新しく造り変えられる人生」タグアーカイブ

新しく造られること(2022.4.3)

聖 書

割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。(ガラテヤ6章15節)

礼拝音源(31.8MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ12章24節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編14編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ6章11〜16節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「新しく造られること」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
4月誕生者祝福 2テモテ2章8節
賛  美 475 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、主イエスの恵みにより、信仰を通して「新しくされ」たときから(ヨハネ3章3節、5節)、「新しく造られる」(15節)恵みの中を生きていきます。これは、信仰者にとって、心して聞かねばならない大切なことです(11節)。

1.十字架を誇りとして生きる  14節
律法主義的なキリスト者たちは、人を恐れることからくる自己保全や自分たちを「誇りたい」との欲望や虚栄心がありました(12~13節)。しかし、十字架と復活によって永遠の救いに与らせてくださるキリストを知った者は(フィリピ3章4~8節)、十字架以外は誇りとしないようになるのです(14節a)。
ですから、この世の評価や価値観と私たちとの間に十字架が立っているなら、この世は私たちを支配しないのです(14節b)。このように、十字架の恵みは、私たちを真に自由な生き方へと変えていくのです。

2.キリストを基準として生きる  16節
「この基準に従って進む人々」は、キリスト信仰に生きる神の民として歩調を合わせ一致を保ちつつ進んでいく教会の姿を表しています。その基準は、キリストの十字架と新しい創造です。私たちにこの基準が明確になっていれば、互いの間に平和と憐れみがともないます(5章13節、6章2節)。
このことが朝ごとの恵みとなるならば(哀歌3章22~23節)、私たちの日々は「新しく造られ」続けていくのです。

自分が変われば(2016.6.26)

宣教題  「自分が変われば」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ2章1~11節、2コリント5章17節

私たちが生活していく上でいちばん難しいことは、人と人との関係と言われます。それを難しくしている原因が、自分を取りまく人や状況にあると思ってしまっていることにあります。私たちは、自分自身を変えることが至難のわざであることを知って、主イエスによって変えられることから始めてみてはどうでしょうか。

1.人生の喜びをもたらされる主
婚礼の席において水がぶどう酒に変えられた奇跡は、主イエスの「最初のしるし」でした。これは、万物を創造されて支配される神にとって、たやすいことでした。それは、泥水から美味しいフルーツの実を結ぶように、神が日常茶飯事に絶え間なく続けておられる奇跡です。
主イエスは、苦しみや失望の時の救い主であるとともに、婚礼のような幸福に満ちた時の救い主でもあられます。私たちは、そのようないかなる時であっても、主イエスを救い主としてお迎えすることにより、人生に喜びをもたらしてくださるように招かれているのです。

2.人の心と生涯を新しくされる主
婚礼の席における主イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」(4節)と言われましたが、後に「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(12章27節)と言われました。この「わたしの時」とは、主イエスが十字架で身代わりの死を遂げくださる時のことでした。それによって主イエスは、人の心と生涯を変えて「新しく創造」してくださったのです。そのためには、一人ひとりが「キリストと結ばれ」、主イエスの中に植え替えられ、根付くことです(2コリント5章17節)。
奇跡と言えば、人の心と生涯が新しくされて変えられることほどに大きな奇跡はありません。そのために、主イエスが十字架にかかられて後に復活されたのです。主イエスに新しく創造され、その奇跡にあずからせていただきましょう。

この日を正月としなさい(2016.1.24)

宣教題  「この日を正月としなさい」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  出エジプト12章1~14節 2コリント5章17節

聖書に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)とありますが、この時はイスラエルの民の歴史にとって、転機的な時であり、新たな歩みが始まった時でした。
それは、私たちが神の子として自覚的な誕生をし、そこから新たな歩みをすることがいかに大切であるかを語っています。

1.イスラエルの正月とは
イスラエルにとってこの転機的な出来事は、二つの意味がありました。一つは、エジプトに住む家畜をも含むあらゆる初子を撃つという神の審きがなされるに際して、屠った小羊の血を取って家の柱と鴨居に塗っておけば審きが過ぎ越すということでした(6~7節)。もう一つは、酵母を入れないパンと苦菜を添えて屠られた小羊の肉を食べたイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から解放され、身軽になってそこから旅人として新たな出発したことでした(11~12節)。このようにして、新生イスラエルの歴史が始まったのです。
この神の御業には、大切なメッセージが語られています。神が血を見られられたことにより、神は過ぎ越されるという救いをなされたことです(13節)。

2.あなたの正月は
すべての人は罪を犯しているので、神の審きを受けなければならなくなりました(ローマ3章23節)。そこから逃れる道は、ただ一つです。私たちの身代わりとして十字架に血を流して死んでくださった神の小羊であるキリストを信じることです(ローマ3章24~25節)。神は、このキリストの血を見られ、神の前に悔い改めてキリストご自身を信じる者を救われるのです。ここから神が備えていてくださる新しい歩みが始めまるのです。
キリストを信じるとは、「キリストと結ばれる人はだれでも」とあるように(2コリント5章17節)、キリストを信頼し、キリストと命の結びつきをもつことです。それによって初めて、新しく造り変えられた人生の正月がおとずれるのです。私たち一人ひとりは、それを「この日」にさせていただきましょう。