新約聖書」カテゴリーアーカイブ

聖なる者にふさわしく(2020.3.29)

宣教題 「聖なる者にふさわしく」      宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ5章1~5節

 初代教会は、迫害や自然災害や疫病といった問題のみか、不道徳や不一致や異端といった問題に遭っていました。そうした中にあって、すでに主イエスによって聖なる者にさているのですから、それにふさわしく歩むように命じています(3節)。

1.神の愛によって生かされるように  1~2節
 神に倣う者とは、神に愛されている神の子として、その愛によって生かされ、その愛を手本として愛することです(1節)。そして、主イエスが、ご自身を「いけにえ」として神に献げてくださるまでに私たちを愛してくださった、その愛に生かされて愛のうちを歩むのです(2節)。
 教会は、今日に至るまで、永遠の命が与えられているという確信のともなった希望をいだいて、信仰に基づく愛の共同体としての歩みをしてきました。いつまでも残るものは、この信仰と希望と愛に生きることです(1コリント13章13節)。

2.神を感謝して生きるように  3~5節
 続いて、聖なる者にふさわしくない言葉を口にしないことを命じています。それは、人を卑しめたり、自分をおとしめたりする不品行な言葉、神の不名誉となるような言葉を口に出してはいけないということです(3へ4節a)。そうでないと、偶像礼拝者となり、キリストと神の国を継ぐことができないからです(5節)。
 そこで積極的に口にする言葉は、神が備えて与えてくださるすべてのことに対して、神を感謝することです(4節b)。神が生きて働いておられることを信じて感謝し、神は変わることのないお方であることに望みをおいて感謝し、神が愛していてくださることを感謝するのです。

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新しい救い(2020.3.22)

宣教題 「新しい救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章14~23節

 救いという言葉は、思想的な意味で、経済的な意味で、道徳的な意味で、病のいやしといった意味などに用いられます。ところで聖書は、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いについて語ります。それは、全て人に必要な新しい救いです。

1.その救いに招かれているのは、あなた! 
 主イエスは、十字架に架かられる前日に、使徒(弟子)たちを食事に招きたいと「切に願って」準備してくださり、主イエスを中心にして弟子たちも周りに座りました。それは、かつてイスラエルの民が、神の救いを経験したことを記念しての「過越の食事」でした(14~15節)。この「出エジプト」の出来事は、神の審きが過ぎ越すということを意味する救いであり、囚われているところから解放されて新しく出発することを意味する救いでした(出エジプト12章)。
 主イエスは、罪人に対する神の審きを十字架上で身代わりに受けてくださり、新しい歩みをスタートする救いに招いていてくださいます。

2.その救いを受け取るのは、あなた! 
 主イエスが与えてくださるパンを食することは、主イエスと一つになることであり、ぶどう汁を飲むことは、十字架で流してくださった罪の赦しの恵みに与ることを意味しています(19~20節)。
 この主イエスが差し出された救いは、一人ひとりが自分で受け取ることによってのみ、自分のものとすることができるのです(17節、1テモテ1章15~16節)。「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16章16節)と招かれる主イエスの救いを受け取って歩み出すのは、あなたです。

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罪を赦される方(2020.3.15)

宣教題 「罪を赦される方」        宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ2章1~12節

イエスは再び、カファルナウムのペトロとアンデレの家に帰って来られた。イエスは救いを求める人がいるところに来て下さる。

1.イエスの元に集まる人々
 イエスのところへは、群衆、中風(麻痺)の人一行、律法学者たちが集まって来た。群衆は言い広まったイエスの評判を聞き、見に来た。中風の人一行は癒しを求めて。律法学者たちは偵察のため。それぞれの目的があった。

2.中風(麻痺)の人の罪の赦し
 当時は、体が麻痺して動かない人は、汚れた者として神の前に出ることができなかった。そうなった原因は、罪を犯したためと言われていた。(イエスは、それを否定していた[ヨハネ9:2,3])。イエスは病を癒すより、中風の人の罪を赦した。その人の本当の必要に応えられた。そこには、大きな喜びと平安があったであろう。
 罪が赦されたことは、外から見ていても分からない。律法学者たちはイエスが罪を赦す権威を持っている事が分からず、神を冒涜していると考えた。イエスは罪を赦す権威がある証明として、中風を癒した。難しい事を行うことが出来れば、より易しいことは当然行う事が出来るという証明方法であった。見ていた群衆は神を賛美した。

3.当事者になっているか
イエスは、日々私たちのところへも来てくださる。私たちは、群衆ではなく、律法学者でもなく、イエスの元に癒しを求めて来た中風の人のように、救い主イエスの前に出て、血潮による約束の赦しと、立ち上がる力を日々受け取ろう。そして、イエスの使者として喜びをもって遣わされる者とならせていただこう。

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あなたは誰の使者(2020.3.8)

宣教題 「あなたは誰の使者」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章1~13節

 主イエスは、ご自分が十字架に向かって歩まれる道を備えておられました。それに対して、主イエスの弟子たちがそれぞれ誰の使者となって歩んだかを語っています。

1.その道を踏み外す使者  1~6節
 ここに、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが登場します。ユダは、ユダヤ地方出身ということからプライドを持っていました。主イエスは、そのユダを信頼して会計を任せられましたが、彼はその会計の中身をごまかしていたのです(ヨハネ12章6節)。そして、主イエスを敵対する指導者に引き渡すことを決めたのです(4~5節)。その結果、敵方と手を結び、その使者となったのです。そこに見るユダは、サタンに対して心を開いている状態です(ヨハネ13章27節)。
 私たちは、主イエスがすでに備えておられる十字架の救いの道を、私たちの方から踏み外すことのないようにしたいものです。

2.その道を歩んでいく使者  7~13節
 ここに、主イエスが備えられる最後の晩餐のために、ペトロとヨハネは主イエスの使いとしての働きを始めようとしています。それは、主イエスがこの二人を信頼されて、ご自身が計画しておられることに参加させ、その道を歩ませることでした(8~10節)。すべては、「イエスが言われたとおり」だったのです(13節)。
 私たちは、いつでも主イエスに従って、その道を歩んでいくことが大切です。その意味が十分分からないとしても、主イエスの使者として遣わされているという意識をもって、託されている務めを果たしていくのです。その時、「後で、分かるようになる」(ヨハネ13章7節)との主のご計画に生きる祝福を経験をするのです。

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神の恵みに戻る(2020.3.1)

宣教題 「神の恵みに戻る」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ4章25~32節

 私たちが心の底から新たにされ続けるならば(4章23~24節)、その生活に変化が生じます。そして、その恵みに生きる生き方を見た人々にも変化をもたらします。

1.恵みを与える  25~31節
 主の恵みによって新しい人を身に着けていることにより、その言動が新しくされます。実際的には、次のように勧められる生き方です。
偽りを捨てて、愛の真実の言葉を語りなさい(25節、4章15節)。悪魔は、その愛の言葉を語ることを壊そうと隙を狙ってくるので、怒ることがあっても、罪を犯してはなりません(26~27節)。正当な働きで収入を得ることによって、困っている人々に分かち与えなさい(28節)。悪い言葉を口にしないで、人を造り上げる言葉が語られ、神の恵みが伝えられるようにしなさい(29節)。聖霊による救いの保証をそこなうような言動で、聖霊を悲しませることにないようにしなさい(30~31節)。
恵みを与える生き方に変えられ続けている教会でありますように。

2.恵みを与え合う  32節
 新しい人を身に着けた人たちは、「互いに」親切にし、憐みで接するようになり、何よりも「互いに」赦し合う生き方に変えられます。
 赦すことができたことは大きな恵みです。神と人に赦していただいていることを知ることも大きな恵みです。それは、互いに恵みを与え合う交わりから生まれます。そのようにさせていただくことのできるのは、キリストの十字架の事実によって、神が一人ひとりを赦してくださっていることを体験しているからです。

恵みを与え合い続けることのできる教会でありますように。

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永遠の救い(2020.2.23)

宣教題 「永遠の救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ21章25~38節

 イエス・キリストを救い主と信じている者は、神が一人ひとりにご計画をもっておられるゆえに将来への望みがあり、世界が聖書の語る通りに進んでいくという安心を持っています。そこで、今日の聖書箇所では、次のことを問いかけています。

1.世界の終わりが見えていますか  25~33節
 聖書は、この世の終わりについて直截に語ります。世界大の規模で異変が起こり、人々が気を失うほどの混乱に陥れるものです(25~26節)。そのようなことが起こるなら、神の永遠のご支配が近づいていることを知ることになり、それを「決して滅びない」神の御言葉によって確かめることができます(29~33節)。
 そしてその時、再臨される主イエスを全ての人が見ることができるのです(27節)。それは、魂も体も罪と死から完全に解放され、大いなる神の救いの完成がもたらされる時です(28節)。

2.あなたの将来が見えていますか  34~36節
 それに対して、私たちはどのような備えをしていればよいのでしょうか。神を見失った生活に対して心が鈍くなり、その虜になってしまうことのないように気をつけ、審判者である主イエスの前に立つことのできるように、「いつも目を覚まして」祈ることです(34~36節)。
 そのような備えをしている者は、人間は死んで終わりではなく、死後にさばきがあることを知っています(ヘブライ9章27節)。ですから、十字架と復活によって罪と死に勝利された主イエスを信じるのです(ヨハネ3章16節)。それは、永遠の滅びから救い上げて、神の永遠の栄光にあずからせる救いです。

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汚れの清め(2020.2.16)

宣教題 「汚れの清め」          宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章40~45節

イエスの宣教には、奇跡(しるし)が伴った。霊を追い出し、病人をいやした。そのみわざは発展し、汚れを清め、罪を赦す(2章)ようになって行く。今日の汚れの清めと、次回の罪の赦しは、神の子ならではの奇跡である。

1.汚れ
汚れているものは、聖なる神に用いられる事ができない。
重い皮膚病は、単なる病気の一つではない。その病を患っている人は、汚れていると見なされた(レビ13章)。汚れているものに触れたものは、汚れていると見なされ、汚れは伝染する。汚れを清めるには、定められた手続きを行う。しかし、思い皮膚病による汚れは自然に治癒することを待つしかない。他の人へ感染させないように接触を禁じられ、隔離されたところに住むように命じられていた(レビ13:45-46)。

2.イエスの思い
 イエスは、感染と汚れを恐れることなく、重い皮膚病を患っている人に触れ、病をいやされた。そして同時に、汚れを清めた(41,42)。この病がいやされたことが、イエスに清める力があることのしるしである。イエスが触れると、汚れが伝わるのと逆の事が起こり、汚れたものが清められる。神の子であるイエスは決して汚れない。
 いやされた人は、定められた手続き(44)をして、誰にも話さないように言われたが、イエスの声に耳を傾けず、宣教の妨げとなった。人の心を知っておられるイエスは、そうなる事が分かっていても、憐れんでその人を清めずにはいられなかった。そして、放蕩息子の父のように、その人が戻って来るのを待っておられた。イエスは今日も、そのような私たちを憐れみ、弱いところに触れて下さる。

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永遠への出発(2020.02.09)

宣教題 「永遠への出発」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ21章5~24節

 聖書は、この世の終わりについて、真正面から語っています。あわせて、それは新しい始まり、さらに良き始まり、永遠への始まりであることを明らかにしています。そのことを意識し、それに対して備え、生かすことが大切です。

1.時を正しく意識するように  5~9節、20~24節
 主イエスは、人生に終末があるように、この世界にも終末がやって来ることと、その時が滅びで終わるのか、それとも救いが完成するときなのかを問うておられます。
 まず、主イエスは、エルサレムが滅びることは、世が終わることではないと語られました(5~9節)。そして、不滅と言われていたエルサレムが滅びる日が来ることを予告されました(20~24節)。神の顧みと憐みを拒み、救い主イエスを拒んだ結果によって起こったのです。
 絶対大丈夫と思われていたことでも、不滅のものはありません。いったい、私たちは不滅信仰を何に置いているのでしょうか。

2.その時に対して備えるように  10~19節
 主イエスは、エルサレム滅亡以上の終末的な破壊が起こることを告げられました。
それには、争いや自然災害(10~11節)、キリストの名のゆえに受ける社会的圧迫や親しい者の裏切りやむ憎悪があります(12~17節)。
 しかし、そのような私たちをご覧になられる神は、「髪の毛の一本も決してなくならない」ほどに保護されます(18節)。そして、十字架を負うことから逃げないで忍耐しつつ(1ペトロ2章19~23節)、主イエスに信頼し切って生きることにより、救いを完成してくださるのです(19節)。

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心の底から新たにされて(2020.2.2)

宣教題 「心の底から新たにされて」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ4章17~24節

 キリストの体である教会に組み合わされて歩んでいる信仰者は、「古い人を脱ぎ捨て」「新しい人を身に着け」る者とされています。パウロは、それを宣誓でもするように、厳かに命じています(17節a)。

1.古い人を脱ぎ捨てる  17~19節
 古い人とは、愚かなむなしい考えで歩んでいる人です(17節b)。正しい判断ができず、心が頑なになって神の命から遠く離れた状態にあります(18節)。神の求められることに無感覚で、放縦と情欲に迷わされて滅びに向かっていきます(19、22節)。
 キリストを信じるということは、こうしたものを決断して一挙に脱ぎ捨ててしまうことです。そのために、キリストが一人ひとりの「古い人」を一切引き受けてくださり、脱いだものを着込んでくださり、まとめて十字架の上で処分してくださったのです(ローマ6章3節~4節a)。

2.新しい人を身に着ける  20~24節
 そして、同時に、決断して一挙に「新しい人を身に着け」させていただき、キリストとの生きた関係を持たせていただくのです(ローマ6章4節b~5節)。そこには、十字架に死んで復活されたキリストに結ばれて、キリストに聞き、教えられ、学びつつ歩む関係があります(21節)。
 そのようにして、日々「心の底から新たにされ」続けて、「真理に基づいた正しく清い生活」を歩み続けるのです(23節~24節)。それが、天の御国へと歩むにふさわしい装いに身を包み、その道を歩むにふさわしい態度と言葉と振る舞いを心がける日々となっていきます。

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神の前に生きる(2020.1.26)

宣教題 「神の前に生きる」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章45~21章4節 2コリント8章9節

 主イエスは、見える事実だけで物事を判断なさらず、その背後にある真実を見る目をお持ちです。何よりも、人がイエス・キリストを「主」と告白して(20章44節)、真に神の前に生きる生き方を見られるお方です。

1.人の目を気にする生き方  20章45~47節
 宗教的指導者で、目に見えない神を信じていた律法学者たちは、人の目を気にして生きていました。人々から敬虔な信仰を持っていると思われたいと、見栄のために生きるようになっていました。主イエスは、彼らの内実のない行動を忌み嫌われ、彼らにくだされる裁きを予告されています。
 主イエスに対する信仰がないと、この世のことだけに気を取られて、終わりを迎える時に何も残らない人生となります。しかし、主イエスに対する信仰の土台がはっきりするなら、希望が生まれ、愛のある成熟した歩みとなります。

2.神を目の前に置く生き方  21章1~4節
 ここに、有り余る中から献金した金持ちたちと、乏しい中から生活費を全部ささげた貧しいやもめの物語があります。彼女は、神の愛を一心に受けて、溢れる感謝を献金という形であらわしたのです。そこに、彼女の信仰姿勢があらわれています。
 これは、献金だけの話をしているのではなく、見えない神を目の前において生きる人の生き方を証ししているのです。それは、主イエスの十字架の犠牲にあらわされた「貧しさ」のゆえに、罪が赦され、神のものとされ、神に生かされている恵みの「豊かさ」に与った人が、その恵みに応答する生き方です(2コリント8章9節)。「主イエス・キリストの恵みを知っています」と告白し続ける生き方をしていきましょう。

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癒された人々(2020.1.19)

宣教題 「癒された人々」         宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章29~39節

 イエスと弟子の一行は、カファルナウムに着くと安息日に会堂で教え、汚れた霊を追い出した。その目的は、宣教である。(38節)

1. シモンのしゅうとめの癒し(29節~31節)
 一行は会堂で教え終わると、すぐ近くのシモン(後にペトロ)とアンデレの家に行った。そこでは、シモンのしゅうとめが熱を出して寝込んでいた。イエスをもてなすという、神の子との喜ばしい関係を、この熱は阻害していた。しゅうとめはイエスに癒されると、よろこんで一同をもてなし、神との喜ばしい関係を回復した。

2.町中の人々の癒し(32節~34節)
 日が暮れて安息日が終わると、町中の病人や悪霊に取りつかれた人々がイエスのもとに連れて来られた。人々は癒され、悪霊は追い出された。人々の目を神からそらすものは、快楽による誘惑ばかりではない。目の前の病、無知、困難は、神への信頼から遠ざけ、罪に陥れようとする。イエスは人々からそれらを取り除き、神との関係を修復しようとされた。悪霊にいうことを許されなかったのは、悪霊はイエスのことを、人々と神との関係を修復するようには伝えないからである。

3.宣教の拡大(35節~39節)
 イエスはカファルナウムから出掛けて行き、宣教する範囲を拡大された。宣教の目的は、罪を取り除き、神との喜ばしい関係を修復し、神への信頼を確立することである。イエスは祈りをもって神との関係を確立されてから出掛けられた(35節)。私たちも、祈りをもって神の前に出て、「悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)というイエスの教えに従い、神との喜ばしい関係を回復させていただこう。

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何を目指して生きるのか(2020.1.12)

宣教題 「何を目指して生きるのか」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ4章7~16節

 「キリストの体」である教会は、ユダヤ人であれ、異邦人であれ同じ神の招きを受けて一つにされ(1~6節)、その一致のうちにあって多様性をもっています。そこには、どのような目的と意味があるのでしょうか(7~16節)。

1.究極の完成を目指して 
 ここで語られるメッセージは、「ついには、わたしたちは皆」と、ただ一つのことに集約されています(13節)。それは、何を究極の希望として抱き、何を目指しながらいきているのかを明らかにしています。
 主イエス・キリストは、今、私たちと共にいて、私たちを導いておられます(9~10節)。その導きの目的は、私たちを「成熟した人間」すなわち完全な者とするためです。すなちわ、私たちが、復活の体によみがえらされて完成され、「キリストに満ちあふれる豊かさ」に与って、究極の完成された者とされることです(13節)。

2.キリストの愛によって成長し続ける 
 そのような究極の完成を目指して生かされている私たちに、今をどう生きるのかが語られています。それは、風のように変わりやすい教えに振り回されることなく、「愛に根差して」(14~15節)、一人ひとりが「キリストの賜物のはかりにしたがつて、恵みが与えられている」賜物を用い合い(7節)、「キリストの体を造り上げ」(12節)、教会の頭であられるキリストに向かって成長していくのです(15節)。
 そのために、牧師を始めとする教職と信徒が、渾然一体となって教会を建て上げる業に励むのです(11~12節)。こうして、キリストの愛によって教会が成長するとともに、一人ひとりもキリストの愛によって生かされ成長していくのです(16節)。

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恵みに生きる(2020.1.1)

宣教題 「恵みに生きる」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 1コリント15章1~11節

 私たちが神の愛を受け入れ、聖霊の賜物を受けることができるのは、主イエス・キリストの恵みを経験するからです(2コリント13章13節)。新しい年も、このキリストの恵みに生かされ、歩み、戦い、全うしたいものです(1コリント15章10節)。

1.何であるか  1~9節
十字架の死から復活されたキリストは、使徒たちから始まり、多くの者たちに現れてくださり、神に敵対していたパウロにも現れてくださり、クリスチャンの列に恵みによって加えられました(5~9節)。そして、その福音の言葉の伝承は、リレーのように受け継がれ、今日の私たちにまで至ったのです(1節)。
 私たちが今日あることができるのは「神の恵み」によります(10節a)。それは、キリストの十字架と復活を通して現わされた福音によってもたらされた神の救いです。私たちは、それを神の御言葉を信仰の手がかりとして信じているのです(2~4節)。

2.何をするか  10~11節
 パウロの生涯を一貫して導いてきたのが、「神の恵み」でした。彼が、使徒として召されたのも「神の恵み」によりました。それゆえに、「神の恵みは無駄」にならないために、誰よりも多く福音のために働いたのです。そうさせてくださったのも「わたしたちと共にある神の恵み」でした(10節)。

 キリストに結ばれている私たちは、パウロと同じ立場に置かれています。神の恵みによって主の業に満ち溢れることが、私たちを動かし、教会を動かすのです(1コリント15章58節)。神の恵みに追われる歩みをスタートさせていただきましょう。神の恵みに追われる日々を歩み続け、全うさせていただきましょう(詩編23編5~6節)。

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自分の町へ帰る(2019.12.29)

宣教題 「自分の町へ帰る」       宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 ルカ2章1~7節

 クリスマスおめでとうございます。と言うと、皆さんには違和感があるでしょうか? わずか4日前にはクリスマスを祝っていたのに、私達は師走と年始へと舵を切っています。12月25日はキリストの降誕を記念したクリスマス、1月6日は東方の学者たちが来訪したことを記念した公現祭です。本来はこの期間がクリスマス・シーズンです。私達は、この時期をどの様に過ごすべきでしょうか。

1.クリスマスにある誤解
 クリスマスをキリストの誕生日としてお祝いしていますが、誕生を記念する日であり、誕生日ではありません。この日付はローマ帝国時代に定められました。

2.正月文化に対抗するべきか
 日本独特の文化である正月に向かうこの時期、私達の信仰とは異なるとして、独自な文化を築くべきでしょうか。
 イエスの父母は、アウグストゥスの命令により、ベツレヘムへ移動してきました。その時代の政府の命令、当時の文化に従ったものでしたが、それは神のご計画でした。その結果、預言通りキリストはベツレヘムでお生まれになりました。
一見すると、世から出ている事で、従う必要は無いと思えるような事でも、その背後には神のご計画があります。

3.家族と共に過ごす事も主のご計画
 年末年始に限りませんが、飼い葉桶にイエス様が寝かされたように、私達の意に反する状況が訪れます。その背後に主のご計画があると認めるとき、神の栄光が現われることを、マリアとヨセフの信仰による行動から見てとれます。どのような時でも、主の祝福が注がれている事に、目を留めさせていただきましょう。

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大いなる決断の日(2019.12.22)

宣教題 「大いなる決断の日」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 マタイ2章1~12節

 クリスマスは、神が独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちのために立ち上がってくださった決起の日です。それに応じて、クリスマスこそ、私たちが神のもとに帰り、神に向かう決断の日です。

1.神の大いなる決起の日  1~9節
 クリスマスにまつわる人物たちは、神からの語りかけ、聖霊による導きのなかにあって、主イエスとの出会いをしました。
 その中でも、東の方から旅を続けてきた占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を熱心かつ真剣に求める旅を続けていました。しかし、彼らは自分たちの知識や力によってエルサレムまで来ましたが、救い主に会うことはできませんでした。御言葉によって「ユダの地、ベツレヘム」を示していただいて、神の導きいていただくことが必要だったのです。
 私たちは、神に引き上げていただき、御言葉に信頼を置く中から神に導いていただいてこそ、救い主イエスとの出会いがあるのです。

2.私たちの新しい歩みを決断する日 10~12節
 幼子イエスに出会った学者たちは、彼らの最も貴重な物を主イエスに献げて礼拝しました。そして、「別の道」を通って自分たちの国に帰ったのです。
 王の王、主の主であるイエスとの出会いを与えられた者は、もはや以前と同じ生き方をするのではなく、他の生き方が神によって備えられています。それゆえに、主イエスは、私たちが新しい歩みを決断するように招いておられます。
 主イエスは、私たちが待ち望んだ以上のことをされるし、祈った以上のことを経験させてくださいます。神のすごみを経験させていただきましょう。

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