第一ペトロ」カテゴリーアーカイブ

霊的代謝を盛んに(2015.5.24)

宣教題  「霊的代謝を盛んに」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章1~8節

キリスト者生活の醍醐味は、「主が恵み深い方だということを味わい」知り続けることです(3節)。キリストの味は、生きた命の味で(1章3節、23節、2章4節)、「霊的な」ものです(2章2節、5節)。聖書がいう霊的とは、聖霊の導きを喜びとして、聖霊に従っていることであり、神と人の前に謙虚で正直に生きることです。

1.聖徒が霊的に成長する  1~3節
私たちの信仰が成長し、最終的な救いに至る秘訣の一つは、霊的な新陳代謝を盛んにすることです。
自分に捨てるべきものがあるにもかかわらず、それを平気でそのままにしながら成長しようと願うのは無理な相談です。霊的な健康を損なう捨てるべきものが自分にあることを気づいたなら、聖霊の力をいただいて捨てることです。
そして、それに代えて新しく慕い求める者は、「霊の乳」すなわち魂を育てる御言葉の糧です。そうすることによって、聖霊の導きの中で物事を考え、対応するという霊的習慣を身につけ、祈り、御言葉に親しみ、聖徒の交わりを大切にするのです。

2.聖徒の群れが霊的に造り上げられる  4~8節
キリストは十字架に捨てられ、復活され、栄光の座に着かれて「尊い、生きた石」となられました。このお方が、「霊的な家」である教会の命を支える土台となられ、このキリストを信じて結び合わされた聖徒を「生きた石」として教会を造り上げるために用いられるのです。そのようにされている聖徒は、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して神に献げ」るのです。すなわち、礼拝を献げ、広くは日常の生活が神に献げられた歩みとして造り変えられ続けていくのです。
私たちは、キリストにどう向き合い、どう関わっていくかを問われています。「選ばれた尊いかなめ石」であるキリストにより頼むならば、いかなる危機の中にあっても、「決して失望することがない」のです。そこには聖霊の支えがあるからです(4章14節)。

日々成長していくために(2015.5.3)

宣教題  「日々成長していくために」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章22~2章3節

私たちは、主イエスを信じて「新たに生まれた」ときから(1章23節)、救いの完成に至る全過程において、霊的に成長していくのです(2章2節)。そのために、「霊の乳を慕い求めなさい」と勧められています。私たちが、日々に備えるものは何でしょうか。

1.主の御言葉を慕い求める 
 罪に死んでいた者が新たに生まれさせられたのは、人の力や業によるのではなく、「神の変わることのない生きた言葉」すなわち「福音」によるのです(1章23節、25節)。私たちが、主の御言葉である福音を聞いて、キリストの救いに信仰によって結び合わされたときに、私たちのうちにも新生の御業がなされるのです。
 さらに、主の御言葉は、人に命を与え、その命を養い育て、永遠の救いに与らせるのです(2章2節)。そのためには、人との関係を壊す結果をうむ「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」をきっぱりと思いっきり捨て去り、偽りのない「霊の乳」である主の御言葉を一生涯慕い求め続けるのです。私たちは、日々に生きた御言葉経験をいただきつつ歩むのです(詩編119編130節)。

2.主の恵みを味わい知る 
 ペトロは、主の御言葉を慕い求める以上に、もっと広い意味での霊的必要を慕い求めることを勧めています。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」(2章3節)と語るように、御言葉を語られた主ご自身とその恵みを味わうことです。
 それによって、具体的な歩みが造られていきます(1章22節)。すなわち、福音の真理を信じ受け入れることによって、神のものとされ、聖なる神の御前に生きる者となるのです。それはまた、他者へと関心を向かわせ、真実な兄弟愛を抱かせ、清い心をもって互いに愛し合う生き方に集中していくのです。
 主イエスは、日々変わることのないお方です。主が恵み深い方であることを覚えて、日々に成長する者とならせていただきましょう(詩編34編9節)。

恵みの再発見(2015.4.5)

宣教題  「恵みの再発見」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章17~21節
 
十字架に死んで復活された主イエスの救いの御業が、繰り返し語られています(1章1~12節、18~21節)。ペトロは、「知ってのとおり」と語ることにより、信仰者が救いと信仰の歩みに対する自覚を失うことないように、主イエスの恵みの再発見をするようにと勧めています。

1.こんなに大きく救われている  18~21節
 神は、「終わりの時」に主イエスによって救いの御業を具体的に始められました(20節)。その目的は、罪に捕らわれ、死に脅かされ、滅びを前にしてなすすべもなく、虚しい生き方をしていた私たちを、十字架の尊い血によって贖うためでした(18~19節)。そして、主イエスの復活に基づく希望をもたらすためでした(21節)。そのようにして、永遠の滅びから、永遠の救いに与らせてくださったのです。こんなに大きな神の恵みによって、こんなにも大きく救われていることを想起せざるをえません。
 ですから、私たちは、日常の平凡な歩みにおいても、困難な状況や激しい試練に見舞われるときであっても、主イエスの恵みのご支配を覚えて歩むのです。

2.こんなに偉大な「父」を知っている  17節
 このような神の恵みに基づく歩みは、神を畏れて生活するようになります。それには、神をどのようなお方として理解しているか、ということに関わりがあります。
「父」なる神は、主イエスによる救いのゆえに、信じる者を惜しみなく赦し、もはや罪を問われず、さばかないと宣言してくださいました。私たちは、その神を「父」と呼び、神の子とされた人格的な交わりに生かされています。愛と憐れみに満ちた神は、ご自分との交わりから一人たりとも失いたくないために、威厳と権威をもって導かれます。ですから、私たちは、それにふさわしい父なる神への畏敬の念をもった歩みをするという自覚が必要なのです。この恵みを噛みしめつつ、信仰の歩みを形づくらせていただきましょう。

恵みにふさわしい生活(2015.3.1)

宣教題  「恵みにふさわしい生活」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章13~16節
 
これまで主の恵みを力説してきたペトロは、それを深く味わい(詩編34編9節参照)、その上にしっかりと立ち、それにふさわしい歩みをするようにと勧めています。主の恵みをひたすら待ち望むことと、聖なる者となることとは、私たちの立ち位置です。

1.ひたすら待ち望みなさい  13節
 信仰者は、終わりの時の大いなる救いの完成を(5~9節)、いささかも疑わずにひたすら待ち望んでいます。その望みの根拠は、キリストの十字架と復活に現された過去にあります(21節)。
 この望みが、日々の信仰の歩みにおいて生き生きと現されるために、「いつでも心を引き締め、身を慎んで」いることが求められます。このように語るペトロは、自分を制することのできなかった苦い経験を思い起こしたことでしょう(ルカ22章54~62節)。私たちは、望みの根拠であるキリストの救いを疑わせたり、曖昧にさせたり、またその恵みの豊さを見失わせたり、その恵みに正しく応答することを鈍らせたりすることのないように、ひたすらに恵みの主キリストに望みを置き続けることが大切なのです。

2.聖なる者となりなさい  14~16節
 信仰者は、救いの恵みに与って「聖なる者」とされたのですから、これまでの自分勝手な思いや生き方でなく、「聖なる者」であり続けることが求められます。聖なる者とは、恵みによって神のものとされたことであり、その在り方や生き方の「生活のすべての面で」神のものとして生きる者なのです。
 そのためには、恵みに対し「無知であったころの欲望」に支配されるのではなく、聖なるキリストに倣って「従順な子」として形づくられていくことが大切です。その従順さは、神の御心が最上、最善、最高のものとして受け入れる在り方また生き方となって現れます。私たちは、従順な子として御言葉に聴き従い続けることによって、聖なる者とされたことを軽んじない歩みをしていくのです。

伝えられる恵み(2015.2.1)

宣教題  「伝えられる恵み」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章9~12節

ペトロが証言するように、私たちは、福音を告げ知らせていただき、今も生きておられる主イエスを信じ受け入れ、主イエスと共に生きるのです。それほどに、主イエスは私たちに近い存在となってくださったお方なのです。ペトロは、そのことを生き生きと語り伝えています。

1.福音が伝えられる
「福音をあなたがたに告げ知らせた」(12節)との御言葉が響いています。それは、「この救いは」(10節)とあるように、ただ神の恵みによる「魂の救い」(9節)であり、今現に受けているもので、「終わりの時に」(5節)完成される救いの福音です。
なお、この魂の救いとは、単に心の救いを述べているだけではなく、主イエスを信じる人の生き方が大きく変えられる救いです。その人のうちに、愛と信頼と喜びが満ち溢れ、試練をも神への全き信頼へと純粋なものに変えていくのです(6~8節)。
この福音が今日まで告げ知らされてきたことは、大きな恵みでした。ですから、この魂を救う福音が、もっと早く、多くの人々に伝えられることが、私たちの切実な願いなのです。

2.聖霊に導かれた人を通して伝えられる
ペトロは、救い主がまだ訪れていなかった旧約時代を振り返っています。預言者たちは、やがて訪れる救いの時を待ち望みつつ、それが誰を意味し、どういう時を指しているかを探求し、注意深く調べたのでした。そして、彼らの「内におられるキリストの霊」によって、キリストの十字架の苦難と復活の希望の光を示してきたのです(10~11節)。しかも彼らは、それが自分たちの時代に実現するのではなく、やがてその福音によって救いにあずかる人々のために仕えているとの自覚を持っていました(12節a)。
福音は、今に至るまで、聖霊に導かれて福音を告げ知らせる人々によって届けられてきました。その恵みは、天使たちも見たいと切望しているのです(12節b)。そして、この福音を告げ知らせることは、私たちにも託されています。そのためにも、私たちは、まず福音の恵みをしっかり味わい、大切に見つめ直すことが必要なのです。

試練の中での喜び(2015.1.18)

宣教題  「試練の中での喜び」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章6~9節
聖書は、試練は逃れるべきものではなく、積極的に受けとめ、それを生かし、そこから希望を見つめていくことを勧めています。ペトロは、試練を経験している人たちと喜びにおいて一つとなり、喜びに支えられていることを語っています(6節、8節)。その喜びは、どこから生まれてくるのでしょうか。
1.神の栄光にあずからせていただいているから  6~7節
ペトロは、神からの生き生きとした希望、天に蓄えられている財産、準備されている救いの恵みの偉大さに圧倒されています(3~5節)。彼は、それにあずかっている喜びを人々と分かち合いたいと願っています(6節a)。
一方、ペトロは、必然としての、今しばらく間の、色々な試練という現実にも人々の目を向けさせています(6節b)。その試練は、決して不必要であり、無駄であるというものではありません。なぜなら、その試練のただ中にあって、信仰が試されることによって純粋な信仰が残こり、キリストの再臨のときに神の栄光にあずからせていただけるからです(7節)。
試練と悩みは切り離すことができません。しかし、キリストご自身が私たちの悩みを共感してくださり、私たちの傍らで支えていてくださるのです(ヘブライ4章15節)。
2. 魂の救いを受けているから  8~9節
このようにペトロは、キリストが再臨されるときに神の栄光にあずからせていただけるという救いが、いかに確かなものであるかを知っていました。さらにペトロは、キリストを直接に見ていない人々が彼と同じようにキリストの確かな救いにあずかって、キリストを愛し、キリストを信じ、歓喜していることに感動しています(8節)。それは、彼らがキリストによる全人格的な救いをいただいていたからであって、彼らの信仰の実りによるのです(9節)。
このように、試練の中にあっても、キリストに自分の全存在をゆだねることによって歓喜が生まれてきます。私たちの教会は、試練の中で、喜びに満ちあふれた力ある信仰者の群れであらせていただきましょう。

生ける望み(2014.11.2)

宣教題  :「生ける望み」   宣教:  川原﨑 晃 牧師
聖書  : 1ペトロ1章3~5節
私たちの信仰の歩みは、「ほめたたえられますように」とあるように、最初に神への賛美があり、その中に招き入れられています(3節a)。その賛美は、生ける望みから溢れてくるのです。この望みは、死んだ望みではなく、「生き生きとした希望」です。どこからそのような望みが生まれてくるのでしょうか。

1.新たに生まれさせられたゆえに 
神の救いの動機は、「神の豊かな憐れみにより」ました。その現われが、独り子イエスの十字架の死とその復活でした。それによって、「わたしたちを新たに生まれさせ」てくださったのです(3節b)。私たちは、新しく生まれ変わらせていただいたことによって、天に蓄えられている神からの相続財産を受け継ぐ者とされ(4節)、「終わりの時に現される」大いなる救いに与る者とされているのです(5節)。
今や私はたちは、復活されて今も生きておられる主イエスと切り離して、生きることも、死を迎えることも考えられません。私たちは、主イエスの復活ゆえに、生ける望みに向かって救われているのです。

2.神の力に守られているゆえに 
「終わりの時」とは、もうこれが最後ではないかと思われるほどの危機の時という意味も持っています。かつてペトロは、主イエスの十字架を前にして主イエスを否んだことに見るように、自分で自分を守ろうとして幾度となく失敗をしました。それゆえに彼は、神の力に守られることがどんなに必要であるかを、復活された主イエスにしがみつく信仰によって歩む以外にないことを知ったのです。
私たちは、自分の歩みに自信が持てなくなる、無駄な労苦の日々と思える、自分が孤独に思われる、死の恐れを覚えるなどの試練を経験します。また、神から見捨てられた、身放されたと思ってしまう危機の時を経験することもあります。そのような時にこそ、私たちは「神の力により、信仰によって守られている」との生ける望みに立ち続け、歩み続けるのです。

私たちを支えるもの(2014.10.5)

宣教題  :「私たちを支えるもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 1ペトロ1章1~2節

私たちは、ペトロや「各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち」と同じように、天の御国を目指して、人生を旅する者です。たとえ同じ場、同じ状況下 にあったとしても、過去を振り返りつつ、将来へと身を転じて踏み込んでいくのです。それを支えるものは何でしょうか。

1.主の恵み
この手紙は、迫害と苦難の中にある聖徒たちと諸教会に向けて書かれたものです。その内容を一言で表現すると、「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」(5章12節)とあるように、神の恵みにしっかり立つようにということです。
ペトロは、自分の身に与えられた主イエスの恵みを深く思わずにはおれませんでした。彼は、主イエスに従う道を踏み出しましたが(マタイ4章18~20 節)、主イエスの十字架を前にして、弱さと無理解ともろさを露呈しました(同26章69~75節)。そのようなペトロのために祈り、赦し、力づけ、回復さ せてくださったのは、復活の主イエスでした(ヨハネ21章15~19節)。
私たちも同様に、十字架の血によって罪を赦され、復活の主イエスに結ばれて神のものとされたのです。この主の恵みゆえに、主イエスに従い続けることが光栄ある歩みなのです。

2.主の愛の選び
主の弟子であったペトロは、「イエス・キリストの使徒」と自己紹介しています。彼は、主イエスと共に生活し、主イエスから直接訓練を受け、主イエスから 選ばれて任命を受け遣わされた人でした。同様に離散者にして寄留者であった聖徒たちも、選ばれて遣わされた人たちです。この選びは、主なる神が人をよく知 られた上で、愛によって「選ばれたのです」。
私たちは、主と共に歩み、御言葉によって教えを受けて導かれ、神の愛による選びをいただいて各々の持ち場に遣わされていることを忘れてはなりません。
主に従う者、また主に遣わされた者としての歩みは、今までの恵みと平和で足りるというのではありません。この恵みと平和が「ますます豊かに」注がれるように祈り願い求めながら、主の恵みと愛の選びの中を歩み続けるのです。

愛の秘密(2014.6.29)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ18章15~18節、25~27節 1ペトロ3章18節abc

聖書は、多くの人の神との出会いが記されている書といえるでしょう。ここでは、ペトロと主イエスとの出会い、その出会いが閉ざされずにどのように続いていったのかが語られています。それは、神の愛の秘密とも言えるような出来事でした。

1.私ではない  18章17節、25節、27節
ここでは、主イエスが十字架にお架かりなる前日に、その主イエスを裏切るペトロが語られています。ペトロは、主イエスの弟子だと指摘されたことに対し て、「違う(私ではない)」と言って、三度も主イエスを拒んだのでした。ここには、強い決意を持っていたペトロの無力さ、自分の決意や努力で神の前に正し く歩むことのできない彼の姿があらわにされています。この時、ペトロと主イエスとの距離は門の内外のわずか数メートルに過ぎなかったことでしょう。そんな に近くにおられる主イエスに「私ではない」「知らない」と言ったのでした。
「私ではない」と言い張って主イエスと関わりを持とうとしないで、神に背を向けて生きていこうとすることが罪なのです。その意味では、ペトロと私たちとは同じであることを認めざるを得ないのです。

2.わたしである  18章5節、6節、8節
この時同時に、主イエスは人々に捕らえられて、大祭司のもとに連行され尋問を受けておられました(1~14節、19~24節)。「ナザレのイエスだ」と 答える人々に対して、主イエスは「わたしである」と言われたと三回記されています。ここで主イエスは、ご自分を公然と明らかにされたのでした。このように して、裏切る者たちのために、主イエスは裏切ることなく十字架の道を歩まれたのでした。
このように主イエスは、私たちの弱さや罪ある者であることをよくよく知ったうえで、それらを包みこみ、見捨てることなく、身代わりとなって十字架に架 かって救いを全うしてくださったのです。それは、主イエスの愛を受けるに値する者として「神のもとへと導くため」だったのです(1ペトロ3章18節)。こ の主イエスの愛に包まれて歩み続けていきましょう。

キリストを主とあがめる(2014.4.6)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録24章1~27節 1ペトロ3章15節

私たちがキリストに対する信仰の歩みに徹していくとき、キリストの受難と同じような試練を通されることがあります。その経験は、パウロと同じように、十字 架に死んで復活されたキリストにある望みを弁明し、キリストの勝利を先取りする歩みに導かれます。それが、「キリストを主とあがめる」歩みなのです(1ペ トロ3章15節、マタイ6章2節)。

1.キリストにある希望を弁明する  1~23節
パウロは、大祭司アナニアの弁護士テルティオのおべっかと偽りの訴えを受けて、フェリクス総督すなわちローマ法廷に、たった一人で立っています(1~9 節)。彼は、神と人に対して、確かな信仰と責められることのない良心を保ちつつ、弁明しています(10~21節)。彼は、一人で戦ったのではなく、神の前 に、神と共に戦っていることを証ししたのでした。
私たちは、いかなる状況下にあっても、神からの知恵をいただいて、揺るぐことのない復活信仰の希望を、穏やかにして尊大ぶらず、神を畏れて敬意を持っ て、正しい良心で、「あなたがたの抱いている希望について」弁明し語ることが大切です(1ペトロ3章15~16節)。

2.キリストの勝利を先取りして生きる  24~27節
パウロは、総督フェリクス夫妻を救いに導こうとして、「正義や節制や来るべき裁き」について語りましたが、彼らは信仰の応答をしませんでした。このよう に、パウロが潔白で純粋かつ堂々と語ることができたのは、彼自身が、来たるべき神の最後の法廷を目指して、否それを先取りして今を生きていたからです (24~26節)。十字架と復活のキリストが弁護人ですから、常勝不敗の勝利者となれるのです。
さらに、パウロは、時間が経過して状況が変わっても、復活のキリストの約束に立って、神の時を待ったのです(27節)。私たちは、このように待つことを通して、忍耐を学び、御言葉を深く学び、自分自身を深く掘り下げることかできるのです。

戻るべき所(2013.10.27)

宣教題  : 「戻るべき所」   宣教:   長田 栄一 牧師
聖    書  : 1ペトロ2章21~25節
あなたがたは…戻って来た」と記されています(25節)。おるべき所から外れて、おるべき所でない場所にいるとき、そこには不安があります。落ち着かなさがあります。おるべき所に戻ったとき、「帰ってきた。ここが自分のいるべき場所だ」と、心に安息が回復します。本来の自分自身の姿に帰ることができます。

1.迷える羊
「あなたがたは羊のようにさまよっていました」(25節)。聖書には、人間の現実の姿を「迷える羊」として描いている所が幾つかあります(イザヤ53章6節他)。おるべき所から彷徨い出て、帰るべき場所、その道も分からなくなった存在として描かれています。

2.戻るべき所
私たちが戻るべき所はどこでしょうか。それは、単なる場所ではなく、人格ある神、創造者にして私たちの人生を正しい祝福の道へと導いてくださるお方。「魂の牧者であり、監督者である方」こそ、私たちが戻るべき所です(25節)。このお方は、私たちがご自身のもとへと戻って来るのを待ち続けておられます。

3.戻るための道
戻るための方法、その道筋はどこにあるのでしょうか。「十字架」「そのお受けになった傷によって」(24節)とあります。この個所は、苦難を耐え忍ぶことについて教える個所です。キリストは私たちに模範を示されました。その生涯は罪なき生涯。ののしられてもののしり返さず、神様に自らをお任せになっておられました。しかし、その苦難は何のためだったでしょうか。私たちのためでした!その十字架は、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださ」ったもの。「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。ここに、私たちが戻るべき所へと帰って行くための道があります。

真実な証人(2013.8.11)

宣教題  : 「真実な証人」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章37節~22章5節 1ペトロ3章15節
真実な証人は、キリストの救いと今も共に働かれるキリストを生き生きと証言します。それが「キリストを主とあがめ」ることなのです(1ペトロ3章15節)。さて、絶対絶命の窮地に追い込まれた時のパウロの「ひと言」が、状況を一変してしまいました。

1.聖霊によって  21章37~40節
「ひと言お話ししてもよいでしょうか」とのパウロの申し出によって、千人隊長との問答が始まりました。千人隊長は、正直に語るパウロの安全を確保しつつ、民衆に対してパウロが弁明する許可を与えました。ヘブライ語で弁明するパウロには、気迫があったのでしょう。民衆は、すっかり静かになりました。
こうした正直な証言は、驚くべき力を持っています。全ては、聖霊によったからです(使徒言行録1章8節)。それは、ステファノが殉教した時と同じように(同7章54~60節)、聖霊に満たされているならば、人の憎悪の中にあっても、復活の主が見え、その救いに与かった者としての生き方がなされるのです。聖霊は、証言すべきことも教えてくださるからです(ルカ12章11~12節)。

2.揺るがない希望を抱くゆえに  22章1~5節
パウロがヘブライ語で弁明したことは、多くのユダヤ人に対して最適の言葉でした。彼は、ユダヤ人で名門の家に生まれ、律法の厳格な教育を受け、「熱心に神に仕えて」いたことを強調しています。さらに、キリスト者と教会の迫害者であったことを正直に証言しました。このようにして、彼は、律法に熱心で、どんなに名門に生まれても、人は救われないことを証ししたのです。彼は、恥はわがもの、栄光は主のものという信仰に徹していたのです。
ところで、キリストの大いなる救いに与かるという信仰は、私たちの希望であり、「いつでも弁明できるように備えて」いる必要があります(1ペトロ3章15~16節)。このような弁明こそが、人の目と心を開くのです。

主を愛するゆえに(2011.9.18)

宣教題  : 「主を愛するゆえに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章1節~8節、1ペトロ1章8~9節
私たちは、主イエスの愛に応答したマグダラのマリアの歩みから、さらに主イエスの愛に応答することを証言し続けたペトロのメッセ-ジから、主イエスを愛するとはどういうことかを教えられます。

1.主イエスに仕えることを喜ぶ
マグダラのマリアは、以前は「七つの悪霊」にとりつかれていた悲惨な生き方をしていました。そういうところから主イエスによって救われただけに、彼女の主イエスへの感謝は誰にも負けないくらいに深かったと思われます。ですから彼女は、主イエスが十字架にお架かりになった際もそこに立っていましたし(マルコ15章40~41節)、主イエスが葬られた後も墓から去りがたかったのです(同47節)。そして、彼女は世界で最初に復活の主イエスにお会いする光栄を与えられたのです(同16章9節)。
このように、人として惨めさを知り抜いたひとりの女性が、主イエスに愛され、その罪を赦され、悪霊から解き放たれた結果、ひたすら主イエスを愛し、仕えることを喜びとする歩みをするようになったのです(ルカ8章1~3節)。私たちが、主イエスを愛して喜び仕えていくなら、主イエスの深い愛が見えてくるのです。

2.キリストの証人であることを喜ぶ
これまでのキリスト教会の歴史において、多くの婦人たちが、黙々と忍耐深く、礼拝をささげ、祈りをささげ、教会の働きを担ってきました。何よりも、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」マグダラのマリアのように、彼女たちは十字架と復活の証人となりました(マルコ16章10節)。
ところで、ペトロもこの喜びの知らせを聞いて、復活された主イエスに会い、主イエスを愛し、信じ、喜びに満ち溢れました。同じように、魂の救いを受けている者は、主イエスを肉眼では見てはいなくても主イエスを愛してやまず、信じ、言葉では言い尽くせない喜びに溢れる者とされるのです(1ペトロ1章8~9節)。ですから私たちは、マグダラのマリアやペトロのように、主イエスに愛され、主イエスの愛に生き、主イエスを愛する者とされていることを喜びをもって証しするのです。

真に柔和であるために(2011.5.15)

宣教題  : 「真に柔和であるために」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章53節~65節、1ペトロ2章23節
主イエスが捕えられて裁判を受けられた場面は、主の十字架のクライマックスに至る途中の出来事です。実はこのところに、キリストの柔和さが表れています(マタイ11章28~30節参照)。

1.キリストの沈黙の御姿に   53節~61節前
最高法院での裁判は、最初から主イエスの死刑ありきのもので、多くの者たちがした偽証はことごとく崩壊していきました(55節)。この時主イエスは、終始沈黙しておられました(60節~61節前)。
主イエスは、その地上の歩みの中で沈黙された時が幾つかあります。意味のない議論に挑発された時(ヨハネ8章4~6節)、相手の信仰を試し励ます時(マタイ15章22~23節)、単なる好奇心や興味からくる求めの時(ルカ23章8~9節)、この箇所で見るように、ののしられ苦しめられた時でした。究極には、十字架上で徹底して沈黙されました(マルコ15章29~32節)。
主イエスは、相手がどのような態度であっても、愛のゆえに沈黙されました。ここに、キリストの柔和さがあります。

2.キリストの忍従の御姿に   61節後~63節
主イエスは、大祭司の問いかけに対して、ご自身が救い主であり神であることを大胆に語られました(61節後~62節)。偽証においては弁明されずに沈黙された主イエスは、ご自分の使命と身分に関しては言明されたのです。それに対する最高法院の決定を受けた人々は、主イエスに三重の侮辱を加えています(65節)。主イエスは、それに黙々と耐えられたのです。そうされたのは、
父なる神に対する信頼と、その救いの御計画に忠実であられたからです(1ペトロ2章22~24節)。ここにもキリストの柔和さがあります。
キリストの沈黙と忍従に表わされた柔和さを思う時に、私たちは自らの何であるかを知らされるとともに、あわせてキリストの柔和さをもって生きているかが問われるのです。

終末に生きる(2009.6.28)

題   : 「終末に生きる」   宣教:   足立 幹夫  牧師
聖書  : ぺトロの手紙一 4章7節~11節
万物の終わりとは、主の再臨とその後に行われる審判のことです。ところが、紛争の続出、自然界に起きている異変、それに人心の退廃した今の世相を見ますと、その時は近づいていると思わされます。この終わりの時に生きるキリスト者は、どのような備えが必要なのでしょうか。

1.思慮深く、身を慎んで祈る  7節
主の再臨が近いと聞くと、宣教が第一と考えますが、祈りが先になっています。どんなことを祈るのでしょうか。思慮深く慎んで祈るとは、キリスト者が異端や悪霊の教えに惑わされたり、動揺されたりしないで、聖書信仰に固く立って、主の再臨。

2.愛し合い、もてなし合う  8~9節
心を込めてとは、気の合う人にだけでなく、偏らず隔てず、いつまでも関わり合って生きることです。そして、愛は多くの罪を覆うのです。だから、人の失敗や汚点は、吹聴したくなるものですが、お互いにカバ-し合うのです。ペトロは、7度を70倍するように言われた主の御言葉を心にとめていたのです。
主は、私たちの罪を十字架の血で覆い包んでくださいました。この主の愛によって救われた者が、罪を覆い合うのは当然のことなのです。もてなし合いも、この心でするのです。主はそれを喜ばれ、再臨のとき豊かに報いてくださいます。

3.神の恵みの善い管理者となる  10~11節
キリスト者が管理して活用する天与の賜物には、才能、時間、財宝があります。主は、折角の賜物を自分のためにだけ使おうとした金持ちを、愚かな者と言われました。しかし、私たちは、善い管理者となり、賜物を活用することによって、主から褒められる者になりましょう。その賜物を用いる動機と目的は、個々人か賞賛されるためではなく、それを授与された主が崇められるためです。
私たちは、目覚めて祈る教会、うるわしい交わりの教会、皆が積極的に奉仕している教会となって、主の再臨の日まで、祈り合い励まし合って前進していきましょう。