創世記」カテゴリーアーカイブ

ノアの箱舟と大洪水(2019.9.22)

宣教題 「ノアの箱舟と大洪水」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 創世記7章1~5節

 洪水物語は世界中にあり、誰でも絵本や物語を聞いた事、見た事があると思います。聖書には、ノアの洪水のことについて、創世記6章から8章に書かれています。

1.洪水はなぜ起こったか
 神様は天地を創造されたとき、できたものを見て、「良かった」と言われ、満足されました。そして、地を人の管理に任せました。しかし、人は常に悪いことばかり思い計るようになり、神様は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。そこで、地にいるすべてのものを洪水によってぬぐいさる事にされました。(創世記6章6節、7節、14節)

2.ノアとその家族はなぜ救われたのか
 そのような中にで、ノアだけは神様に良い人だと認められます。(創世記7章1節) そして、洪水が起こる前に箱舟を造り、動物や食料、家族をその中に入れ、洪水から逃れるように命じられます。ノアは神様に従い、その通りに行います。ノアの家族は、ノアの言う事を聞いて一緒に箱舟に乗り込み、救われました。

3.大洪水はもう起きないのか
 神様は洪水の後、水によってすべて滅ぼすことは決してない。虹がその約束だと言われました。(創世記6章16節)
 世界が滅びるほどの大洪水は起こさないと神様は約束されました。しかし、地に不法が満ちたとき、火で焼き尽くされると聖書は警告しています。逃れられるのは、神様の言われたことを聞く人だけです。今、イエス・キリストを救い主として信じるように神様は言われています。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11.1MB)

信仰による再出発(2017.4.2)

今日の宣教要旨
宣教題  「信仰による再出発」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  創世記22章1~14節 ヘブライ11章17節
アブラハムを祝福される神は(創世記12章2節)、全能の神(17章1節)であり、永遠の神(21章33節)であられます。ところが、それを覆すかのように、彼に信仰の試練を与えられました(ヘブライ11章17節)。彼にとっては、神が約束されたことと(17章19節)矛盾する要求をされたことが理解できなかったでしょう。

1.説明はできないが
アブラハムは、約束の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられたことに対して、自らも納得できない、人にも説明して語る言葉を持たないままで「その場所」に来たのでした。これは、神を信じているのになぜ、神は約束されたのになぜ、といった信仰の土台が揺さぶられるようなことでした。
神の前に試され、扱われ、訓練されつつ前進できるのは、「信仰によって」です。人には説明出来ないことであっても神は何もかも分かっておられます。神はある必要からこのようにされるのです。神は必ず備えてくださるのです。神は後で、試練の中にある者にも他の人にも説明してくださるのです(ヨハネ13章7節参照)。

2.二人は一緒に
「二人一緒に歩いて行った」(22章6節、8節)とは、何と幸いな父と子でしょうか。試練の中で、二人が一緒でないことがあるからであり、一緒であっても前進しないことがあるからです。しかし、二人のうちどちらかが欠けても成り立たない中を歩き続けることができたのは、父の信仰に子が従い、子の信頼に父が励まされていたからです。神は、そのような二人を守り続け、導き、備えられたのです(11~14節)。
私たちは、信仰者としての様々な関わりの中で、アブラハムとイサクであることを知る必要があります。このような神の試みの中あって、なお神を信頼し、神に従うことを通して、神は祝福され、勝利を与えてくださるのです(22章16~18節)。

神様の切なる願い、それはリバイバル(2016.8.28)

宣教題  「神様の切なる願い、それはリバイバル」   宣教 犬塚直樹師
聖 書  創世記35章1~15節

神様の御思い、願いは何でしょうか。それは、リバイバルです。リバイバルとは神様があなたを訪ねて下さること。ご自分の民に出会ってくださり、死んでいた魂を甦らせてくださることです。なぜなら私たちの魂は何度も死んでしまうことがあるからです。創世記35章はヤコブの生涯の集大成で、リバイバルが訪れると、どのように目に見える祝福があるか分かります。

1.肉の人ヤコブ
家族さえも陥れ自我丸出し、自分さえよければという人でした。信仰者家庭に生まれましたが、自分で神様に出会った体験がなかったので、自己中心のところがありました。あなたは神様に出会いましたか。あなたは救われましたか。

2.ヤコブの転機
第1のリバイバルはベテル(28章)です。お兄さんに追われ、孤独で危機的な状況で神様に出会いました。神様の方から近づいて下さいました。今までアブラハムの神、イサクの神でした。しかし、ヤコブは主が私の神であることを体験しました。そして3つの請願をするのです。①主を私の神とします②宮を建てます③十分の一をささげますと。けれども彼の信仰は順調ではなく、3つの請願は忘れてしまい、魂は死んでいくのです。
第2のリバイバルはヤボクの渡し(32章)です。再び兄エソウに会うという不安と恐怖に満ちた時も、神様は彼を訪ねてくださいました。ヤコブの家庭を祝福しようと主自ら来られたのです。御使いとの格闘で、もものつがいがはずれ砕かれました。神様が求めておられることは「砕かれた魂。砕かれた、悔いた心」です。

3.ヤコブへの祝福
(1) 神様に出会う、これ以上の祝福はありません。神様は不信仰や失敗を繰り返してきて、もう投げ出されてもいいような彼を愛し彼に出会って下さいました。(2)祝福の約束を受けるのです。主は御言葉を実現するために来られます。問題の解決がそこにあるのです。(3)ヤコブが祝福されたばかりか、その子ヨセフが幻を受けて、やがてイスラエルの民を救いました。こんな祝福が自分や家族、孫にまで広がるのです。
では、リバイバルはどんな人に与えられるのでしょうか。神様を慕い求める人です。

家族を越えて(2014.1.5)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:マルコ3章31~35節 創世記26章23~25節

祝福の源である家族となるためには、イエス・キリストを家族の主としてお迎えすることが大切です。ここでは、主イエスとその家族との間に溝が生まれていることが語られていますが、何が真に祝福された家族であるかを問いかけているのです。

1.家族には限界がある
主イエスの母と兄弟たち家族は、「外に立」っています(31節、32節)。それに対して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(34節)とある 「ここに」とは、「イエスの周りに座っている」人々です(32節、34節)。「座っている」とは、そうすることで主イエスの御言葉に耳を傾けていたのです (ルカ10章42節参照)。ここに、主イエスは、深くて高い新しい家族の交わりがつくられているのを見ておられました(34~35節)。
このようにして、主イエスは、人がつくりだしている家族は究極的なものではないことを明らかにされたのでした。そうすることによって、家族には限界があることを教えておられるのです。

2.神の家族となる
それでは、私たちは、限界ある家族を越えてどこに向かっていけばよいのでしょうか。そこで主イエスは、神の御心を行う家族となることを勧めておられます (34~35節)。神の御心とは、家族の限界を知りつつ、神のあわれみ、神の赦しをいただいて、神のものとされていくことです。具体的には、親の立場、子 の立場、祖父母の立場、嫁や姑の立場で、家族を絶対化しないことです。また、家族に破れがあったとしても、主イエスとの絆で結ばれることの大切さを示し続 けることです。
そのことを証しした聖書人物の一人が、アブラハムの子イサクでした(創世記26章23~25節)。イサクは、アブラハムに示された神の祝福の約束を再確 認して、まず祭壇を築いて礼拝し、次に天幕を張って家族の生活を整え、そして井戸を掘って生活の糧を得たのです。この順序は、神の祝福を受け継いでいくた めに大切な信仰の応答です。神の御心を行う神の家族は、今も変わらずに私たちに求められています。

傾聴される神(2012.7.15)

宣教題  : 「傾聴される神」   宣教:   仁科 千永子 師
聖    書  : 創世記  21章1節~21節

1.登場人物
一家の中心的存在であり、物事を決する家長としてのアブラハム、その正妻サラ、約束の子イサク、女奴隷ハガル、彼女が産んだ子イシマエル、この5人のバトルが繰り広げられています。神はアブラハムに「大いなる国民の基」となる事を約束されました(創世記12章1節)。しかし、サラには子が生まれませんでした(同16章1節)。そこでサラはハガルによって子を得る事を夫に勧め、彼もこの提案を受け入れ、そこに生まれたのがイシマエル(主は聞かれるの意)です(同16章15節)。ハガルがイシマエルを産んだ時、アブラハムは86歳でした。しかし、「来年の春にサラに子が与えられる」と神は約束され(同17章)、サラにも直接語られました(同18章14節)。

2.約束の成就 イサクの誕生
神は約束通り、アブラハム100歳サラ90歳の時、イサクが誕生しました。この時イシマエルは14歳、イサクが乳離れした日、盛んな宴会が開かれました。世界中がバラの花束で埋まるほどの感謝と喜びの日に「あってはならない事」が起こりました。サラが「あなた!何とかこの親子を追い出して下さい」と怒り爆発したのです。

3.イシマエルとハガルの事
荒野をさまよう親子の旅、やがてパンも水も尽きてしまいました。「私はこの子の死ぬのを見るに忍びない」と、何の希望もない精も根も尽き果てた母親失格の姿があります。泣く子の声を聞かれた神は、ハガルの目を開かれました。ハガルは、あれ程さまよっても見つけられなかった井戸の水(湧きあがる恵みの水)を見つけ、それをわが子に飲ませたのでした。まさに人間の苦悩、絶望の中での神の恵みです。
結論:100%の人はいない。
全ての人には苦悩があり、私たちにも苦悩があります。しかし、その苦悩を「神は聞きたもう方」です。そこに、「祈り」が生まれるのです。私たちは、「祈りを傾聴される神」から恵みを頂き、信仰に立ち「明日の主」に全てを委ね従っていきましょう。ここに私の全てを知りつくされ、最善に導かれる神の祝福があるのです。

主の道を守る民(2011.10.9)

宣教題  : 「主の道を守る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記 18章16節~22節
教会の宣教のわざは、決してきれいごとですむようなものではない。教会にはソドムやゴモラのような世界に祝福を届ける使命が与えられているからだ。

1.ソドムとゴモラの現実
ソドムとゴモラは邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた(13章13節)。そして、町から天に上る公正な審判を求める叫び声は大きい(18章20節)。正義が行われず、立場の弱い人々が食い物にされていたからだ。主はそこに行かれ、現実を知り、介入される(18章21節)。ソドムとゴモラは現代日本を映している。

2.主の道を守る民
主はアブラハムを選ばれた。ソドムとゴモラと無縁ではない場所で、彼自身がソドムや他の神々の道ではなく、主の道を守るためである。さらに、彼の子孫たちも主の道を守って正義に生きるよう、彼らに命令し、教えることを主は彼に求めた(19節)。宣教のために、主への従順に生きる人々が継続して起こされ、主の道を守ることが伝統として引き継がれる必要がある。つまり、イエスの命令のすべてを守るように教えることによってイエスの弟子を養成することは、教会の宣教に必須である(マタイ28章18~19節)。

3.主の祝福を届ける
宣教のゴールは、アブラハムとその子孫たちが主に従って歩むことではなく、主が結ばれた約束、つまり世界の民の祝福の実現だ(18章19節)。そして、ソドムへの宣教を願っておられたからこそ、主はアブラハムに介入の機会を与えた(18章17節)。そして、アブラハムは大胆にソドムの民のために主ににじり寄り、主はその交渉に応じられた(18章23~32節)。
神の恵みによって選ばれた私たちは、神の宣教のわざが教会によって実現するため、主に従うよう招かれている。だから、主がソドムへ下って行かれたように(18章21節)主の道を守る者として積極的にこの地に関わっていこう。

世界への祝福となる民(2011.8.21)

宣教題  : 「世界への祝福となる民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記  12章1節~3節
アブラハムに対する「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という主のことばこそが福音である、とパウロは語っている(ガラテヤ3:8)。信仰によってアブラハムの子孫とされた私たちにもこの福音を宣教する使命が与えられている。

1.神の祝福
アブラムに与えられた使命は「祝福となる」こと(創世記12:2)、つまり彼を通して世界の諸国民が神の祝福をいただく事である(12:3)。この神の祝福は、天地創造の初めに神が世界中を満たす被造物へと与えられたいのちの祝福を指す(1:28)。人はそれを自分たちの力で獲得しようとするが(バベルの塔)、神は造られたものすべてにこの祝福を与えようと願っておられる。神の祝福は賜物である。

2.すべての国民
神はすべての民(異邦人)がこの祝福を経験することを願っている(12:3)。一部の人だけ(たとえばイスラエルの民)に閉じられてはおらず、ノアの子孫として世界中に散り、広がっていった(10章)「地上の氏族すべて」がその対象である。すべての国民と出会うためにアブラムはカナンの地へと出ていったことを忘れてはいけない。まわりにクリスチャンがいないことは嘆くべき事ではない。祝福が「すべての国民」に与えられるチャンスを生み出す場にあなたは置かれている。

3.あなたによって
アブラムは他者のために選ばれた。聖書における選びとは、神の祝福が広がるという宣教を目的としている。だからこそ、選ばれたアブラムにとって、「離れ、行きなさい」(12:1)という主の命令に対する積極的な応答、歓びに満ちた従順が大切となってくる。主が私たちに求めておられるのも、主への従順である。主の招きに従って、安住の地から一歩進み、人々と関わることによって、祝福とならせていただきたい。

造られたものを治める民(2011.7.24)

宣教題  : 「造られたものを治める民」   宣教:   鎌野 直人  協力牧師
聖    書  : 創世記  1章26節~28節
東日本大震災に続く福島第一原発の事故は、福島県一帯を中心に甚大な土壌汚染を生み出している。環境を破壊している人の現実に対して教会はどのように向き合うことが求められているのだろうか。

1.神は天地を創造された
「初めに、神は天地を創造され」(創世記1章1節)、「万物をただ御子によって、御自分と和解させられ」(コロサイ1章20節)、「新しい天と新しい地」(黙示録21章1節)を終わりの日に創造される。このように、神のご計画は天地創造ではじまり、すべての造られたものの完成というゴールへと進んでいる。
しかし、世界が神の目指すゴールと真逆の方向に進んでいるように私たちは感じる。それは、神ご自身のかたちに造られた人(創世記1章:27節)がその使命を果たしていないからである。被造物が人の必要を満たそうと手を伸ばしているのに、人は万物のよき管理者として働こうとはしない。

2.教会の使命
神は人を御自身のかたちに創造され、地を従わせ、すべての造られたものを支配する使命を与えられた(1章28節)。つまり、神が愛をもってこの世界を王として治められているように、この世界を治めるために人は造られた。さらに、神は人を農夫として造り、土を耕し、守る使命を与えられた(2章15節)。人間は世界のすべてを自分の利益を生み出す道具と考えているが、この世界にいのちが満ちあふれるようにすべての造られたもの、特に「地」のしもべとして働くことこそが人の使命である。
すべての造られたものを治める使命が与えられている教会は、神が造られた世界を守り、キリストによってなされた万物との和解を実現する働きへと召されている。世界のよい管理人となることによって、新しい天と新しい地の前味を神の恵みによって今、この世界に現すことができるのだ。

ヨセフの骨(2011.1.9)

宣教題  : 「ヨセフの骨」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 50章22節~26節
聖書に登場する人物の多くは、信仰をもって神の深いご計画の中を歩んでいます。ヨセフに関しては、その信仰の生涯を総括して、『信仰によって・・・自分の遺骨について指示を与えました』(ヘブライ11章22節)と証言しています。これは、今日の私たちに何を語っているのでしょうか。

1.継承される信仰
ヨセフの骨は、出エジプトに際して、モ-セによって携えられていき(出エジプト13章19節)、ヨシュアによって約束の地が平定されたときに埋葬されました(ヨシュア24章32節)。これは、神の民が神の約束の地に導き入れられるまで、ヨセフの生涯を通してなされた神の御業に対する信仰の証しとメッセ-ジが彼らを導くことを明らかにしたのでした。
ヨセフの骨は、過去から現在、そして将来に受け継がれていく信仰の伝統を意味しています。私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぐことが求められています。ですから、私たちは、受け継いでいる信仰の遺産を無視したり、変質させたり、無駄にしてしまうことのないようにすることが大切なのです。

2.生きた信仰
ヨセフは、波乱万丈の信仰の歩みをしました。その結果ヨセフは、出エジプトという大きな神の救いの計画につながる大切な役割を果たしたのです。
ヨセフを支えたものは、いかなる時にも主が彼と共におられたことでした(39章)。主の臨在信仰は、あらゆる不安、不公正、試練に耐える力を与えるのです。さらに、真実な神は、人の意図や画策や悪意すらもすべて最善に導かれました(45章5節、50章19~21節)。真実な神への摂理信仰は、人を神の器としてに用いるのです。
生きた信仰とは、何をしたかではなく、何を信じたか、いかに信じたか、いかに生きてその信仰を証ししたかです。生きた信仰が受け継がれていくとき、その信仰は偶像化されることはないのです。

実を結ぶ若木(2010.11.14)

題   : 「実を結ぶ若木」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記   49章22節~26節
ヤコブは、その臨終に際してヨセフに祝福の言葉を述べています。ヨセフの生涯は波瀾万丈に満ちていましたが、神への信仰によって「実を結ぶ若木」となって祝福されたのです。

1.いのちを得させる神によって
幼かったヨセフは、父ヤコブと伯父ラバンとの不仲な関係を知ったことによる不安(創世記31章)、ヤコブと神との格闘やエサウとの和解を通して知った強烈な印象(同32~33章)、兄たちが報復の殺害をしたことによる恐れ(同34章)、ヤコブの一夫多妻がもたらした家庭悲劇などを経験して心を痛めたことでしょう。さらに、若い時のヨセフが、兄たちの妬みによってエジプトに奴隷として売られるという悲惨な経験をしました(同37章)。
そんなヨセフが、「泉のほとりの実を結ぶ若木」となったのです(詩編1編3節)。それはちょうど、神のいのちのない世界に生きていた者が、恵みによって神の世界に移されて、神のいのちに生きる者となったことを意味しています。それは、ただ信仰によって受け取るものなのです。

2.共に歩まれる神によって
ヨセフは、「主が共におられたので」幸運な人となり、人からの信用も勝ち取りました。また、誘惑に際しても勝利し、言われなき訴えにも主の支えがありました(創世記39章)。境遇は変わっても、ヨセフと共におられた神は変わらないお方です。続いての失望と孤独の中で信仰が萎える時にも、神に励まされて神に祈ることは衰えませんでした(同40章、イザヤ62章6節)。
ヨセフは、エジプトの責任者となった時も、永遠に変わらない全能の神の前を歩み、自らも他者もすべて神の御手にあることを覚えて、人を恨まず、さばかず、常に神から与えられた立場と使命に生きたのです。主が共に歩んでくださってこそ、「その枝は石垣を超えて伸びる」生涯となるのです。

祝福を祈る(2010.9.12)

題   : 「祝福を祈る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  48章1節~4節 15節~19節
長生きは、神の祝福です。喜び、人生の厚み、神の恵みといったことは、長生きする中から深く分からさせていただけるからです。
ヤコブは、147歳まで長生きし(創世記47章28節)、その晩年において子どもたちや孫たちに祝福の祈りをしています(ヘブライ11章21節)。

1.牧者なる神への祈り
ヤコブは、エジプト王の前に立たされたとき、自分の生涯を振り返って「苦しみ多く」と語っています(創世記47章9節)。彼の一生は、時に禍に振り回され、人の策略に苦しみ、子どもたちの勝手な生き方の犠牲となり、生きた年数を重ねた分だけ苦しみました。
ヤコブは、そのような背後に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(48章15節)と告白できる神を体験的に知っていました。このお方は、アブラハムやイサクが信頼して「その御前を歩んだ神」(同15節)であり、ヤコブを「あらゆる苦しみから贖われた」お方でした(同16節)。
私たちは、今日まで導かれた牧者なる神を証しし続けたいものです。

2.最大のとりなしの祈り
ヤコブは、その生涯を閉じるに当たり、人生最後の仕事をしました。彼は、全能の神によって自分が祝福されただけではなく、自分が祝福の源となって、「力を奮い起して」息子ヨセフと孫たちを祝福したのでした(48章1~4節)。その行為は、神の約束に堅く立って神を礼拝し、後に続く者に神の祝福を祈るということでした。
ヤコブは、財産や何らかの教えを残したのではなく、自分が信じてきた神の恵みと神への信仰を残したのでした(1コリント15章10節)。以前は利己的なヤコブでしたが、今や祝福の器として召されていったのです。
私たちは、神の祝福を祈り、神の恵みを証しし続ける父親また母親、祖父母でありたいものです。

神が願っておられること(2010.8.15)

宣教題  : 「神が願っておられること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 32章23節~33節
ここには、かつて弟ヤコブの偽りと裏切りを恨んで殺意を抱いた兄エサウと、それを恐れて不安の日々を送った弟ヤコブが登場します。このような戦いや争いは、人の内にある欲望から生まれるものです(ヤコブ4章1~2節)。
神は、ヤコブのような性質を持つ私たちに何を願っておられるのでしょうか。

1.人の顔を恐れないで
ヤコブは、かつて神の祝福の約束をいただいて信仰の歩みを始めましたが(28章15節)、その時から20年過ぎたこの時に至るまで、大きな悩みと恐れの中を歩んでいました。成功をおさめたヤコブの記憶の底にあったものは、エサウの怒りに満ちた顔でした。それを思い出すたびごとに、彼はエソウをだまして長子の権利を奪った自分の醜さに気づかされたのでした。
ヤコブ一行が渡った「ヤボク」とは、格闘という意味があります。彼はエサウの怒りをなだめるために、多くの人間的策略をしつつ、自らはヤボクの渡しに残って祈りの格闘をしたのでした(23~25節)。
私たちは、人の顔を恐れて様々な策略をめぐらしますが、根本的な解決にはならないことを知る必要があります(箴言29章25~26節)。

2.神の顔を仰ぎ見よ
神は、ご自身と祈りの格闘をするヤコブを愛されました。神は、ヤコブの求めに対して屈してくださるお方でした(26~27節、ルカ24章29節参照)。ここに、求める者に対する神の謙遜があり、神の愛があります。
続いて神が「お前の名は何というのか」とヤコブに尋ねられたのは、彼が自分の本当の姿を直視できるようにするためでした。そして、神によって新しく変えられる恵みへと彼を導かれたのです(28~29節)。ヤコブは、神の顔を仰ぎ見て、そのご支配に自らを委ねたのでした(30~31節)。
神が最も願っておられることは、祈りの格闘ができるほどの情熱ある信仰と、あるがままの真の自分を認めて十字架の主にすがりつく砕かれた心です。

祈りと涙(2010.6.13)

宣教題  : 「祈りと涙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 21章9節~21節
ハガルが「声をあげて泣いた」(16節)とあることに代表されるように、涙を流したことがないという人はいないのではないでしょうか。そのような中で、人が神の御前で涙を流すときには、それが祈りとなる経験をします。それはまた、神がどういうお方であるかを知る経験ともなるのです。

1.顧みられる神
これより先にアブラハムは、妻サラとの間に子が与えられなかったために、女奴隷ハガルとの間に子をもうけることになりました。
その結果、この家族は複雑な関係となりました。神が荒野に逃亡するハガルに、歩むべき道と息子イシュマエルの将来を予告された時、ハガルは「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)」と告白しました(16章1~13節)。このように体験的に神を知ったハガルは、その後の彼女の生涯に多大の影響を与えたのです。
やがて、イシュマエルが誕生し、またイサクが誕生すると、状況は悪化しました。ハガルとイシュマエルは追い出され、彼らはあてどもなく荒野をさまようことになりました。彼女は、人生の理不尽さや無情そして自らの無力さを悲しみ、「声をあげて泣いた」のでした(21章9~16節)。
しかし、こうした涙を顧みられる神は、その涙を貴いものとして蓄え、記録しておかれるのです(詩編56編9節)。
2.祈りを聞かれる神
息子イシュマエルは、泣いている母ハガルを見て、代わりに祈っています。神は、その祈りを聞かれたのです(17節)。神は、祈っているイシュマエルと、祈られているハガルの間に立っておられたのです。
ところで、主イエスは、私たちの人生の悲しみ、痛み、罪の苦悩を、涙を流しながら受けとめ、その祈りを聞いてくださるお方です(ヨハネ11章35節、ヘブライ5章7節)。
泣く者がいて、共に涙する者がいます。祈る者がいて、祈られる者がいます。その間に主イエスが立っていてくださるのです。これが、教会の家族なのです。

女性の感化(2010.5.9)

宣教題  : 「女性の感化」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 27章1節~17節
神の歴史が展開されるところには、連綿として後を絶たない聖徒の姿があり、その多くは母や妻といった女性の感化を受けています。
ヤコブがリベカから受けた感化も例外ではありません。彼らの功罪を直視しつつ、今日の私たちへの語りかけを聴くことが大切です。

1.神の約束を待ち望む信仰の感化
イサクとリベカ夫婦には、委ねられた双子の兄エサウと弟ヤコブに対してお互いの偏愛がありました。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛し、二人の兄弟の違いが増幅され、その関係は複雑なものになっていったのです(25章28節)。ヤコブは、エサウから長子の権利を奪っただけでなく(25章29~34節)、母リベカから命じられるままに、偽ってエサウから神の祝福を奪いました(27章)。
ところで神は、リベカの胎に双子が宿ったときに「兄は弟に仕えるようになる」との約束をされていました(25章23節)。にもかかわらず、リベカはこの神の約束を認め、信じ、待ち望むことができなかったのです。神は、このような人間的な失敗も御手の中にあって用いられ、約束どおりに最善へと導かれます(ロ-マ9章10節)。神の約束に信頼して歩む信仰のゆとりをいただきたいものです。

2.惜しみない犠牲を注ぐ愛の感化
ヤコブは長子の特権と祝福を受けましたが、家におられなくなり、相続人でありながら家出人となりました。そして、20年後にヤコブが故郷に帰ったときには、リベカはすでに召されていました。つまり、リベカにとってこの事件は、最愛のヤコブとの生き別れであったのです。
さて、リベカが「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます」(13節)と言った盲目的ともいえる母性愛の中に、犠牲的な愛、贖罪愛の一断片を見ることができます。人は神の愛に触れてこそ、その愛に生き、その愛を注ぐことができるのです。
リベカの神は、私の神であり、私たちの神であり、あなたの神なのです。

信仰の目覚め(2010.2.14)

宣教題  : 「信仰の目覚め」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記  28章10節~22節
ヤコブが、旅の途中の荒野で過ごした夜の出来事です。彼は父との死別の悲しみ、兄を裏切った心の痛み、いつも傍にいて守ってくれた母との別れの悲しみ、旅そのものの恐怖、見知らぬ土地への不安を秘めながら、石を枕にしての野宿をしました。
そのような中で、ヤコブは神と出会い、信仰に目覚めさせられるのです。

1.見上げよ!  10~15節
ヤコブは、この時まで神の話しは聞かされ、神の祝福に与かることに憧れていましたが、神ご自身を個人的に知ることはありませんでした。そんな彼が、神の御名を呼んで助けを求めて眠りについたのではないでしょうか。その夜彼は夢を見て、神を見上げる時を与えられたのです。
まず神ご自身が、ヤコブの暗い孤独な現実へ下ってこられたことを見ました(12節)。また、神ご自身がヤコブの傍らに立っておられるのを見ました(13節)。そして、神ご自身がヤコブと共にいてくださり、守り、見捨てることはないとの力強い約束を見聞きしました(15節)。
私たちは、いかなる時であっても、この神を見上げることを忘れてはなりません。

2.目覚めよ!  16~22節
ヤコブは、夜の眠りからの目覚めと同時に、信仰の目覚めを経験しました(16~17節)。そして、その場所を聖別し、信仰の記念としました(18節)。さらに、神のヤコブに対する約束に対して(20~21節)、ヤコブは神に誓願しています(22節)。その誓願は、神が約束されていることが実現すると堅く信じつつも、不安な気持ちの入れ混じったものでした。
ところでヤコブは、信仰を目覚めさせられた場所を「ベテル(神の家)」と名付けています(19節)。そこから信仰の歩みが始まったヤコブは、そこに戻ってきて礼拝をしました(35章3節)。このベテルこそ、今日の教会です。そしてイエス・キリストが、天に通じる唯一の階段となってくださいました(ヨハネ1章51節)。私たちは、神の臨在とその守りの中を御国を目指して歩んでいるのです。