黙示録」カテゴリーアーカイブ

あなたを待っておられる主(2017.12.10)

宣教題 「あなたを待っておられる主」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネの黙示録3章14~22節

 私たちは、すでに来てくださった救い主イエスの救いを受け入れました。そして、再び来られる王なるイエスを待望しています。今は、私たちを待っておられる主イエスに対して、新たな思いで信仰の応答をさせていただく時です。

1.真実な愛の主であるから 
 ラオディキア教会に語りかけられた主は、いつも変らずに、約束されたことを必ず成し遂げられる真実を貫き通して(14節、2テモテ2章13節)、愛を現し続けておられます(19節)。この真実な愛の主が、クリスマスの主イエスであり、十字架の救いの道を歩んでくださったのです。
 今も語りかけ招かれる主イエスは、私たちが信仰の戸を開けることによって、交わりが待てることを待っておられます(20節)。

2.真実な愛の主に誠実な応答を 
 主イエスの真実な愛を知ったにもかかわらず、ラオディキア教会がそれに応答しない「なまぬるい」状態でした(15~16節)。彼らは、自分たちの本当の姿が「分かっていな」かったのです(17節)。それに対して、真実な悔い改めと、試みによるテスト済みの信仰をもってキリストを着るものとなり、霊の目を開いていただくよう勧めています(18~19節)。
 主イエスは、十字架に架かられた赦しの御手をもって、私たちの信仰の戸をたたき続けておられます。そして、それを拒むことのないように今なお招き続けておられます。私たちの全存在と全生涯の中に真実な愛の主を招き入れ、誠実な信仰の歩みを続ける勝利者とならせていただきましょう(20~22節)。

あなたを待っておられる主(2016.11.27)

宣教題  「あなたを待っておられる主」       宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ2章6~7節 黙示録3章20節

天地に満ちるほどの大いなる神さまが、幼子イエスさまとして、この地上に最も低く降って来てくださいました。このように私たちに人間と同じようになられたという事実は、私たち人間を救うためであり、これがクリスマスの出来事でした。

1.なぜ、救い主を締め出してしまうのか
当時の世界の片隅で起こったイエスさまの誕生は、人類の歴史の中になされたことでした(ルカ2章1~3節)。その経緯の中で見過ごしにできないのが、「飼い葉桶」にお生まれになったという、この上なく貧しく低い場所に誕生されたことです。それに対して、人々は宿泊場所を拒否して、イエスさまを締め出してしまったのです(ルカ2章7節)。
これは、人間の心の状態を探りあてています。汚れた心であったり(マルコ7章20~23節)、イエスさまに対して無関心であったり、イエスさまより自分のことが大切であったりという心が支配していると、イエスさまを締め出してしまうのです。今、あなたの心は、どんな状態でしょうか。

2.なぜ、救い主は待っておられるのか
飼い葉桶にまで降り、十字架の死にまで低く降ってくださったイエスさまは、そんな心の状態にある一人ひとりの心の戸をノックしておられます(黙示録3章20節a)。
イエスさまは、一人ひとりがその招きの声を聞いて、閉じた心の戸を全開して「救い主」としてお迎えすることを待っておられます。そのようにお迎えするならば、イエスさまはその人の人生の「主」となられ、新たな交わりをもって生きるように導いてくださるのです(同3章20節b)。
あなたの心と人生に救い主イエスさまを迎え入れてこそ、はじめて本当のクリスマスを迎えることになるのです。

いよいよ聖なる者と(2009.2.8)

題   : 「いよいよ聖なる者と」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネの黙示録 22章8節~11節
世界の動きが人々の不安をかき立てていますが、私たちはその延長線上に、キリストの再臨があることを知っています。そして聖書は、その時に備えて、目を覚ましているようにと勧めています。
ヨハネの黙示録においては、「聖なる者は、なお聖なる者とならせよ」と励ましに満ちた御言葉を語っています。

1.聖なる者とされている
「聖なる者」とは、「イエス・キリストは主である」と告白する聖徒のことであり(1コリント1章2節)、聖なる神に召され、神のものとされているキリスト者の総称です(同9節)。
「なお聖なる者」とありますが、幾つかの意味合いがあります。まず、聖なる者であることにとどまり続けなさい、ということです。「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15章4節)と言われたイエス・キリストから離れないことです。さらに、聖なる者とされた者は、その時から聖くされることに向かって前進を始めることです。
そして、「汚れた者は、なお汚れるままにしておけ」とあるように、この世はますます罪に傾き、聖なる者はいよいよ聖なる者とされるなら、その隔たりは大きくなっていくことを知ることです。

2.聖なる者であり続ける
「聖なる者とならせよ」とは、聖なる神のものとして、聖なる者とされ続けているようにということです。まず、聖なる者は、この世の汚れから離れることです(1テサロニケ4章3~4節)。そして、イエス・キリストの十字架の血によって、内も外も聖くされ続けていることです(1ヨハネ1章7節~2章1節)。
さらに、聖なる者は、聖なる者として生き続ける生活をすることです。その生活は、自分だけでなく、家庭にも、教会にも、社会にもその影響を与えていきます。その意味で、一人の生き方の力は軽視できません。一人の真実な生き方は必ず周りに影響を与え、周りを変えていくのです。
主の再臨を待望する者として、聖なる者であり続け、生き続ける者とさせていただきましょう。神ご自身が可能としてくださいます(1テサロニケ5章23~24節)。