第一ペトロ」カテゴリーアーカイブ

主が私の愛を完成してくださる(2019.4.21)

宣教題 「主が私の愛を完成してくださる」 宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ21章15~19節 1ペトロ1章8節

 私たちは、復活されたキリストにお出会いしたペトロ同様に、本気でキリストの愛の中に生きているか、本気でキリストを愛しているかと問われています(15~17節)。ペトロは、この出会いを通して、新しい歩みを始めました。

1.愛を呼び起こされるキリスト 
 ペトロは、キリストとの一番最初の出合いから(ヨハネ1章41~42節)、事あるごとにキリストの愛の招きに応答することを求められました(同13章36~38節)。ところが、キリストの十字架を前にして三度否んだのです(同18章25~27節)。その敗北感に悲しむペトロは、やり直すすべを知りませんでした。
 復活されたキリストは、そんなペトロに「わたしを愛しているか」と三度も呼びかけ、愛を呼び起されました。そして、ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じてす」と応答して信仰の一歩を踏み出しました。彼は、この愛の根拠を自分におくのではなく、全くキリストにおいています。

2.愛の証人として招かれるキリスト 
 あわせてキリストは、「わたしの小羊を飼いなさい」と、愛する人々に心を砕いて労し、その愛の証しを立てるように三度招かれました。それは、ペトロが自分の思いのままにではなく、キリストを愛するゆえに、その御心に生きることを喜び従うことでした(18~19節)。こうして、彼の生き方は変革したのです。

 このキリストの愛の関わりは、ペトロだけが独占するものではありません。復活されたキリストに愛され、キリストを愛する私たちに対しても同じように関わられます(1ペトロ1章8~9節)。キリストが、愛を完成させてくださるのです。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(11.3MB)

この恵みにしっかり立って(2016.8.14)

宣教題  「この恵みにしっかり立って」        宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章12~14節

「クリスチャンとしての立ち位置は」との問いに対して、ペトロが「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」と語っているように、恵みのうちに立ち続けることです。ペトロがここに至るまで、簡潔かつ力強く「勧告をし」「証しし」てきた恵みとは、どういうものなのでしょうか。

1.神の恵みで満ちている
ペトロが、「あなたがたにこのように短く手紙を書き」と言っているのは、「神のまことの恵み」の豊かさを語り尽すことができないほどに、神の恵みは大きく、偉大であるということなのです(12節)。
この手紙には「恵み(カリス)」との言葉が多用されていますが、「神の御心に適う」とも翻訳されており(2章19~20節)、神の恵みの豊かさを表しています。苦しみもまた神の恵みであり、その時にこそ、ひときわ聖霊なる神はクリスチャンに寄り添い、その恵みを自覚させてくださるのです(4章14節)。神の恵みを立ち位置とするゆえに、「信仰にしっかり踏みとどまって」歩むのです(5章9節)。

2.恵みの交わりに生きている
この手紙が結ばれるに際して、神の恵みに共に生きるペトロの協力者が紹介されています(12へ13節)。シルワノ(シラス)は、パウロと労苦を共にする協力者でした(使徒言行録15章40節、16章19節)。彼は、ペトロが「忠実な兄弟と認めて」おり、洗練されたこの手紙を書いたのです。また、失敗経験のあるマルコを再出発させ、「わたしの子マルコ」と呼んでいます。そのマルコが「福音書」を残したのです。
さらに、ローマにあってペトロと共に戦う人々との祈りによる交わりがありました。ペトロ自身は、「互いに」真実な愛と平和(平安)が保たれた交わりを願って祈っています(14節)。その彼を支えていたものは、主イエスの絶えざる執り成しの祈りでした(ルカ22章32節)。私たちは、この祈りの交わりを重んじるのです。

苦難の中で輝く信仰(2016.7.10)

宣教題  「苦難の中で輝く信仰」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章8~11節

聖書は、キリスト信仰を持てば困難や苦しみがなくなるとは言っていません。むしろ、信仰を持ったがゆえの試練があることを教えています。しかし、いかなる中にあっても、神は信じる者を守り、支え、倒れそうになる時に起こされる「力」をお持ちです(5章6節、10~11節)。

1.敵前の生活  8~9節
神の子とされた者が、神の召しに応じて、神の御心に従って歩んでいこうとする時に、そこに絶えず霊的な戦いがあります。神が主であることを見失わせたり、神への信頼を揺さぶらせたり、神が導いておられることを疑わせたりするのです。ですから、身を慎んでいなさい、目を覚ましていなさいと命じています(8節、マタイ26章40~41節参照)。
そして、妥協することなく、逃避の道を選ぶのでもなく、執拗かつ巧妙に挑んでくる「悪魔に抵抗しなさい」と命じているのです。その抵抗の底力となるのが、「信仰にしっかり踏みとどまって」神を信頼することです(9節a)。そこにおいて、信仰の交わりが培われていくのです(9節b、詩編23編5節a参照)。

2.御前の生活  10~11節
そのような敵前の生活にあって、「あらゆる恵みの源である神」の御前の生活を送るのです。恵みの神は、「永遠の栄光」にふさわしく繕って整え、堅く立たせてくださり、強さに満たしてくださり、揺らぐことのないようにしてくださり、恵みの力を体験させてくださるからです(10節)。すべてを計画し、確かな約束を与えてくださる神は、すべてを成し遂げる力を持っておられるのです(11節)。
信仰の目を開いて、苦しみの背後に働く敵を見極めながら、同時に永遠の神の御支配を見つめつつ、私たちの必要を恵みのうちに備えてくださる神に信頼し、期待し、「しばらくの間」の苦しみを乗り越えさせていただくのです。

神の心配(2016.6.12)

宣教題  「神の心配」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章6~7節

信仰者の歩みは、さまざまな試練に悩む中にあっても、主イエスによって「生き生きとした希望」が与えられています(1章3~6節)。そして、いかなる時にも「神の力強い御手の下で」、神が「心にかけて」心配してくださる中を歩み続けるのです。

1.自分を低くしなさい  6節
神は「謙遜な者には恵みをお与えになる」(5章5節)との確かな約束を与えていてくださいます。この約束の根拠の上に「自分を低くしなさい」、すなわち低くされなさいと勧めておられます。そして、低くされる仕方として「なにもかも神にお任せしなさい」と言われています(7節)。
そのように、信仰者が低くされる場は「神の力強い御手の下で」、との信仰の確信に生きることができます。そして、この神の力により、信仰によって守られているゆえに(1章5節)、「かの日には高めていただけ」るとの期待があるのです。この確信と期待をしっかり受けとめることを通して、信仰者の内に「低くされる」との真の謙遜が生まれてくるのです。

2.お任せしなさい  7節
私たちは、こうした確かな約束をいただく中にあって、さまざまな試練の中に身を置くときの思い煩い、また教会の交わりの中での思い煩いがあることを認めざるを得ません。しかし、そこにおいて、神が心配し、配慮して、「心にかけていてくださる」という確かな支えがあるのです。
ですから、さまざまの思い煩いの事柄を自分で背負わないで神に背負っていただき、神の御力の上に丸投げするように委ねることを勧めています。ここに、「低くされる」との真の謙遜があるのです。このように、私たちは、遠慮することなく、また無理に自分の思いを殺すことなく、さまざまな思い煩いを自分だけのものにせず、神の領域に属することとして、神の配慮の内に任せ切ることです。

互いの謙遜(2016.5.8)

宣教題  「互いの謙遜」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章1~5節

キリストの謙遜が私たちの救いとなり、キリストの救いが私たちを謙遜にします。
ペトロ、長老たち、若い人たちを含む信仰者が、「皆互いに謙遜を身に着け」続けているにはどういう霊的備えが必要なのでしょうか。

1.謙遜に人を導くように  1~4節
キリストの十字架の血によって贖われて神のものとされた一人ひとりが、結ばれて「神の羊の群れ」となっているのが教会です。ペトロと共に長老である者たちは、「キリストの受難の証人」であって終末の栄光にあずかる望みに生きていました(1節)。その彼らが、神の羊の群れとしてふさわしく形造り、養い育てるように命じられています(2節a)。また、神の召しに応えて、喜びをもって自発的に群を身守るように命じられています(2節b、ヨハネ21章15~17節参照)。そして、恥ずべき利益を求めることなく、熱く心が燃えていることが求められています(2節c)。
このように、キリストの僕として(ヨハネ13章12~17節参照)、謙遜に人を導くことによって輝いてくるのです(3~4節)。

2.謙遜に人に導かれるように  5節
続けて、「同じように、若い人たちも、長老に従いなさい」と勧めています。若い人たちは、同じように謙遜を身に着けて、キリストとその御言葉に対して、取り次がれる勧めに対して聴き従うことが大切です。人は服従の勧めに対して、最も不服従になりがちです。ですから、繰り返し、謙遜を身に着け続けることを体験的に学び続ける必要があるのです。
このように、導く人も導かれる人もキリストの謙遜によって神の羊とされたのですから、お互いが謙遜を身に着け続けさせていただいていることが大切です。謙遜に人を導く装い、謙遜に人に導かれる装いを身に着けさせていただくことにより、神の羊の群れは生きるのです。

主の真実のゆえに(2016.4.10)

宣教題  「主の真実のゆえに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ4章12~19節

「真実であられる創造主」は、創造されたもの全てを治め、保っておられます。何よりも創造の冠である人間の救いのために、十字架と復活の御業を通して永遠の救いに与らせてくださいました。私たちは、このように真実の限りを尽くしておられる主を見失うことなく、今の現実や苦しみと向き合うことが必要です。

1.苦しみを受ける中で
いろいろな試練の中には、「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練」があります(12節)。このように語られる背後には迫害と殉教の歴史がありますが、今日の私たちとは直接関係のないこととして読み過ごすことはできません。
ここに、「キリストの苦しみにあずかる」(13節)、「キリストの名のために非難される」(14節)、「キリスト者として苦しみを受ける」(16節)、そして「神の御心によって苦しみを受ける」(19節)とあります。いかなる時にも、このように生きることが、キリスト者の生活なのです。この苦しみを受けることが間違っているのでもなければ(12節)、決して恥じることでもありません(16節)。キリストに倣うこととして、幸いなことなのです(マタイ5章10~12節)。真実な主のために担う苦しみは、敗北ではないのです。

2.信仰に生きることを学ぶ
恵みにより神のものとされることによって、今の苦しみは喜びとなり、将来の歓喜の先取りとなります(13節)。聖霊によって励まされ、助けられているからです(14節)。それゆえに、神をあがめ、神に栄光を帰するのです(16節)。そして、真実であられる創造主に自分の魂をゆだね、信頼するのです(19節)。
私たちは、苦しみや試練を経験する様々な状況の中で、神の真実を疑ったり、そうしたことに耐えられるだろうかと思ったりします。しかし、人は、信念で苦しみや試練に耐えることができるのではありません。真実なキリストが戦っていてくださるのですから、このキリストにゆだねて歩み続けるだけなのです。

祈りへの集中(2016.3.13)

宣教題  「祈りへの集中」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ4章7~11節

この手紙は、「万物の終わりが迫っています」(7節)と切迫感がみなぎっています。そこには、キリストの再臨を意識しつつ、祈りを優先させ(7節)、キリストに栄光を帰している教会の姿があります(11節)。このように教会が祈りを集中させることは、何に向き合って生きることが大切なのかを教えています。

1.「終わり」に備えて生きる  7節
ペトロは、御言葉を通して聖霊によって神の時について教えられました(使徒言行録2章16~21節)。そこには、神の永遠の救いの世界が現実のこの世に突入してきたので、人がそこに織り込まれていることを明らかにしています(1ペトロ1章5節)。ですから、万物は永遠ではなく、人間を含めたこの世のすべてのものが、神によって造られ、生かされ、保たれ、締めくくられるのですから、「思慮深く」冷静に見極め、「身を慎んで」目覚め、祈りに向かっていることが大切なのです(マタイ26章36~46節参照)。
この祈りへの集中によって、私たちの信仰の領域は拡げられ、神を知ることが豊かにされ、神への信仰と信頼が確かにされていくのです。

2.キリストにある命を分かち合う 8~11節
祈りへの集中は、相互の分かち合い築き上げていきます。何よりもまず、聖霊によって神の愛を注ぎ続けていただくことにより(ローマ5章5節)、心を込めて、深く愛し合うことを貫き、多くの罪を覆うことをさせていただくのです(8節)。そして、神の愛とキリストの忍耐をいただいて、不平を言うことなくもてなし合うのです(9節)。そのためには、各々が神から与えられているそれぞれの賜物を差し出して、互いに仕え合うのです。神の言葉を語るにはふさわしく、奉仕するにおいても力に応じて、「恵みの善い管理者として」用いさせていただくのです(10~11節ab)。
ただ、これらの分かち合いは、私たちを祈りの場へと追いやっていただくことによって可能となります。そして、キリストの愛と力を覆っていただいていることを讃えるのです(11節cd)。

心の武装を(2016.2.14)

宣教題  「心の武装を」             宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ペトロ4章1~6節

神の御心に喜んでお応えしていこうとする生き方を貫くためには(3章21節)、心の武装をして歩む必要があります。洗礼を受けてからの「残りの生涯」は、付け足しではなく、本番そのものです(2節)。その歩みは、どういうものなのでしょうか。

1.一筋の心を保ちながら  1~2節
「苦しみ」には孤独がつきものです。しかし、私たちには十字架の上に死に、復活されたキリストがおられます。このキリストに結ばれている者は、キリストの苦しみにあずかる特権をいただいているのです。それゆえに、「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と命じられているのです(1節)。同じ心構えとは、父なる神の御心に一切ゆだねきったキリストの柔和と忍耐と従順に倣うことです。
私たちは、神の御心に従うことにおいて、一筋の心を保つことができるのです。それは、私たちの心を裂き、思いを分断する「欲望」に従うことではありません(2節)。十字架の死に至るまで従順であられたキリストを小さく見くびることなく、神の御前に謙り続けるならば、神の御心に従って生きることができるのです。

2.一筋の道を走り抜く  3~6節
キリストに結ばれた者は、やがて生ける者と死ねる者とをさばかれる方を畏れる生き方をします(5節)。彼らがキリストの再臨を前に死を迎えて、それが罪の刑罰としての死のさばきを受けたように見えても、生きている間に福音を聴いて信じているゆえに、キリストにあって永遠に生きる者とされているのです(6節)。
今、キリストに結ばれた者は、「かつて」の自分に戻ることのないように造り変えられたのです(3節)。ですから、かつての乱行に加わるような生き方をするのでなく、新たな価値観をいただいてキリストと共に走り抜き、信仰の戦いをするようになったのです(4節、ヘブライ12章1~2節)。このような一筋の道を走り抜く生き方が、人の心を動かし、キリストを証しすることになるのです。

聖なる主をあがめよ(2016.1.31)

宣教題  「聖なる主をあがめよ」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ペトロ3章13~22節

私たちは、キリスト信仰のゆえに苦難を経験することがあります。しかし、天の御国の視点
に立ってそれを見るならば、キリストと共に勝利する者とされていることを知ります(13~14節)。ですから、恐れたり心乱したりすることなく、「心の中でキリストを主とあがめ」るように勧めているのです(15節a)。それは、どのような信仰の歩みなのでしょうか。

1.希望の弁明  15節b
ペトロは、キリストを主と告白することが「希望」であると言っています。なぜならば、キリストは十字架の苦しみを通して罪の支配下にある者を神のもとに導かれ、その死から復活されて勝利されたからです。そして、復活されたキリストは、昇天されて神の右に着座され、今も変わらずに尊厳と栄光と権威をもってすべてをご支配しておられるからです。人が洗礼に与るのは、このキリストご自身と御業を正しい良心をもって応答することなのです(18~22節)。
私たちは、この与えられた希望について説明を求める人には、「だれでもいつでも」(新改訳聖書)弁明できるように備えておくことが必要です。このようにして、この希望を語り伝え、また見せ、そして一緒に与ることが大切なのです。

2.弁明の態度  16節
弁明するものに求められる姿勢があります。自己主張せずまた尊大ぶらずに「穏やかに」語ることです。神への畏れと「敬意」をもって語ることです。「正しい良心」をもって、自分の生活態度が弁明することと矛盾することのなく生きることです。これらの三つが結ばれるとき、弁明は効果的に働くのです(16節a)。
福音の光は、敵対する人の目と心とを開きます(16節b)。その良い証しが、ステファノです
(使徒言行録7章54~60節)。彼は人々の激しい怒りや憎悪の中にあって、神の栄光と復活のキリストを見ていました。そして、その復活のキリストを証言し弁明しました。そこには、苛立つことなく落ち着いた姿がありました。
同じように私たちは、キリストをきよめてくださる主として心の中にお迎えしましょう。

祝福を受け継ぐため(2015.11.15)

宣教題  「祝福を受け継ぐため」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ3章8~12節

私たちは、神の祝福を受け継いで、それに生かされ、他者に受け継がせるために召されています(9節c)。私たちは、他に何も持っていなくても、このような神の祝福をかけがえのない資産として受け取っているのです。この召しに生きる者は、どういう信仰の歩みをすればよいのでしょうか。

1.交わりを豊かに  8節
この手紙には、これまで様々な苦難の日々に直面していた人々に語られてきましたが(2章11~3章7節)、「終わりに、皆」と要約するように書き送っています。まず、信仰を告白して心を一つにし、共に労苦し、愛し合う兄弟となり、憐れみ深く思いやりを抱き、謙虚に生きる交わりを勧めています。
神の祝福を受け継ぐためには、このような交わりがお互いのあらゆる中に、教会の中に豊かに造られていくことが必要なのです。そうさせていただけるのは、謙遜の限りを尽くして神の愛を現してくださった主イエスの十字架の贖いの恵みに触れ続けることによってです。

2.愛を豊かに  9~12節
神の祝福を受け継ぐために召された者は、幸いな善い日々を見続けて過ごします(10節)。喜びの日、悲しみの日、楽しみの日、苦しみの日といかなる日々であってもこのように過ごすのです。これこそ、信仰の急所に触れる生き方です。
このような祝福を受け継ぐ者は、「善を行い」幸せを造り出す生き方をします。すなわち、悪に対しては、「祝福を祈り」(9節)、祝福の言葉を語り(10節)、祝福をもって報いることに徹するのです(11節)。
そのような祝福に生きるためには、贖い主イエスの愛に立ち帰り続けることが大切です(2章21~25節)。愛の主イエスのまなざし、祈りを聞いていてくださる主の耳、主の御顔を日々に自覚しながら過ごす者は幸いです(12節)。

力あるあかし(2015.10.18)

宣教題  「力あるあかし」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ3章1~7節

イエス・キリストの救いの福音は、私たちの生活と関係があり、その日常生活の中に現れてきます。ここでは、妻と夫のことが語られていますが、「同じように」(1節、7節)とあるように、あらゆる立場の信仰者に示されている生き方でもあります。信仰が生活化されているのを「見る」ことを通して、力強いあかしとなるのです。

1.感化力をもって  1~6節
妻が夫に従うことを通して、夫が信仰に導かれて救われる、また信仰が回復される場合のことを語っています。そのために、妻が無言の行ないと神を畏れる純真な生き方が用いられるというのです。このときペトロは、裏切る者を無言のうちに愛の眼ざして見つめられる主イエスを想い起こしつつ語ったことでしょう(2章22~24節)。
キリストに結ばれて新しくされた者は、外面の装いではなく、内面的な装いに価値を置いた生き方になります。ちょうど、旧約聖書に登場する婦人たちも時代を越えてそのことを証しし、良き感化を及ぼしました。
神への畏れをもって、妻が夫に従い、また夫と妻が仕え合っていることは(エフェソ5章21節)、神に望みを託した者の生き方なのです。

2.祝福力をもって  7節
夫たちの頭上には、二つの命令が響き渡っています。一つは、「生活を共にし」すべての営みを愛をもってすることです。二つは、妻をかけがえのない人格として「尊敬」することです。そうすることによって夫は、妻が自分より弱い器であることを認め、温かい理解と態度を示すことになります。また、永遠の「命の恵みを共に受け継ぐ者」として、その祝福が見える形で今実現していることを自覚して生きることになります。
このようなかけがえのない夫妻は、互いに愛と尊敬と思いやりをもって、共に祈る信仰の同労者です。同様に、神の家である教会につながるお互いは、愛と尊敬と思いやりをもって、祈りを尊ぶ同労者なのです。

生涯のテーマ(2015.9.12)

宣教題  「生涯のテーマ」               宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章18~25節

私たちがキリスト者になるということには、二つの召しがあります。キリストのものとされたという納得と歓喜、キリストのようにならせていただけるという希望と渇きです。それは、キリストを模範として、その足跡に続く歩みをさせていただくという(21節)、卒業のない、生涯のテーマです。

1.キリストのすばらしさにとらえられ続ける  22~25節
ペトロは、いつも弱い立場の人たちに寄り添い、彼らがキリスト者として祝福された生き方をするように勧めています。そして、彼らが、キリストの救いのすばらしい恵みを証しし、その恵みが押し広げられることを促がしています。
そのためには、キリストの苦しみを仰ぎ見続ける者となることです。なぜなら、キリストの十字架の身代わりの死のゆえに(22~23節)、私たちは罪に対して死に、神の前に真っすぐに生きる者とされたからです。そのお受けくださった傷によって、いやされたからです(24節)。しかも、神のもとを離れてさ迷っていた者を、キリストは「牧者」また「監督者」となって、ご自分のもとへと引き戻してくださったからです(25節)。
私たちは、この恵みの主キリストに立ち帰り続けていることが大切です。

2.キリストを模範とし続けて生きる  18~21節
弱い立場にある人たちが、人に仕えることにおいて従順であることと、不当な苦しみを受けても耐え忍び、与えられた使命を全うすることが「神の御心に適う」恵みであると伝えています(18~20節)。彼らが「召されたのはこのためだったのです」(21節)。
そのためには、正しくお裁きになる神にお任せになられたキリストを模範として、キリストの苦しみの足跡に従うことが大切です。私たちが日々に経験するあらゆることがらを全てご存知の神に任せることにより、信仰の領域を大いに広げていただくのです。
私たちは、任せる信仰を働かせる機会を逃さないようにしたいものです。人が一番若い日は、年齢の若さによるのではなく、キリストのように生きる日々です。

主のために(2015.8.2)

宣教題  「主のために」                宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章13~17節

わたしたちは、この世では「旅人であり、仮住まいの身」(11節)として歩んでいます。だからと言って、この世に対して無関心であり、無責任であってよいのではありません。国家に対して、社会に対して、家族をはじめ他者に対して、積極的に愛をもって仕えていくのです。その生き方の大原則が、「主のために」生きることです。

1.わたしたちの服従  13~15節
神のものとされた者は、人がつくった社会のきまりや仕組みを軽んじることなく、為政者やその務めに従事する者を重んじて従うことが勧められています。それが「神の御心」だからです。神の愛をいただいて、良い業に励むことによって、キリストとキリスト者に対する批判の言葉は沈められます(15節)。しかし、神の御心に反してまで服従することは求められていません(使徒言行録4章19~20節)。
わたしたちが、服従することに難しさを覚えるときにこそ、キリストが服従された事柄を深く思い、「主のために」という視点をいただいて、この世におけるわたしたちの立ち位置、立ち振る舞いを選ばさせていただくのです(19~21節)。

2.わたしたちの自由  16~17節
さて、神のものとされた者の服従は、自発的なものであり、そこには喜びと自由が伴います。ですから、「自由な人として生活」するのです。しかし、その自由は、悪事を行なう言い訳や欲望からくる行いを正当化するために用いてはなりません。「主のために」用い、「神の僕として」の言動をするのです。
神の僕として仕えることが自由な生き方ですが、具体的にそれを貫く生き方があります。すべての人を敬い、重んじることです。教会の交わりにおいて、兄弟姉妹を愛することです。神を畏れる信仰を抱き続けることです。神が立てられた為政者を正当に評価し、神の御心に従った社会の秩序維持に努めることです。そのようにして、神に仕える自由を用いさせていただきましょう。

美しい生き方(2015.7.5)

宣教題  「美しい生き方」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章11~12節

ペトロは、「神のもの」とされた者に対して、「愛する者たち、あなたがたに勧めます」と、どう生きるべきかを語りだしています。この勧めは、一見厳しいように見える生き方ですが、そのような生き方をする中から慰めを得ていくことができます。

1.永遠の今を生きる  11節
この手紙の受信人は、各地に離散し、仮住まいをしている選ばれた人たちでした(1章1節)。それは、自分たちの本国が天にあると告白する人々のことで(フィリピ3章20節)、永遠の故郷である天国を目指して、救いの完成を待望しつつ、一歩一歩と確かな歩みをする「旅人」です。
彼らの信仰の旅路は、まだ終わっていないとの自覚をもって今を生き、この世に置かれていますがこの世のものではなく、この世のことに対して正しい距離を持って歩みます。ですから、この世へと引きずり込もうとして「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧められているのです。私たちは、神と共に在って、敵前にあるとの自覚を持って生きるのです(詩編23編5節a)。

2.真実な愛に生きる  12節
この世のことに対して正しい距離を持つ生き方は、この世の一切のことに無関心で冷淡になることではありません。この世に遣わされ「異教徒の間で」生きるのです。キリスト者は、「悪人呼ばわり」されるような迫害下にあっても、「立派な行ない」すなわち美しい生き方をするように召されているのです。すなわち、贖い主イエスに倣って、真実な愛をもって主イエスを証しすることを通して、非難し誤解する人々が「神をあがめるように」なることを願うのです。
このような生き方は、ベタニアで主イエスに香油を注いだ一人の女性の「良い行い」であり、主イエスを指し示す真実な愛の生き方です(マルコ14章3~9節)。主イエスの愛に応答する生き方、そしてその愛に服従する生き方ことが、美しい生き方なのです。

驚くべき光の中に(2015.6.14)

宣教題  「驚くべき光の中に」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章9~10節

この手紙が執筆された当時は、迫害などによる混乱が教会にも影響をあたえかねない状況にありました。そこでペトロは、周囲の状況に左右されるのではなく、周囲に福音の感化を与え、「かつて」の「暗闇の中から」、「驚くべき光の中へと招き入れ」られている「今」を自覚して生きるように勧めているのです。

1.神のものとされている
神の憐れみを受けた神の民とは、主イエスの十字架と復活に表された救いに与った信仰者の群れのことです。それは、ちょうど旧約の出エジプトという神の救いに与った神の民たちに通じるものです(出エジプト記19章5~6節、申命記7章6~8節)。主イエスの贖いの目的は、神の所有とするためでした。そして、そのように神に選ばれ、祭司としての使命に生きるところの聖なる者とされるためでした。
私たちは、神に背を向けて罪と死との暗闇の望みのないところから、主イエスの愛のゆえに選ばれ、神のものとされて神を礼拝するものとなり、神に仕え、他者の救いのために執り成す使命を託されています。このような驚くべき光の中に招き入れられているのですから、その歩みを最後まで全うさせていただくのです。

2.神の救いを証しする
神の所有の民とされた聖徒とその群れである教会は、神の救いの御業を広く伝えるために、神のものとされたのです。その伝える福音の内容は、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」にほかなりません。
私たちは、主イエスによって神のものとされた新しい立場にどれだけ感謝し、世に対する証しの使命を果たしているかを問い直してみることが必要です。そのためには、普段から祈りを通して神との交わりをさせていただき、神の語りかけを聴き、神御自身とその御心を知ることから始めるのです。そうする中から、驚くべき主イエスの御業を証しさせていただくことができ、救いを届けることができるのです。