第一テサロニケ」カテゴリーアーカイブ

恵みと真実に囲まれて(2017.7.2)

宣教題  「恵みと真実に囲まれて」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  1テサロニケ5章23~28節
神の恵みと真実が、個々人と教会の信仰の歩みの土台となって深く根ざしていくならば、信仰が保たれ、真の結実をもたらしていきます。この手紙の結びに当たる箇所には、その神の真実と主イエス・キリストの恵みが語られています(24節、28節)。

1. 神の真実に立った祈り  23~24節
主イエスの再臨に備えての祈りの中心は、信徒が「平和の神御自身」によって「全く聖なる者」とされることです。それは、主イエスの十字架によって、罪が赦され、きよめ続けられ、神のものとされることによって、神と人との間に平和がもたらされ、人と人との間に平和がもたらされ、神の平安が与えられていることです(23節a)。そして、主イエスの再臨の時まで、全存在が守られ続け、栄光の姿に変えられるのです(23節b)。
真実な神は、このように約束されたことを必ず成し遂げてくださいます(24節)。平和の神御自身は、信仰者にとって、絶対に信頼できる真実な神なのです。

2.主の恵みに信頼を置いた求め  25~28節
神の真実と恵みに信頼を置くパウロは、三つのことを依頼し、また求めています。主の恵みに立ち続けられるようにとの祈りを要請しています(25節)。主の恵みによって、キリストの体なる教会の交わりが保たれるように願っています(26節)。主の再臨待望信仰に生きることから脱線しないように(2テサロニケ2書2節)、主の恵みによって、キリストの体として一つに結ばれているように強く命じています(27節)。
この手紙は、主の恵みで始まり(1章1節)主の恵みで終わっています(5章28節)。
私たちは、主の恵みによって救われ、生かされ、主の再臨の日まで保たれているのですから、主の恵みに信頼を置くのみです(詩編23編6節)。

聖霊による生活(2017.6.4)

宣教題  「聖霊による生活」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  1テサロニケ5章12~22節

聖霊は、今も変らずに教会の歩みの中で個々人の生活を確立しようと働いておられます(使徒言行録2章3~4節)。私たちは、その聖霊の火を消さないで(1テサロニケ5章19節)、燃え立たせていただく生活を歩んでいくのです。

1.教会の交わりを愛で輝かせるために  12~15節
再臨待望に生きる教会は、指導者と信徒また信徒と信徒の関係が健全で、それによって各々の信仰が確立していきます。教会の指導者は、心を注いで信徒と共に労苦し、霊的指導と養いと戒めをもって導きます。その指導者は、その働きの尊さのゆえに尊敬を受けるのです。そして、互いに平和に過ごすのです(12~13節)。また、指導者と信徒また信徒と信徒相互においては、戒め、励まし、助け合い、すべての人に寛容であり、すべての人に対していつも善を行うように努めるのです(14~15節)。
このような教会の交わりは、聖霊が結ばせてくださる愛によって造られていくのです(ガラテヤ5章22節)。

2.聖なる者の信仰が造り上げられていくために  16~22節
いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することは、神のご意思であり願いです。それは、キリストに結ばれていることにより、聖霊が実現してくださいます(16~18節)。さらに、すべてを吟味して良いものを守ること、あらゆる悪いものから遠ざかって善を追求することの基準となるのは、聖書の御言葉です(21~22節)。ですから、神から授かった御言葉を軽んじてはいけないのです(20節)。
聖霊は、この御言葉の真理を認めさせ、理解させ、それを信じて従って生きることをさせてくださいます(1コリント2章13~14節、12章3節)。ですから、この御言葉を軽んじるならば、聖霊の火は消えてしまいます。
教会の愛の交わりの中で聖なる者の信仰を造り上げてくださるのは、聖霊なのです。

主の日を待望して(2017.5.14)

宣教題  「主の日を待望して」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  1テサロニケ5章1~11節

「とわに悔ゆる日」(旧讃510番)とは、キリストのご再臨すなわち「主の日は来る」という時です。これは確かなことであり、その時はいつなのかは不確かです(1~3節)。そこで、この「主の日」への備えをするという恵みに生きることが大切です。

1.信仰が覚醒されているように  4~8節
滅びが襲う夜と暗闇のところには、信仰的に眠りと酔いが支配しています。そこには、神の御言葉に聴くことを軽視したり、聴こえなくなってしまうほどに鈍感になった状態とがあります。
しかし、キリストに結ばれている「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」。「光の子、昼の子」とされている者たちは、「目を覚まして、身を慎んで」慎み深い生活をすることによって、信仰が覚醒されていくのです(6節)。それは、油断せずに主の日の備えを怠らない生活で、より積極的に信仰と希望と愛に生きることに熱心な生き方です(8節)。

2.いつも主と共に生きるように  9~11節
人が眠るのには、三種類あります。先に述べた信仰的な眠りがあります(5章6節)。
さらに、「イエスを信じて眠りについた」すなわち「キリストに結ばれて死んだ」という肉体の死を迎えますが、それは一時の眠りであり、「いつまでも主と共にいることになります」(4章14節、16~17節)。そして、「目覚めていても眠っていても」とある肉体の眠りの中にあっても、いつも十字架に死んで復活されたキリストと共に歩み続けるのです(5章10節)。
キリストが共におられるとの臨在信仰の延長線上に、主の日のすなわちキリストの再臨の栄光が輝いています。このことをもって互いに励まし合うことによって、互いの信仰は向上していくのです(11節)。

聖なる生活(2017.3.12)

宣教題  「聖なる生活」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ4章1~12節
ご自身の独り子を十字架に架けるほどに私たちを愛し抜かれた神は、私たちを「聖なる者」(1節)とし、「聖なる生活」(7節)に生きるように招かれます。それは、満ち溢れた豊かな生活となっていきます(1節C、10節b)。

1.神に喜ばれる生活に満ち溢れる  1~8節
パウロは、テサロニケの信徒たちに、「神に喜ばれる」生活をこれまでも歩んできたし、今も歩んでいるし、「その歩みを今後もさらに続けて」満ち溢れてほしいと勧めています(1節)。
その歩みは、神の御心と深く関係していて、罪から分離されて神のものとなるという積極的な生き方となっていきます(3節)。具体的には、純潔であり、性的な汚れから聖別されていることです(4~7節)。そのような聖なる生活を歩めるように、神は聖霊を与えて支えてくださるのです(8節)。私たちは、切なる渇きと、誠実な求めと、砕かれた心をいただいていることが大切です(詩編51編12~14節、19節参照)。

2.互いに愛し合う生活に満ち溢れている  9~12節
パウロは、テサロニケの信徒たちが「互いに愛し合う」という「兄弟愛」の実践を神から教えられていることを高く評価しています。そして、そのことに「なおいっそう励」み、満ち溢れるように勧めています(9~10節)。愛することにおいての弱さを覚えたとしても、十字架の主イエスを信じ仰ぎ、兄弟に対する愛を豊かにしていただくことです(1ヨハネ3 章16節参照)。
そのように互いに愛し合うことに満ち溢れてくることと、他の人への豊かな配慮に満ちた落ち着いた生活となることとはつながっています(11~12節)。兄弟愛に満ち溢れた落ち着いた生活を造り上げられていくことが、主の再臨を待望する者たちがなし得る最善の備えです。

拡がる祈り(2017.2.5)

宣教題  「拡がる祈り」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ3章10~13節
教会に生きる私たちは、熱心に祈る仲間です(使徒言行録2章42節参照)。ここに、テサロニケの信徒たちへの愛と配慮にあふれて祈り続けるパウロがいます(10節)。その祈りは、「どうか」と繰り返されてこだましています。

1.熱烈な祈り  10~11節
テサロニケの信徒の「信仰と愛について、うれしい知らせ」を聞いたパウロは(6節)、喜びと感謝にあふれました(9節)。しかし彼は、彼らの信仰とその歩みが盤石なものとなることを願って、「信仰に必要なものを補いたい」と継続した熱心な祈りをしています(10節)。
そこでパウロは、これまでテサロニケへの再訪を妨げられてきたために(2章18節)、神であられる主イエスが「道を開いてくださるように」と祈っています(11節)。ただ、それが実現したかどうかを聖書は明らかにしていません。
ともあれ、主なる神が開かれる道を歩むことが、信仰者の信仰者たる歩みです。

2.成熟を求めての祈り  12~13節
テサロニケの信徒の信仰に必要なものを補うためにというパウロの祈りは、深まっていきました。苦難の中にあっても信仰者相互の愛が深められ、迫害する人たちだけでなく福音を必要とする「すべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(詩編23編5節参照)。それはパウロ自身がテサロニケの信徒を愛することにおいても同じであり、それらの愛の源は常に主なる神ご自身です(12節)。そして、主の再臨の時に備えて、聖なる者として整えられていく歩みであるようにと祈っています(13節)。
主の再臨待望の信仰に生きることは、愛と聖さに生きることであり、今も変わることのない教会の大切な祈りです。

うれしい知らせ(2017.1.15)

宣教題  「うれしい知らせ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ3章1~10節
信仰者は、「苦難」の中でこそ、信仰によって生きることが大切です。パウロは、テサロニケの信徒たちに対して、「あなたがたの信仰」と繰り返し語る中に(5節、6節、10節)、彼の心が伝わってきます。

1.信仰を気づかう  1~5節
テサロニケの信徒たちは、苦難を受けるように定められていることが何度も予告され、事実その通りになりました(3~4節)。とはいえ、人はその事態に直面した時ほど気弱になって、そこにサタンが巧妙に働きかけてきます。信仰をもって生きることを後悔させようと様々の出来事を引き起こしてきます。
そこで、パウロは「協力者テモテ」を派遣したのです(1~2節)。それによって、テサロニケの信徒たちが動揺することなく、苦難から乗り切れる道が開かれることを願ってのことでした。彼の働きは、彼らの信仰を強め、励まし(2節)、その信仰に必要なものを補うためでした(10節)。こうした信仰の気づかいが、愛の実践となって表れてくるのです(5節)。

2.生きた信仰を喜ぶ  6~10節
アテネからコリントに来ていたパウロは(使徒言行録18章5節)、テサロニケから帰ってきたテモテより「うれしい知らせ(福音)」を聞きます。テサロニケの信徒たちは、苦難が激しくなればなるほど信仰の火が燃えあがっていました。また、愛が溢れていました。それが、互いに再会することを切望することに表れています(6節)。
そのようにして、パウロは彼らの信仰によって励まされました(7節、2コリント1章3~4節)。そのキリストへの信仰ゆえに、生きた心地がしたというのです(8節)。この大きな喜びゆえに、神に感謝をささげ、その御前にひれ伏しいています(9節)。お互いが、このような「うれしい知らせ」を持ち運ぶ者とさせていただきましょう。

福音の冠(2016.11.6)

宣教題  「福音の冠」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章17~20節

パウロは、テサロニケの信徒たちを母親のように、また父親のように愛したと縷々語ってきました(2章1~12節)。本日の箇所では、福音がもたらす交わりの喜びがあり、そこから生み出される結実の喜びがあることを語っています。

1.福音の交わりを喜ぶ  17~18節
パウロは、顔と顔とで会いまみえる交わりに勝るものはないことを知っていました。そこで、テサロニケ教会再訪を切願するだけでなく、実行に移そうと並々ならぬ決意をしています。しかし、その神の働きは、背後で阻止しようとする巧妙なサタンの仕業によって妨げられました。
パウロは、そうした中にあって、「顔を見ないだけで、心が離れていたわけではない」と、テサロニケの信徒たちとしっかり結び合わされていたことを喜びとしています。心が結び合わされているところには、祈りがあります(コロサイ4章2~3節参照)。私たちは、祈りを通して、全世界のまだ会ったことのない人々とも豊かな交わりを持つことができるのです。

2.福音の実を喜ぶ  19~20節
限りある地上での歩みをする私たちが、再臨の主イエスの前に立った時に、何を望みとし、何を誇りとし、何を喜びとするのでしょうか。ここに、喜びに満ちたパウロの姿があります。それは、自分を通して主イエスの救いに導かれ、養われた聖徒こそが、『わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠・・・実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉であり、喜びなのです』と告白しています。つまり、主イエスの福音に与った者の満ち溢れる喜びは、誰かが主イエスの救いに至る道を選択した時に、そのお助けができた時の喜びです。
私たちは、主イエスの再臨の時に、空手で主をお迎えすることがないように、今こそ主の業に励む幸いな者とさせていただきましょう(1コリント15章58節参照)。

神の言葉が働く(2016.10.9)

宣教題  「神の言葉が働く」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章13~16節

神の福音は、それをゆだねられた人を通して語られます(2章4節)。そして、その福音は、聞いた人によって様々な受け取り方が生じます(同1~2節)。福音を聞いて受け入れたテサロニケの人々には、神の言葉が生き生きと働いていました。私たちは、語られる神の言葉に対して、どう応答したらよいのでしょうか。

1.神の言葉として受け入れる  13節b
神は、聖霊によって御言葉を与えてくださり、それを受け入れた人の内に聖霊が働きかけて信仰へと導いてくださり、励まし、慰め、力づけくださり、軌道修正してくださり、問いかけてくださり、チャレンジを与えてくださいます。何よりも、神の言葉を聞いて、イエスを救い主と信じる信仰を持たせてくださいます。これが、神の言葉として受け入れるということです。
アテネの人たちに見るように、好奇心からの求道者ではなくて(使徒言行録17章19~21節、32節)、テサロニケの人たちのように、真摯な求道者とならせていただきましょう(13節b)。そうすれば、人格的、内面的に変えられる経験するのです。

2.神の言葉として全く信頼する  13節c
テサロニケの信徒たちは、神の御思いと御心、そして神の将来の御計画をも知るようになっていきました。そして、具体的な態度や行動にも変化が見られるようになっていったのです。すなわち、主イエスとその御言葉を信じることにより、聖霊が神の言葉とともに働いて、新しく造り変えられ続けていきました。それに対して、彼らを主イエスから引き離そうとしたり、救いの恵みから落とそうとしたりするサタンの働きが激しくなっていくことを経験したのです(14~16節)。しかし、彼らは、神の言葉に信頼し続けました。
主なる神は、聖書の御言葉を通して、神の言葉を信頼する者の心のうちに働きかけ、その人をご自身の御心に従わせようとあらゆる方法をもって導かれます。

新しいヒーロー(2016.7.24)

宣教題  「新しいヒーロー」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  1テサロニケ1章9~10節

聖書にはイエスというヒーローが登場する。ヒーローの取り巻き(弟子)の中でもその筆頭はペトロであった。漁師であった彼は網を捨て、イエスに従っていった。イエスがイスラエルを復興してくれると期待していたからであり、イエスの王国でより力ある立場に立ちたいと願っていたからである。過ぎ越しの祭において、自らはこれから十字架に架けられる、そして弟子たちはみな裏切る、と予告したイエスに対して、自分は最後まで裏切らないと語った。

1.自分の生き方に気づく
捕らえられたイエスは逃げず、反論もしなかった。ペトロは裁判にかけられているイエスの所に残った。しかし、イエスの仲間だ、と言われた時、イエスなど知らない、と三度も否んだ。ペトロが、この世界を支配しているのは力であると信じていたからであり、死をもって脅かされれば、それに従う人であったからである。ペトロは、自分がヒーローにはなれないことに気がつかざるを得なかった。

2.自分の生き方がゆるされる
死という脅かしに屈しなかったイエスは、それゆえに死に対して十字架で勝利した。生けるまことの神はイエスを三日の後に死人から復活させられ、十字架が罪と死に対する勝利であることを明らかにされた。それだけではない。自分を裏切ったペトロをイエスはゆるされた。責めず、受け入れた。イエスというヒーローは、ひたすらに与えつづけるヒーローであった。ペトロは、ゆるしを受け入れ、ゆるされた者として、イエスをヒーローとして歩みはじめた。死と罪と力という偶像から離れて、神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるものとして、神のわざに加わっていった。
イエスに出会うことによって、イエスを知り、自分の姿を知る。ヒーローである方を裏切るような自分であることに気がついたわれらにイエスはゆるしと方向転換を与えてくださる。新しいヒーローに出会い、自分の姿に気づき、ゆるしをいただこうではないか。

聖霊に信頼して(2016.7.17)

宣教題  「聖霊に信頼して」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ1章2~10節
私たちの教会は、霊的に健全な教会であるか、と問われています。霊的とは、信仰者や教会が聖霊との関わりの中に生きているかということです。ですから、私たちは、聖霊に信頼して、聖霊の導きを喜びとして、「力と、聖霊と、強い確信とによっ」て歩んでいくことが大切なのです(5節)。

1.福音が継承されている  4節、6節、9~10節
テサロニケ教会は、福音の一石が投じられ、そこから福音の波紋が拡がっていったことにより誕生し形成されました(使徒言行録17章1~9節)。そして、模範的な教会として成長していきました(1テサロニケ1章2~3節)。神に愛され神に選ばれた彼らは(4節)、聖霊による宣教が展開されていく中から、「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」たのでした(6節、ルカ10章20~21節参照)。
その救いの実際は、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」(9節)のであり、再臨の主の御前に立つ望みをいただいているものでした(10節)。私たちは、この聖霊による救いを受け継いでいるのです。

2.福音が共鳴している  2~3節、5~8節
福音によって、テサロニケ教会だけが誕生し形成されただけでなく、周囲の地方全体に波及して行きました(7~8節)。テサロニケの信徒たちは、主イエスとパウロに倣う者となって、信仰と愛と希望とに満たされた実を結び、周囲の人々に感化を与えて行ったのです(3節、6節)。このようにして、聖霊のなされる働きの結果が、見本となって人々の前に陳列されたのです。
いつの時代であっても、どこの地域であっても、教会は聖霊による福音に生きる共同体であり、それが周囲に響き渡る聖霊による福音の共鳴体です。聖霊に信頼して、聖霊の導きをいただくことを心から願い、それが私たちの教会の現実となっていきますように!

新しいボス(2016.4.24)

宣教題  「新しいボス」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  1テサロニケ1章9~10節

クリスチャンとなるとは、きれいではなく、ずるい世界の真ん中で、きれいでずるくない世界を造り出す人となることである。そのためには、新しいボスの下に付かなければならない。
悪いボスの典型例が、旧約聖書に登場するエジプトの王ファラオである。ファラオという主人のゆえにイスラエルは不幸となり、命を失い、滅びそうになっていた。イスラエルの民の運命をボスであるファラオが握っていたからである。
イスラエルの民をひどいボスから解放するために立ち上がられたのが、世界のすべてを造り、天に住まいながらも、地上におけるあらゆる出来事に深くかかわり続けておられる「生けるまことの神」(9節)であった。十の災いと葦の海を分けることを通して、ファラオを打ち破り、イスラエルを解放した。ただし、イスラエルはファラオのやり方に慣れきってしまっていたために、「生けるまことの神に仕える」(9節)という歩みを簡単に選び取ることはできなかった。
あなたの人生のボスはなんだろうか。あなたのボスは、あなたを通してきれいなもの、ずるくないものを生み出しているだろうか。人を支配しているボスのほとんどが、ファラオのようにあなたを苦しめ、あなたを失望させる。「生けるまことの神」以外のすべてのボスは、あなたをあなたが一番なりたくない人の姿へとあなたを変えていく。すべてのボスが、罪と死という人を苦しめるボスの下に仕えているからである。
生けるまことの神は、2000年前にイエス・キリストを送られて、罪と死に対して十字架で戦われた。力をもって戦われたのではない。あらゆる悪と憎しみと腐敗と破壊を十字架でご自身の身にすべて負われ、もっともきれいではなく、もっともずるいもののすべてを受け入れることによって戦われた。その結果、罪と死の力はその牙を完全に抜かれ。イエスを通して、「生けるまことの神」は完全に勝利され、あらゆるボスに仕えて苦しんでいる人々に奴隷解放令を出してくださった。そして、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるように」(9節)に招いていてくださっている。
新しいボスを選ぶことができる。きれいで、ずるくない世界を造り出すあなたになる道がある。イエスによって勝利された「生けるまことの神」に向かって、「あなたがわたしの人生のボスになってください」と祈り求めることからすべてははじまる。

イエスを待ち望む(2012.5.20)

宣教題  : 「イエスを待ち望む」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : テサロニケの信徒への手紙一  1章9節~10節

神がイエスを死人の中から復活させたという福音を受け入れたキリスト者は、この御子イエスが天から来られるのを待ち望む者となります(1:10)。「天から降って来る」(4:16)の天は、「空のずっと上」を指しているわけではありません。「いま、イエスが王として世界を治めておられる所」です。そして、神が定められた時に、イエスはそこから地に来られます(2:19) 。

1.死に対する勝利の希望
その時、「来るべき怒りから」キリスト者は救われます(1:10)。しかし、これは永遠の裁きと滅びから免れることだけを指しているのではありません。神がイエスになされたことが、私たちの上になされることをも意味します。つまり、イエス同様に復活のからだが与えられて、人類最大の敵である死に対する勝利が地において現実となるのです。だからこそ、「イエスを信じて眠りについた人たち」(4:14)の復活が主イエスの来臨の時に起こります。からだのよみがえりこそが、私たちの兜である「救いの希望」(5:8)です。

2.希望に立って待ち望む
この希望に立って、私たちは御子が天から来られるのを待ち望みます(1:10)。この希望のゆえに、「無事だ、安全だ」ということばに惑わされず(5:3)、ひたすら目をさまして、身を慎みます(5:6)。「目をさました歩み」とは、倫理的な生活だけでなく、弱い者を助け、善を行い、喜び、祈り、感謝する生活をも指しています(5:14~18)。つまり、より多くの者が目をさましていることができるように、励まし合い、互いの向上に心がけることへキリスト者は招かれています(5:10~11)。
救いの希望に立って歩む時、「非のうちどころのない者」(3:13、5:23)となる道をキリスト者は進んで行きます。この目標に人間の力だけで到達することはできません。しかし、平和の神、真実な方がこれを可能として下さいます(5:24)。恵みからはじまり、恵みによって完成へと導かれるキリスト者生涯を共に進みましょう。

生けるまことの神に立ち帰る(2012.4.15)

宣教題  :「生けるまことの神に立ち帰る」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : テサロニケ信徒への手紙1 1章9節~10節

「神が(イエスを)死者の中から復活させた」(1:10)というメッセージこそ、パウロがテサロニケの人々に伝えた「神の福音」(2:9、1コリント15:3−5)です。旧約聖書の神、イスラエルの神とは全く無関係であった者たちがこの福音を聞き、聖霊の不思議なわざによって(1:5)彼らがその福音を神のことばとして受け入れた時(2:13)驚くべき回心が起こりました。偶像の神々に仕える者たちが、生けるまことの神に立ち帰ったのです。

1.偶像から離れる
偶像の神々と関わり、それらに仕える事なしに、日本同様にテサロニケの町で生きていくことはできませんでした。人々は偶像をおそれ、偶像から利益を得て生活してきたからです。しかし、「イエスを死者から復活させた神」の福音との出会いによって、この生けるまことの神と、偶像との間の雲泥の開きを聖霊は気づかせて下さいます。「私たちが大切にし賞賛しているもの」という偶像、「私たちが避け続けているもの」という偶像、それらと生けるまことの神の違いに、私たちは目が開かれているでしょうか。

2.生けるまことの神に仕える
回心は偶像から離れた者を「生けるまことの神に仕える」(1:9)者とします。この神への信仰(1:8)によって、テサロニケの人々がこの神の所有の民となり、この神に忠実に生きる者へと変えられるからです。ですから、福音に応える回心は、私たちの心のみならず、私たちの生き方を含めたすべてを変えます。もはや「神を知らない異邦人」(4:5)として生きるのではなく、神の所有の民、つまり「聖なる者」(4:3)として生きるからです。
生き方の変化に時間がかかることを私たちは経験から知っています。しかし、「イエスを死者から復活させた神」が私たちを「全く聖なる者」としてくださる、真実な方であると信頼し、祈り求め、歩き始めているでしょうか(5:23−24)。私たちの回心を始めて下さるのも、完成して下さるのもこの神です。

福音の力(2012.2.5)

宣教題  : 「福音の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 17章1節~9節、1テサロニケ1章4節~7節
イエス・キリストの救いの福音は、人を新しく造り変え、その存在と言動が周囲にまで波及させていく力があります。それは、聖霊の力、そして聖霊による強い確信によってもたらされます(1テサロニケ1章5~7節)。そのために、福音に対する私たちの姿勢は、どうあればよいのでしょうか。

1.福音に心を開く  使徒言行録17章1~4節
パウロは、三週間にわたって「聖書を引用して論じ合い」ながら、イエス・キリストによる救いの事実を「説明し、論証し」ました。その結果、ユダヤ人、ギリシャ人、高貴な婦人たちが「信じて・・・従った」のです。聖書が開かれて説明される時に、聴く者の心も開かれて、語られていることが自分のこととして体験されるのです(ルカ24章32節、45節、使徒言行録16章14節、17章3節)。
私たちの救いの根拠は、私たちの内側にあるのではなくて、私たちの外側にあります。私たちが、「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れる」ならば(1テサロニケ1章6節)、聖霊は私たちの心の目を開いてくださり、肉眼で見ることのできる世界だけではなく、もう一つの神によって新たに生きる世界をみせてくださるのです。これが、福音の力です。

2.福音に生きる  使徒言行録17章5~9節
ユダヤ教の指導者たちは、イエスを主と告白する者たちが起こらないように政治的な非常手段に訴えました。そして、パウロたちを「世界中を騒がせてきた連中」と非難したのです。しかし、パウロたちは決して騒動や革命を起こそうとしたのではなく、ロ-マが誇る文明社会に福音の一石を投じたのです。その結果、福音は瞬く間に拡がっていったのでした。
福音は、聖霊の力と聖霊の強い確信をいただいた私たちを用いて前進していきます(使徒言行録2章17節、1テサロニケ1章5節)。それは、背伸びするのでもなく、肩を張るのでもなく、「私は主の前にこう生きる」という真実に福音に生きる姿勢から生まれてくるのです。