ルカ」カテゴリーアーカイブ

聞く力(2020.6.28)

聖書

イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。(マルコ4章33節)

礼拝音源(29.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ハバクク2章20節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 27編1~14節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章63~71節 マルコ4章33節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 57 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「聞く力」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 497 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、最高法院の代表者たちから審問を受けておられます。それを通して、主イエスが語られたことを彼らが聞こうとしているか否かを問いかけておられます。
私たちが、主イエスが語られる御言葉を聞くとはどういうことなのでしょうか。

1.主イエスは何度も語りかけられる
主イエスが、ご自分を「メシア」だと言われても、代表者たちは信じませんでした(67節)。また、ご自身が「神の子」だと言われても、代表者たちは聞く耳をもちませんでした(70節)。しかし、こうした不当な裁判であっても、主イエスは語るべきことを語られたのです。この主イエスを知ることは、私たちの慰めであり、救いです。
主イエスは、私たちがどんな場面に置かれても、今も変わらずに何度も語り続けておられます。神の御言葉が開かれることによって、神の恵みの世界を知らせてくださり、御言葉の経験を与えてくださるのです(詩編119編130節)。

2.主イエスの語りかけを聞き損じてはならない
代表者たちが主イエスを裁判にかけたのは、処刑するためでした。彼らは、自分たちの考えが正しいと思い込む固定観念によって、心の自由を失っていたからです。そのために、主イエスが語りかけられることを聞き損じてしまったのでした。
主イエスは、この代表者たちだけでなく、私たち一人ひとりに「聞く力に応じて」語っていてくださいます(マルコ4章33節)。ところが、人は、聞き分ける力、聞こうとする力を失いがちです。私たちは、聖書に親しみ、熱心かつ謙遜に主イエスの語りかけを聞く力をいただき、御言葉信仰に生きる聖徒の群れとしていただきましょう。

 

 

暗闇に立つキリスト(2020.06.07)

聖書

「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(ルカ22章53節b)

礼拝音源(37MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 使徒言行録1章8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 84編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章47~62節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 288 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「暗闇に立つキリスト」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
6月誕生者祝福 ローマ14章17節
賛  美 197 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、今は暗闇の支配する時であると語られました(53節b)。それは指導者たちだけのことでなく、イスカリオテのユダとペトロの内を暗闇が支配していることをも意味していました。そこに、主イエスは立ち続けておられたのです。

1.愛が崩される中に  47~53節
主イエスは、ユダが近づいてきたとき、深い悲しみをもって相対されました(47~48節)。彼の主イエスに対する裏切りには、愛を装って背き、友情を装って売り渡すという暗闇が支配していました。そのところに、サタンがつけ込んできました(1~6節)。
主イエスは、最後の晩餐に際しても(ヨハネ13章21~27節)、ユタが裏切る段に至っても「友よ」(マタイ26章50節)と呼びかけて、極みまで愛し抜かれました。
愛が崩れてしまっていく中にあっても、そこに主イエスは立ち続けておられます。

2.憐れみにすがる中に  54~62節
ペトロは、これまで懸命に主イエスに従い続けてきましたが、主イエスが捕らえられるや、「遠く離れて従った」のです(54節)。彼は、そこから道を踏み外しました(55~56節)。ついには、主イエスを三度まで否認する有様です(57~60節)。
この時ペトロは、変わらない主イエスのまなざしを思い起こします(61節、ヨハネ1章42節)。そして、悔いの涙を流します(62節)。憐れみに富んでおられる主イエスは、その悔いの涙に対して同情で終わることなく、十字架と復活、続くペンテコステの聖霊の恵みを通して、新しい任命と望みを与えられました(1ペトロ1章3~5節)。
主イエスは、ご自身の憐れみにすがり続ける者をこのように導かれるのです。

キリストの従順のゆえに(2020.5.24)

聖書

キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。(ヘブライ5章8節)

礼拝音源(29.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ5章5節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 14編1~7節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章39~46節
ヘブライ5章7~9節
使徒信条 93-4 1A 一同起立
賛  美 280 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストの従順のゆえに」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 303 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、キリストでさえ「学ぶ」必要があったこと、それが「従順」であったこと、それを学ぶのに「多くの苦しみ」を通してであったことに、驚きを覚えます(ヘブライ5章8節)。
主イエスは、十字架を前にオリーブ山で祈られたことを通して、ご自身どういう者なのか、私たちとどのような関わりをもたれたのかを明らかされました。

1.苦しみを伴った祈り
この祈りは、苦しみを伴う壮絶なものでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)、神の裁きの杯を取り去ったくださいと祈られました(詩編73編7~8節参照)。そして、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と、死の恐ろしさのゆえに苦しみもだえて祈られました。主イエスは、立っていられないほど困惑し、恐れ、「ひざまずいて」祈られたのです(41節)。
なぜ、このように恐れられたのでしょうか。主イエスご自身が、全世界の罪を一身に負い、世の罪を取り除く神の小羊として十字架に架けられるからです。これまで、父なる神との交わりの断絶を経験したことのないお方が、その交わりを断たれるという「苦しみ」だからです。主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)との十字架上の叫びこそ、その苦しみの極致でした。ここに、キリストの孤独があります。
主イエスは、今の私たち一人ひとりに代わって、この苦しみを伴う祈りをされたのです。

2.父なる神への服従の祈り
主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と願い祈りながらも、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました(42節)。父なる神の御心とは、御子イエスが全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。主イエスはそれに従い通されたのです。
そして、このように主イエスは祈りながら、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と二度にわたって言われました(40節、46節)。誘惑に陥るとは、神への信頼を失うことであり、失わせようとすることです。ですから、父なる神に信頼することに無感覚になって、信頼できなくなることのないように祈るのです。

主イエスの従順が、私たちの永遠の救いの源となりました(ヘブライ5章9節)。ですから私たちは、人となられた活ける神である主イエスを信じ仰ぎ見るのみです(讃美歌21 280番「この人を見よ」参照)。そして、「御心のままになさってください」と祈られた主イエスの祈りに支えられて、神の御心がこの私と私の人生の歩みに行われますようにと祈り、歩み出すのです。

仕える者(2020.4.5)

宣教題 「仕える者」           宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章24~34節

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10MB)

 主イエスが十字架に架かられる前日まで、弟子たちは誰が一番偉いと思われているかと議論してきました(マタイ18章1~4節、同20章20~28節、ルカ22章24~27節)。それに対して主イエスは、十字架の救いの恵みに生かされて、「仕える者」に造られていくようにと語られます(26節)。

1. 試練によって  28~31節
 弟子たちは、主イエスがこれまで遭われた試練のときと同様に、この後の受難に対しても、一緒に踏みとどまって従い続けるように求められています(28節)。ところが、シモン・ペトロがそうであったように、このような試練のときにサタンによってその信仰がふるわれることがあります(31節)。
 主イエスは、そのような試練を通して、私たちを「仕える者」として造りあげていってくださいます。そして、天の御国における栄光の恵みに与らせてくださるのです(29~30節)。

2.主イエスによって 32~34節
 私たち自身の決心は、ペトロのようにしばしばつまずくことがあります(33~34節)。主イエスは、そのような者たちのために、「信仰が無くならないように」とりなし祈られます。後にペトロは、復活された主イエスによって信仰が回復され、その恵みを宣証していきました(32節)。
 主イエスが今も生きて私たちをとりなし続けていてくださることに、大きな驚きを覚えます(ヘブライ7章25節)。そのような恵みに与る私たちは、「仕える者」として造り変えられていくのです。

新しい救い(2020.3.22)

宣教題 「新しい救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章14~23節

 救いという言葉は、思想的な意味で、経済的な意味で、道徳的な意味で、病のいやしといった意味などに用いられます。ところで聖書は、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いについて語ります。それは、全て人に必要な新しい救いです。

1.その救いに招かれているのは、あなた! 
 主イエスは、十字架に架かられる前日に、使徒(弟子)たちを食事に招きたいと「切に願って」準備してくださり、主イエスを中心にして弟子たちも周りに座りました。それは、かつてイスラエルの民が、神の救いを経験したことを記念しての「過越の食事」でした(14~15節)。この「出エジプト」の出来事は、神の審きが過ぎ越すということを意味する救いであり、囚われているところから解放されて新しく出発することを意味する救いでした(出エジプト12章)。
 主イエスは、罪人に対する神の審きを十字架上で身代わりに受けてくださり、新しい歩みをスタートする救いに招いていてくださいます。

2.その救いを受け取るのは、あなた! 
 主イエスが与えてくださるパンを食することは、主イエスと一つになることであり、ぶどう汁を飲むことは、十字架で流してくださった罪の赦しの恵みに与ることを意味しています(19~20節)。
 この主イエスが差し出された救いは、一人ひとりが自分で受け取ることによってのみ、自分のものとすることができるのです(17節、1テモテ1章15~16節)。「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16章16節)と招かれる主イエスの救いを受け取って歩み出すのは、あなたです。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11MB)

あなたは誰の使者(2020.3.8)

宣教題 「あなたは誰の使者」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章1~13節

 主イエスは、ご自分が十字架に向かって歩まれる道を備えておられました。それに対して、主イエスの弟子たちがそれぞれ誰の使者となって歩んだかを語っています。

1.その道を踏み外す使者  1~6節
 ここに、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが登場します。ユダは、ユダヤ地方出身ということからプライドを持っていました。主イエスは、そのユダを信頼して会計を任せられましたが、彼はその会計の中身をごまかしていたのです(ヨハネ12章6節)。そして、主イエスを敵対する指導者に引き渡すことを決めたのです(4~5節)。その結果、敵方と手を結び、その使者となったのです。そこに見るユダは、サタンに対して心を開いている状態です(ヨハネ13章27節)。
 私たちは、主イエスがすでに備えておられる十字架の救いの道を、私たちの方から踏み外すことのないようにしたいものです。

2.その道を歩んでいく使者  7~13節
 ここに、主イエスが備えられる最後の晩餐のために、ペトロとヨハネは主イエスの使いとしての働きを始めようとしています。それは、主イエスがこの二人を信頼されて、ご自身が計画しておられることに参加させ、その道を歩ませることでした(8~10節)。すべては、「イエスが言われたとおり」だったのです(13節)。
 私たちは、いつでも主イエスに従って、その道を歩んでいくことが大切です。その意味が十分分からないとしても、主イエスの使者として遣わされているという意識をもって、託されている務めを果たしていくのです。その時、「後で、分かるようになる」(ヨハネ13章7節)との主のご計画に生きる祝福を経験をするのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(10MB)

永遠の救い(2020.2.23)

宣教題 「永遠の救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ21章25~38節

 イエス・キリストを救い主と信じている者は、神が一人ひとりにご計画をもっておられるゆえに将来への望みがあり、世界が聖書の語る通りに進んでいくという安心を持っています。そこで、今日の聖書箇所では、次のことを問いかけています。

1.世界の終わりが見えていますか  25~33節
 聖書は、この世の終わりについて直截に語ります。世界大の規模で異変が起こり、人々が気を失うほどの混乱に陥れるものです(25~26節)。そのようなことが起こるなら、神の永遠のご支配が近づいていることを知ることになり、それを「決して滅びない」神の御言葉によって確かめることができます(29~33節)。
 そしてその時、再臨される主イエスを全ての人が見ることができるのです(27節)。それは、魂も体も罪と死から完全に解放され、大いなる神の救いの完成がもたらされる時です(28節)。

2.あなたの将来が見えていますか  34~36節
 それに対して、私たちはどのような備えをしていればよいのでしょうか。神を見失った生活に対して心が鈍くなり、その虜になってしまうことのないように気をつけ、審判者である主イエスの前に立つことのできるように、「いつも目を覚まして」祈ることです(34~36節)。
 そのような備えをしている者は、人間は死んで終わりではなく、死後にさばきがあることを知っています(ヘブライ9章27節)。ですから、十字架と復活によって罪と死に勝利された主イエスを信じるのです(ヨハネ3章16節)。それは、永遠の滅びから救い上げて、神の永遠の栄光にあずからせる救いです。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(9.3MB)

永遠への出発(2020.02.09)

宣教題 「永遠への出発」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ21章5~24節

 聖書は、この世の終わりについて、真正面から語っています。あわせて、それは新しい始まり、さらに良き始まり、永遠への始まりであることを明らかにしています。そのことを意識し、それに対して備え、生かすことが大切です。

1.時を正しく意識するように  5~9節、20~24節
 主イエスは、人生に終末があるように、この世界にも終末がやって来ることと、その時が滅びで終わるのか、それとも救いが完成するときなのかを問うておられます。
 まず、主イエスは、エルサレムが滅びることは、世が終わることではないと語られました(5~9節)。そして、不滅と言われていたエルサレムが滅びる日が来ることを予告されました(20~24節)。神の顧みと憐みを拒み、救い主イエスを拒んだ結果によって起こったのです。
 絶対大丈夫と思われていたことでも、不滅のものはありません。いったい、私たちは不滅信仰を何に置いているのでしょうか。

2.その時に対して備えるように  10~19節
 主イエスは、エルサレム滅亡以上の終末的な破壊が起こることを告げられました。
それには、争いや自然災害(10~11節)、キリストの名のゆえに受ける社会的圧迫や親しい者の裏切りやむ憎悪があります(12~17節)。
 しかし、そのような私たちをご覧になられる神は、「髪の毛の一本も決してなくならない」ほどに保護されます(18節)。そして、十字架を負うことから逃げないで忍耐しつつ(1ペトロ2章19~23節)、主イエスに信頼し切って生きることにより、救いを完成してくださるのです(19節)。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(12.3MB)

神の前に生きる(2020.1.26)

宣教題 「神の前に生きる」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章45~21章4節 2コリント8章9節

 主イエスは、見える事実だけで物事を判断なさらず、その背後にある真実を見る目をお持ちです。何よりも、人がイエス・キリストを「主」と告白して(20章44節)、真に神の前に生きる生き方を見られるお方です。

1.人の目を気にする生き方  20章45~47節
 宗教的指導者で、目に見えない神を信じていた律法学者たちは、人の目を気にして生きていました。人々から敬虔な信仰を持っていると思われたいと、見栄のために生きるようになっていました。主イエスは、彼らの内実のない行動を忌み嫌われ、彼らにくだされる裁きを予告されています。
 主イエスに対する信仰がないと、この世のことだけに気を取られて、終わりを迎える時に何も残らない人生となります。しかし、主イエスに対する信仰の土台がはっきりするなら、希望が生まれ、愛のある成熟した歩みとなります。

2.神を目の前に置く生き方  21章1~4節
 ここに、有り余る中から献金した金持ちたちと、乏しい中から生活費を全部ささげた貧しいやもめの物語があります。彼女は、神の愛を一心に受けて、溢れる感謝を献金という形であらわしたのです。そこに、彼女の信仰姿勢があらわれています。
 これは、献金だけの話をしているのではなく、見えない神を目の前において生きる人の生き方を証ししているのです。それは、主イエスの十字架の犠牲にあらわされた「貧しさ」のゆえに、罪が赦され、神のものとされ、神に生かされている恵みの「豊かさ」に与った人が、その恵みに応答する生き方です(2コリント8章9節)。「主イエス・キリストの恵みを知っています」と告白し続ける生き方をしていきましょう。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(11MB)

自分の町へ帰る(2019.12.29)

宣教題 「自分の町へ帰る」       宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 ルカ2章1~7節

 クリスマスおめでとうございます。と言うと、皆さんには違和感があるでしょうか? わずか4日前にはクリスマスを祝っていたのに、私達は師走と年始へと舵を切っています。12月25日はキリストの降誕を記念したクリスマス、1月6日は東方の学者たちが来訪したことを記念した公現祭です。本来はこの期間がクリスマス・シーズンです。私達は、この時期をどの様に過ごすべきでしょうか。

1.クリスマスにある誤解
 クリスマスをキリストの誕生日としてお祝いしていますが、誕生を記念する日であり、誕生日ではありません。この日付はローマ帝国時代に定められました。

2.正月文化に対抗するべきか
 日本独特の文化である正月に向かうこの時期、私達の信仰とは異なるとして、独自な文化を築くべきでしょうか。
 イエスの父母は、アウグストゥスの命令により、ベツレヘムへ移動してきました。その時代の政府の命令、当時の文化に従ったものでしたが、それは神のご計画でした。その結果、預言通りキリストはベツレヘムでお生まれになりました。
一見すると、世から出ている事で、従う必要は無いと思えるような事でも、その背後には神のご計画があります。

3.家族と共に過ごす事も主のご計画
 年末年始に限りませんが、飼い葉桶にイエス様が寝かされたように、私達の意に反する状況が訪れます。その背後に主のご計画があると認めるとき、神の栄光が現われることを、マリアとヨセフの信仰による行動から見てとれます。どのような時でも、主の祝福が注がれている事に、目を留めさせていただきましょう。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(12MB)

神を喜ぶ(2019.12.9)

宣教題 「神を喜ぶ」         宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 ルカ1章46~56節

1.背景
第1待降節では、アブラハムからイエス・キリストまでの系図より、神の計画と約束が現わされた。イエスの母マリアは、天使より、神の計画と約束を聞いた。そして、まだ結婚していないのに、身ごもる事を預言された。

2.マリアの信仰
 マリアは神の約束を聞き、理解を越える事であったのに、それを信じた。そして、神がその事を自分の身に起こされることに対し、神を喜びたたえた(46~49節)。そして、アブラハムとその子孫に与えられた約束を、神は憐れみを持って、実現されることを信じた(50~55節)
 マリアは信仰によって、『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた』
(ルカ1章45節)

3.私たちの受け継ぐもの
 私達は、神の約束を、このように信じているだろうか。神の約束を途方もない事のように思い、自分には関係のない事だと遠ざけ、目の前にある困難な状況を見て、自分でもうダメだと思い込んではいないだろうか。
 アブラハムとその子孫に与えられた約束は、異邦人である私達には関係のないものであった。しかし、イエスの血潮により、イスラエル人との間にあった隔ての中垣が取り払われ、私達もその約束に与る者となった(エフェソの信徒への手紙2章11節~13節)。

社会は荒れ、希望を持つのが困難な時代になっている。しかし、神の憐れみがこの身に起こる事を確信し、神を喜びたたえる者とならせていただこう。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(12MB)

最大のしるし(2019.11.24)

宣教題 「最大のしるし」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章27~44節

 人は、いつの時代もしるしを求めたがります。そのことをご存知の主イエスは、全ての人に対する救いの最大のしるしとして、死から復活されました(マタイ12章38~40節)。この事実に対して、私たちはどう応答すればよいのでしょうか。

1.生ける復活の主イエスを信じる 
 ユダヤ教の指導者であったサドカイ派の人たちは、死者の復活を信じていませんでした。彼らは、死が究極のゴールだと思って、死に対する不安と恐れを抱く人間を代表するような生き方をしていました(27~33節)。
それに対して主イエスは、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」によって、死者が復活することを明らかにされました(34~38節a)。
確かなことは、すでに主イエスが十字架に死んで復活されたことにより、死は征服されたのです。この生ける復活の主イエスを信じることが、新しい歩みのスタートをすることになるのです。

2.生ける神によって生きる 
 主イエスは、人としてはダビデの子孫でしたが、十字架において人の罪を赦し、死を打ち破って復活し、天に昇って神の右に座して全世界を治めておられる神です(41~44節)。
この主イエスは、「生きている者の神」です。この主イエスに対する信仰をもって、「神によって生きる」歩みをしていくのです(38節)。

主イエスは、一人ひとりに、何に生きているのか、どなたに対して生きているのかを問いかけておられます。十字架の死から復活され、今も生きておられ、永遠までも導かれる主イエスの前を歩み続けていくのです。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(10MB)

神のものだから(2019.11.10)

宣教題 「神のものだから」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章19~26節

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(25節)と語られたことは、神のものを自分のものにしてしまっている者の姿とつながっています(20章9~18節)。それでは「神のもの」になるとは、どういう生き方なのでしょうか。

1.すべてを神にお返しする 
 ここでも、主イエスを陥れようと企てる者たちの問答です。そこで主イエスは、この世にあるさまざまなものの中で、これは神のもの、これは皇帝のもの、これは私(たち)のものというように分別できるものではない、みな「神のもの」と言われたのです(25節)。
 私たちは、税を納めることなどにより国を支えその恩恵に与っています。「神のものは神に返しなさい」とありますが、礼拝を神にお返ししているか、十分の一をもって神にお返ししているかと問いかけつつ、それに応答して歩むことが祝福の人生です。

2.キリストに一切の主導権をお渡しする 
 ところで私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、神のものとしていただきました(1コリント6章19~20節)。そうすることによって、私たちを神の栄光のために用いられ、互いに神のものとして用いられるようになりました。
 そのために私たちは、自らを自分のものとするのではなく、キリストを主としてお迎えし、人生の主導権を主にお渡ししていくのです。そして、家族の一人ひとりまたお互い一人ひとりの主導権をお持ちなのはキリストであり、神のものであることを証ししていくのです。それは、自らが死んで神に生きていただく生き方です。

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(8MB)

神の愛と忍耐(2019.10.27)

宣教題 「神の愛と忍耐」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章1~18節 2テサロニケ3章5節

キリストは、本当の権威を知らいない人々に(ルカ20章1~8節)、愛と忍耐をもってそれを現してくださいました(同9~18節)。このキリストこそ真の権威ある方だからです。

1.神の愛に基づく権威
登場する「ぶどう園の主人」こそ愛なる神を、その「愛する息子」こそキリストを、「農夫たちこそ」ユダヤ人を含む私たちひとり一人のことを語っています。
神は人に、生きる場を与え、そこを治めるようにされました(創世記1章27~30節)。にもかかわらず、人は恵み深い神を拒み、神のものを自分のものとする罪の人生を築き上げてきました。そこで神は、聖書に登場する神の僕たちを用いて語りかけられましたが、人は拒み続けました。そして遂には、キリストを遣わされましたが、十字架に架けて、その罪の身代わりの死を遂げさせたのです。
キリストを十字架に架けた罪人は、私たちひとり一人のことです。しかし愛の神は、罪人を拒むことはありませんでした。捨てられることはありませんでした。

2.キリストの忍耐を現わされた権威
キリストは、十字架の救いを通して、忍耐の限りを尽くされました。その極みが、「罪を赦す権威」です(ルカ5章23~24節)。神が赦されるとは、罰することができる権限をキリストの十字架によって捨てられたことです(同23章34節)。
罪の赦しは、救われた者が持つ確かな経験です。そして、その経験をした者は、互いに赦し合うことを当然のこととする力をいただくことができるのです。

私たちひとり一人は、このような「神の愛とキリストの忍耐」に与り続けることが大切です(2テサロニケ3章5節)。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(10.2MB)

祝福の根源(2019.9.8)

宣教題 「祝福の根源」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章28~48節 1コリント6章19~20節

 本箇所は、主イエスが平和の王として来られてエルサレムに入城され、この後十字架のご受難の道に向かわれた危機的な場面です。この時、人々は主イエスをお迎えしましたが、それが必ずしも主の御心に沿うものではありませんでした。

1.救い主の訪れを見過ごさないように  28~44節
 主イエスを迎えるに際して、二つのグループがありました。一つは、イスラエルの王として迎え入れた弟子たちや多くの群衆です(36~38節)。もう一つは、主イエスを拒絶したユダヤの宗教家たちで、主イエスを妬み、亡き者にしようとしていた者たちです(39~40節)。それに対して、主イエスは、ご自身を通してもたらされる神による平和の道を見失い、ご自身を通して神が訪れておられることを見過ごしている者たちへ、泣いて審きを予告されました(41~44節)。
 さて、私たちは、救い主イエスが私たちを訪れて良心に語りかけておられる御声を退けないで、「主よ」とお迎えして応答することが肝要です。

2.永遠の救いを失わないように  45~48節
 主イエスは、神を礼拝すべき神殿が強盗の巣となっており、そこにあった多くの罪のゆえに怒られました(45~46節)。それに対して、宗教家や指導者たちの主イエスに対する殺意はますますエスカレートしていきました(47節)。彼らは、本来の礼拝をする場所に戻そうとされた主イエスを無視して、自分たちの一時的な満足のために永遠の救いを失ったのです。
 さて、私たちは、主イエスが血をもって買い取られた神殿であり、神のものとされたのですから、そこを主イエスに明け渡すことが祝福の根源です(1コリント6章19~20節)。この恵みに生きるなら、霊的に老いることはありません。

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メッセージ(8.0MB)