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ちいさなちいさなクリスマス(2013.12.15)

宣教題  :「ちいさなちいさなクリスマス」    宣教:鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ルカ 2章10〜12節

「大山鳴動して鼠一匹」。日本のクリスマスはこのことわざに近いかも知れない。

1.クリスマスに起こった小さな出来事
クリスマスに関する出来事の中でも、主のみ使いの登場や博士たちの宝といったきらびやかなことばかりに目がとまる。けれども、クリスマスの中心は一人の男の子の誕生である。母親に授乳されなければ生きていけない一人の男の子の誕生である。大きな喜びだ、と言われた羊飼いたちが見出したのは、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(2:12)にすぎない。どこにでも起こりそうな、小さな事しか起こらなかった。大きな喜び、といわれても現実感がない。だから、それに見向きをしようともしない。

2.小さな事が大きくなる
イエスは「からし種のたとえ」(13:18−19)を語っている。小さな種が、植えられ、育てられた時、鳥が枝に巣を作ることができるくらいの木に成長した、という話である。クリスマスの出来事はからし種のように小さいけれども、やがて、驚くほど大きな何かを生み出す。「民全体のためのすばらしい喜び」(2:10)を生み出す。クリスマスにこの種は植えられ、礼拝に集っているあなたのうちにもこの種は植えられている。

3.期待して待つ
もちろん、小さな種が大きな木になるまでには時間がかかる。イエスの生涯もそうである。クリスマスから30年ほど過ぎたときに、十字架と復活によってイエスの生涯はクライマックスを迎えた。そこで生み出されたのは、弟子たちの小さな群に過ぎなかった。しかし、そんな小さな変化がやがてうねりのような大きな変化となった。そして、神のご支配が世界中へと広がっていった。
イエスは私たちのうちにわざを始めて下さっている。それはあまりにも当たり前で、どこにでもあるようで、気づかないほどの小さな変化かもしれない。すぐに実現する、派手な出来事ばかりを追い求めているならば、そんなイエスのわざを見過ごしてしまう。しかし、小さな変化に気づき、私たちのうちでそれが大きくなるのを待つことが、クリスマスのほんとうの意義を知る者の生き方である。小さな種が大きな木になるのを期待して待つような信仰に生きる者たちに対して、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」のみことばは、真実となる。

鷲の翼に乗せられて(2011.3.27)

宣教題  : 「鷲の翼に乗せられて」   宣教:   鎌野 直人師
聖    書  : 出エジプト記   19章1節~9節
武道に「型」があるように、神と共なるキリスト者の歩みにもふさわしい「型」が存在する。この型は私たちを縛らず、神の導きに従って私たちが歩む事ができるようにする。旧約聖書と新約聖書で一貫し、その原型は出エジプト記19:4~6に描かれており、キリスト者生涯の過去、現在、将来をそこに見いだすことができる。キリスト者が覚えるべき過去について19:4から考えてみたい。

1. 主のもとに連れてこられる
シナイ山のふもとにイスラエルの民が連れて来られる(19:1)までに、様々なことが起こっている。主の召命によってパレスチナに来た父祖たちが、摂理の中でエジプトに導かれ、そこでパロの奴隷となってしまった。しかし、民の叫びを聞かれた主が、エジプトの王を十のわざわいで打ちのめし、その軍を葦の海での戦いで打ち破った。このようにして、主はエジプトの奴隷からイスラエルを解放した。それだけではなく、イスラエルの民は神のもとに連れて来られた。単に神のそばに来たのではなく、彼らは神の所有の民となった。
大切なことは、私たちを解放して下さり、神のものとされた過去の神のみわざに基づいてキリスト者ひとりびとりがあるという点である。

2.あなたたちは見た
しかし、神のわざが過去の事実では終わってはならない。神のわざを「見た」、すなわち経験することが強調されている。知的なものに止まらない。「君もそこにいたのか」とあるように、神のわざを臨場感をもって自分の体験とすることこそがキリスト者には必須である。
イスラエルの民であるならば五書を読み、まさに出エジプトの神のわざを体験する。キリスト者は福音書を読み、イエスの生涯と十字架と復活を弟子たちと共に目の当たりにする。これを日々体験し続けることのなしに神と共なる歩みはありえない。私たちは神の救いのわざを日々見ているだろうか。

驚きの波紋(2008.5.25)

題   : 「驚きの波紋」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章21節~28節
主の弟子たちは、生涯忘れることのできない主イエスとの出会いをして後すぐに、会堂における礼拝を体験しました。
そこにおいて人々は、ひっくり返るほどに心を動かされる驚きと(22節)、聖なるものに触れたときに経験する畏れが伴う驚きをしています(27節) 。

1.キリストの権威あるみことばへの驚き  21~22節
礼拝に集った人々は、主イエスの教えに非常に驚きました。それはまた、将来の教会の指導者となった弟子たちにとって、忘れることのできない礼拝となりました。キリストと共にある礼拝は、心動かす礼拝となるからです。
また、その驚きは、主イエスが語られたみことばに権威があったことによります。それは、語り方に権威があったからというより、神の恵みの支配が及んでいるという語られた内容そのものに権威がありました(1章15節)。
今日の私たちの礼拝が、主と共にある礼拝として、みことばに権威がある礼拝であり、心動かされる驚きを伴った礼拝であるかを問い続けたいものです。

2.キリストの権威あるみわざへの驚き  23~28節
この礼拝の中に、汚れた霊に取りつかれた男がいました。この汚れた霊は、神の恵みの支配に逆らい続ける力であり、人の魂と心と体を不健全で不自由なものにしようと、主イエスの権威あるみわざがなされること拒みます。しかし、主イエスは、この男から汚れた霊を追い出して、彼を解き放たれました。
今日私たちは、恐れる力、悪習慣の力、怒りの力、赦せない力、嫉妬する力、不安の力といった私たちを不自由にしているものに支配されています。主イエスは、そんな私たちに、権威あるみことばとみわざをもって、神の惠みのみわざを成し続けておられます。その畏れ驚くべきキリストのみわざの極致は、汚れた霊の力を打ち破られた十字架であり、復活の力にあります(16章15~17節)。
マルコによる福音書は、宣教文書です。この後、迫害の中を通された教会は、この驚きの波紋の拡がりの中に前進していきました。そして、今日の私たちにまで至っているのです。