日別アーカイブ: 2014.04.06

キリストを主とあがめる(2014.4.6)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録24章1~27節 1ペトロ3章15節

私たちがキリストに対する信仰の歩みに徹していくとき、キリストの受難と同じような試練を通されることがあります。その経験は、パウロと同じように、十字 架に死んで復活されたキリストにある望みを弁明し、キリストの勝利を先取りする歩みに導かれます。それが、「キリストを主とあがめる」歩みなのです(1ペ トロ3章15節、マタイ6章2節)。

1.キリストにある希望を弁明する  1~23節
パウロは、大祭司アナニアの弁護士テルティオのおべっかと偽りの訴えを受けて、フェリクス総督すなわちローマ法廷に、たった一人で立っています(1~9 節)。彼は、神と人に対して、確かな信仰と責められることのない良心を保ちつつ、弁明しています(10~21節)。彼は、一人で戦ったのではなく、神の前 に、神と共に戦っていることを証ししたのでした。
私たちは、いかなる状況下にあっても、神からの知恵をいただいて、揺るぐことのない復活信仰の希望を、穏やかにして尊大ぶらず、神を畏れて敬意を持っ て、正しい良心で、「あなたがたの抱いている希望について」弁明し語ることが大切です(1ペトロ3章15~16節)。

2.キリストの勝利を先取りして生きる  24~27節
パウロは、総督フェリクス夫妻を救いに導こうとして、「正義や節制や来るべき裁き」について語りましたが、彼らは信仰の応答をしませんでした。このよう に、パウロが潔白で純粋かつ堂々と語ることができたのは、彼自身が、来たるべき神の最後の法廷を目指して、否それを先取りして今を生きていたからです (24~26節)。十字架と復活のキリストが弁護人ですから、常勝不敗の勝利者となれるのです。
さらに、パウロは、時間が経過して状況が変わっても、復活のキリストの約束に立って、神の時を待ったのです(27節)。私たちは、このように待つことを通して、忍耐を学び、御言葉を深く学び、自分自身を深く掘り下げることかできるのです。