イザヤ」カテゴリーアーカイブ

恵みへの招き(2022.10.2)

聖 書

主を尋ね求めよ、見いだすことができるうちに。主に呼びかけよ、近くにおられるうちに。(イザヤ55章6節)

礼拝音源(36.7MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 1テモテ1章15節a 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編98編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ55章1~7節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「恵みへの招き」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
聖餐式 新49
賛  美 432 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

ここには、主の救いの恵み(イザヤ53章)への招きに応答する者たちの祝福が語られています。「私はあなたがたと永遠の契約を結ぶ」(3節c)とは、主が一方的に与えられる恵みの契約であり、主イエスによる贖いの恵みでもあります(1コリント11章25節)。

1.命への招き  1~5節
主は、霊的な命と祝福に与りたいと渇き求め、主のみもとに「来る」者に、無代価で受け取れるように招いておられます(1節、4~5節)。そして、主の御言葉のみに集中して「聞き従い」続ける者の魂を豊かにし、魂が生きるようにされるのです(2~3節)。
この招きは、聖餐の祝いの時の招きに通じています。私たちは、「私のもとに来なさい」と招かれる主イエスによって魂は安らぎ(マタイ11章28~30節参照)、そのように招かれた礼拝によって「大いに慰められ」るのです(使徒言行録20章7~12節参照)。

2.赦しへの招き 6~7節
主が、人の側からは遠くにおられるように思える状況でも、そこには常に恵みの主はおられます。ですから、主への感謝の祈りをもって、「主を尋ね求め」「主に呼びかけ」るならばお会いできるのです(6節)。主との間の敷居は高くありません。
そして、「主に立ち帰れ」と招いておられます。それは、主と人とを間を遠ざけている良心の呵責また誘惑がもたらす罪を悔い改め、憐れみ「赦してくださる」主に立ち帰り続けることです(7節)。これこそが、勝利ある信仰生涯を歩むことにつながります。
私たちは、聖餐の祝いをするごとに、主イエスの十字架の赦しの恵みに与り続けるのです(1コリント11章25~28節参照)。

私たちを背負われる主(2022.9.11)

聖 書

あなたがたが年老いるまで、私は神。あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。(イザヤ46章4節)

礼拝音源(29.7MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 詩編124編8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編90編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ46章1〜13節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「私たちを背負われる主」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
長寿祝福・感謝の時 詩編68編20~21節
賛  美 549 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちの1日1日は、主からのプレゼントの日です。その日々を私たちは主によって生かされているのであり(2コリント4章16節)、主に背負われて歩んでいます。恵み深い主は、主の民を背負い、救い出す方です(3~4節)。

1.背負ってくださる主
主の民を捕囚したバビロンが信奉していたのは、人が背負わなければならない神々で、真に人間を救うことはできませんでした(1~2節、6~7節)。しかし、主の民が信じた神は、唯一絶対の神であり、御自身の方から現れ、語りかけられ御業をなされる方です。永遠から永遠まで支配され、主御自身が決断されて、造られた者をどこまでも背負い続け、救いを全うしてくださる方です(3~4節、9~10節)。
十字架に死んで復活された主イエスは、いかなる時も、私たちの生涯を責任をもって背負い続けてくださいます(マタイ28章20b)。

2.背負われる私たち
背負ってくださる主は、日々に私たちの救いの神であり、死からも勝利させてくださいます(詩編68編20~21節)。このように預言されている方が、主イエスであり、私たちはこの方のもとに招かれ、安らぎを得ているのです(マタイ11章28~30節)。私たちの一番重い荷は、自分自身であり、その罪と死です。この私たちが、十字架と復活の主イエスに背負われているのです。
主は私たちに、「聞け」(3節)、「胸に刻め」(8節)と繰り返し立ち返ることを求めておられます。私たちは、この主に信頼するのみです(詩編62編9節)。

生きた信仰(2022.7.17)

聖 書

主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある。」(イザヤ30章15節abc)

礼拝音源(32.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編46編11節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編65編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ書30章15~22節
使徒信条 93-4  1A 一  同
教団信仰告白 (別 紙) 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「生きた信仰」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
入会式
賛  美 510 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

イザヤ書が開示する信仰は、臨在信仰に生きることについて大きな示唆を与えます。聖なる主は(15節)、私たちを恵もうと待ち、憐れもうと立ち上がられる公正の神です(18節)。私たちは、いかなる時にもこの主に対する生きた信仰を抱きつつ歩むのです。

1.静かにして信頼する  15節
南ユダ国は、二度の国家的な危機に見舞われました。最初は、アラムとエフライム同盟が攻撃してきた時です。主は、イザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」(イザヤ7章4節)と告げられ、臨在の主に信頼するように勧められました(同9節、14節)。次は、アッシリア帝国が攻撃してきた時です。主は、「静かにして信頼していることにこそ」(30章15節)と語られ、信仰に立つように勧められました。
「静かにして」とは、主の中に身を沈めるようにして信頼することです(出エジプト14章13~14節、詩編46編9~10節)。そこには、人の信仰の備え(イザヤ37章14~15節、列王記下20章20節)と主の最善の御業がありました(イザヤ37章36~38節)。

2.敏感に応答する  18~21節
それゆえに、信仰者は「主を待ち望む者」(18節)であり、主に「叫ぶ」(19節)者であり、主を「見る」(20節)者であり、主が「語る言葉を聞く」(21節)者となるのです。とりわけ、主に導かれて右に行こうが左に行こうが、「これが道だ、ここに行け」と羊飼いである主の「背後から」の声に敏感に聞き従って行くのです(21節、詩編23編4節)。
私たちは、特別な選択を迫られる時だけでなく、日常生活のあらゆる場面において、主が語られる御言葉に敏感に応答していく生きた信仰者であらせていただきましょう

聖霊による祝福(2022.6.5)

聖 書

私はあなたの子孫に私の霊を あなたの末裔に私の祝福を注ぐ。(イザヤ書44章3節b)

礼拝音源(25.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 使徒言行録1章8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編84編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ書44章1〜5節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「聖霊による祝福」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
6月誕生者祝福 ガラテヤ5章25節
賛  美 343 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

イザヤ書は、神の民がバビロン捕囚から解放されて、神の救いの慰めに与ることが語られています。そこには、やがてイエス・キリストの初臨から再臨に至る救いの全貌が預言されており、永遠の聖霊がどのように臨まれるかを明らかにしています。

1.主の御業を成し遂げられる
主は、御自身が選び、造られた民の罪を消し去り、罪を想い起すことなく、罪を消し去り贖われます(43章25節、44章1~2節、22節)。そして、聖霊を子孫にまで注いで祝福され(44章3節)、新しい命を生みだし(同4節)、「主のもの」とされます(同5節)。この聖霊による御業は、出エジプトを通しての神の救いと約束の地に導かれるときにも成し遂げられたことでした(63章10~14節)。

私たちが主イエスによる永遠の救いに与らせていただいているのは、聖霊によってです。今も間断なく注がれている聖霊に私たちが満たされることにより、私たちは活性化され、主の御業は進められていきます(32章15節)。

2. 主の御言葉と一体となって働かれる
聖霊は、聖書の御言葉を用いて、御言葉と結びついて一体となって語りかけてくださいます(59章21節)。御言葉が働くときには、聖霊がその人のなかに働くのです。聖霊が一人ひとりに注がれ、一同が聖霊に満たされたとき、主イエスの福音が語られました。そして、主の救いの御業と教会の歩みが展開されて行きました(使徒言行録2章)。

私たちが聖霊と御言葉によって生かされ続け、聖霊と御言葉の器として生き続けているところに、教会が造られていくのです。

 

 

間違いのない憐れみの主(2022.5.8)

聖 書

女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない。(イザヤ49章15節)

礼拝音源(32.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ガラテヤ3章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編27編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ49章14〜16節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「間違いのない憐れみの主」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 11 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

母親は、自分の子どもを体をはって愛します(ルカ2章48節)。そこには、憐みの主の御心を思わせるものがあります。ところで、私たちは、憐れみの主がどのような方であり、その憐れみが今も変わらずに注がれていることを知ることが大切です。

1.決して忘れることのない方
70年のバビロン捕囚の経験をするイスラエルの民は、虚無的になりました(14節)。そこで、憐れみの主は、主に忘れられ捨てられたと思い込む彼らに、手を替え品を替えて励まされます。母親が忘れるようなことがあっても、主は決して忘れることはなさいません(15節)。主は御自身の手の中に御自身の民の名を刻み込むようにして、どこまでも守られます(16節)。
主イエスが「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14章18節)と語られたように、私たちは主の前で忘れられてはいないのです(ルカ12章6節)。

2.贖ってくださる方
主が御自身の民を決して忘れなさらないのは、主が「贖い主、聖なる方」(49章7節)だからです。贖いの主は、他者に渡ってしまっていたものを再び代価を払って買い戻して御自身のものとされるのです(イザヤ書43章1節)。
私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、永遠の滅びから永遠の救いにあずかった者です。ですから今、主イエスの十字架を仰ぎ見て立つのです。さらに今、主イエスの十字架の側近くに立って、母と子の関係のみか互いの新しい関係を造っていただくのです(ヨハネ19章26~27節)。そして、主の憐れみを受けつつ歩むのです。

神の言葉のすごみ(2021.12.26)

聖 書

そのように、私の口から出る私の言葉も空しく私のもとに戻ることはない。
必ず、私の望むことをなし私が託したことを成し遂げる。(イザヤ55章11節)

礼拝音源(25.9MB)
※申し訳ございません。データが途中で終わっておりました。
修正分をアップしております。よろしくお願いいたします。

礼拝順序

前  奏
招  詞 イザヤ書60章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編103編1〜5節
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ55章8〜13節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「神の言葉のすごみ」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 54 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

最初のクリスマスを経験した人々は、神の言葉を聞いて受け入れ、その事実を担いました。それは、人が想像した以上のことが神によって成されるという、神のすごみとも言えることでした。私たちも同様に、その神の救いの御業に与る経験をするのです。

1.人の思いや道を超えて  8~9節

イザヤを通して、バビロン捕囚から解放される神の救いの預言がなされています。憐れみの神は、御自身の民を回復させるために、恵みの招きをされています(55章1~7節)。

この神は、御自身と思いや道と人の思いや道とを比較されながら、人がそれを簡単に把握したり、理解したり、納得したりできないほどのものであると語られます(8~9節)。

したがって、神が私たちを導いておられるとの畏敬の念を抱き、神への信頼へと堅く立たせていただくことが必要です。神の思い・御計画・みこころは、私たちには計り知れないものがあるのです。

2.神の言葉を成し遂げられる  10~11節

神は、御自身の思いや道を「私の口から出る私の言葉」とある神の言葉を通して明らかにされます。神の言葉には、御自身のお考えや御計画が込められており、それを人が受け入れるならば、御言葉が持つ救いと命と力がその人の現実となっていくのです。

イザヤ書には、イエス・キリストによって成し遂げられた救いの御業と人の真相が語られています。その御言葉を信じ受け入れ、信頼して歩み出すならば、私たちが祈り願った以上のことを実現させてくださる神のすごみを経験するのです。そこに、絶えることのない歓喜と祝福があるのです(12~13節)。

 

黙示録とデジタル世代(2021.3.14)

聖書

見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を荒れ地に川を置く。(イザヤ43章19節)

礼拝音源(27.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編51編19節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編29編
会衆祈祷 一  同
聖  書 黙示録11章7~13節
イザヤ43章19節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 579 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「黙示録とデジタル世代」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 463 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.ヨハネの黙示録と掛けてデジタル世代と解きます
言葉には、使う人の地域性、考え方、価値観等が表れます。生まれた時からインターネットが普及していた世代は、デジタルネイティブやZ世代と呼ばれています。便利だけど不景気の中に育った、最新の世代です。私達は世代が異なると文化の違いから、理解できず、戸惑い、批判する事が多くなります。
信仰継承から、現代用語を使ったメッセージをしてきましたが、その用語を使っていると思っていた方から、意味を知らないと言われた事がありました。予想外に世代が短く分かれていることに驚きました。新しい言葉が次々と出て来る様に、新世代も次々と現れ、お互いの理解と伝えることが難しくなっています。
黙示録は難解だと言われ続け、以前は11章9節を見て、世界中の人が同時に見るということを理解されず、あり得ない事だと言われていました。

2.その心は
理解が難しいかもしれませんが、聞けばきっと解かるでしょう。
黙示録は研究が進み、良書も増えているようです。信仰を持って神の言葉に耳を傾けるとき、聖霊によって教えられます。デジタル世代や異なる世代の人は、生きて目の前にいます。聞く耳さえあれば、解らない事は聞く事ができます。そして、解りあえたとき、共に信仰に生きる事ができるのではないでしょうか。
私たちには不可能と思えることを、神は新しい事として実現します(イザヤ43:19)。神の言葉にも、人の言葉にも、耳を傾ける事が大切です。

主に望みをおく年(2020.1.5)

宣教題 「主に望みをおく年」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 イザヤ40章27~31節

 「主に望みをおく人」は、神の摂理の導きの中にあって、主を待ち望む人のことです。神の民イスラエル同様に、なぜ今日の私たちが、主を忍耐をもって待ち望み、主に信頼をおいて待ち望むことが大切なのでしょうか。

1.主は慰めの神であるから 
 イザヤは、神の御言葉を取り次いでいます。神の民の神への不信仰と不従順のゆえに、バビロン捕囚を経験させることと、その後70年を経過して神の民を回復させ、神の救いを経験させることとを語られました。この間、神の民は、神に疑念を抱き、虚無的になっていくのです。それに対して神は、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を慰めよ」とのメッセージを告げられたのです(1節)。
 神は、解放者である慰めの神(2~5節)、羊飼いのような慰めの神(6~11節)、創造者である慰めの神(12~26節)、永遠者である慰めの神(27~31節)です。そのことは、イエス・キリストを通して今日の私たちにも明らかにしておられます。

2.再創造してくださる神であるから 
 神の民が、自分たちは神に顧みられていない、忘れられていると嘆くことに対して、神は永遠まで全部見通しておられることを明らかにされています(27~28節)。
 そして、若者が倦み疲れ、勇士がつまずき倒れるような状況におかれても、神は彼らを造り変え、再創造してくださるのです(29~31節)。
 罪と汚れと死の恐れから解き放ち、御言葉をもって懇ろに導き、永遠から永遠までおられて造り変えてくださる創造主こそが、イエス・キリストです。この方に望みをおき、任せて従っていくことが、最も恵まれた信仰の経験となるのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(11.7MB)

神が召すとき(2019.6.30)

宣教題 「神が召すとき」          宣 教  大嶋重徳師 
聖 書 イザヤ書6章1~13節

ウジヤ王の死んだ年にイザヤは神殿で幻を見ます。神の為さることの全てに神のご計画があるのであれば、この時、イザヤに神は語らなければならないことがありました。イザヤの住む南ユダ王国は偶像礼拝、姦淫、不品行が満ち、形だけの礼拝をする民が多く居ました。すでに預言者の働きを始めていたイザヤにとって、ユダの状況は怒りと裁きの預言を語るしかなかったのです。

しかし神はご自身をイザヤにあらわされ、イザヤに「わたしは汚れた唇の者」さらに「汚れた唇の民の中に住む者」(5節)と自らの罪とユダ王国の罪人の繋がりの中にいる自らの存在の告白に導かれます。そして「すると」(6節)という言葉と共に、神の側の一方的な救いの業が起こり、「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)という赦しの宣言がイザヤに聞こえてくるのです。

キリスト者は、自らの罪深さを深く知りつつ、尚、礼拝の只中で神の圧倒的な赦しに身を置いていることを深く知らされていく者とされているのです。そしてさらにイザヤは驚くべき神の声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(8節)。この驚くべき神の召命の実際を聞いたイザヤは「主よ、いつまででしょうか」(11節)と自らが受けた救いをあのイスラエルの民の中でいつ実現するのでしょうか?という祈りをささげ、キリスト預言に生涯をささげました。

私たちは今日、自分に与えられた救いの事実からどのように主の召しに生きるように導かれているでしょうか。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(15.7MB)

背負ってくださる主(2017.11.26)

宣教題 「背負ってくださる主」       宣教  今田好一牧師
聖 書 イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節

わたしたちにとって、老後のことはとても切実な問題です。でも、もし十分な備えができなくても神を信じる者にはすばらしい保証があります。それは神の約束です。

1.人それぞれが背負っているもの
 わたしたちには誰も代わることのできない、自分で負うしかない重荷があります。そして負いきれずに押しつぶされそうになることがあります。だからこそ、優しく寄り添ってくれる存在が必要なのです。それが、主イエス・キリストなのです。

2.人に背負われている神々
 バビロン捕囚となっていたイスラエルの民は、傷ついた心の中で、バビロンの神々が動物や人に背負われている勇壮で華々しい祭りを見ていました。しかしペルシアによるバビロニア帝国の崩壊の危機に際して、バビロンの守護神であるベルとネボは守護どころか、それを負う人々の重荷となり、ペルシアに仕えることになるのです。

3.人を背負ってくださる主
 主なる神は、イスラエルの民に、「あなたたちは生まれた時から負われ・・・老いる日まで白髪になるまで・・・わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3~4)と言われました。それはわたしたちの過去、現在、未来にかけてのすべてであり、わたしたちの歩みの最初から終わりまで神の守りの中にあるということなのです。

 全世界の多くの人々が老後の生活に不安を覚えている現代において、神の約束はいよいよ大きな力となります。そして、わたしたちが歳を重ねていく中で、主に背負われていることを素直に認め、「わたしは・・・背負って行こう」と言ってくださる主に人生をお委ねしましょう。きっと平安で満たされることでしょう。

起きよ、光を放て(2017.3.19)

宣教題  「起きよ、光を放て」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ60章1~7節、19~22節 マタイ5章14節a

「あなたがたは、世の光です」。だから、「起きよ。光を放て」。聖書はそう招いている。世界や教会や自分が暗やみに包まれていても、いやそうだからこそ、「起きよ。光を放て」。

1. 主の栄光が輝いているから
私たちの光はどこから来るのだろうか。そして、捕囚からの回復にあってもいまだ苦しみもだえているシオンの光はどこから来るのだろうか。主の栄光がもうすでにあなたの上を照らしている(1~2節)。だから、主の光を映す鏡として、あなたは光を放つことができるのだ(19~20節)。事実、十字架で死なれたキリストが復活されたのだから、復活の光はもうすでに輝いている。

2. そうすればあなたの使命を果たせるから
シオンが主の光で輝く時、主に求められていた使命(2章1~5節)が実現する。失われていた者たちが戻り(4節)、これまで見向きもしなかった者が訪れ(3節)、豊かさと平和がもたらされ(5b~7節, 10~11節, 1節, 16節a, 17節, 18節)、シオン自身が喜びに満たされる(5節, 14~15節)。主のもとに人を導く使命が果すことができるようになったから喜ぶのだ。そして、主がそのあわれみによってこのことを実現してくださる。

3. 主を知り、強くされ、美しくされる
主の光に照らされて輝くとき、シオンも変えられる。救い主である主をさらに知り(16節)、主に従うゆえに強くされていく(21~22節)。そして、輝きに満ちた美しさが与えられ、その美しさがシオンを包む(7節, 9節, 13節, 19節, 21節)。主のあわれみが満ちるところこそ美しく輝くからだ(10節)。
だから、世の光よ、起きよ、光を放て。2000年前、時は来た。主はなしてくださった(22節)。十字架と復活の大きな恵みに押し出されて、あわれみの御手のうちに、復活のいのちによって歩み続けようではないか。

主はシオンに来られる(2017.2.12)

宣教題  「主はシオンに来られる」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ59章15b~21節 マルコ1章14~15節
神はこの世界を見られたら、どのように判断されるのだろうか。
主は捕囚から帰還した民の姿を見、そこで正しいさばきが行われていないのを見た(15節)。流血、虚偽、不正が満ち、平和などない。社会の問題の原因は、神の民自身にある(1~8節)。民も、自分たちが暗やみの中を歩んでおり、正義も、救いも、まこともない世界を作りあげてしまったことを自覚している(9~15節)。そんな神の民が神のわざをなすことなど、不可能である。

1. 正しいさばきのために介入される主
世界の現実を見られた神は、それを放置なさることはされない。主は、戦いに長けた勇士として、その世界に介入されて、そこに正しいさばきをもたらす。正義も救いもないところに、それをもたらす勇士として介入され、それぞれにそれぞれのわざにふさわしい報いをもたらすのである(16~18節)。世界を破壊するためではなく、修復するためにそれを行われる。そして、主の霊の働きのゆえに、世界中の者たちは、主の介入を認めるに至る(19節)。

2. 主はシオンに来られる
そして、主はシオンに来られる。問題だらけのシオンに、エジプトからイスラエルを救い出した「贖う者」(20節)として来られる。背く者には、それにふさわしい報復が与えられる。しかし、かたくなな心を解き、罪を悔いる者、つまり、主に立ち帰る者には、救いと再生を与えられる(20節)。シオンは造り変えられ、契約は更新され、神のなさる正しいさばきという介入を証しする者として世界へ遣わされる。神の聖霊とみことばが共に働いて、世界は彼らを通して修復されていくのである。
この世界を見られた主は、イエスを通してこの世界に介入され、世界を修復し、修復のわざを行う民を生み出された。イエスはイスラエルに来られ、シオンに来られ、私たちのところに来られた。罪を悔い、主に立ち帰るところから私たちのこの世界における働きは始まる。

神の臨在に触れて(2017.1.8)

宣教題  「神の臨在に触れて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ6章1~13節

ここには、神の臨在に触れたイザヤが、預言者として立ち上がるに至った恵みと召命の経験が語られています。人は、神とどういう関わり方をしたかによって、その人の神を見る見方、その人の信仰の在り方と生涯を決めると言えるでしょう。
1.聖なる神を見る経験  1~4節
ウジヤ王が死んだために、民は悲嘆にくれ、南ユダ王国全体が不安定になって激動の時代を迎えようとしていました(7章1~2節)。そのような時に、イザヤが民を祝福するために神殿を訪れ、神との出会いを経験したのです。
それは、イザヤが神を見るという出会いでした。そこには生きておられる神の臨在がみなぎっており(1節、4節)、イザヤは「栄光の主」を見ています(3節)。さらに、超越しておられる「聖なる神」を見ています(3節)。そして、「王なる万軍の主」を見ていました(5節)。このような神が、私たちが信じるイエス・キリストであり、この方に私たちの存在の根拠を置いて、信仰の歩みをしていくのです。

2.聖なる神の恵みの御業を見る経験  5~13節
こうした神との出会いの経験は、自分の真相を見る経験となります。聖なる神の御前に「ああ、わたしは、もうだめだ」(5節、新改訳聖書)と告白する者となるのです。神が分かるということは、自分の罪と汚れが分かるということです。そのようなイザヤに、神は恵みによって「汚れた唇」がもたす罪と汚れをきよめられたのです(6~7節)。それは、罪と汚れの中にある者を主イエス・キリスト十字架の血と聖霊によって罪を赦しきよめてくださる恵みの御業を表しています。
続けて神は、罪と汚れのゆえに苦しみ、御言葉に聴き従おうとしない頑固な人たちに(9~13節)、イザヤと同様な神の恵みに与った者を遣わして用いてくださいます(8節)。「わたしを遣わしてください」との召しに応答する者とされましょう。

主がおられる所へ行く(2016.11.20)

宣教題  「主がおられる所へ行く」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ58章1~14節 マタイ25章40節

主が共におられることを私たちは求める。自分の祈りを主が聞き、それに応えて「共にいてくださる」と語って下さることを求める(4, 9節)。どうすればそのことが実現するのだろうか。捕囚後のエルサレムに住むユダヤ人たちは、断食によって自らを苦しめることを通してそれが実現すると考えた(5節)。ところが、主は彼らの断食を顧みず、祈りに応えてくださらなかった(3節)。

1. 断食か、社会生活か
なぜ断食を主は顧みてくださらないのだろうか。主がその人の宗教的な部分だけではなく、全生活を見ておられるからである。本当に主を尋ね求め、主を知ろうとしているのか(2節)、主は問われた。断食をしている人々の生活は、主が願っているものからはほど遠いものであったからだ。労働者を追い使い、争いをおこし、暴力を平気に用い、人々を束縛し、貧しい者にあわれみを施さず、安息日に休みをとらずに、人々をこきつかった(3, 4, 6~7, 9~10, 13節)。民の生活は、彼らと関わりを持っている諸国民の生活と変わらなかった。だからであろうか、宗教的に生きようと彼らは断食をした。しかし、神は、宗教的な自分と世に生きる自分を使い分けている者に厳しく対応された。

2. 全生活を見られる主
全生活を見直しなさい、と主は語りかけた。人々を解放し、貧者を顧み、安息日を守って、他者を休ませなさい、と命じた(6~7, 9~10, 13節)。断食をする宗教的な人であるか、ではなく、生活の現場でどう生きるか、が問われていた。自分よりも立場の弱い人々への解放と思いやりに生きるとき、そこに主が共におられて、祈りに応え、導き、満たし、いのちをあたえ、再建を果たしてくださる。そして、そのような人と共に主がおられることをまわりの人々も見るのだ。
イエスご自身もこのことをご存知だった。そして、羊と山羊の物語を語られた(マタイ25章31~46節)。自分よりも立場の弱い人々を解き放ち、思いやりを示す生きる場所にこそ、主が共におられる所であると述べられた。われらも主がおられる所へ行こうではないか。

低いところに来られる神(2016.10.23)

宣教題  「低いところに来られる神」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ57章14~21節 フィリピ2章8節

教会に来ると「すばらしい信仰者になるように」というプレッシャーを感じる。いつも神に従順で、なにごとがあっても神に信頼し、揺れることがない人を神は祝福し、つまずきとなるものを取りのけてくださる、と考える。

1. 低くされるべき民
神が祝福される人々は思っているほど信仰的ではない。むしろ、「貪欲」(57章17節)で、「強欲で飽くことを知らない」(56章10節)人々だ。その罪のゆえに、主は怒り、その人を打ち、自らを隠す。それでも、彼らは背き続けた(57章17節)。この後、彼らは打ち砕かれ、へりくだらさざるをえない状況に追い込まれた。それでも、主は彼らを「わたしの民」(57章14節)と呼ばれている。

2. 低いところに来られる神
神は「高く、あがめられ」(57章15節)る方である。イザヤ書6章においてイザヤと出会い、預言者自身が自らの汚れたことを認めざるを得ないほどの方である。この神にふさわしい者とならねばならない、と常識は語る。ところが、この方は「打ち砕かれ、へりくだる霊の人と共に」住む(57章15節)神である。へりくだらざるを得ない者が弱り果てていることを知り、むしろ彼らを生かし、いやすために、神は低いところに来られる。砕くことではなく、「わたしの民」を造り変え、生かし、働きへと備えることがその目的だ。

3.平和の到来
神は平和の到来を語る。くちびるの汚れた者にさえ、くちびるの果実を創造される。砕かれた者をいやし、導き、回復し、平和を与える(57章19節)。ただし、神は拒み続けるかたくなささえも、許容される。
この神の姿を、高い方であったのに、十字架の死に至るまで低くなられたキリスト(ピリピ2章8節)に見出す。取税人や罪人たちのところに行き、砕かれた彼らと共に食事をされた方だ。この方を拒絶し続けた者たちもいた。しかし、低くなられたキリストを喜んで迎え入れる者を、神は信仰者と呼び、そのような者のところまで来てくださる。