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キリストの従順のゆえに(2020.5.24)

聖書

キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。(ヘブライ5章8節)

礼拝音源(29.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ5章5節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 14編1~7節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章39~46節
ヘブライ5章7~9節
使徒信条 93-4 1A 一同起立
賛  美 280 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストの従順のゆえに」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 303 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、キリストでさえ「学ぶ」必要があったこと、それが「従順」であったこと、それを学ぶのに「多くの苦しみ」を通してであったことに、驚きを覚えます(ヘブライ5章8節)。
主イエスは、十字架を前にオリーブ山で祈られたことを通して、ご自身どういう者なのか、私たちとどのような関わりをもたれたのかを明らかされました。

1.苦しみを伴った祈り
この祈りは、苦しみを伴う壮絶なものでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)、神の裁きの杯を取り去ったくださいと祈られました(詩編73編7~8節参照)。そして、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と、死の恐ろしさのゆえに苦しみもだえて祈られました。主イエスは、立っていられないほど困惑し、恐れ、「ひざまずいて」祈られたのです(41節)。
なぜ、このように恐れられたのでしょうか。主イエスご自身が、全世界の罪を一身に負い、世の罪を取り除く神の小羊として十字架に架けられるからです。これまで、父なる神との交わりの断絶を経験したことのないお方が、その交わりを断たれるという「苦しみ」だからです。主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)との十字架上の叫びこそ、その苦しみの極致でした。ここに、キリストの孤独があります。
主イエスは、今の私たち一人ひとりに代わって、この苦しみを伴う祈りをされたのです。

2.父なる神への服従の祈り
主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と願い祈りながらも、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました(42節)。父なる神の御心とは、御子イエスが全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。主イエスはそれに従い通されたのです。
そして、このように主イエスは祈りながら、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と二度にわたって言われました(40節、46節)。誘惑に陥るとは、神への信頼を失うことであり、失わせようとすることです。ですから、父なる神に信頼することに無感覚になって、信頼できなくなることのないように祈るのです。

主イエスの従順が、私たちの永遠の救いの源となりました(ヘブライ5章9節)。ですから私たちは、人となられた活ける神である主イエスを信じ仰ぎ見るのみです(讃美歌21 280番「この人を見よ」参照)。そして、「御心のままになさってください」と祈られた主イエスの祈りに支えられて、神の御心がこの私と私の人生の歩みに行われますようにと祈り、歩み出すのです。

愛する者のための祈り(2019.10.20)

宣教題 「愛する者のための祈り」    宣 教  矢島志朗勧士
聖 書 フィリピ1章1~11節

人は「神にかたどって」造られ、交わりに生きる者とされている。牢獄にいるパウロから送られたこの手紙からは、人間関係について多くを教えられる。

1.キリスト・イエスに結ばれている者(1~2節)
「聖なる者たち」という言葉には「他のものと異なっている」「分離している」
という意味がある。「キリスト・イエスに結ばれている」という言葉をある学者は、「絶えずキリストにある大気の中で、キリストの御霊の中で生きること」と述べる。私たちは神様によってこの世の者とは異なる者とされ、日常のすべての場において御霊に導かれ、主の臨在のうちに歩む者とされているのである。

2.感謝の祈り(3~8節)
パウロはフィリピの人たちの「存在」を喜び、共に福音にあずかっていることを感謝している。神様は良い業を成し遂げてくださるという確信があった。そして「愛の心」をいだいていた。これは「かわいそうに思う」「深くあわれむ」という表現に通じる、熱い思いをあらわす言葉である。

3.愛する者のための祈り(9~11節)
パウロは、フィリピの人たちの愛が豊かになり、本当に重要なことを見分けられるようにと祈った。また彼らが清いものとなり、義の実を受ける者となるようにとも祈った。一人一人の神様との関係が豊かにされ、愛が増して実が結ばれることを切に願い、熱心に祈ったのである。私たちも兄弟姉妹同士、このように祈り合う関係に招かれている。お互いが神様をさらに知る者とされて、置かれているすべての場所でキリスト・イエスにあって生き、共に主の働きをさせていただけるように祈っていきたい。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(15MB)

何のために祈るのか(2019.10.6)

宣教題 「何のために祈るのか」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章14~21節

 パウロは、心を込めて、思いの限りを尽くして「ひざまずいて」父なる神に祈っています(14~15節)。その祈りは、さながら聖餐式に臨む者のような祈りです(1コリント11章24~25節、10章16節)。何を祈り求めているのでしょうか。

1.内なる人を強めてくださることを  16~17節
 悪の力・世の力・肉の思い・誘惑が、信仰者の「内なる人」を弱らせます。
その「内なる人」を強めてくださるのは、父なる神が、聖霊によって、信仰者の「内にキリストを住まわせ」て全てを支配し、キリストの愛に根を張り、その愛にしっかりと基礎づけられ、その愛で満ちあふれさせいただくことによります。このように神の恵みによって、内なる人を強めていただくことを祈るのです。

2.キリストの愛を知ることができることを  18~19節
 キリストの愛は、その愛の中に飛び込んでいくことによって知ることができます。そして、「すべての聖なる者たちと共に」キリストの体である教会に加えられてこそ、本当にキリストの愛の豊かさを知ることができるのです。
 そうすることによって「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり」、神の恵みに満たされることを祈るのです。

3.神をたたえることができることを  20~21節
 その祈りは、神をたたえる賛美へと拡がっていきます。それは、神が、私たちに働きかける神の御力により、私たちが願い思うことをはるかに超えてかなえてくださるゆえに、教会において、キリストによって神に栄光を帰することです。

 こうした祈りは、今日まで多くの人たちを通して証しされてきました(コロサイ4章12節)。これこそ、私たちの教会の大切な究極の祈りです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(10MB)

持って行き場がある(2019.3.31)

宣教題 「持って行き場がある」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヤコブ5章13~18節

 神に祈りをささげることは、人間に与えられている言葉を最高に用いることです。
ここでは、信仰者と教会は、この祈りを十分に用いているか、この祈りが充実しているか、個人的にだけでなく、共に祈ることを大切にしているかと問いかけています。

1.祈りを聞いてくださる神 
 聖書は、あらゆる時に神に祈ることを大前提にしています。とともに、特別な時の祈りについても語っています。悩み苦しむ時、自分の罪や過ちに泣く時、心身の病によって弱わった時、喜びと感謝の賛美をささげる時に祈ります(13~15節)。
 しかもその祈りが、すぐに応えられる祈り、時間をおいて聞かれる祈り、応えられないと思えても聞かれている祈り(使徒言行録12章1~19節)、そして祈る者がよこしまな思いや不義を持ったままでいるために、聞かれないままの祈りと様々です。ともあれ、私たちは、祈りを聞いてくださる神の前に持ち出すことができるのです。

2.心から神を信頼する私たち 
 祈りには、自分自身が祈る祈りがあり(13節)、祈ってくれる人と一緒に神の方を向いて、神の前に立って心を合わせる祈りがあり(14節)、主イエスに赦されているお互いが、罪を告白し合い、互いのために祈り合う祈りがあります(15~16節)。
 それらの祈りは、「主の名によって」祈ることであり(14節)、「信仰に基づく祈り」であり(15節)、神が祈りを聞いてくださることを信じる「正しい人の祈り」です(16節)。そして、私たちの祈りが、弱さと力の限界を知って神に祈ったエリヤと同じように(列王記上18章~19章)、ただ神とその力を信じ信頼して祈るのです(17~18節)。神に自分のそのままを持って行く祈りに、勝利があるのです(16節)。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(17MB)

失望しないで(2019.1.20)

宣教題 「失望しないで」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ18章1~8節
創造主である神に造られた私たち一人ひとりは、内側から出て来るものが言葉となり、それが祈りの言葉となって表れてきます。「祈り」とは何なのでしょう。

1.どなたに向かって
「初めに、神は」とあるように(創世記1章1節)、神を初めに置く生活、神を第一とする生き方が、本来の人間の姿です。その生き方をしていくならば、「天にまします我らの父よ」との主の祈りが、私の祈りとなります。
この神に祈ることにより、神との対話と交わりが生まれます。ここに登場する「一人のやもめ」のように、神に訴えるところに、神からの応えを聞くことができます。

2.どのような時にも
主イエスは、失望しないで絶えず祈るように語られました。順風満帆な状況下においても、このたとえ話にあるように悲観的な状況下においても、人は祈ることに困難を覚えるからです。そのように祈りを困難にする一番の原因は、神を信じ、信頼できないという、人の内側にある心の暗さからくるのです。
しかし、どのような時にも、神に祈り叫ぶことのできる人は幸いです。

3.どのようにして神は
そのように失望しないで神に祈り続ける者に、神は必ず道を開いてくださいます(7節)。神の裁きは、人にベストだという応えをくださることです。
その応えとは、主イエスが再び来られる時だけでなく、すでに来られた時と同様に、一人ひとりが信仰を抱いて神に向かっているか、神に呼ばわり祈る信仰を見失っていないかと問いかけておられます(8節)。神の救いを「あなた」のものに!

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(8.6MB)

主の弟子になる(2018.6.24)

宣教題  「主の弟子になる」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章25~35節

主イエスの大いなる救いの祝宴に招かれた者は、主の弟子として生きるようになります。それは、信仰者一人ひとりに対する主の恵みの招きです。

1.主の弟子になる道  25~27節、33節
信仰者は、「わたしの弟子ではありません」との主からの挑戦に応答する必要があります。それによって、家族よりも主を優先し聖別させていただくことにより、真に家族の絆は祝福を受けるのです(26節)。永遠の救いに招き入れてくださった主と一緒に十字架を負わせていただくことにより、他者の痛みを理解し、それを一緒に負わせていただくのです(27節)。神以外のものが心の王座を占領しているならば、それに別れを告げて神第一に生きるのです(33節)。
このような主の弟子の道を歩んでいるでしょうか。

2.主の弟子とされる祈り  28~32節
主の弟子の道を歩むには、「腰をすえて」主の前に静かに考えて祈ることが大切です(28節、31節)。主が「わたしの弟子ではありません」と言われるものがないかどうかを、神との祈りの交わりの中で明らかにしていただくためです。
腰を据えて静かに考えて祈る中に、主の恵みと祝福が及んでいくのです。

3.主の弟子の使命  34~35節
主の弟子として生かされ、主に従って、主の御心を実現させていただくために、主は私たちを使ってくださいます。すなわち、人々や社会の腐れを止め、味つけしていく塩のような存在としてくださるのです。
私たちの関心が、塩気のある主の弟子また群れでありますように!

メッセージ(11.9MB)

天の父への祈り(2018.6.17)

宣教題  「天の父への祈り」         宣 教  今田好一牧師
聖 書  マタイ6章9~15節
 今日は、父の日礼拝です。日頃のお父さんへの感謝と共に、わたしたちを造られた天の父なる神に、心からの感謝を献げる日とさせていただきましょう。

1.天におられる父
聖書が示す神は、罪ある人間とは遥かにかけ離れた聖なるお方です。もしそれだけなら、わたしたちは神との交わりを持つことはできません。しかし、神はそんなことは望まれませんでした。だからこそ、主イエス・キリストをこの地上に遣わされたのです。

2.憐れみ深い父
 主イエスは、この「主の祈り」(マタイ6:9~15)から、神を「わたしたちの父」と呼びかけるように教えておられます。それは、主イエスが聖なる神を「わたしの父」と呼び、親しい交わりを持たれたように、罪あるわたしたちでも、神との親しい関係を持つことができるからです。何故なら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」(マタイ6:8)だからです。

3.わたしたちの父
 天の神を父と認める者たちが「わたしたちの父」と呼びかけることができるのです。しかしそれは、罪も汚れもない主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架に死んでくださったからに他ならないのです。
 主イエスを十字架に架けるほどにわたしたちを愛してくださった天の父なる神が、最もわたしたちに望んでおられることは、主イエスの十字架の贖いが、わたしの罪のためであった。そして主イエスがわたしの救い主だと信じることです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.6MB)

拡がる祈り(2017.2.5)

宣教題  「拡がる祈り」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ3章10~13節
教会に生きる私たちは、熱心に祈る仲間です(使徒言行録2章42節参照)。ここに、テサロニケの信徒たちへの愛と配慮にあふれて祈り続けるパウロがいます(10節)。その祈りは、「どうか」と繰り返されてこだましています。

1.熱烈な祈り  10~11節
テサロニケの信徒の「信仰と愛について、うれしい知らせ」を聞いたパウロは(6節)、喜びと感謝にあふれました(9節)。しかし彼は、彼らの信仰とその歩みが盤石なものとなることを願って、「信仰に必要なものを補いたい」と継続した熱心な祈りをしています(10節)。
そこでパウロは、これまでテサロニケへの再訪を妨げられてきたために(2章18節)、神であられる主イエスが「道を開いてくださるように」と祈っています(11節)。ただ、それが実現したかどうかを聖書は明らかにしていません。
ともあれ、主なる神が開かれる道を歩むことが、信仰者の信仰者たる歩みです。

2.成熟を求めての祈り  12~13節
テサロニケの信徒の信仰に必要なものを補うためにというパウロの祈りは、深まっていきました。苦難の中にあっても信仰者相互の愛が深められ、迫害する人たちだけでなく福音を必要とする「すべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(詩編23編5節参照)。それはパウロ自身がテサロニケの信徒を愛することにおいても同じであり、それらの愛の源は常に主なる神ご自身です(12節)。そして、主の再臨の時に備えて、聖なる者として整えられていく歩みであるようにと祈っています(13節)。
主の再臨待望の信仰に生きることは、愛と聖さに生きることであり、今も変わることのない教会の大切な祈りです。

祈ることをまなぶ喜び(2016.9.11)

宣教題  「祈ることをまなぶ喜び」      宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章1~13節

神との交わりであり会話である祈りが、貧弱なものになってしまっていることがあります。そのような時、「主よ・・・わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)と、弟子たちが主イエスに願ったことに立ち止まることが必要です。祈りを教えられ、まなぶことに喜びを見いだすのです。

1.まねる祈り  2~4節
ここで主イエスは、主の祈りを教えておられます。「父よ」と親密な関係をもって、神の御名を賛美し、神の恵みの支配が実現していくように祈ります。そこから始まる実生活が、日々の糧が与えられ、罪を赦していただき、試みからの解放がなされるようにと祈ります。この祈りをまなぶ、まねることから、その祈りの言葉を味わい、祈りを重ねていくのです。
神は、たどたどしい祈りやうめくような祈りを聞き分けてくださいます。それとともに、主の祈りに代表されるように、教会の歴史の中で培われた祈りをまねることを通して、豊かな祈りへと導かれるのです。

2.愛しとりなす祈り  5~10節
ここでのたとえ話は(5~8節)、「しつように」臆面もなくしきりに求める祈りの姿勢を語っています。積極的に求め続け、探し続け、たたき続けて願い続けています(9~10節)。このように、遠慮することなく、積極的であることが必要ですが、それは神を強制して自分の要求を承服させる祈りではありません。その祈り求めることが、神との正しい関係をもって、たとえ話にあるように人と人との愛の関係が成り立つところの祈りであることです。
私たちが、まねる祈り、愛しとりなす祈りをまなぶ喜びへと導かれるために、聖霊を与えていただくことを求めるのです(13節)。聖霊は、どう祈ればよいか分からない弱い私たちを助け、執り成し続けていてくださるからです(ローマ8章26~27節)。

祈りへの集中(2016.3.13)

宣教題  「祈りへの集中」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ4章7~11節

この手紙は、「万物の終わりが迫っています」(7節)と切迫感がみなぎっています。そこには、キリストの再臨を意識しつつ、祈りを優先させ(7節)、キリストに栄光を帰している教会の姿があります(11節)。このように教会が祈りを集中させることは、何に向き合って生きることが大切なのかを教えています。

1.「終わり」に備えて生きる  7節
ペトロは、御言葉を通して聖霊によって神の時について教えられました(使徒言行録2章16~21節)。そこには、神の永遠の救いの世界が現実のこの世に突入してきたので、人がそこに織り込まれていることを明らかにしています(1ペトロ1章5節)。ですから、万物は永遠ではなく、人間を含めたこの世のすべてのものが、神によって造られ、生かされ、保たれ、締めくくられるのですから、「思慮深く」冷静に見極め、「身を慎んで」目覚め、祈りに向かっていることが大切なのです(マタイ26章36~46節参照)。
この祈りへの集中によって、私たちの信仰の領域は拡げられ、神を知ることが豊かにされ、神への信仰と信頼が確かにされていくのです。

2.キリストにある命を分かち合う 8~11節
祈りへの集中は、相互の分かち合い築き上げていきます。何よりもまず、聖霊によって神の愛を注ぎ続けていただくことにより(ローマ5章5節)、心を込めて、深く愛し合うことを貫き、多くの罪を覆うことをさせていただくのです(8節)。そして、神の愛とキリストの忍耐をいただいて、不平を言うことなくもてなし合うのです(9節)。そのためには、各々が神から与えられているそれぞれの賜物を差し出して、互いに仕え合うのです。神の言葉を語るにはふさわしく、奉仕するにおいても力に応じて、「恵みの善い管理者として」用いさせていただくのです(10~11節ab)。
ただ、これらの分かち合いは、私たちを祈りの場へと追いやっていただくことによって可能となります。そして、キリストの愛と力を覆っていただいていることを讃えるのです(11節cd)。

待望の祈り(2015.12.6)

宣教題  「待望の祈り」               宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ63章15節~64章4節
 
 イザヤは、神の民がバビロンに捕らえ移されたときに、そこから解放されることを待ち望むように勧めています。「どうか」(63章15節、19節)とは、神の助けを求める待望の祈りです。それは、キリストの初臨と再臨との間の恵みの日々を生きる者の待望の祈りでもあります。

1.信仰復興の祈り 
 苦難のただ中にあって行き詰まりを覚えた神の民は、まず神の恵みの御業を思い起こさせていただいています(63章7~9節)。続いて、神に対して自分たちの不従順を見せられ(同10節)、それでも決して見捨てられない神の前に悔い改めへと導かれたのでした。そして、神の恵みへの信仰に目覚めさせられ、もう一度「どうか、天から見下ろし」てくださいと呻き祈り求めたのです(63章11~15節)。
 待降節の日々を過ごす私たちは、イザヤの時代の人々と同様に、主の救いと導きを想起しつつ、自らの不信仰と不従順を悔い改め、信仰復興を祈り求めたいものです。キリストは、心を開けようとしない私たちを待っていてくださいます(黙示録3章20節)。

2.再臨待望の祈り 
 神の民は、いつまで続く困難かと神に問いつつ(63章15節b~19節a)、同時に、どこまでも神にすがりつこうとする信仰の執念をもちあわせていました(64章1~4節)。そして、神は必ず立ち上がってくださるとの確信がありました。こうして、過去の救いの出来事が、現在と将来に結びついていったのです。そのような希望をもって「どうか、天を裂いて降ってください」(63章19節b)と祈り求めています。
 待降節を迎えている私たちは、再臨されるキリストを待望する信仰に生きています。教会と信仰者には、その時を迎えるにふさわしいものとして準備をする務めと責任を負わされています。「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22章20節)との信仰を持たせていただくのが、待降節(アドベント)の信仰です。

神を知る者の愛(2014.3.30)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア5章6節~6章6節 1ヨハネ4章20節

旧約聖書に登場する北王国(エフライム)と南王国(ユダ)は本来、一つの王国であった。ところが、分裂し、神から与えられた使命を果たすことができなくなった。

1.兄弟国の間の争い(5:8-15)
分裂から200年後、二国の間で争いが生じた。アッシリアという強国に対抗するか、属国となるか、という路線の違いから生まれたこの争いは、北王国から 南王国への攻撃で始まったが、アッシリアの助けを得た南王国による北王国への侵攻と進んで行った(5:8)。北王国は廃虚と化し、南王国は主からの相続地 を奪い取ろうとした。主は両者に対して激しい審判をもたらす(5:12, 14)。互いに攻撃しあい、主を求めなかったからである(5:13)。主はイスラエルから去ることを決意された(5:14)。

2.深みのない祈り(6:1-5)
このことを聞いた時、人々は祈った(6:1-3)美しい悔い改めの祈りである。しかし、人々にとっての「主のもとに帰ろう」「主を知ろう」はホセアが 語っているのと同じ意味なのだろうか(12:7や2:22)。そうではない。自分たちの都合が悪くなり、「わたしを尋ね求めよ」(5:15)と言われたか ら、いつもの祈りをより丁寧に行ったにすぎない。主は、祈りに深みのないことを見抜き、「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」(6:4) と切り返し、裁きを宣告する(6:5)。

3.神を知る者の愛(6:6)
普段から献げている献げ物をより増やすことなど主は求めておられない。普段より美しい祈りをすることを主は求めておられない。ホセアが語っている意味 で、「主を知り、愛すること」である(6:6)。危機において主が開かれる道をベストと信じ、自分の計画に固執しないこと。さらに、本来一つであるべき 人々との関係を時間をかけて整えること。北王国と南王国の関係改善に取り組むことなしには、すべては不十分である。
神を愛する愛は、隣人を愛する愛という形で必ず現れる(1ヨハネ4:20)。配偶者、親や子、隣近所、同僚、クラスメートとの関わりの中に神への表され る。美しい祈りのことばでもなく、より熱心な教会生活でもない。ひとつであるべき夫婦が、家族が、職場が、学校が、私たちを通してひとつになっていく時、 神への愛が表され、私たちの使命が果たされていく。

母の心(2012.5.13)

宣教題  : 「母の心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : サムエル記上 1章3節~20節

旧約聖書最初の預言者と言われているサムエルの母ハンナは、苦しむことの持って行き場がないと思われた時に、神のもとで祈った人でした(ヤコブ5章13節)。ここでは、ハンナの心の軌跡を見ることができますが、それは私たちにも当てはまるものです。

1.痛む心  10節
シロで礼拝がささげられていた時に、ハンナは夫エルカナの愛情を覚えつつも、ベニナによって苦しめられて、悩み嘆き、痛み泣いていました(10節、11節、15節、16節)。
人が嘆く心(詩編13編3節)、悩む心(同25編17節)、騒ぐ心(ヨハネ14章1節)、気力を失い疲れ果てる心(ヘブライ12章3節)、乱れる心(1ペトロ4章7節:口語訳聖書)は、その心を不安にし、揺れ動かし、自分でもあつかいかねてしまうような状態にさせます。そのような心は、主に導いていただく必要があるのです(2テサロニケ3章5節)。

2.祈る心  15節
ハンナの幸いは、主に祈ることを知っていたことでした。それは、痛む心を主の御前にあるがまま申し上げ、さらけ出すように心を注ぎ出す祈りでした。決して、整った言葉や、堂々とした祈りではありませんでした。
私たちは、どのような時にも、ご自分の命を死に渡され、与え尽くしてくださった主イエス・キリストに対して、自分自身の心をそのまま注ぎ出すことです。そこが、私たちの避けどころなのです(詩編62編9節)。

3.安らぐ心  18節
祈り終えたハンナの姿は、以前のように暗く沈んだものではなく、明るく安らいだ表情になっていました。彼女は、主の御前に心を注ぎ出し、その祈りの結果を委ね、ささげています(11節、28節)。
私たちは、感謝を込めて祈りと願いをささげ、結果を主に委ねていくならば、人知を超える神の平安の中に生きる者とされるのです(フィリピ4章6~7節)。
痛む心→祈る心→安らぐ心の軌跡は、私たちの心の軌跡なのです。

心燃える祈り(2011.4.3)

宣教題  : 「心燃える祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章32節~42節
この箇所は「ゲツセマネの祈り」と呼ばれおり、主イエスが十字架を前にして苦闘の祈りをささげられた所です。そこに居合わせた弟子たちが、主イエスの警告の言葉に不感症となり、醜態を演じた所でもあります。

1.主イエスの祈り
主イエスはこの時、ただならぬ激情に襲われておられます。人が理解できないほどの途方もない力の前に、父なる神から捨てられる者が経験するほどの恐れを持たれ(33節)、普段では見られない姿で祈っておられます(34~35節)。
これは、私たちが持つ弱さや恐れや罪を変わって受け取ってくださっている祈りでした。
それは、全能の神にひたすら信頼しつつ、全知の神への従順を表明された祈りでした(35~36節)。ここに、神の怒りを一身に受けようとしておられるお姿があります。
このようにして、主イエスは、ゲツセマネの激しい祈りから続く十字架の苦しみを経験してくださったので、私たちの「永遠の救いの源」となってくださることができたのです(ヘブライ5章8~9節)。

2.主の弟子の祈り
この主イエスの祈りを見聞きしていた弟子たちは、主イエスから「目を覚まして祈っていなさい」(34、38節)と命じられなければならないほど、事実「弟子たちは、眠っていた」(37、40、41節)のでした。主イエスはそんな彼らに同情しつつ、誘惑に陥らないために、試練に打ち勝つために祈ることを命じられたのです(38節、マタイ6章13節)。
私たちは、ゲツセマネの弟子たちのようでない、と誰がいえるでしょうか。十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされ、呼吸するようにキリストと交わり続けることによって、常に目をさまして心燃える祈りを続けることが大切なのです。

祈りがあるから(2010.11.7)

題   : 「祈りがあるから」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録   12章1節~17節
ここに、死に直面した二人の使徒が登場します。その結果は、ヤコブは殉教の死を、ペトロは同じような扱いをうけながらも救出されました。この事態に対して、『教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた』と、教会は祈りをもって真正面から立ち向かいました。

1.神を制限しない「熱心」な祈り
ここで、真剣かつ熱心な祈りが神にささげられています。人が神に祈る姿は、万策尽きて、全知全能の神に助けを求める姿です。人が弱さに撤し抜いて、腹の底から創造主である神を信じ、死から復活されて共におられるキリストを信頼し、言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださる聖霊に依りすがる時に(ロ-マ8章28節)、最も弱そうに見える人間が、最も強い者に変えられるのです。
祈っていた教会は、ペトロが奇跡的に救出されたことを知らされた時、半信半疑でした(12~17節)。そんな不完全な信仰の祈りであっても、神は教会の祈りに耳を傾けてくださり、祈り願った以上に豊かに答えてくださったのです。私たちは、神がなされることに制限をしてはならないのです。

2.教会の「一致」した祈り
ここで教会が祈っていたことは、『彼のために』とあるだけで、その具体的な祈りの内容は多様なものだったと思われます。というのも、ペトロが救出されたとの知らせを聞いた人々は、神のなさったことの素晴らしさと意外性に驚いているからです。
祈る者たちの思いや考え方は様々であっても、ひたすら「彼のために」祈ることにおいて一つであれば、神はその教会の祈りを聞いてくださるのです。どう答えられるかは、神のみこころ次第なのです。教会の一致の祈りがあるところに、主の栄光が現わされるのです(ヱフェソ3章20~21節)。