ヨハネ」カテゴリーアーカイブ

偉大な謙遜(2021.4.18)

聖 書

ヨハネは答えた。「私は水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。(ヨハネ1章26節)

礼拝音源(27.6MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編68編20~21節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編40編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章19~28節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 208 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「偉大な謙遜」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 522 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

神の民の歴史(キリスト教会の歴史)は、主なる神から遣わされた主の僕たちによって担われてきました。ここにも、ひとりの主の僕がいます。「洗礼者ヨハネ」です。そして、私たち一人ひとりも主の僕です。

1.主の僕の自覚をもって
洗礼者ヨハネは、キリストについて証しをし、それによってすべての人がキリストを信じるようになるために遣わされました(1章6~8節、15節)。彼はキリストではなく、ただキリストが来られるための準備をしたのです(20~23節)。彼は、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝え、水のバプテスマを施しました。そうすることによって、罪の赦しをされるキリストに仕える僕でしかないことを語ったのです(26~27節)。
洗礼者ヨハネは、キリストの偉大さと自分の小ささを謙遜に受け入れました。それはパウロも同様でした(1コリント15章9節、エフェソ3章8節、1テモテ1章15節参照)。

2.主の僕であることを喜んで
洗礼者ヨハネは、キリストを指し示して、すでに主の救いの道は始まっていることを証言しています。そして、それに応答しないことが「荒れ野」の状態であることを明らかにしています。まさに、御言葉に心を開いて聴こうとしない、応答しようとしない霊的貧困こそ「荒れ野」です。彼は、主の僕の「声」が消えていくことを喜びとし、キリストとその救いが人々の魂と生涯に刻み込まれることを願ったのでした(23節)。
洗礼者ヨハネ同様に、キリストの謙遜が私たちの救いとなり、キリストの救いの事実ゆえに、私たちは謙遜にされるのです。偉大なのは、キリストの謙遜です。

私の主、私の神よ(2021.4.4)

聖 書

トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。(ヨハネ20章28節)

礼拝音源(26.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 エフェソ5章14節cde 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編24編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ20章24~29節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 327 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「私の主、私の神よ」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
入 会 式
4月誕生者祝福 1ペトロ1章8節
賛  美 197 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

復活された主イエスは、恐れと不安を覚え、かつ疑いを抱いた弟子たちに「あなた方に平和があるように」に語られています(19節、21節、26節)。そうした中から、トマスは、「私の主、私の神よ」と信仰の確信へと導かれたのでした。

1.復活の主は、ほっとかれない  24~26節
トマスは、他の弟子たちと「一緒にいなかった」ために、復活された主イエスにお会いする喜びを経験しませんでした。そして、彼は自分の目で見、手で触れなければ「決して信じない」と言ったのです(24~25節)。驚くべきことに、その八日の後にトマスが他の弟子たちと「一緒にいた」時に、主イエスの方から来られて語りかけられたのでした(26節)。主イエスは、トマスをほっとかれなかったのです。
今も主イエスは、聖徒の交わりの中で、神の救いの恵みを明らかにされ、信仰に導かれ、養い育ててくださいます。私たち一人ひとりをほっとかれません。

2.復活の主は、対面してくださる  27~29節
主イエスは、主体的かつ実証的な性格をもったトマスに対して、ご自分から身を低くして語りかけられ、明確な信仰へと導かれ、祝福されました。それは、トマスが、直面する主イエスに対面して個人的に培われた信仰でした。
私たち一人ひとりは、対面してくださる主イエスを「私の主、私の神よ」と信仰の告白をすることが必要です。それは、十字架に架かられた主イエスに叫び求めた「もう一人の」犯罪人も同じでした(ルカ23章42節)。そして、「私の主、私の神よ」と信仰の告白する聖徒の交わりに生きることが、幸いな勝利者の歩みとなるのです。

あと一歩でクリスチャン(2021.3.28)

聖 書

イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。(ヨハネ14章6節)

礼拝音源(29.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 1ヨハネ3章16節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 イザヤ53章1~7節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ14章1~6節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 288 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「あと一歩でクリスチャン」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
聖 餐 式 新49
教会役員任命式
賛  美 300 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちの信仰には、主イエスの言動を信じる信仰と、主イエスご自身を信頼する信仰とがあります。この二つの信仰が結びつくプロセスを生きた人物に、「トマス」がいました。彼の人物像については、「ヨハネによる福音書」が詳しく語っています。

1.誠実な求道者  11章16節
ユダヤ人指導者たちが主イエスを殺そうと謀っていたので(10章31節)、主イエスがエルサレムに行くことは向う見ずな行為に見えました。しかも、ラザロが死んでしまったためにエルサレムに行くことは無用なことだと思われました(11章1~15節)。その時です。トマスは、自ら死に至るまで主イエスに誠実であろうと決心しました(同16節)。
しかし、このように誠実なトマスでしたが、主イエスが十字架にお架かりになった場面では、主イエスから離れていってしまいました。それは、主イエスを信頼するのでなく、自分の誠実さに頼っていたからです。信仰は、信心ではないのです。

2. 当惑する求道者  14章5節
主イエスが、十字架に架かられる前日のことです。主イエスは、当惑するトマスたちに、ご自身が父なる神のもとに通じる唯一の道であり、神について説き明かす唯一の真理であり、神の限りない唯一の命をもたらすことを明らかにされました(14章1~6節)。
主イエスは、十字架で踏みつけられるように死に、救いの道を開いてくださったのです。
神が人となって出てきてくださった主イエスが、私たちと会ってくださいました。それに対して、私たちは自分に固執している所から一歩出て、生きておられる主イエスにお会いするのです。一人ひとりには、この出会いをする信仰の一歩が求められています。

あなたは何をしたいのか(2021.2.28)

聖書

そして、シモンをイエスのもとに連れて行った。イエスは彼に目を留めて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネ1章42節)

礼拝音源(30.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ11章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編23編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章40~42節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 225 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 栗本高仁神学生(ガラテヤ2章16節)
「あなたは何をしたいのか」
川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 475 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

「私は何をしたらよいのか」との問いは、「私は何のために生きるのか」との問いにつながり、つまるところ「私は何ものなのか」との問いとなります。ペトロは、主イエスを通して、その問いかけに対する答えを明らかにしていただいたのです。

1.あなたは・・・である
主イエスは鋭くも恵みに満ちた視線をペトロに注いでおられます。開口一番、主イエスの口から出た言葉は、「あなたヨハネの子シモンである」でした。主イエスは、この後明らかにされるペトロの罪深さ(ルカ5章8節)、臆病(マタイ14章30節)、弱さ(ルカ22章61節)といったありのままの姿を見ておられたのです。
主イエスの憐れみの目は、今この瞬間においても、私たちの上に注がれています。常に弱さと醜さと罪深さが混在している私たちに対して、主イエスは「あなたはそのような者だ」と診断されます。実は、そこから、主イエスの恵みの御業が始まるのです。

2.あなたを・・・にする
続いて主イエスは、「ケファ ― 『岩』という意味 ―と呼ぶことにする」と言われました。「するであろう」ではなく、「する」と言われたのです。それに対して、ペトロは、主イエスを信じ、信頼して、従っていこうとしたのです。こうしてペトロは、これまでとは違う新しい生き方をスタートしたのです。
主イエスは、あなたの神との関係が変えられ、心が変えられ、価値観が変えられ、生きる目的が変えられる新しい生き方に招いていてくださいます。私たちは、この主イエスの恵みの招きを聞いて、信仰の歩みを始めるのです。

恵みは尽きることがない(2021.2.20)

聖書

私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1章16節)

礼拝音源(23.95MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ローマ12章1節 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 イザヤ書40章26~31節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章14~18節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 342 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「恵みは尽きることがない」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 451 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

ヨハネによる福音書が書かれた時代は、イエス・キリストの恵みに対する確信が揺らぎかねない状況下にありました。そのような時に、尽きることのない豊かな恵みに与り続けることを証言しているのです(14節、16節、17節)。

1.キリストの栄光を見る恵み  14節
私たちと同じ人間になられたキリストが、私たちの間に宿ってくださったことによって、私たちに安息を与え、喜びと感謝に満たしてくださいます。それによって、神の栄光を見させていただくことになりました。
神の栄光は、キリストの全生涯において現されました。とりわけ、十字架において神の救いを成し遂げられたことによって(ヨハネ12章23~24節)、復活された勝利を通してです(同17章24節)。罪のゆえに神の栄光を受けられなくなっていた私たちは(ローマ3章23節)、キリストの十字架と復活の恵みによって、キリストの仲間とされたのです。

2.恵みの上にさらに恵みへと導かれる  16節
キリストを通して現わされた恵みは、継続して与えられていきます。一つの恵みを受け取ったら、新しい恵みを受け取り続けるのです。順境には順境の恵みが、逆境には逆境の恵みが、強くされた時には強くされた時の恵みが、弱さを覚えた時には弱さを覚えた時の恵みが、試練の時には試練の時の恵みが、病める時には病める時の恵みが、悩める時には悩める時の恵みがあります。それは尽きることがありません。
一人ひとりにふさわしく差し出されている恵みは、心を開いて受け取り続けるのです。神の前に謙虚にされ、キリストの恵みに立ち続けるのです。

神の子となる(2021.1.24)

聖書

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。(ヨハネ1章12節)

礼拝音源(24.09MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 2コリント5章17節 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編1編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章9~13節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 17 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「神の子となる」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 443 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

神の子(養子)とされた者は、神の子どもとしての特権をいただいて歩みます。神は、全ての人が「神の子となる」ように招いておられます。

1.神によって生まれる
イエス・キリストは「まことの光」として、不安の中にあって希望を失っている、罪の汚れの中にとどまっている、死の恐れに支配されたままでいる者のために、「世の光」として来てくださいました(9節)。そして、十字架に死んで復活されて「命の光」を持つようにしてくださいました(ヨハネ8章12節)。
それによって、神のことなる特権が与えられたのです(12節)。それは、クリスチャン家庭だから自動的に与えられるのでなく、自分の努力や信心によって与えられるのでなく、功績があったから与えられるのでなく、ただ「神によって生まれた」という一方的な神の愛と恵みによって与えられたのです(13節)。

2.神に任せる
「神の子になる」恵みに与るには、イエス・キリストを締め出してしまうのではなく(10~11節)、私たちの所に来られたイエス・キリストご自身を迎え入れ、このお方が語られた御言葉と十字架と復活の御業を信じ、安んじて神に任せることです(12節)。
このようにして、神の子とされた者は、神との交わりをいただきつつ、一歩一歩天国を目指して歩み、永遠にいたる祝福を受けるのです(ローマ8章17節)。
「神の子になる」という驚くべき神のプレゼントをいただき、神の子に与えられる驚くべき恵みのフルコースにあずかりましょう。

光が放たれて(2020.1.10)

聖書

光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。(ヨハネ1章5節)

礼拝音源(29.64MB)
※誕生祝福のあと、機器操作ミスにより、頌栄まで飛んでおります。申し訳ございません。
本日正午過ぎに第2部の礼拝をアップさせていただきます。
→アップ完了しております(12:07)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編100編1~2節 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編96編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章1~8節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 54 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「光が放たれて」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
1月誕生者祝福 エレミヤ書31章3節b
成人祝福
賛  美 503 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

ヨハネによる福音書は、神が遠い存在のお方であるというイメージを覆して、キリストにおいて身近なお方であることを明らかにしています。そのキリストは、永遠に変わることのない光となってこの世界に訪れてくださいました。

1.闇の中で輝く光として  1~5節

光であるキリストは、「闇の中で輝いている」(5節a)お方です。闇は、様々な自然災害や紛争といった人災などがもたらしています。また、真の神を見失った人間の罪がもたらしています。そして、死の恐怖がもたらしています。闇は光であるキリストを拒みましたが、キリストは十字架と復活によってその闇に対して勝利されました(5節b)。

主の弟子ヨハネは、闇から光の中に入れられた体験をし、同じような体験をした人たちをこの福音書の中で証ししています。この体験があったからこそ、「言」であり「命」であり「光」であるキリスト理解が深まっていったのです(1~4節)。私たちは、人間が作りだした自分の光に頼ることなく、光であるキリストに立ち帰ることが必要です。

2.証言される光として  6~8節

バプテスマのヨハネは、知らないうちに無目的に遣わされたのではなく、歴史の舞台に神の目的のもとに神から遣わされました(6節)。

神がバプテスマのヨハネをここに登場させなさったのは、光であるキリストとキリストによって彼の上に起こった出来事を証言させるためであり、彼を通して、すべての人が光であるキリストを信じる者となるためでした(7~8節)。私たちは、自らの存在と言動をもって、キリストの証言者にならせていただきましょう。

 

 

2020年 クリスマス・イブ礼拝

聖書

言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(2コリント 9:15)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ 3:16)

礼拝音源(22.9MB)

 

20201224

安らぎをあなたに(2019.9.29)

宣教題 「安らぎをあなたに」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ14章27~31節

 主イエスは「わたしの平和(平安)を与える」(27節)と言われました。主イエスがお持ちであった平安とは、どのようなものだったのでしょうか。それを私たちひとり一人は、どのように受け取るのでしょうか。

1.生き方に確信がありますか  31節
 主イエスは、父なる神のみ心にかなった生き方をしているとの強い確信をもっておられました。それゆえにもっておられた平安だったのです。
 私たちは、この主イエスを知ることによって、生きることの意味や将来について知ることのできる確信ある生き方をするのです。そこに、主イエスから与えられる平安があります。

2.暗い陰が心によぎりませんか  30節
 主イエスは、神の真実な愛をもって生きられました。そこには、罪と悪の支配の及ばない平安があったのです。
 その主イエスが、私たちの罪と悪の支配から解き放つために、十字架の身代わりの死を遂げてくださいました。罪を赦し、新たに生まれ変わらせてくださる主イエスの愛の招きに応えるときに、主イエスから与えられる平安があります。

3.いつでも信頼できる主イエスを知っていますか  28節
 主イエスは、「父のもとに行く」と言われたように、十字架に死んで復活されました。この父なる神に信頼し切っておられたゆえにお持ちの平安でした。
 私たちは、苦難や問題に直面したときの不安、死に際して抱く恐れを経験します。そのような時にも、復活され今も生きておられる主イエスに信頼して永遠の今を生きるところに、主イエスから与えられる平安があるのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.0MB)

イエスは知っておられる(2019.4.28)

宣教題 「イエスは知っておられる」  宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 ヨハネ6章1~15節

私たちは、生きている限り試練や艱難が来ます。そのとき、どうすれば良いのでしょうか。弟子達は今回の試練を通して学びました。

1.弟子はできないと思った
 男五千人を食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(5節)。とイエスは言われました。フィリポとアンデレはそれぞれ、お金が足りない事、子供が持っていた食べ物では到底足りないことを理由に、できないと答えました。

2.主イエスにはできる
 弟子達が無理難題だと思っていたことも、それを言ったイエスは、御自分では何をしようとしているか知っておられました(6節)そして、アンデレが何の役にも立たないと言った、少年が持っていた大麦のパン五つと魚二匹を神に感謝して、人々に欲しい分だけ分け与えられました(11節)

3.イエスのところに持って行く
 私たちは、試練や艱難が来たとき、その問題の大きさに目を奪われ、自分の能力や今持っているものでは、出来ないと諦めてしまいます。しかし、私達には出来ないと思え、足りないと思えるときでも、イエスはどうしたら良いかを知っておられます。そして、私たちがそれをイエスのところに持って行くのを待っておられます。イエスは捧げられたものを幾倍にも増やして、分け与えた結果、パンはあり余りました(12~13節)。弟子達はこの試練を通して、イエスに持っていく事、イエスの言われた事に従うとどうなるかを学び、成長しました。

 イエスは今日も、私たちがイエスのところに持って行くことを待っておられます。今、イエスのところに持って行く事はなんでしょうか。

(聖書朗読 1MB)

(メッセージ 9.7MB)

主が私の愛を完成してくださる(2019.4.21)

宣教題 「主が私の愛を完成してくださる」 宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ21章15~19節 1ペトロ1章8節

 私たちは、復活されたキリストにお出会いしたペトロ同様に、本気でキリストの愛の中に生きているか、本気でキリストを愛しているかと問われています(15~17節)。ペトロは、この出会いを通して、新しい歩みを始めました。

1.愛を呼び起こされるキリスト 
 ペトロは、キリストとの一番最初の出合いから(ヨハネ1章41~42節)、事あるごとにキリストの愛の招きに応答することを求められました(同13章36~38節)。ところが、キリストの十字架を前にして三度否んだのです(同18章25~27節)。その敗北感に悲しむペトロは、やり直すすべを知りませんでした。
 復活されたキリストは、そんなペトロに「わたしを愛しているか」と三度も呼びかけ、愛を呼び起されました。そして、ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じてす」と応答して信仰の一歩を踏み出しました。彼は、この愛の根拠を自分におくのではなく、全くキリストにおいています。

2.愛の証人として招かれるキリスト 
 あわせてキリストは、「わたしの小羊を飼いなさい」と、愛する人々に心を砕いて労し、その愛の証しを立てるように三度招かれました。それは、ペトロが自分の思いのままにではなく、キリストを愛するゆえに、その御心に生きることを喜び従うことでした(18~19節)。こうして、彼の生き方は変革したのです。

 このキリストの愛の関わりは、ペトロだけが独占するものではありません。復活されたキリストに愛され、キリストを愛する私たちに対しても同じように関わられます(1ペトロ1章8~9節)。キリストが、愛を完成させてくださるのです。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(11.3MB)

成し遂げられた(2019.4.14)

宣教題 「成し遂げられた」        宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ19章28~30節

 主イエスは、十字架上で祈り、とりなし、叫ばれました。このお方の十字架の死を取り囲む周囲の出来事に目をやるのではなく、このお方の死そのものに現された救いの恵みを見ましょう。主イエスは、何を「成し遂げられた」のでしょうか。

1.人の罪の一切を受け取られた 
 主イエスは、肉体的な痛みに苦悶する叫びとしてでなく、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」、「渇く」と言われたのです。それによって、「聖書の言葉が実現し」(詩編69編22節)、人が神に捨てられるという魂の渇きを味わうことがないように、主イエスが身代わりとなって受け取ってくださったのです。それは、主イエスが酸いぶどう酒を受けられたことに表されているように、人の罪を飲み干そうとされる救い主の死だったのです
 このようにして、主イエスは、罪人の魂の渇きを受け取られたのです。

2.ご自身の命を自ら捨てられた 
 主イエスは、父なる神の御心である十字架の死を成し遂げてくださったのであり、それによって神の栄光を現されました(ヨハネ17章4節)。このようにして、十字架の死にいたるまで愛を貫き通されたのです(同13章1節)。
 そこで主イエスは、「頭を垂れる」ことにより、十字架において枕する所を得られました(マタイ8章20節)。そして、「息を引き取られた」と、主イエスご自身が命を捨てて、ささげ尽くしてくださったのです(ヨハネ10章18節)。

 主イエスの十字架において、神の救いは「成し遂げられた」のです。もはやそれを覆すものは何もありません。主イエスに結ばれた者として歩み続けるのみです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(13MB)

イエス様はわたしの羊飼い(2018.4.29)

宣教題  「イエス様はわたしの羊飼い」  宣 教  今田好一牧師
聖 書  ヨハネ10章1~15節

 イエス様はここで、羊飼いと羊との関係をたとえて、ご自身が人々を導くまことの羊飼いであり、羊を守る囲いの門であることを示そうとされたのです。

1.イエス様は良い羊飼い
 イエス様は、ご自身が「良い羊飼いである」と羊飼いと羊のたとえを用いて語られました(1~5節)。しかしその話が分からないファリサイ派の人々に、ご自身が「羊の門」であると、更にたとえを用いて話されました(7~10節)。このたとえはどういう意味なのでしょうか。第一に、イエス様こそが正しい救いの門であることを、第二に、永遠の命を与えるお方であることを示しています。そして更に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)と、イエス様が羊であるわたしたちのために命を捨てられることを預言されました。このたとえ通り、イエス様はわたしたちの罪の身代わりに十字架にかかり死なれたのです。

2.わたしたちは羊
 人間は、羊のように一人では生きていけない、目標も分からず、迷いやすい弱い存在です。だから、そんなわたしたちを養い、守ってくれる羊飼いが必要なのです。 聖書は、わたしたちに「良い羊飼い」が誰であるかを教えています。それがイエス・キリストです。イエス様は、神について、永遠について完全に教えてくださるお方、わたしたちを罪から救い、死に勝利させてくださるお方、わたしたちを正しく導くことのできるお方です。何故ならイエス様は、わたしたちを愛し、わたしたちの罪を赦すために十字架にかかってご自身の命を献げられた「良い羊飼い」だからです。そして、三日目によみがえり、わたしたちに永遠の命を与えてくださるお方なのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(11MB)

永遠に渇かない水(2018.2.25)

宣教題  「永遠に渇かない水」        宣教 今田好一牧師
聖 書  ヨハネ4章7~15節
今日の御言葉から、神の救いが、すべての人に分け隔てなく及んでいることを見ていきたいと思います。

1.イエス様との出会い
 サマリアのシカルという町の井戸のそばで休まれたイエス様は、人目を避けて昼に水をくみに来たサマリアの女に「水を飲ませてください」と語りかけます。彼女は、この言葉に驚きます。何故なら、当時ユダヤ人はサマリア人を見下していたからです。しかし彼女は、それによって、この男性に少しずつ関心を持ち始めたのです。

2.永遠に渇かない水
 イエス様は彼女に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。すると女は「その水をください」と求めます。そして、イエス様に五人の夫について言い当てられた時、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言って、イエス様に心を開いたのです。

3.出会いは人生を変える
 自分の過去を言い当てられた女は、宗教的な話をイエス様にします。しかしイエス様は、「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われました。それは、キリスト教ではなく、キリストご自身を信じるように言われたのです。彼女は、今話しているこの人が、キリストと呼ばれるメシアだと知ったのです。そして、この方こそが「永遠に渇かない水」の与え主だと信じ受け入れた時、彼女の人生は大きく変えられたのです。
 わたしたちも、イエス様が与えてくださる永遠に渇かない水を、直接イエス様ご自身に祈りを通して求めていきたいと思います。

神の愛の冒険(2017.12.24)

宣教題 「神の愛の冒険」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ3章16~21節

 クリスマス、それは神が愛ゆえに冒険をされて、私たち一人ひとりの所に来てくださった出来事です(16節)。

1.キリストが十字架に向かう冒険の道  16節a
 神の愛の対象は、まぎれもなく「世」です。それは、愛の神を受け入れない浮き世の世界であり、そこに生きる人の心と生活の罪ある有りさまです。神は、その「世」を無条件の絶対的な愛を持って愛していてくださるのです。
 さらに驚くべきことに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と神の愛の深さが現されました。愛するに価しない者に対して、キリストを十字架に架けるという、最高の価値ある御業を成してくださったのです。神の愛が集中したのは、キリストが十字架に向かうという冒険の道においてでした。

2.一人ひとりが信仰に生きる冒険の人生  16節b
 神の愛の冒険に対して、私たち一人ひとりもまた人生の冒険へと招かれています。その冒険とは、自分の殻に閉じこもって生きることから、神の愛を受け入れ、神に対する信仰に生きることです。それは、愛の神から失われた滅びのなかを生きるのではなく、キリストの復活にあずかって、神との永遠の交わりに生きることです。それゆえに、キリストが救いを成し遂げてくださった十字架を仰ぎ見るのです。神は私たち一人ひとりに、光を選ぶのか、闇を選ぶのかを問いかけておられます(17~21節)。
 「ヨハネによる福音書3章16節」は、私たち一人ひとりが生涯を通じて、日々に心の中に呼び起こして自らに語りかける御言葉です。それは、ただ信仰によってのみキリストに寄りすがり、健やかな愛の心に立ち直り続けることです。