創世記」カテゴリーアーカイブ

神の祝福に与かる(2009.11.8)

題   : 「神の祝福に与かる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 27章18節~29節

イサクの生涯の最大の出来事は、モリヤの事件でもなければ結婚のことでもありません。彼が信仰によって二人の子を祝福したことです(ヘブライ11章20節)。今日の私たちは、イエス・キリストの救いの恵みを体験した者として、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の愛と、聖霊の交わりの確かな祝福に与かっています。

1.霊的な祝福である
イサク家の家族画を見ていくと、夫婦・親子・子どもたちは、神の御心に適わないことをしました(25~27章)。アブラハムが神から与えられた祝福は、その子イサクに受け継がれましたが(26章2~5節)、イサクは自分の身を守るために妻リベカを犠牲にしようとする失敗がありました(同6~11節)。彼らの間に与えられた双子のエサウとヤコブには、神の祝福を奪い合うということが起こりました。兄のエサウが長子の権利を弟ヤコブに譲り渡したことを皮切りに(25章27~34節)、ヤコブは母リベカの欺きの手段を用いた策略によって、イサクから神の祝福に与かりました(27章1~29節)。
ともかくヤコブは、神の祝福に与かりたいとの切なる願望がありました。それに対して、イサクは「どうか神が」(27章28~29節)と、神からの霊的な祝福をヤコブに受け継がせたのです。

2.永遠に至る祝福である
神の祝福は、単なる一時的なこの世にある間だけのものではなく、「将来のこと」も含む永遠に至る祝福でした。この祝福が本当に分かると、私たちの人生の用い方、価値判断の基準が変わってきます。
このことは、私たちにとって大いなる福音です。神は、どんなに陰険で罪深く、失敗の多い者であっても、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、それを赦し、きよめてくださり、神の祝福に与からせてくださるからです。
私たちが知ってほしいと願うものは、イエス・キリストの救いに現わされた神の愛であり、受け継いでほしいと願うものは、その神の祝福に与かる信仰です。

冒険する心(2009.9.13)

題   : 「冒険する心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 25章7~10節  ヘブライ 11章8~16節
私たちは、その信仰の旅路において新しいものに触れ、新しくされることに踏み込んでいくことを神から期待されています。こうした冒険をしたのが、信仰の父と言われたアブラハムです。信仰の冒険は、どこから生まれてくるのでしょうか。

1.全能の神への信頼から
アブラハムは、神からの未見の呼び声と挑戦を受けました(ヘブライ11章8節)。彼は、その召しに「信仰によって」従っていきます。それは、次から次へと放棄していく生活、一つ一つの執念を断ち切っていく生活でした。
私たちは、こうした信仰の危機に直面すると、疲れたり、弱ったり、確信が揺らいだり、信仰の活力を失ったりします。そうした時こそ、私たちは、全能の神に信頼し、「信仰によって」冒険する心を回復していただく必要があるのです。
礼拝は、自らの損得勘定や人生設計をカッコに入れて、神の御前に立つときです。そして、神に信頼しているゆえに、神の御言葉に従うときです。そこから、神の招きに踏み出し、信仰の力に溢れさせていただき、信仰の冒険へと駆り立てていただくのです。

2.永遠の栄光への望みから
信仰の冒険は、病に倒れて再起は難しく、死を待つばかりというときでも、なお新しくされることに踏み込んでいくことです。それは、アブラハムたちのように、「喜びの声をあげ」、神が準備してくださっている「天の故郷を熱望」することです(ヘブライ11章13節、16節)。
アブラハムが死を迎えたときの記述には、明るい信仰的な響きと揺るぎない望みがあります(創世記25章8節)。それは、神が計画し定められた信仰の歩みを走り抜き、永遠の栄光への新しい出発があることを言い表しています。
神は、自ら人となって、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。私たちは、この神の冒険に対して、信仰をもって応答し、神の都を目指して歩む信仰の冒険者なのです。

受け継がれる祝福(2009.8.16)

題   : 「受け継がれる祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 26章15節~25節
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3章6節)と表現されていることは、神と人との関わりは代々続いていくことを証言しています。神の祝福は一代限りではなく、引き継がれ、受け継がれていくものなのです。

1.神の祝福は受け継がれていく
イサクは、敵意に囲まれた危険な地で神の祝福を受けましたが、その地のぺリシテ人に妬まれ、迫害されました(12~16節)。柔和で謙遜なイサクは、彼らと争うことをしないで、父アブラハムの時代に掘られた井戸を掘り返しては手放すことを繰り返しました(17~21節)。そして、平安が支配する広い場所を得ることとなったのです(22節)。
このようにイサクは、与えつつ獲得し、退きつつ前進していったのです。柔和は報われ、謙遜は価値あることを教えています。
そのイサクが、最終的に行き着いた地は「ベエル・シェバ」でした。その地は、父アブラハムが神に守られたことを感謝して礼拝を献げた意義深い場所でした(21章25~34節)。イサクは、感謝を込めてその地に上り、臨在の主と出会いました。そして、父アブラハムのゆえに、神の祝福を受け継いだのです(23~24節)。

2.神の祝福は機械的に受け継ぐのではない
イサクは、礼拝を献げ、家庭と生活を整えて、受け継いだ神の祝福を自分のものにしていきます(25節)。
ところで、父アブラハムの死後塞がれていた井戸が、イサクによって再び掘られていきました。それらの井戸の地下水の水脈は、変わらずに流れていたからです。同じように、私たちが受け継ぐ神の祝福は、塞がれたままにしておいてはいけないのです。自らの信仰と祈りで掘り起こし、自分の手で開拓し、新しい意味づけをしていくことが必要です(33節)。
私たち一人ひとりは、アブラハムであり、またイサクでもあります。そのためには、自分の信仰に目覚め、自分の信仰の手を差し伸ばして、神の救いと祝福を受け継いでいくことが求められているのです。

二人は一緒に(2009.6.21)

題   : 「二人は一緒に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  22章1節~14節
アブラハムは、愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と神から命じられました。これは、アブラハムにとって大きな信仰の危機でしたが、そこから逃げることなく、命じられた場所に向かって「二人は一緒に歩いて行った」(6節、8節)のです。

1.試みの中において
アブラハムにとっては、全てが順調にいっている時に与えられた試みでした。それは、「全能の神」であり(17章1節)、「永遠の神」(21章33節)がなされることとは思えなかったので、彼の信仰は揺さぶられました。また、アブラハムとイサクは、説明がつかない、納得できないことに逃げ出したいとの思いをもって、「その場所」(4節、9節)に立ったのです。二人のうちどちらが欠けても成り立たない神の計画の中で、二人は一緒に歩き続けたのです。
聖書は、神を信じていても試みに出会うことを否定していません。むしろ、そうした経験の必要と尊さを明らかにしています。試みは、「いろいろな試練」とあるように、その種類は一様ではありませんし、それを通して信仰が本物とされ、忍耐という品性が与えられ、成長させてくださる大きな喜びなのです(ヤコブ1章2~4節)。

2.神を信じる信仰をもって
アブラハムは全能の神を信じ信頼していました(5節、8節、9~10節)。神の呼びかけに「はい」と答えて、神の御手の中に留まり続けました(1節、11節)。
イサクは、この父と同じ信仰に立っていました。二人を結びつけていたものは、全てを備えてくださる神を信じる信仰であり、父の信仰に子が従い、この信仰に父が励まされています。そんな彼らを神は見守り、導き備えられたのです(14節)。
私たちは、互いが神を信頼しながら(イザヤ30章15節)、親子、夫婦、兄弟、そして教会員のお互い、また伝道者と信徒などの関わりの中で、「二人は一緒に歩いて行った」との歩みを続けることが求められています。そこにこそ、神の祝福の御業がなされていくのです(16~18節)。

喜びにも、悲しみにも(2009.5.10)

題   : 「喜びにも、悲しみにも」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  18章9節~15節
アブラハムとサラ夫妻は、神の召しを受けて、未見未知のカナンの地に旅立ちました(創世記12章1~5節)。その時から、妻サラは、呟くことなく、夫に従って行きました。この出発は、彼女の生涯にどのような信仰をもたらしたでしょうか。

1.神の真実への信仰
サラは、不妊の女でしたが(創世記11章30節)、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ロ-マ4章⒘節)を信じる必要がありました。ところが、彼女は、神の時が待ちきれず、女奴隷ハガルを夫にすすめるという不信仰の行動を取ったのです。その実は、嫉妬と憎しみが渦巻く家庭のトラブルを刈り取ることとなりました(創世記16章)。
しかし、神は、約束どおりサラに祝福を与えられました。神は、ご自身の使者を通して彼女に懐妊したことを知らせ(同18章13~15節)、約束の子イサクを与えられたのです(同21章1~8節)。
こうして、信仰の弱いサラは、悔い改めて、神は約束されたことは必ず成し遂げられる「真実な方」であるとの信仰に飛躍したのです(ヘブライ11章11節)。神の真実が最大限に現されたのは、イエス・キリストの十字架です。私たちは、いかなる時にも十字架を仰ぎ、神の真実に対する信仰を貫くことが必要です。

2.従順の信仰
アブラハムとサラ夫妻の最大の試練は、最愛の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との神の命令でした(創世記22章)。アブラハムは、自らも納得できないことでしたし、他者に説明することはとうていできないことでした。しかし、彼は、神の命じられることに従ったのです。また、「サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3章6節)。
彼女は、喜びにも、悲しみにも、神に従順な夫の行く所どこまでも従ったのです。このサラの強い感化が、神を畏れ、父母に仕える従順の子イサクを生み出したと言えるでしょう。
主イエスは、「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5章8節)。まして私たちが従順を学び続けることは、当然のことなのです。

慰めの源(2008.11.9)

題   : 「慰めの源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  5章28節~32節
私たちは、神に愛されて、かけがえのない価値ある一人ひとりとして造られました。それゆえに、私たちは神からの慰めをいただき続けています。
さて、神と共に歩み続けたエノクから三代目のノアは、慰めの子でした。彼の生涯から語られる神のメッセ-ジを、私たちは開かれた心をもって聴きたいものです。

1.慰めの源となってこそ
人間の苦しい労苦に対して、ノアは慰めを与える者となっています。時代が堕落し、不法に満ちていましたが(6章11~12節)、ノアは神に従う正しい人であって、神と共に歩んでいました(同9節)。
そして、すべて神に命じられることに、信仰によって従いました。その結果、彼とその家族が洪水の中から救われたのです(6~8章)。こうした神のみわざとノア自身の信仰は、人々の大きな慰めとなったのです。
苦労の多い中で、神に祝福され、救われ、それが受け継がれていくこと、そしてこの救いの祝福が広がり、世界の果てまで広がっていくことほど、私たちにとって慰めはありません。
確信に満ちたパウロのことばに、「・・・あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(2コリント1章4節)とありますが、素直に苦しみを分かち合うときに、真に慰め合うことができるのです(同6~7節)。互いに、慰めの源とならせていただきましょう。

2.主なる神に慰められてこそ
旧約聖書全体を通して用いられる「慰める」ということばは、様々の意味に用いられています。単に、悲しみが慰められたという意味ではなく、「悲しむ」「悔いる」という内容をもっています。すなわち、自分の罪深さに悲しみ、その罪を悔い改めたときに、その人の内に神が与えてくださるのが慰めです。
主イエスご自身は、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)と語られました。一人ひとりが主イエスの十字架に直面することによって、真の慰めに与ることができるのです。それによって、キリストの復活の力が内に湧いてくるのです。こうして、今日の私たちも、「この子は慰めてくれるであろう」との祝福を受け継いでいるのです。

これで充分です(2008.8.24)

題   : 「これで充分です」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 5章21節~24節、ヘブライ11章5~6節
「アダムの系図」は、神によって創造され、罪を犯して堕落したアダムとその子孫がどのようになっていったかを示す記録です。そして、罪のゆえの死の現実に直面しつつも、神の祝福を受けながら、神と共に歩むことで充分であることを証しているのが「エノク」です。

1.空しさを克服されているゆえに
アダムから始まる系図は、アダムの生涯のパタ-ンである「もうけた、生き、死んだ」を繰り返しています。アダムが神のことばに背いた結果、死が人類を支配するようになりました。死とは、もともと分離を意味しており、それには神との交わりからの分離(霊的死)、人間の交わりからの分離(肉体の死)、神の国からの分離(永遠の)があります。
しかし、エノクは、「神がとられたのでいなくなった」(創世記5章24節)、「死を経験しないように、天に移されました」(ヘブライ11章5節)という、死という空しさを克服していただいた充足ある歩みをしました。
これは、キリストの救いのゆえに、神のものとされた者の充分さでもあります。

2.主の臨在を自覚しているゆえに
なぜ、エノクは、65歳になったときに「神と共に歩み」だしたのでしょうか。その時から、彼には、来るべき神の裁きが見えていたからです(ユダの手紙14~15節)。
「こうして彼の目は不朽の国に向かい、彼の歩みは地を離れて引き上げられ、地にあって天の生活を営む三百年、神と共に歩む生涯に入れられた」(澤村五郎)のです。何かと言えば、口実を設けて神から遠ざかるのが人間の常である中で、いかなる時も神の臨在の中を歩むことが、人間の積極的な生き方です。
このように「信仰によって」生きたエノクを、神はどれほど「喜ばれ」たことでしょう(ヘブライ11章5~6節)。この先将来、どのように導かれるか分からなくても、どなたがご一緒であるかを知る信仰者は、それだけで充分です。
「共にいるのは、わたしだ」と言われる主は、「それを自分のものにするのは、あなただ」と招いておられます。

礼拝の回復(2008.7.27)

題   : 「礼拝の回復」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記4章1~16節
聖書全体は、礼拝をささげる願望で貫かれています。したがって、今日の私たちにとっては、礼拝を中心とした信仰者生活の確立こそが急務です。
ただし、本日の聖書箇所にあるように、問題は礼拝の破れにあり、真の礼拝の再建こそが神の民の根本課題です。

1.礼拝の破れはどこから  1~8節
カインもアベルも共に神を知り、神に礼拝をささげる生活をしていました。両者のささげ物の種類に問題があったのではなくて、「信仰によって」ささげられているかを神は見ておられます(ヘブライ11章4節)。
目を留められたアベルに対して、目を留められなかったカインは妬み、それが原因で神に反発して怒りを起こしています。それは罪の支配に服従することとなり、兄が弟を殺すという悲劇を生んだのです。
人々が主イエスを十字架に引き渡したのは、妬みからでした(マタイ27章18節)。妬みは、人間の罪の核心部分にあり、共に祈り合い、愛し合い、助け合い、建て上げ合うことをさせません。それが、共に神の前に礼拝をささげることを妨げるものなのです(ガラテヤ5章26節)。

2.礼拝の再建は誰によって  9~16節
主なる神は、カインを見捨てることなく、なおも彼が悔い改めに至り、自分から罪を告白するように促しておられます。それに応答しないカインに対し審きを語られる神は、それでもカインを顧み、どこまでも立ち返る道備えをしておられます。それはまるで、裏切ったイスカリオテのユダに悔い改めと神の救いに招かれる主イエスが、「友よ」と呼びかけておられることに通じます(マタイ26章50節)。
私たちは、主なる神の「どこにいるのか」との問いかけに応答する礼拝者とされ(3章8節)、さらに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」との問いかけに応答して、隣人を顧みる礼拝者となるよう招かれています。主イエス・キリストの十字架による神との関係の回復が与えられ、あわせて人との関係の回復が与えられる礼拝者となりましょう。

「なぜ」を大切に

題   : 「なぜ」を大切に               宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 3章1節~15節
人間は、「なぜ、人は死を恐れるのか」とか「どうして人は、こうも残酷になれるのか」と、様々に「なぜ」を問い続けることにより成長します。
そうした中で、誰もが神の前に、真剣に「なぜ」と問いかけなければならないものがあり、それは人類の最初からの問いかけでした。

1.なぜ、人間は罪人なのか  1~7節
神によって造られた人間は、神が命じられたことに従う中に本当の自由があり、祝福があることをすでに知っていました(2章16~17節)。
ところが、狡猾なサタンは、神のことばを歪めて疑わせ(1節)、神のことばを全面的に否定しました(4節)。そのようにして、神の愛と真実を疑わせて、自分の奴隷・罪の奴隷にしようとしたのです(5節)。それに対して人間は、神のことばを曖昧にし、付け加え、割り引きして誘惑に陥ったのでした(3、6節)。
その結果、人間は、自分中心の見方をするようになり、自分をそのまま受け入れることができないものとなり、神に対しても、人に対しても、自分自身に対しても取り繕い、罪を隠そうとして、自分で正当化するようになったのです(7節)。
人間は、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。

2.なぜ、神は罪人を招かれるのか  8~15節
神は、そんな人間に対して、「何をしたか」ではなく「どこにいるか」と語りかけられました(9節)。その招きに対して、人間はどこまでも身を隠し、さばきを恐れて逃げようとしました(10節)。悔い改めを促される神に対して(11節)、男は女に責任転嫁し、あげくは神に責任転嫁しています(12節)。そして、女はサタンに責任転嫁をする始末でした(13節)。
神は、人類が神に背いた直後から、救いの道を備えられました(15節)。その救いの極みとして、主イエスが十字架上で叫ばれた祈りがあります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)であり、ここに、本来捨てられて当然の私たちに代わって、本来捨てられる必要のない主イエスが捨てられてくださったという救いがあります。この招きに真実に応答するのみです。

人間になる(2008.5.18)

題   : 「人間になる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 2章1節~25節
ここでは、「神にかたどって創造された」(1章27節)人間について、別の視点から描いています。主なる神の方からの愛と真実をもっての語りかけや働きかけに対して、人間の側からは信頼と服従をもって応答していくことが強調されています。
単に人間であること以上に、本来の人間になることの大切さを教えているのです。

1.主なる神に向かって生きるようになる  4~17節
人間は、もともと顔を上に向けて生きるように造られました。すなわち、神に向かって生きる者なのです。
主なる神は、朽ちていく土の塵で形づくられた人間を、神の霊を吹き入れていのちある尊いものとされました。そして、楽しみと喜びに溢れた「エデンの園」を備えてくださり、そこを正しく治めるように人間に託され、その祝福が世界中に及ぶようにされたのです。ただし、何が善で何が悪かとの基準を決めることができるのは神のみであり、それに人間が従って生きることが永遠の祝福となるのです。
私たちは、この神に向かって生きる人間になるように、主なる神から招かれているのです。

2.愛が分かち合えるようになる  18~25節
人間が人間らしくなるのは、人と人の間を大切にして生きることです。そこで主なる神は、お互いに神に向かい合い、お互いが向かい合い、お互いが同じ方向に向かって使命に生きることのできる「彼に合う」ふさわしい者を造られました。
そこには、主なる神の愛の配慮がありました。一つには、神の被造物に人が名をつけるという作業を通して、人を助ける者を見い出すことができるようにしておられます。もう一つには、神は人を助ける者を造られるのに、愛の源である人の「あばら骨」を取り出して造られました。互いに愛を分かち合うことができるためでした。こうして、父母を離れて男女が結ばれるのは、互いに自立した者として、互いに自分自身を相手に与えていくことにあったのです。
愛が分かち合える人間になれるように、その原点に立ち返らせてくださるのがイエス・キリストであり、その救いのみわざです。

初めに神が(2008.4.20)

題   : 「初めに神が」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 1章1節~31節
神のことばである聖書は、壮大な創造の記事が最初に記され、その創造は『初めに、神は』という力強いことばをもって始まっています。そこには、「どなたが」創造されたかを宣言し、「どのように」創造がなされたかについては多くを語っていません。

1.愛によって創造された  1~26節
『神は創造された』『神は言われた』『神は良しとされた』『神は呼ばれた』『神は造られた』とあるように、全ての存在と出来事の源は、創造主である神ご自身です。そして、神が言われたとおりに事がドラマの展開を見るように成し遂げられています。そこでは、神の霊が闇に光を与え、形のないところに命を与えています。
神の創造のみわざは、秩序正しく神の愛によってなされ、最後に創造の冠である人間を創造されました。ここから私たちの一日を、一週を、人生の様々な事柄をスタ―トさせるなら、私たちは神中心の在り方や生き方をすることができるのです。そして、私たちが神の意志にもとづいて生きることによってのみ、自らの人生の意味を見いだすことができるのです。

2.愛の交わりに生きるように創造された  26~31節
神は威厳と無限の力をお持ちで、私たちが畏れかしこむべきお方です。私たちは、この神との愛の交わりがもてる人格あるものとして、さらに責任をもって神に正しく応答できるものとして造られました。同時に、神は私たちを祝福して、この世界を正しく管理し指導する権限を私たちに委託されました。
そして、全ての創造が終ったとき、神は『見よ、それは極めて良かった』と、造られた私たち一人ひとりに名指しで語っておられます。どんなに憂い、つまずき、痛み、ほころび、罪と汚れがあっても、救い主イエス・キリストによる救いの道が開かれているゆえに、私たちを根底から支えていてくださるのです。
創造主である神は、愛ゆえに造り変え、愛の交わりの中に生かし続けてくださいます。それに対して、私たちが心からの感謝を言い表すことを、神は最高の喜びとされるのです。