第二コリント」カテゴリーアーカイブ

2020年 クリスマス・イブ礼拝

聖書

言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(2コリント 9:15)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ 3:16)

礼拝音源(22.9MB)

 

20201224

神の前に生きる(2020.1.26)

宣教題 「神の前に生きる」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章45~21章4節 2コリント8章9節

 主イエスは、見える事実だけで物事を判断なさらず、その背後にある真実を見る目をお持ちです。何よりも、人がイエス・キリストを「主」と告白して(20章44節)、真に神の前に生きる生き方を見られるお方です。

1.人の目を気にする生き方  20章45~47節
 宗教的指導者で、目に見えない神を信じていた律法学者たちは、人の目を気にして生きていました。人々から敬虔な信仰を持っていると思われたいと、見栄のために生きるようになっていました。主イエスは、彼らの内実のない行動を忌み嫌われ、彼らにくだされる裁きを予告されています。
 主イエスに対する信仰がないと、この世のことだけに気を取られて、終わりを迎える時に何も残らない人生となります。しかし、主イエスに対する信仰の土台がはっきりするなら、希望が生まれ、愛のある成熟した歩みとなります。

2.神を目の前に置く生き方  21章1~4節
 ここに、有り余る中から献金した金持ちたちと、乏しい中から生活費を全部ささげた貧しいやもめの物語があります。彼女は、神の愛を一心に受けて、溢れる感謝を献金という形であらわしたのです。そこに、彼女の信仰姿勢があらわれています。
 これは、献金だけの話をしているのではなく、見えない神を目の前において生きる人の生き方を証ししているのです。それは、主イエスの十字架の犠牲にあらわされた「貧しさ」のゆえに、罪が赦され、神のものとされ、神に生かされている恵みの「豊かさ」に与った人が、その恵みに応答する生き方です(2コリント8章9節)。「主イエス・キリストの恵みを知っています」と告白し続ける生き方をしていきましょう。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(11MB)

なぜキリストのために生きるのか(2019.2.17)

宣教題 「なぜキリストのために生きるのか」
宣教 ジョナサン・ラム師 (通訳)鎌野直人師
聖 書 第2コリント5章11~21節

聖書朗読(1MB)

メッセージ(16.9MB)

救いの門は開かれている(2018.3.25)

宣教題  「救いの門は開かれている」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章22~30節 2コリント6章2節c

 聖書は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と明言しています。その救いの門は今も開かれています。そのために、主イエスは、十字架にお架かりくださり、復活された場所であるエルサレムに向かって進んていかれたのです(22節)。

1.今や、恵みの時だから 
 主イエスは、「不義を行う者」が悔い改めないままでいるならば、救いの恵みの戸が閉じられる時がくることを語られました(23~28節)。そこで、神が与えてくださる救いを拒み続けないで、「狭い戸口から入るように努めなさい」と、この救いを自分自身のこととして取り組むようにと招かれているのです(24節)。
 忘れないでいたいものです。主イエスは、今も私たち一人ひとりの心の戸をたたき、声をかけていてくださいます。ですから、一人ひとりが自らの心の戸を開いて、主イエスを受け入れることが必要なのです(ヨハネの黙示録3章20節)。

2.今こそ、救いの日だから 
 ところで、救いの入口そのものが狭いのではありません(29~30節)。それを狭くしているのは、主イエスの救いを拒み続ける頑固な心、自分は間違っていないとする傲慢な心のままでいる人の側にあります。人は誰もそのような罪の荷を自分で背負いきれないために、主イエスがその荷を十字架上で身代わりとなって担い切ってくださったのです。その主イエスに対する信仰をいだいて歩みだす者には、救いの入口は狭くなく、堂々と大手を振って入っていくことができるのです(ルカ23章39~43節)。
 私たち一人ひとりが、主イエスにすがる素直さをもって応答していくなら、主イエスの救いの御業は恵みとして現実に起こることなのです。

本当に豊かですか(2017.6.25)

宣教題  「本当に豊かですか」      宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ12章13~21節、2コリント8章9節

あなたが生き甲斐としていることは何ですか、との問いを受けたとき、何と答えるでしょうか。生き甲斐とは、何らかの意味で、自分は生きているという実感、充実感を得ることです。

Ⅰ.どこに生き甲斐を見い出すか  13~20節
主イエスは、遺産の分配の調停役になっていただくことを求め訴えてきたことを通して、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と語られ、欲が貪る欲となってしまうことに対して注意を促されました。「人の命は財産によってどうすることもできない」からです(13~15節)。
続く「愚かな金持ち」のたとえを通して、「私の」「私は」と自分のことしか眼中にない者の生き甲斐は、最も大切なものを失っていることを教えられました。そこには、神を無視した神抜きの人生観が表れています(17~19節)。そして、この世のことだけで生きることは、不安で恐れに支配される人生だと言われました(20節)。

Ⅱ.神を生き甲斐にしてみては  21節
そこで大切なことは、「自分のために富を積んで」生きるのではなく、全てのものを備えて与えてくださる神に心を向け、神を信んじて依り頼むことによって「神の前に豊かに」なることを生き甲斐とするのです。
そのように神の前に豊かになるために、その道を開いてくださったのが主イエスです。人となられた神である主イエスが、神としての威厳と力と特権を捨てて十字架の死にいたるまで「貧しくなられた」ことによって、私たちの中に深く踏み込んでくださいました。この主イエスに対する信仰によって神の豊かな命にあずかることが、神を真に生き甲斐とした歩みをつくっていくのです(2コリント8章9節)。

主の貧しさと私たちの豊かさ(2016.12.11)

宣教題  「主の貧しさと私たちの豊かさ」       宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  2コリント8章1~9節

クリスマスの主の誕生は「飼い葉桶の中に」(ルカ2章12節)おいてでしたが、ここに「身を無にし」(フィリピ2章6~7節)、「貧しくなられた」(2コリント8章9節)お姿が現れています。それによって、わたしたちが「豊かになるためだったのです」。これが「主イエス・キリストの恵み」です(9節、2コリント13章13節参照)。

1.キリストの貧しさ
本来、「主は豊か」なお方です。キリストこそが、万物一切の創造者、所有者、支配者であられ(ヨハネ1章3節)、愛と恵みをお持ちの神であられます(同18節)。
このお方が、「あなたがたのために貧しくなられた」のでした。すなわち、天地の主なる神の独り子が、処女の胎に宿られてこの世に生まれてくださいました。罪を他にして人が経験する同じことを経験してくださいました。地上の最後においては十字架に架けられて命を与え尽くし、すべての人の罪の身代わりになって神に捨てられてくださいました(マタイ27章46節)。キリストは、これほどまでの貧しさの極限にまで至ってくださったのです。このキリストご自身を知っているかと問われています。

2.私たちの豊かさ
このような驚くべき犠牲は、ひとえに私たち罪人のためでした。一人ひとりが自ら罪人であることを認め、その罪を悔い改めてキリストを信じるならば、罪は赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられ、永遠の栄光にあずかるという神の豊かさをいただいた新しい歩みが始まるのです。
このキリストの恵みが本当にわかったならば、「慈善(恵み)の業においても豊かな者」とされるのです(7節)。それは、私たちの献身の表明である献金の恵みです(5節)。私たちが、キリストの恵みに富み続けるならば、その心から出る感謝と喜びをもって献金や奉仕に恵まれ続けていくのです。

主に結ばれて日々に新しく(2016.9.4)

宣教題  「主に結ばれて日々に新しく」      宣教 細見剛正師
聖 書  2コリント5章13~17節

私どもの魂の故郷は、神戸中央教会です。天幕伝道で救われ、伝道者として形づくっていただきました。今日、引退後もこのように伝道者としてご奉仕させていただき、この度は特に教会創立70周年の栄えある日に、礼拝説教のご用にお招きを受け、言葉に表せない、感激と喜びに溢れています。ありがとうございます。

テレビ番組「大改造!劇的ビフォー・アフター」を見ていると、古いぼろぼろの傾きかかった家が見ちがえる程に改造されて、「何ということでしょう!」と驚嘆の声をあげます。今日だれもがこれと似た、これ以上に必要とされているのは、私たちの内側の霊魂の大改造ではないでしょうか。私たちはこれを成し遂げる力ある匠であるイエス・キリストを知っています。『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた』(2コリント5章17節)。イエス・キリストもまた同じく工事は、土台、基礎から始められます。

「ローマの信徒への手紙6章」を開きましょう。『あなたがたは知らないのですか』とパウロは大事な点に私たちを注目させます。知っているつもり、でもなおざりにされている信仰生活のそもそもの出発点です。『キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを』(3節)。私たちは、信仰に入りながらなぜ挫折し、燃え尽きてしまうのでしょうか。自我に死んでキリストに生きていない、神だけが出来る神のわざを自分の力でやり遂げようとするからではないでしょうか。皆さん、頑張らなくていいのですよ(広辞苑で頑張るの語源は我を張る)。主に結ばれた日々に新しい三つの姿がここに生まれてきます。(1)新しい動機:キリストの愛(2コリント5章14節)、(2)キリストの目で見る(同16節)、(3)キリストの使者としての自覚(同18~21節)です。神のあなたへの約束、『見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか』(イザヤ43章19節)。

自分が変われば(2016.6.26)

宣教題  「自分が変われば」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ2章1~11節、2コリント5章17節

私たちが生活していく上でいちばん難しいことは、人と人との関係と言われます。それを難しくしている原因が、自分を取りまく人や状況にあると思ってしまっていることにあります。私たちは、自分自身を変えることが至難のわざであることを知って、主イエスによって変えられることから始めてみてはどうでしょうか。

1.人生の喜びをもたらされる主
婚礼の席において水がぶどう酒に変えられた奇跡は、主イエスの「最初のしるし」でした。これは、万物を創造されて支配される神にとって、たやすいことでした。それは、泥水から美味しいフルーツの実を結ぶように、神が日常茶飯事に絶え間なく続けておられる奇跡です。
主イエスは、苦しみや失望の時の救い主であるとともに、婚礼のような幸福に満ちた時の救い主でもあられます。私たちは、そのようないかなる時であっても、主イエスを救い主としてお迎えすることにより、人生に喜びをもたらしてくださるように招かれているのです。

2.人の心と生涯を新しくされる主
婚礼の席における主イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」(4節)と言われましたが、後に「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(12章27節)と言われました。この「わたしの時」とは、主イエスが十字架で身代わりの死を遂げくださる時のことでした。それによって主イエスは、人の心と生涯を変えて「新しく創造」してくださったのです。そのためには、一人ひとりが「キリストと結ばれ」、主イエスの中に植え替えられ、根付くことです(2コリント5章17節)。
奇跡と言えば、人の心と生涯が新しくされて変えられることほどに大きな奇跡はありません。そのために、主イエスが十字架にかかられて後に復活されたのです。主イエスに新しく創造され、その奇跡にあずからせていただきましょう。

この日を正月としなさい(2016.1.24)

宣教題  「この日を正月としなさい」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  出エジプト12章1~14節 2コリント5章17節

聖書に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)とありますが、この時はイスラエルの民の歴史にとって、転機的な時であり、新たな歩みが始まった時でした。
それは、私たちが神の子として自覚的な誕生をし、そこから新たな歩みをすることがいかに大切であるかを語っています。

1.イスラエルの正月とは
イスラエルにとってこの転機的な出来事は、二つの意味がありました。一つは、エジプトに住む家畜をも含むあらゆる初子を撃つという神の審きがなされるに際して、屠った小羊の血を取って家の柱と鴨居に塗っておけば審きが過ぎ越すということでした(6~7節)。もう一つは、酵母を入れないパンと苦菜を添えて屠られた小羊の肉を食べたイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から解放され、身軽になってそこから旅人として新たな出発したことでした(11~12節)。このようにして、新生イスラエルの歴史が始まったのです。
この神の御業には、大切なメッセージが語られています。神が血を見られられたことにより、神は過ぎ越されるという救いをなされたことです(13節)。

2.あなたの正月は
すべての人は罪を犯しているので、神の審きを受けなければならなくなりました(ローマ3章23節)。そこから逃れる道は、ただ一つです。私たちの身代わりとして十字架に血を流して死んでくださった神の小羊であるキリストを信じることです(ローマ3章24~25節)。神は、このキリストの血を見られ、神の前に悔い改めてキリストご自身を信じる者を救われるのです。ここから神が備えていてくださる新しい歩みが始めまるのです。
キリストを信じるとは、「キリストと結ばれる人はだれでも」とあるように(2コリント5章17節)、キリストを信頼し、キリストと命の結びつきをもつことです。それによって初めて、新しく造り変えられた人生の正月がおとずれるのです。私たち一人ひとりは、それを「この日」にさせていただきましょう。

恵みに応答して(2010.1.3)

宣教題  : 「恵みに応答して」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 第二コリント 5章11節~21節
私たちを生かす原動力は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(14節)というキリストの愛であり、神の恵みです。私たちは、それに対してどう応答するのでしょうか。

1.キリストにあって生きる  17節
私たちがキリストの愛の強い迫りを体験するのは、自らが罪人であるとの強い自覚を覚えた際に、贖い主イエス・キリストの十字架の救いを鮮やかに示された時です。
それは、神に義人と認められる恵みです(21節)。
この恵みは、だれでも、いつでも、キリストにあって、キリストに結ばれて新しく創造された者として生きることです。それは、キリストによらない自己中心の古い生き方ではなく、キリスト中心の新しい生き方をすることであり、この世のものの見方や価値観でキリストを見るのではなく、聖書が明らかにしている見方や価値観でキリストを見ることです(16~17節)。
私たちがキリストの十字架で新しく創造されるならば、「見よ、すべてが新しくなったのである」(口語訳聖書)との歓喜が溢れ出るのです。

2.キリストのために生きる  14節
駆り立てるキリストの愛は、私たちを縛って動けなくするのではなく、新たな方向へ向かわせ前進させます。すなわち、自分自身のために生きる生き方はキリストと共に十字架で死んだのですから、私たちは復活してくださったキリストのために生きるようになるのです(14~15節)。
さらに私たちは、キリストの十字架の贖いによって神との和解の恵みを体験したのですから、キリストの和解の務めに生きるのです。それは、「キリストに代わってお願いします」とのメッセ-ジを携えて遣わされる全権大使です(18~20節)。
私たちがキリストの愛に駆り立てられ、救いの恵みの喜びと感激に満たされ、困難な中でも使命に応えていくならば、それは徒労で終わることがありません。一人ひとり、神の召しに応答していきましょう。

慰めによって(2008.10.12)

題   : 「慰めによって」   宣教:   仁科 共子姉
聖書  : 2コリント 1章3節~11節
イエス・キリストによって新しくされたクリスチャンの人生にも苦難は無くなることはありません。それは,私達が苦難の中にあって神の恵みを体験し,それによって苦難の中にある人々を慰める者となるためです。

1.神の豊かな慰め
慰めを受けるのは苦しみの時です。クリスチャンにとっての苦難はイエス・キリストの苦しみを知る時であり、神の慰めを受ける時です。
私達はイエス・キリストの苦しみが私達の救いと慰めとなったことを覚え、その救いの恵みによって慰められ力づけられて生きる者とされているのです。神の慰めは豊かに私達に与えられます。
「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる・・・」(4節)

2.神に信頼する者に与えられる慰め
パウロは死を覚悟したほどの大きな苦難の中で自分を頼りにするのではなく、神を頼りにしたと言っています。(9節)
苦難の中にある人を慰めることができるのは、その人と同じ思いになって苦難の中を共に歩む人です。
イエス・キリストは人としてこの世に来てくださり、人として苦しみを受けてくださいました。それゆえに私達の苦しみを理解して下さることができるのです。
私達がイエス・キリストにあって生きる生活の中で苦しみを受ける時、ただ神にのみ信頼するならば、神は豊かな慰めを以って私達を慰めてくださいます。そして私達は苦難の中にある人々に神の慰めをもたらす者とされるのです。

どんな時にも私達を愛してくださる全能の神に信頼しましょう。そして、神からいただく慰めによってあらゆる苦難の中にある人を慰めることができる者とならせていただきましょう。