出エジプト」カテゴリーアーカイブ

この日を正月としなさい(2016.1.24)

宣教題  「この日を正月としなさい」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  出エジプト12章1~14節 2コリント5章17節

聖書に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)とありますが、この時はイスラエルの民の歴史にとって、転機的な時であり、新たな歩みが始まった時でした。
それは、私たちが神の子として自覚的な誕生をし、そこから新たな歩みをすることがいかに大切であるかを語っています。

1.イスラエルの正月とは
イスラエルにとってこの転機的な出来事は、二つの意味がありました。一つは、エジプトに住む家畜をも含むあらゆる初子を撃つという神の審きがなされるに際して、屠った小羊の血を取って家の柱と鴨居に塗っておけば審きが過ぎ越すということでした(6~7節)。もう一つは、酵母を入れないパンと苦菜を添えて屠られた小羊の肉を食べたイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から解放され、身軽になってそこから旅人として新たな出発したことでした(11~12節)。このようにして、新生イスラエルの歴史が始まったのです。
この神の御業には、大切なメッセージが語られています。神が血を見られられたことにより、神は過ぎ越されるという救いをなされたことです(13節)。

2.あなたの正月は
すべての人は罪を犯しているので、神の審きを受けなければならなくなりました(ローマ3章23節)。そこから逃れる道は、ただ一つです。私たちの身代わりとして十字架に血を流して死んでくださった神の小羊であるキリストを信じることです(ローマ3章24~25節)。神は、このキリストの血を見られ、神の前に悔い改めてキリストご自身を信じる者を救われるのです。ここから神が備えていてくださる新しい歩みが始めまるのです。
キリストを信じるとは、「キリストと結ばれる人はだれでも」とあるように(2コリント5章17節)、キリストを信頼し、キリストと命の結びつきをもつことです。それによって初めて、新しく造り変えられた人生の正月がおとずれるのです。私たち一人ひとりは、それを「この日」にさせていただきましょう。

あわれみの王である神(2014.11.30)

題   :「あわれみの王である神」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖書  : 出エジプト34章1~9節 ローマ5章8節

王である神が私たちのところに来られることを覚える季節がアドベントである。それでは、頑なな私たちのところに来て、共に歩まれる王とはどのような方なのだろうか。

1.力ある王
出エジプト記に登場するイスラエルの神である主は、巨大国エジプトの王であるファラオと戦われ、その軍隊に完全な勝利を取られた、力ある神である。しかし、頑ななイスラエルは、王である神が守るようにと伝えたことばに従わず、結果的に、神はイスラエルの敵となられた(32章)。イスラエルはかつてのエジプトの立場に置かれ、主はイスラエルと共に歩まないと言い切った(33:1?3)。しかし、モーセは、主が民と共に歩むことなしに、民はその使命を果たせないことを知っていたので、主がモーセ自身、そしてイスラエルの民と共に行くことを求め(33:15~16)、そのことの保証として、「あなたの栄光をお示しください」(33:18)、つまり神の本性を現してくださるように求めた。

2.あわれみの王
一人でシナイの山に上ったモーセ(34:1?4)に主は「主の御名」(34:5)を示された。イスラエルの信仰告白ともいえる34:6-7に主の姿が見事に描かれている。二つの特徴がある。まず、王である神はあわれみ深く、ゆるされる方。頑ななイスラエルに耐え忍び、彼らの罪と背きと過ちという重荷をすぐに罰することはない。むしろご自身がその重荷を負い、それをゆるす。もう一つの特徴は、王である神は罰すべき者を必ず罰する方。頑なであることが生む罪の責任を神は問われる。この二つの特徴のゆえに、あわれみと公平な神は信頼に足るお方である。そして、この神のゆえに、希望がなくなることはない。頑なな罪人、神の敵のためにも道を開いて下さったのがイスラエルの神であり、クリスマスにその誕生を祝うイエスである(ローマ5:8)。
イエスがあわれみの王であるからこそ、頑なな私たちも神の民として継続して歩むことができる。そして、頑なな私たちも変えられ、「主の嗣業」(34:9)となる使命を果たすようになる。他とは異なる、特別な存在として、あわれみの王イエスを証し続ける者へと変えられる。

神にあがなわれた民(2012.1.29)

宣教題  : 「神にあがなわれた民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト 6章2節~9節、コロサイ1章13~14節

エジプトで奴隷として重労働の下に置かれていたイスラエルの民がどれほど努力しても、自分たちを王パロの支配の下から救い出すことはできませんでした。しかし、主が彼らを救い出したことによって(6章6節)、彼らは主の民となりました(6章7節)。この主の働きを「贖(あがな)い」と呼んでいます。

1.イスラエルをあがなわれた主
旧約聖書においては、大家族のひとりが、他のメンバーの利益のために犠牲を払ってする行動を「贖い」と呼びます。家族の借金を支払いきったり(レビ25章)、兄弟の名前を残したりする行為です(ルツ記)。つまり、主は、イスラエルの父祖との契約によって彼らの「父・神」となられたからこそ、犠牲を払ってまでもエジプトの手からイスラエルを救われたのです(出エジプト6章4~5節)。
さらに、強制労働を課し、子どもを殺し、主を礼拝することをゆるさないエジプトに勝たれた主は、罪の力からイスラエルを解放しました(6章6節)。主の勝利は、イスラエル自身の罪に対してではなく、エジプトの罪に対するものです。そして、「あながわれた」イスラエルは、王である主の支配下に置かれました。

2.御子によるあがない
御子キリストの十字架によって神はあがないをなして下さいました(コロサイ1章14節)。ですから、十字架は、父である神がわたしたちのために払われた大きな犠牲です。さらに、闇の力である罪に勝利されることによって、その奴隷であったわたしたちをあらゆる点において解放し、御子の支配下へと移して下さいました(1章13節)。このようにして出エジプトをモデルとする、十字架による勝利のわざ、あがないを喜んで受け入れた私たちは、今度は主にならうべきです。闇の力の支配下にある人を解放する主のわざの一翼を担わせていただきましょう。

神の教育(2011.11.13)

宣教題  : 「神の教育」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト 2章11節~15節、ヘブライ11章24~27節
愛の神が、人間が生きる社会に働かれるとき、必ず贖われた人を神の器として用いられます。そのために、神の最大の関心事は、神の器の教育です。そこでは、神が人をどのように取り扱われるかが中心のテーマとなります。今回は、モ-セの生涯の第一の転機とも言える出来事から学びます。

1.神の民であることを選び続ける
モ-セは、ヘブライ人の母親から、創造者であり歴史を導かれる神を信じる信仰を受け継ぎ、エジプトの王女に引き取られてからは、そこでの最高の教育を受けました(使徒言行録7章22節)。彼が40歳になった時に、同胞のヘブライ人をかえりみる心が起こされ(同7章23節)、エジプト人から同胞を助けました(出エジプト2章11~14節)。
この事件を通して、モ-セはエジプトの富と栄誉よりも、神の民と共に苦しみとあざけりを受けることを選び取ったのです(ヘブライ11章24~26節)。彼は、神から与えられる報いに目を向けつつ、信仰によって神を仰ぎ見つつ耐え忍んだのでした(同11章27節)。
このように、神に選ばれた人生を選んでいくことは、見栄えのする華やかな生活、また楽な人生を追及することではなくて、たとえ試練があっても神が備えてくださったところに踏みとどまることです。それを通して、神からの使命が明らかになるのです。

2.神の民をむなしくする
モ-セが神に用いられるためには、さらなる神の高等教育へと導かれる必要がありました。彼は、ミディアンの地に逃れて、再起の機会を伺っていたことでしょう。しかし、彼の荒野での40年は、自己過信や傲慢や衝動的な性格が聖別され、孤独と失意を通して神の助けを求め、神に信頼して委ねる信仰のレッスンを学ぶ時となったのです。このことを通して、モ-セは自分のうちに、もはや何の信頼も持つことができなくなったのです。
この世の教育は人を偉大にしますが、神の教育は人をむなしくします。神は、神の民をむなしくすることにより、造り上げていかれるのです。

主に新しい歌を(2011.7.10)

宣教題  : 「主に新しい歌を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト  15章20節~21節
私たちは、普段から多くの賛美を歌っています。出エジプトに際してささげられた賛美は、聖書に登場する最初の賛美です(15章1~21節)。そこには、変わることのない賛美のスピリットが明らかにされています。

1.主に向かって
神の民は、今にもエジプトの軍隊に滅ぼされようかというところから、神の御手によって奇跡的に救われました。神の民もミリアムたちも、その「主に向かって」歌っています(1節、21節)。
当たり前のことですが、私たちは、讃美歌という歌をただ歌うというのではありません。賛美は主にささげられるものなのです。聖霊に満たされて、主に向かって心からほめ歌うのです(エフェソ5章18~19節)。

2.主の救いを感謝して
「女預言者」と言われたミリアムは、神のみこころを人々に伝えた人でした。彼女は、弟モ-セが用いられて「主は大いなる威光を現し」と、出エジプトという主の大いなる救いを感謝しています。
賛美は、敵に追い詰められた崖っぷちのイスラエルのように、罪のために滅びるべきであった私たちに注がれた神の愛と、救い主イエス・キリストの十字架と復活の救いを感謝して歌うことなのです。

3.主の御前に謙って
この神の民の賛美のスピリットは長続きしませんでした。荒野に導かれた彼らは、不信仰に陥り不平を述べています(16章2節)。また、ミリアムとアロンは、神が立てられた指導者モ-セに対する嫉妬と高ぶりを抱いて、主に賛美をささげることを忘れてしまいました。その後、彼らは悔い砕けた心を与えられ、回復の恵みにあずかりました(民数記12章1~16節、ミカ書6章4節)。
キリストの謙遜が、私たちの救いです。そしてキリストの救いが、私たちを謙遜に導きます。そこには、絶えることのない主への新しい賛美があります。

祭司の王国という使命(2011.5.22)

宣教題  : 「祭司の王国という使命」   宣教:     鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト記 19章1節~9節
なぜ、神はイスラエルをエジプトの手から救い出され、神の声に従うという型に生きることを求められたのか。それはイスラエルが「祭司の王国、聖なる国民となる」(19:6)ためである。「聖なる国民」とは神の所有の民(19:4)を、さらに神の声に従う生き方をする民(19:5)を表している。それでは「祭司の王国」とはどのような姿だろうか。

1.神を王とする
エジプトの王ファラオの支配下にあったイスラエルは、出エジプトを通してその父祖の神、天地の創造者である主を王とする民となった。教会は、この世を愛され、イエスを送られた方の支配下に生きる、神の王国の民である。しかし、キリスト者もこの神以外の何ものかの支配下に生きることがある。主が王となり、その王国に歩み続けない限り、キリスト者はイスラエルと同じ失敗を繰り返す(32章)。

2.祭司たちの群
祭司は、イスラエルとその神である主の間に立って主の祝福を取りなすために選ばれた人々である(民数6:23−27)。しかし、祭司が主の声に聞き従わなかった時、主は彼らを罰する(レビ10章)。そして、主の祝福は民には届かない。教会は神の祝福をこの世に取りなす祭司として立てられている。祝福となって地上の民を祝福するという約束(創世12:3)は、教会が主に従い続けることを通して実現する。
しかし、キリスト者がひとりぼっちでいるならば、この使命を果たすことはできない。「祭司たち」とあるように、お互いを助け、支え合う群だからこそ使命を果たすことができるのだ。霊の導きに従って歩み、霊の実を結ぶ命令は、個人ではなく教会に向けて語られ(ガラテヤ5:16)、お互いの間での挑み合いを禁じていることからも(同5:26)、支え合うお互いが教会の使命の完遂のために必須であることは明らかだ。

母よ、子よ(2011.5.8)

宣教題  : 「母よ、子よ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト2章1節~10節 、ヘブライ11章23節
人は、愛されることによって安息を覚え、愛することによって満足を知ります。母と子の間において、愛され、愛することが培われていく信仰について、モ-セの母であるヨケベド(民数記26章59節)の信仰から学ぶことにします。

1.神に委ねる
エジプトで苦役を強いられたイスラエルの民は、団結力が強くなり、ますます数が増え広がっていきました(1章1~14節)。それに恐れをなしたエジプト王は、ヘブライ人で生まれた男の子はナイル川に放り込んで殺すように命じました(1章15~22節)。ここに、イスラエルの民の精神的・生命的な苦悩と危機は極限に達しました。
そのようなただ中に、後のイスラエルの解放者モ-セが誕生したのです。この苦悩の期間、彼の両親を支えたのは、神への「信仰によって」でした(ヘブライ11章23節)。神に自分たちの子を委ねるという道を選んだのです(2章1~3節)。このように「信仰によって」神の御手に委ねることは、私たちにとっては信仰の学課なのです。

2.神から託されている 
ヨケベドは、母親としての自然の感情と戦いながら、長女ミリアムに弟のモ-セを見守らせています。母親は、長女の機転によって再び自分の子を腕に抱き、乳を与えて育てることが許されました。彼女は、子どもが乳離れするまで、生ける神を教え、祈りつつ育てたのです(2章4~10節)。このことが、後にモ-セが神の民の救出に用いられる伏線となったのです(ヘブライ11章24~25節)。このようにしてヨケベドは、神がモ-セを自分に託して養育するようにされたとの信仰が確立されていったのです。
私たちは、全てのものを神から依託されていると信じる信仰に生きることが大切です。主イエス・キリストを信じる信仰を持っているということと、その信仰によって生きるということが同じでありたいものです。

主の宝の民となる(2011.4.7)

宣教題  : 「主の宝の民となる」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト記    19章1節~9節
主がなして下さった罪からの解放のわざを経験し続けることこそ、主と共に歩むキリスト者生涯の「型」に欠くことができない土台である。解放された民は、主の宝となる道を進む。

1.主の宝の民となる条件
主の宝の民となるための条件は、主の声に聞き従い、その契約を守ることである(19章5節)。これはその生き方において、これまでとは異なる、新しい型を学ぶことを意味する。意識的に選ばなくても、難しい訓練をしなくても、ガラテヤ5章19~21節に描かれている肉のわざを行うことができる。しかし、主の所有とされたキリスト者は、ガラテヤ5章22~23節に描かれている聖霊の実という「新しい型」を学ぶように招かれている。意識的に選びつづける訓練なしに、新しいこの型を身につけることはできない。
なぜ、このような型を学び、訓練する必要があるのだろうか。それは、主ご自身が「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」をもってご自身が創造された世界に関わり続けておられるからである。武道の型と同様に、主が働かれるその動線に従って、主の民はこの世界でからだを動かす。その結果、宝の民として主の働きに参加するという召命(19章5節)に応えることができるのだ。

2.律法主義?
この条件はいわゆる「律法主義」だろうか。そうではない。主が罪の奴隷から解放して下さっためぐみが私たちの内なるものを変え、それゆえに、聖霊の実という新しい生き方の型が私たちのからだに生み出されていく。あれができなかった、という減点主義で恐れおののく必要はない。解放という主のめぐみに応えて、喜んで、新しい生き方の型を選び続け、前にからだを伸ばすべきだ。
生き方の新しい型を選び続けていくとき、主の所有物であるこの全世界のまん中で主のわざに参加している、主の宝の民と成長する。きよめの生涯の成長をここに見いだすことができる。

鷲の翼に乗せられて(2011.3.27)

宣教題  : 「鷲の翼に乗せられて」   宣教:   鎌野 直人師
聖    書  : 出エジプト記   19章1節~9節
武道に「型」があるように、神と共なるキリスト者の歩みにもふさわしい「型」が存在する。この型は私たちを縛らず、神の導きに従って私たちが歩む事ができるようにする。旧約聖書と新約聖書で一貫し、その原型は出エジプト記19:4~6に描かれており、キリスト者生涯の過去、現在、将来をそこに見いだすことができる。キリスト者が覚えるべき過去について19:4から考えてみたい。

1. 主のもとに連れてこられる
シナイ山のふもとにイスラエルの民が連れて来られる(19:1)までに、様々なことが起こっている。主の召命によってパレスチナに来た父祖たちが、摂理の中でエジプトに導かれ、そこでパロの奴隷となってしまった。しかし、民の叫びを聞かれた主が、エジプトの王を十のわざわいで打ちのめし、その軍を葦の海での戦いで打ち破った。このようにして、主はエジプトの奴隷からイスラエルを解放した。それだけではなく、イスラエルの民は神のもとに連れて来られた。単に神のそばに来たのではなく、彼らは神の所有の民となった。
大切なことは、私たちを解放して下さり、神のものとされた過去の神のみわざに基づいてキリスト者ひとりびとりがあるという点である。

2.あなたたちは見た
しかし、神のわざが過去の事実では終わってはならない。神のわざを「見た」、すなわち経験することが強調されている。知的なものに止まらない。「君もそこにいたのか」とあるように、神のわざを臨場感をもって自分の体験とすることこそがキリスト者には必須である。
イスラエルの民であるならば五書を読み、まさに出エジプトの神のわざを体験する。キリスト者は福音書を読み、イエスの生涯と十字架と復活を弟子たちと共に目の当たりにする。これを日々体験し続けることのなしに神と共なる歩みはありえない。私たちは神の救いのわざを日々見ているだろうか。

わたし自身が一緒に行く(2008.3.30)

題   : 「わたし自身が一緒に行く」   宣教:   川原崎 晃  牧師
聖書  : 出エジプト記 33章12節~16節
神のものとされた聖徒たちの神に対する積極的な求めであり、人間の魂の最深の要求を満たすものは、主なる神が私たちと共におられて同行されるということです。『わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう』(14節)とは、一人ひとりにとっても、教会にとっても、絶えず立ち続ける信仰の原点です。

1.一緒に行ってくださるお方
この時モ-セは、担い切れない重荷を背負って苦しんでいました。そして、信仰が浅薄で不誠実であった神の民と、その民を審こうとされる神との破れの狭間に立って執り成しています(32章31~32節)。不安と心配で心が押しつぶされそうなモ-セに対して、神が語られたご自身の臨在の約束は、この後控えている荒野での内外の課題や問題に対して、「どなたがご一緒であるか」を確かにしてくださる時でした。
いつも神の御声の聴こえるところ、いつも神の御顔を拝することのできるところ、いつも神の御導きを確信できるところに居り続けたいものです。

2.一緒に行ってくださるなら
『あなたに安息を与えよう』と約束していてくださいます。この安息は、単に心身の疲れをいやすというものではありません。戦いの嵐や悲しみや問題の真っただ中にあっても持ち続けている安息です。
それはちょうど、十字架を前にしたキリストが持っておられた平安です(ヨハネ14章25~31節)。このキリストの平安が与えられることが、キリスト者にとってのかけがえのない遺産です。安息のない臨在信仰はないのです。

3.一緒に行ってくださるために
この主なる神の臨在に対して、私たちの側に一つの条件を求めておられます。『もし、あなたご自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください』(15節)と、神が主権をもって導かれることを第一とすることです。
どんなにすばらしい神からの祝福、成果、幸せをいただいたとしても、私たちの人生に神ご自身がご一緒であり続けてくださることを優先させることです。主の臨在こそ、私たちの人生にとって最も尊いことなのです。

臨在信仰に立つ(2007.1.1)

題  : 「臨在信仰に立つ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : 出エジプト記  33章12節~17節

  主の年の2007年1月1日を迎えました。天地創造以来歴史は積み重ねられ、継承されてきました。しかし2007年という年はまだだれも歩いたものはいません。
 あなたはこの年、この2007年という真っ白なキャンバスにどのような絵、あるいはどのような文字を書こうとしておられますか?
1890年、日本に来られたB・Fバックストン先生が提唱され、1951年7月この神戸中央教会を会場にして開催された日本イエス・キリスト教団創立総会において、初代教団委員長となられた小島伊助先生が引用された「我親ら汝らと偕に往くべし」(出エジプト33:14文語訳)が今年の教会標語として与えられています。
 新しい年、この臨在信仰を確認し、確立させていただきたいと願わされています。

1.道を示される
 モーセは神に、この民を導き上るために道を示してください、と祈りました。わたしたちも信仰生活をするために道を明らかにしてほしいと願います。
 その道とは、イエス・キリストご自身です。今年もまず、わたしたちのために十字架にかかり、罪をゆるし、三日目によみがえって永遠の命を与えてくださったお方様をしっかりと見上げましょう。

2.最高の同行者
 神はモーセに、「わたし自ら同行する」と約束して下さいました。この年、わたしたちは神戸中央教会と共に歩んでくださるお方、また、わたし自身と共に歩んでくださるお方、つまり、いつでも、どこでも共にいてくださる臨在の主を見上げて従いつつ歩ませていただきましょう。

3.選んでくださったお方
 モーセが選ばれたように、わたしたちも神様によって選ばれました。しかもここでは名指しで選んだといっておられます。
 そして臨在してくださるお方が、わたしたちを特別な者としてくださるのです。なんという恵み、なんという感謝ではありませんか。個人において、家庭において、教会のすべての集いにおいて臨在信仰に立ち、臨在信仰で進む一年でありましょう。