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キリストの従順のゆえに(2020.5.24)

聖書

キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。(ヘブライ5章8節)

礼拝音源(29.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ5章5節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 14編1~7節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章39~46節
ヘブライ5章7~9節
使徒信条 93-4 1A 一同起立
賛  美 280 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストの従順のゆえに」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 303 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、キリストでさえ「学ぶ」必要があったこと、それが「従順」であったこと、それを学ぶのに「多くの苦しみ」を通してであったことに、驚きを覚えます(ヘブライ5章8節)。
主イエスは、十字架を前にオリーブ山で祈られたことを通して、ご自身どういう者なのか、私たちとどのような関わりをもたれたのかを明らかされました。

1.苦しみを伴った祈り
この祈りは、苦しみを伴う壮絶なものでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)、神の裁きの杯を取り去ったくださいと祈られました(詩編73編7~8節参照)。そして、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と、死の恐ろしさのゆえに苦しみもだえて祈られました。主イエスは、立っていられないほど困惑し、恐れ、「ひざまずいて」祈られたのです(41節)。
なぜ、このように恐れられたのでしょうか。主イエスご自身が、全世界の罪を一身に負い、世の罪を取り除く神の小羊として十字架に架けられるからです。これまで、父なる神との交わりの断絶を経験したことのないお方が、その交わりを断たれるという「苦しみ」だからです。主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)との十字架上の叫びこそ、その苦しみの極致でした。ここに、キリストの孤独があります。
主イエスは、今の私たち一人ひとりに代わって、この苦しみを伴う祈りをされたのです。

2.父なる神への服従の祈り
主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と願い祈りながらも、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました(42節)。父なる神の御心とは、御子イエスが全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。主イエスはそれに従い通されたのです。
そして、このように主イエスは祈りながら、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と二度にわたって言われました(40節、46節)。誘惑に陥るとは、神への信頼を失うことであり、失わせようとすることです。ですから、父なる神に信頼することに無感覚になって、信頼できなくなることのないように祈るのです。

主イエスの従順が、私たちの永遠の救いの源となりました(ヘブライ5章9節)。ですから私たちは、人となられた活ける神である主イエスを信じ仰ぎ見るのみです(讃美歌21 280番「この人を見よ」参照)。そして、「御心のままになさってください」と祈られた主イエスの祈りに支えられて、神の御心がこの私と私の人生の歩みに行われますようにと祈り、歩み出すのです。

喜びにも、悲しみにも(2009.5.10)

題   : 「喜びにも、悲しみにも」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  18章9節~15節
アブラハムとサラ夫妻は、神の召しを受けて、未見未知のカナンの地に旅立ちました(創世記12章1~5節)。その時から、妻サラは、呟くことなく、夫に従って行きました。この出発は、彼女の生涯にどのような信仰をもたらしたでしょうか。

1.神の真実への信仰
サラは、不妊の女でしたが(創世記11章30節)、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ロ-マ4章⒘節)を信じる必要がありました。ところが、彼女は、神の時が待ちきれず、女奴隷ハガルを夫にすすめるという不信仰の行動を取ったのです。その実は、嫉妬と憎しみが渦巻く家庭のトラブルを刈り取ることとなりました(創世記16章)。
しかし、神は、約束どおりサラに祝福を与えられました。神は、ご自身の使者を通して彼女に懐妊したことを知らせ(同18章13~15節)、約束の子イサクを与えられたのです(同21章1~8節)。
こうして、信仰の弱いサラは、悔い改めて、神は約束されたことは必ず成し遂げられる「真実な方」であるとの信仰に飛躍したのです(ヘブライ11章11節)。神の真実が最大限に現されたのは、イエス・キリストの十字架です。私たちは、いかなる時にも十字架を仰ぎ、神の真実に対する信仰を貫くことが必要です。

2.従順の信仰
アブラハムとサラ夫妻の最大の試練は、最愛の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との神の命令でした(創世記22章)。アブラハムは、自らも納得できないことでしたし、他者に説明することはとうていできないことでした。しかし、彼は、神の命じられることに従ったのです。また、「サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3章6節)。
彼女は、喜びにも、悲しみにも、神に従順な夫の行く所どこまでも従ったのです。このサラの強い感化が、神を畏れ、父母に仕える従順の子イサクを生み出したと言えるでしょう。
主イエスは、「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5章8節)。まして私たちが従順を学び続けることは、当然のことなのです。