月別アーカイブ: 2014年3月

神を知る者の愛(2014.3.30)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア5章6節~6章6節 1ヨハネ4章20節

旧約聖書に登場する北王国(エフライム)と南王国(ユダ)は本来、一つの王国であった。ところが、分裂し、神から与えられた使命を果たすことができなくなった。

1.兄弟国の間の争い(5:8-15)
分裂から200年後、二国の間で争いが生じた。アッシリアという強国に対抗するか、属国となるか、という路線の違いから生まれたこの争いは、北王国から 南王国への攻撃で始まったが、アッシリアの助けを得た南王国による北王国への侵攻と進んで行った(5:8)。北王国は廃虚と化し、南王国は主からの相続地 を奪い取ろうとした。主は両者に対して激しい審判をもたらす(5:12, 14)。互いに攻撃しあい、主を求めなかったからである(5:13)。主はイスラエルから去ることを決意された(5:14)。

2.深みのない祈り(6:1-5)
このことを聞いた時、人々は祈った(6:1-3)美しい悔い改めの祈りである。しかし、人々にとっての「主のもとに帰ろう」「主を知ろう」はホセアが 語っているのと同じ意味なのだろうか(12:7や2:22)。そうではない。自分たちの都合が悪くなり、「わたしを尋ね求めよ」(5:15)と言われたか ら、いつもの祈りをより丁寧に行ったにすぎない。主は、祈りに深みのないことを見抜き、「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」(6:4) と切り返し、裁きを宣告する(6:5)。

3.神を知る者の愛(6:6)
普段から献げている献げ物をより増やすことなど主は求めておられない。普段より美しい祈りをすることを主は求めておられない。ホセアが語っている意味 で、「主を知り、愛すること」である(6:6)。危機において主が開かれる道をベストと信じ、自分の計画に固執しないこと。さらに、本来一つであるべき 人々との関係を時間をかけて整えること。北王国と南王国の関係改善に取り組むことなしには、すべては不十分である。
神を愛する愛は、隣人を愛する愛という形で必ず現れる(1ヨハネ4:20)。配偶者、親や子、隣近所、同僚、クラスメートとの関わりの中に神への表され る。美しい祈りのことばでもなく、より熱心な教会生活でもない。ひとつであるべき夫婦が、家族が、職場が、学校が、私たちを通してひとつになっていく時、 神への愛が表され、私たちの使命が果たされていく。

心の友(2014.3.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ 15章11~17節

あなたは、何でも打明けることができ、本気で怒ってくれ、それでいていつでも一緒にいたくなるような友がおられますか(箴言27章9節b)。主イエスは、私たちに対して「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節C)と語りかけておられます。

1.愛の心をお持ちの友イエス  13節
「わたしがあなたがたを愛した」(12節a)と言われる主イエスの愛は、「友のために自分の命を捨てること」によって明らかになりました。主イエスは、 創造主である神を無視し、愛の限りを尽くしていてくださる神に背を向け、主イエスを信じようとしないで神を悲しませている罪人の友となってくださったので す。
主イエスは、神であられたにもかかわらず、自ら進んで十字架に死んでくださいました。そうすることによって、私たち罪人の身代わりとなって、神に捨てら れるという死を受け取ってくださったのです。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節c)と十字架上で叫 ばれた御言葉に表れています。

2.真実な心をお持ちの友イエス  15節
主イエスは、十字架の死から三日目に復活され、私たちのために御自身の御心を知らせ、愛と恵みの御性質のみか全てをお与えくださることによって、真実な 友となってくださいます。その真実は、主イエスを裏切ろうとしたイスカリオテのユダを見捨てないで、「友よ」と呼びかけられたことに表れています(マタイ 26章50節a)。
主イエスは、いかなる時にも、いかなる状況下にあっても、私たちを捨てなさらない真実な友なのです(ヨハネ14章18節a)。
友となってくださる主イエスに対して、私たちも友となるように信仰の応答をさせていただきましょう(14節、16節c、12節、17節)。

私たちにあるものを知っているか(2014.3.16)

宣教: 小平 牧生 牧師
聖書: 使徒言行録3章1~10節

東日本の大震災以来、私たちの国全体を覆っている言いようのない不安と恐れがさらに増しています。政治家の語る「日本をとりもどす」とか「日本の力を信じている」という言葉もなんだかカラ元気のように聞こえます。
しかし、このような中にあってこそ、私たちは神様が私たちに与えておられるものをはっきりと知ることができます。あなたにあるもの、それは何でしょうか?

私たちに与えられているものは何か。

1.人々を見つめる
「使徒言行録3章3~5節」。
「マタイによる福音書9章35~38節」。

2.イエス・キリストの御名に対する
「使徒言行録3章6節」。
「使徒言行録3章16節」。

3.立ち上がろうとする人々を助ける
「使徒言行録3章7~8節」。
「ヨハネの手紙一 3章16~18節」。

憐れみに生きる(2014.3.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章27~38節

私たちは、父なる神の憐れみによって、人の痛みを自分の痛みとするという「憐れみ深い者」とされて生きていくように召されています(36節)。そのような私たちに、主イエスは、敵を愛して祝福を祈り、人を裁かないで赦しに生きるように求めておられます。

1.生きることは、愛すること  27~34節
先に、主イエスが幸いと不幸について語られたように(20~26節)、信仰を持って生きるとき、当然、信仰を持たないで生きることとは違った生き方にな ります。その際に、私たちは、信仰を持たないで生きている人たちを見返すかのような心になってしまいがちです。「しかし」主イエスは、それをお赦しになり ませんでした。主イエスは、信仰に生きることができない人々の不幸をはっきりと指摘しつつ、そうであるからこそ、人を愛し、親切にし、祝福を祈るように命 じられたのです(27~28節)。
主イエスは、日々の生活において、神のものとされた者の本来の生き方を生き抜くように問いかけておられます(29~34節)。私たちは、自分の力を過信 して、このように生きることはできません。主イエスに対する信仰に立ってこそ、愛する生き方をさせていただくのです。

2.愛することは、愛されていること  35~38節
愛することができないところには、裁きがあり、赦しがなく、与えたら取り戻そうとしたり、自分の量りでしか物事が量れなかったりします(37~38 節)。私たちは、このように主イエスが語られたことと自らの現実の前に、その罪の姿に立ちすくみます。そして、「あなたがたは敵を愛しなさい」(35節) と言われることに逆らっている自分自身を認めざるをえません。
「しかし」、主イエスは、そのような私たちを憐れみ、十字架の贖いの死を成しとげてくださり愛を現してくださったのです。私たちは、主イエスの愛に心か ら屈服し、降伏するしかありません。この主イエスと信仰によって一つにされるとき、「いと高き方の子」としていただき、憐れみ深い者とされるのです (35~36節)。

人知を越えた神の導き(2014.3.2)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録23章12~35節 イザヤ書55章11節

私たちは、主イエスとその御言葉に信頼し続けることにより、神の導きの中を歩ませていただくのです。ここでは、パウロ殺害の陰謀と露見とカイサリアへの護送という出来事の中に、人知を越えたとしか言いようのない神の導きを証言しています。

1.神の導きの不思議さ
ユダヤ人によるパウロの暗殺計画が実行されようとしました(12~15節)。これがそのまま放っておかれたなら、パウロによるローマでの伝道ができなく なるという危機を迎えたのです。「しかし」、そのことを聞きこんだパウロの甥によって、その情報がパウロに伝えられ、そのことがローマの千人隊長にも知ら されることとなったのです。千人隊長には、ローマの市民権を有するパウロの権利を守り保護する義務がありました(17~22節)。すかさず、千人隊長は、 万全の策を講じてパウロをローマ総督のもとに護送するようにしたのでした(23~35節)。こうした中にも、パウロは切迫した情況の中で、冷静な信仰的総 合判断をしたのでした。
神の救いの歴史を導いておられる神が、ご自身の計画を実現するために、パウロの甥や千人隊長を用いられたことに、不思議さを覚えます。神の時に、神の方法で、神の人を用いられるのです。私たち一人一人も、そうした神の人なのです。

2.神の導きの確かさ
こうした神の導きの背後には、先にパウロに語られた復活の主イエスの御言葉が゜働いていました(11節)。その導きは、復活された主イエスが共におられるという確かさであり、導きの時は確かであり、導きそのものに誤りはないという確かさです。
このことは、イザヤ書に語られている神の約束の御言葉にあるように(55章11節)、神は、苦難の中にあっては特別の支えをもって、試練の中にあっては希望を与えて導き、その使命を果たさせてくださるのです。
私たちの中に、神の導きを必要としない人は、一人もありません。また、教会も世界の全体も、神の導きを必要としています。神は、人知を越えた不思議な導きを、御言葉に立った確かな導きを与えてくださいます。皆が、それに従えますように。