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主の来臨の待望(2022.11.27)

聖 書

主の恵みの年と 私たちの神の報復の日とを告げ すべての嘆く人を慰めるために。(イザヤ61章2節)

礼拝音源(36.9MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ローマ13章12節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編130編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ60章19節~61章4節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「主の来臨の待望」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
聖 餐 式 新49
賛  美 236 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

待降節から降誕節に向かうこの時節は、一年の中でも最も喜ばしい時です。私たちがこの「待降節」を過ごすときに、主イエスの来臨をどのように待望するのでしょうか。そこには、どのような意味があるのでしょうか。

1.二つの待望
イザヤ書は、神の御業を全歴史を貫いて預言しています。特に、救い主の二つの来臨が、さながら一つの来臨のように重なって語られています。第一の来臨(61章1~2節a、ルカ4章16~21節)、続いて第二の来臨(61章2節b~4節)と預言されています。
待臨節は、かつて来臨された御子イエスの御降誕を想い起しつつ待ち望み、やがて主イエスが再び来臨されることを期待しつつ待ち望み、心を向ける時節です。ですから、御子の御降誕を想い起して感謝の祈りをささげ、再び来臨される主イエスに対する待望信仰を抱いて備えるのです。

2.二つの時を待望しつつ
主イエスは、第一の来臨によって、私たちに仕えて救うために来られした。その極みが主イエスの十字架と復活の御業に現されました。第二の来臨は、栄光の王が栄光のうちに来られ、神の救いは完成し、神の栄光が輝き現れるのです(60章19~22節)。
その中心におられるのは、ただ一度限りの永遠の贖いの御業を成し遂げてくださった「神の小羊」である主イエスです(61章1~2節、ヨハネの黙示録21章22~23節、22章3~5節)。この御方こそが、永遠に変わることなく、信仰者を永遠の交わりの中に導かれるのです(61章3~4節)。

大いなる喜び・再臨の希望(2021.8.8)

聖 書

主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。(1テサロニケ5章10節

礼拝音源(26.73MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ13章12節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編95編
会衆祈祷 一  同
聖  書 1テサロニケ5章1~24節
使徒信条 93-4  1A 一  同
講師紹介
牧会祈祷
川原﨑晃主管牧師
宣  教 「大いなる喜び・再臨の希望」 福本行宏 師
祈  祷
賛  美 474 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨(第一礼拝、第二礼拝)

1.その日、その時は主の他に誰も知らない。 1~11節
主イエスの再臨は、(1)盗人のように来る。(2)人々が「平和だ、何事も無く、平穏無だ」と嘯いている時に、突如として起きる。(3)妊婦に産みの苦しみが臨むように。
私たちの人生に、世界には、予期せぬ出来事が突如として起きることがある。主の再臨される時も、予期せぬ時に起きると聖書は宣告している。

【その結果】
(1)神を蔑ろにして生きて来た人たちには、逃れることが出来ない破滅が襲ってくる。
ノアの大洪水、ソドムゴモラ、栄華を極めた諸々の国々、町々など、世界各地に起きている災害、その殆どが何の予告も無く突如として起きている。主の再臨はそれ以上の出来事、不信仰者で破滅から逃れることが出来る者は皆無である。
彼らは自分の頭上に燃える炭火を積み重ねている。キリストの十字架による罪の赦しも、復活による永遠の命も、主の再臨も、世界の滅びも皆、神の言葉である聖書の宣告であるから、神の御前にひれ伏して悔い改めることが肝心である。決して政治学・教育学・社会学・倫理学・心理学・諸々の思想などによるのではない。

(2)どんな時にも主を信じて生きて来た人は、キリストの十字架による贖いの故に、誰一人として破滅に陥る者はいない。
その為に常に『目を覚まして身を慎んでいなさい』と聖書は勧めている。キリストの十字架の愛と赦しを思い起こす。キリストガ死とサタンとその王国を打ち負かして復活したことを思い起こす。神の国の相続人とされたこと、その保証として御霊の内住を㥅かったことを思い出す。神の御座で執り成しておられるキリストの熱愛を思い起こす。主の再臨を待ち望む希望が与えられていることを思い起こす。

2.キリスト信徒の務め。 12~24節
(1) 愛の労苦を共にしている指導者を重んじて支える。
(2) 互いに尊敬と平和を堅持する。
(3) 怠惰な者を諭す。祈り・みことば・礼拝・献金・奉仕などを怠っている者を愛と寛容を持って諭す。
(4) 思考で悩んでいる者を温かく節度を持って慰める。
(5) 悪を持って悪に報いず、善を持って悪に打ち勝つ。
(6) 常に喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する。これは神が私たちに臨んでいることで、みこころに叶うことですから、不可能な事では無い。
(7) 御霊を悲しませたり、働きをけしてはなりません。
(8) みことばを重んじ、しっかり蓄えなさい。
(9) 世俗的な事柄に執着しては為りません。

キリストの再臨の時、聖さと平和を保てるように。真実な神がそれを保証してくださっていることを忘れないように。

宣教要旨(第三礼拝)

ステファノは、最初のペンテコステの日に居合わせた120人のひとりでした。彼の生涯を象徴する言葉が「聖霊に満たされ」(6章3節、5節、10節、7章55節)です。聖霊に満たされた彼は、絶えず見ていたものがあり、それが勝利の秘訣でした。

1.天を見つめていた  55節

キリストの福音に敵対する者たちの罪を指摘したステファノに向かって、人々は激しい怒りを燃やし、憎悪をむき出しにしてきました。その時彼は、まず「天を見つめ」ていたのです。私たちが日々見つめているものが、その人を表し、その人を決めます。
私たちは、ここ一番、また日々に何を見つめているでしょうか。

2.神の栄光と着座されたキリストを見ていた  55節

そうした中で、ステファノは、冷静かつ落ち着いて復活され生きておられるキリストを見ていました。聖霊に満たされていると、人の憎悪や怒りの中にあっても、臨在されるキリストが見えるのです。見なくてもよいものは見えなくなり、見なければならないキリストがいつも見えるのです。

3.見たものを証しし、執り成している  56節、59~60節

生ける臨在のキリストを見ている者は、人が聞こうが聞くまいが、認めようが認めまいが、そのことを訴え、勧め、証しするのです。ステファノは、そうせずにはいられなかったのです。これこそ、聖霊の力が可能にする働きであり、クリスチャンの使命です。
私たちは、さらに神と深く交わり、キリストの愛と力を知って、聖霊に満たされ続けていることが大切なのです(エフェソ5章18節)。

 

目を覚ましていなさい(2017.9.3)

宣教題 「目を覚ましていなさい」   宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章35~48節

教会の完成は、「人の子は思いがけない時に来る」(40節、46節)というその時です。ですから教会は、その時を意識しつつ、再臨される主キリストを待望しつつ、「目を覚まして」備えている歩みをするのです。

1.喜びに輝いて  35~40節
「神の国」の恵みに与り続けながら歩む信仰者は、やがて再臨される主によって完成されるのです。その再臨される主は、突然やって来られるので、それがいつであっても良いように備えている必要があります(36節、38~39節)。
まず、「腰の帯を締め」とあるように、主が喜んでくださるような日々の生活を送ることです。「ともし火をともしていなさい」とあるように、不必要なものを取り除いていただいて聖霊の火によって輝いていることです(35節、ローマ12章11節)。そのように「目を覚ましているのを見られる」者たちに対して、再臨の主が「給仕して」くださるように最高の祝福を与えてくださるのです(37節)。

2.忠実な心配りをもって  41~48節
真実な主は、信仰者が「忠実な賢い管理人」として歩むことによって、信仰が枯れてしまわないようにと願っておられます。それは、主の前に態度を変えないで、主を第一にして生きる忠実さと、思慮深くて細やかなことに気づく心をもった賢さをもつということです(42~43節)。もし、主の御心と御思いを知っていながら、自分が主となって自分の思うとおりに生きていこうとする「不忠実」さがあるなら、悔い改めたいものです(45~47節)。
主は忠実な者を信任され、多くのものを任されます(44節、48節)。ですから、再臨の主の前に立つ時まで、主に忠実であり続けることです(黙示録2章10節de)。

その時、あなたは(2010.10.31)

宣教題  : 「その時、あなたは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  13章14節~27節
聖書は、神の約束どおりにキリストの初臨が成就したように、キリストの再臨があることを約束しています。時は、この約束の成就に向かって確実に縮まっています。私たちは、そのことを自覚して、それにふさわしく生きることを忘れてはなりません。

1.苦難の時に  14~23節
「それらの日には・・・今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」(19節)とは、紀元後70年にロ-マ軍によるエルサレムの町と神殿の破壊や民への虐殺また飢餓が起こること、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わしたりすることの預言です。
こうしたことは、世の終末にも起こることであり、とりわけクリスチャンの信仰を脱線させようと試みる者がいるので、毅然としているようにと警告されたのです。そして、主イエスは、こうした苦難の中にあるクリスチャンたちを「主はご自分のものとして選んだ人たち」と呼ばれて、彼らを忘れることなく、最後まで責任をもって守られることを約束されました。
私たちは、主なる神に選ばれているとの揺るぎない根拠があるので、苦難に耐えることができるのです。

2.主の再臨の時に  24~27節
このような苦難の後の終末には、天体の大異変とキリストの再臨があります。この時、キリストによって選ばれたクリスチャンたちは、呼び集められてキリストのもとへと引き上げられるのです。この再臨のキリストこそが、真の審判者であり、私たちの真の望みです。
再臨の主を待望する私たちは、神の恵みだけを頼りにして、凛としてキリストを仰ぎ続けて生きるのです(ルカ21章28節)。そのように生きるならば、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」との使徒信条が、生きた告白となるのです。