日別アーカイブ: 2009.06.21

二人は一緒に(2009.6.21)

題   : 「二人は一緒に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  22章1節~14節
アブラハムは、愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と神から命じられました。これは、アブラハムにとって大きな信仰の危機でしたが、そこから逃げることなく、命じられた場所に向かって「二人は一緒に歩いて行った」(6節、8節)のです。

1.試みの中において
アブラハムにとっては、全てが順調にいっている時に与えられた試みでした。それは、「全能の神」であり(17章1節)、「永遠の神」(21章33節)がなされることとは思えなかったので、彼の信仰は揺さぶられました。また、アブラハムとイサクは、説明がつかない、納得できないことに逃げ出したいとの思いをもって、「その場所」(4節、9節)に立ったのです。二人のうちどちらが欠けても成り立たない神の計画の中で、二人は一緒に歩き続けたのです。
聖書は、神を信じていても試みに出会うことを否定していません。むしろ、そうした経験の必要と尊さを明らかにしています。試みは、「いろいろな試練」とあるように、その種類は一様ではありませんし、それを通して信仰が本物とされ、忍耐という品性が与えられ、成長させてくださる大きな喜びなのです(ヤコブ1章2~4節)。

2.神を信じる信仰をもって
アブラハムは全能の神を信じ信頼していました(5節、8節、9~10節)。神の呼びかけに「はい」と答えて、神の御手の中に留まり続けました(1節、11節)。
イサクは、この父と同じ信仰に立っていました。二人を結びつけていたものは、全てを備えてくださる神を信じる信仰であり、父の信仰に子が従い、この信仰に父が励まされています。そんな彼らを神は見守り、導き備えられたのです(14節)。
私たちは、互いが神を信頼しながら(イザヤ30章15節)、親子、夫婦、兄弟、そして教会員のお互い、また伝道者と信徒などの関わりの中で、「二人は一緒に歩いて行った」との歩みを続けることが求められています。そこにこそ、神の祝福の御業がなされていくのです(16~18節)。