナニアを用いて、サウロを導かれました。また、主はエルサレム教会のバルナバを用いて、サウロの仲介人また保証人とされました。
「こうして、教会は」前進していたったのでした。その中心となって主役となったのは、サウロでも、アナニアでも、バルナバでもなく、復活の主キリストご自身でした。主イエス・キリストの御業は、それに喜んで従った人々によって進められるのです。崇められるのは、キリストご自身のみです。

2.聖霊が生き生きと働いておられる
教会に必要なのは、以下の七つです。「全地方」を視野においた宣教です。「平和を保」つ一致です。「主を畏れ」る姿勢をもった礼拝です。「聖霊の慰めを受け」ていることです。「基礎が固まって」成長していることです。活動と働きの「発展」があることです。そして、「信者の数が増えて」いくことです。
その中で、とりわけ聖霊に慰めと励ましをいただいていることが、教会の本来の姿です。
教会は、励まされる必要があります。それは、聖霊によって与えられるのです。聖霊こそ、慰め主として私たちの内に働いて力を与えてくださいます。
聖霊に慰められ、励まされ、力づけられることを知っている教会でありたいものです。それこそが、真の教会です。