新約聖書」カテゴリーアーカイブ

ついて来なさい(2019.10.13)

宣教題 「ついて来なさい」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章16~20節

イエスは福音を宣べ伝えている地で、漁師たちに声を掛けられた。

1.主は御覧になっている 16,19節
 神である主は、弟子にする前、信仰を持つ前の漁師たちを御覧になっていた。神は全ての人を御覧になっている。そこから漏れる人は一人もいない。

2.主は招いておられる  17,20a節
 主は宣教されている地で、人を招かれた。ガリラヤからはじまった宣教は、日本の私達のところにまで来た。今や私達のいる所も宣教の地となっている。主は宣教の地で人を呼ばれ、「わたしについて来なさい。」と言って招いておられる。それに従う者には、「人間をとる漁師にしよう」と約束されている。

3.主の後について行った 18,20b節
 呼ばれた四人の漁師は、仕事を残してイエスに従った。私達もまた、主に、ついて来なさいと呼ばれている。あなたはそれを聞いて、どうされるだろうか。
 主は従うものを、人間をとる漁師にされる。人間をとる漁師となり、主の弟子となるのに必要なことは、主に従う事だけである。従う人を、主は責任をもって弟子とされる。私達は主と出会ったとき、漁がうまく行くように、天候が守られ、たくさん収穫があるようにして下さいと願う。しかしそれは、主に従うのではなく、主を従わせる事になっている。主に従うとは、私の目的を主に達成させることではなく、主の目的を私が達成することに他ならない。

 主に従った4人の漁師は、段階を経て成長し、使徒となり、イエスの目的である宣教を受け継ぎ、私達のところまで福音を届けた。今主は、あなたにどのように従うように、呼びかけられているでしょうか。

聖書朗読(0.3MG)

メッセージ(10MB)

何のために祈るのか(2019.10.6)

宣教題 「何のために祈るのか」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章14~21節

 パウロは、心を込めて、思いの限りを尽くして「ひざまずいて」父なる神に祈っています(14~15節)。その祈りは、さながら聖餐式に臨む者のような祈りです(1コリント11章24~25節、10章16節)。何を祈り求めているのでしょうか。

1.内なる人を強めてくださることを  16~17節
 悪の力・世の力・肉の思い・誘惑が、信仰者の「内なる人」を弱らせます。
その「内なる人」を強めてくださるのは、父なる神が、聖霊によって、信仰者の「内にキリストを住まわせ」て全てを支配し、キリストの愛に根を張り、その愛にしっかりと基礎づけられ、その愛で満ちあふれさせいただくことによります。このように神の恵みによって、内なる人を強めていただくことを祈るのです。

2.キリストの愛を知ることができることを  18~19節
 キリストの愛は、その愛の中に飛び込んでいくことによって知ることができます。そして、「すべての聖なる者たちと共に」キリストの体である教会に加えられてこそ、本当にキリストの愛の豊かさを知ることができるのです。
 そうすることによって「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり」、神の恵みに満たされることを祈るのです。

3.神をたたえることができることを  20~21節
 その祈りは、神をたたえる賛美へと拡がっていきます。それは、神が、私たちに働きかける神の御力により、私たちが願い思うことをはるかに超えてかなえてくださるゆえに、教会において、キリストによって神に栄光を帰することです。

 こうした祈りは、今日まで多くの人たちを通して証しされてきました(コロサイ4章12節)。これこそ、私たちの教会の大切な究極の祈りです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(10MB)

安らぎをあなたに(2019.9.29)

宣教題 「安らぎをあなたに」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ14章27~31節

 主イエスは「わたしの平和(平安)を与える」(27節)と言われました。主イエスがお持ちであった平安とは、どのようなものだったのでしょうか。それを私たちひとり一人は、どのように受け取るのでしょうか。

1.生き方に確信がありますか  31節
 主イエスは、父なる神のみ心にかなった生き方をしているとの強い確信をもっておられました。それゆえにもっておられた平安だったのです。
 私たちは、この主イエスを知ることによって、生きることの意味や将来について知ることのできる確信ある生き方をするのです。そこに、主イエスから与えられる平安があります。

2.暗い陰が心によぎりませんか  30節
 主イエスは、神の真実な愛をもって生きられました。そこには、罪と悪の支配の及ばない平安があったのです。
 その主イエスが、私たちの罪と悪の支配から解き放つために、十字架の身代わりの死を遂げてくださいました。罪を赦し、新たに生まれ変わらせてくださる主イエスの愛の招きに応えるときに、主イエスから与えられる平安があります。

3.いつでも信頼できる主イエスを知っていますか  28節
 主イエスは、「父のもとに行く」と言われたように、十字架に死んで復活されました。この父なる神に信頼し切っておられたゆえにお持ちの平安でした。
 私たちは、苦難や問題に直面したときの不安、死に際して抱く恐れを経験します。そのような時にも、復活され今も生きておられる主イエスに信頼して永遠の今を生きるところに、主イエスから与えられる平安があるのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.0MB)

いつまでも残るもの(2019.9.15)

宣教題 「いつまでも残るもの」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 1コリント13章13節

 愛の神は、人間として大切なものを見失いつつある私たちに、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と語られて、この大切なものを受け取ってほしいと願っておられます。

1.人生は「信仰」から始めよう 
 聖書の「信仰」という言葉には「真実」との意味が込められています。人としての真の道は、すべてを創造された唯一の神を信じる人生にあります。
私たちが、この宇宙や大自然界の神秘を、人間の存在の不思議さを目の当たりにし、その背後におられる創造主の神の存在を認めて信じることにより、人として真の道を歩みだすことができるのです(イザヤ書40章26節)。

2.信仰は「希望」につながる 
 神を信じる人生には、不思議な希望が伴います。それは、困難に囲まれながらも、輝きを発して生かされるところから生まれる希望です(ローマ5章3~5節)。   
また、死に直面してもなお揺るがない、死をも超えた希望です。
真実な神は、死を乗り越え、突き抜け、永遠の世界にしっかり結びついてこそ得られる本物の希望を備えていてくださるのです。

3.「神の愛」こそが希望を与える 
 困難の壁を崩して進み、死の暗闇を打ち破るために必要なのは、「その中で最も大いなるものは、愛である」と言われる神の愛です。
 神の愛は、独り子イエス・キリストを通して現わされました。私たち罪人のために十字架で身代わりに死んでくださり、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。ここに、神の愛があります。この神の愛を「私のため」と受け取るだけです。

聖書朗読(0.1MB)

メッセージ(12MB)

祝福の根源(2019.9.8)

宣教題 「祝福の根源」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章28~48節 1コリント6章19~20節

 本箇所は、主イエスが平和の王として来られてエルサレムに入城され、この後十字架のご受難の道に向かわれた危機的な場面です。この時、人々は主イエスをお迎えしましたが、それが必ずしも主の御心に沿うものではありませんでした。

1.救い主の訪れを見過ごさないように  28~44節
 主イエスを迎えるに際して、二つのグループがありました。一つは、イスラエルの王として迎え入れた弟子たちや多くの群衆です(36~38節)。もう一つは、主イエスを拒絶したユダヤの宗教家たちで、主イエスを妬み、亡き者にしようとしていた者たちです(39~40節)。それに対して、主イエスは、ご自身を通してもたらされる神による平和の道を見失い、ご自身を通して神が訪れておられることを見過ごしている者たちへ、泣いて審きを予告されました(41~44節)。
 さて、私たちは、救い主イエスが私たちを訪れて良心に語りかけておられる御声を退けないで、「主よ」とお迎えして応答することが肝要です。

2.永遠の救いを失わないように  45~48節
 主イエスは、神を礼拝すべき神殿が強盗の巣となっており、そこにあった多くの罪のゆえに怒られました(45~46節)。それに対して、宗教家や指導者たちの主イエスに対する殺意はますますエスカレートしていきました(47節)。彼らは、本来の礼拝をする場所に戻そうとされた主イエスを無視して、自分たちの一時的な満足のために永遠の救いを失ったのです。
 さて、私たちは、主イエスが血をもって買い取られた神殿であり、神のものとされたのですから、そこを主イエスに明け渡すことが祝福の根源です(1コリント6章19~20節)。この恵みに生きるなら、霊的に老いることはありません。

聖書朗読(1.0MB)

メッセージ(8.0MB)

恵みの賜物(2019.9.1)

宣教題 「恵みの賜物」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章1~13節

 この手紙は、教会とは何なのか、教会に生きることと教会に仕えることとはどういうことなのかを中心に語ります。本箇所では、話題を転じて挿入するようにして、神の恵みを賜わっている者の生き様を伝えています。

1.ひとり一人の生涯が変えられる  1~9節
 神の救いの「計画」の全貌は、キリストによって、聖霊の御働きによって「啓示」され開かれました(3節、4節、5節、9節)。そのご計画は、ユダヤ人も異邦人も皆等しく、神の民としての約束と救いに与ることを定められ、それをキリストによって実現されました(6節)。この福音こそが、神の恵みの賜物であり(7節a)、それを受け入れた者の生涯を変えるのです。
 さらに、「この福音に仕える者」とする恵みの賜物でもあります(7節b)。この恵みの生涯を歩み続けるならば、恵みにより謙遜にされ続け、深められていく歩みとなります(8節、1テモテ1章15節)。

2.その苦難の中に栄光を見る  10~13節
 こうした神の恵みを賜わっている者の生涯は、苦難を経験しないとは限りません。むしろ、キリストのために、他者の救いのために受ける「苦難」の歩みでもあります(1節、13節)。それゆえに、パウロは、キリスト者とその教会に「落胆しないでください」と励ましているのです。そのことの中に神による「栄光」を見るからです(13節)。

 教会のための苦しみは、教会に生きる喜びと分かち難く結びついています(コロサイ1章24節)。それは、キリストが十字架と復活を通してたどられた価値ある歩みです。私たちも、この信仰の確信を高らかに宣言しましょう(12節)。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11MB)

キリストの期待(2019.8.18)

宣教題 「キリストの期待」     宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章11~27節

 教会に連なるクリスチャンたちは、主イエスが再臨されることを待望しつつ、神の歴史を歩んでいます。このたとえ話では、その期間どのように過ごすのかを明らかにしています。そこには、キリストの期待があります。

1.主の福音を託された歩みをする 
 このたとえ話は、10人の人に1ムナずつ公平に託されています、主イエスから公平に託されているものとは、だけでもイエス・キリストを信じて悔い改めるなら、救われるという賜物です(エフェソ2章8~9節)。神から無代価でいただけるこの恵みに対して、本気で感謝しているか、そのことが小さなことに見えて、かすんでいることはないかと問われます。
 キリストが期待されていることは、クリスチャンは主イエスが再臨されるその時まで、託された主の福音を生活の場で生かし(13節)、主の福音を忠実かつ熱心に宣証していくことです(17節)。

2.主との交わりが深められていく 
 10人に公平に託された1ムナでしたが、主人が帰って来た時に、3人の僕だけが主人の前に進み出ました。1ムナを10倍また5倍にした人は、主人をどこまでも信頼して、忠実に仕えたのでした。1ムナをそのまましまっておいた人は、主人に対する理解がなく信頼せずにいたために(21節)、主人は失望しました。

 クリスチャンは、主イエスご自身とその救いに対していつも信頼しつつ、主の福音を宣証し続けるのです。そうすることによって、主イエスがどういうお方であるかを知り続け、その救いがますます深められて豊かにされていくのです。神の栄光が現わされ、主イエスが喜ばれる群れとさせていただきましょう。

聖書朗読(1.0MB)

メッセージ(10.9MB)

キリストが私たちの平和(2019.8.11)

宣教題 「キリストが私たちの平和」    宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ2章14~22節

 誰もが平和に暮らしたいと望むのは、パウロの時代も今も変りません。ところが、平和を求めていながら、人間と人間の間に強固な「敵意という隔ての壁」(14節)があって、互いに疎外し、分断し、分裂し合っているのが現実です。

1.主の十字架こそが 
 敵意という隔ての壁がひとたび築かれると、取り除くのは何と難しいことでしょう。そうした人間の現実に対して、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(14節)と宣言しています。キリストこそが、「一人の新しい人を造り上げて平和を実現」されるからです(15節)。
 そのために、キリストは「十字架によって敵意を滅ぼされました」(16節)。そこには、人が神に対して敵意という壁を築いてきたという事実があります。また、神はご自身の正義と平和を私たちに要求して裁かれるのではなく、ご自身が十字架に架けられてまで、私たちに対する愛を貫かれたという事実があります。

2.主の十字架の道を生きることが  
 それゆえに、私たちは、キリストの十字架によって一つに結ばれているのです(17~18節)。ですから、私たちはキリストの平和を他の人に要求するのではなく、私たち自身がキリストに倣って十字架の道を生きるのです。
 ただし、その道は、孤立して歩むのではなく、教会において、信仰の仲間たちと共に歩むことによって培われていくのです。そこにおいて、神の家族として結ばれ、神の愛の交わりをもって生きるのです。聖霊の働きによる絆で結ばれ、聖なる神殿となって神の住まいとなるのです。キリストが自分たちの平和であることを存在の根拠に置く人々が加えられることを祈り、労するのです(19~22節)。

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(9MB)

受けた恵みを忘れずに(2019.8.4)

宣教題 「受けた恵みを忘れずに」     宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ2章11~13節

旧新約時代の神の民とされた者たち、そして今日の私たちは、信仰者とされた感謝と喜びが薄れ、他の様々な事に優先順位を与えがちになります。それに対して、「心に留め」(11節)、忘れないで覚えていなさいと勧めているのです。

1.以前には、これまでも  11節~13節a
まず、「以前は」と、神の救いの恵みを受ける前の状態を思い起こさせています。ここに、割礼なく、キリストなく、国籍なく、約束なく、希望もなく、神もない深刻な状態が語られています。
それが、「遠く離れていた」状態です。すなわち、神が見えず、神のことを意識することもない遠さの中にいたということです。人と人とを分断し、隔てる壁を築き合っていたのです。人を敵と味方に分け、仲間とそうでない人々を区別し、互いに恐れ、不信感を抱き、高慢さで断絶された状態でした。

2.今も、これからも  13節b
しかし、「今や」、神と人の両方に「近い者になった」と高らかに宣言しています。神の選民も異邦人も「キリスト・イエスにおいて」、神によって子として受け入れられ、神の国の国籍を持つ者とされたのです。「キリストの血によって」罪を赦された者同士が、共に喜び、共に泣き、互いに兄弟姉妹として受け入れ合う近い者とされたのです(1コリント11章24~25節の「記念として」を参照)。

私たちは、エフェソの人々と同じように、「今や」すなわち今も、これからも、天の御国に迎え入れられるその時まで、順境の時も逆境の時も、神の恵みを忘れずに、絶えず感謝し、常に喜んでいるのです。この感謝と喜びが、自分だけでなく、関わる人々を潤すのです。ここに勝利ある信仰生活があります。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(11MB)

神の国は近づいた(2019.7.28)

宣教題 「神の国は近づいた」       宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 マルコ1章1~15節

 マルコによる福音書は、主にペテロから聞いた事を書き記しています。その中心は、神の子イエス・キリストの福音です(1節)。そのため、イエスの生い立ちに関する記載は一切なく、福音が伝えられ始めるところからはじまります。

1.イザヤの預言
 福音は、救い主であるイエス・キリストより先に、洗礼者ヨハネが活動を開始したときから始まります。しかし、それより700年も前に、旧約聖書に預言として書かれています。神は福音の備えを、私達が命を与えられるはるか前から計画されていました。神ははるか昔から、私達を愛し、福音を計画されました。

2.ヨハネの預言
 ヨハネは罪の赦しを得させるため、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(4節)。福音は、神からの赦しをもたらします。私達は神に罪を悔い改めるとき、赦されます。そのためには、自らが罪人である事が判り、認める必要があります。
 ヨハネは、水で洗礼を授けましたが、聖霊で洗礼を授ける方が来ることを預言しました。

3.イエスの預言
 イエスが現れて、ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊が天から降って来ました。聖霊は神ご自身であり、天から降って来られます。地上にあるものではなく、神からしか与えられません。聖霊は神の力を与えます。イエスは荒れ野で誘惑を受けますが、聖霊の導きによって勝利し、神の福音を伝え始めました(14節)。神が王である王国が近づいたとイエスは預言します。王国の民は王に守られ、豊かになります。神の国に入るには、罪の赦しとともに、悔い改めて与えられます。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11.9MB)

神の匠のわざ(2019.7.21)

宣教題 「神の匠のわざ」       宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ2章1~10節

 本箇所では、キリストを信じるようになる前(Before)と、キリストを信じるようになった後(After)の違いを、対比して見せています。そこには、神の匠としての見事な恵みのみ業が明らかにされています。

1.どんなにひどい状態であっても   1~6節
 私たちのキリストを知る以前について明快に語っています。「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」(1節)のであり、将来の望みがない状態でした。それは、この世の価値観だけに基づいて「過ちと罪を犯して歩んでいた」のであり(2節)、肉の欲、肉の思いに基づく生き方を追い求めていたのでした(3節)。
このように死んでいた私たちは、「神の怒りを受ける」ばかりの状態でした。
 「しかし、憐み豊かな神は」、怒りによって裁くことをせず、滅ぼすことをせず、その愛ゆえに独り子イエス・キリストを遣わして救いの道を備え、新たに造り変えてくださったのです(4~6節)。神の恵みだけがそれを可能にしました。

2.どんなに見事な神の作品に   4~10節
 神の救いは、キリストにおいて成し遂げてくださった恵みの働きによって実現しています(5~6節)。神の愛と憐みのゆえに、死んでいた者が生きる者とされたのです。このように「救われたのは恵みによる」のであり、救いへの途上にあるのでも、救いのために努力しているのでもなく、救われた者として苦闘しているのです。この神の恵みは、信仰を通して私たちに働くのです(8~9節)。

 このようにして、「わたしたちは神に造られた」神の作品であり、神が備えてくださった「善い業を行って歩む」のであり(10節)、キリストに結ばれた者としてキリストを現わし続けていくのです(7節)。誇るならば、この神のみ業を!

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(13MB)

祝福の担い手(2019.7.14)

宣教題 「祝福の担い手」     宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ19章1~10節

 主イエスは、ザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」(9節)と言われました。訪れたとは、出来事が起こったということです。主イエスはこの出来事を通して、神の救いの祝福の担い手は、どういう人なのかを明らかにされました。

1.どういう出会いをするか 
 ザアカイは、この世の価値は富にあると考えてはいたものの、それでは本当の納得のいく人生を送れないという寂しさを覚えていました。徴税人を仲間としてくださる主イエスを見るために、彼はその踏み台として「いちじく桑の木に登った」のです(4節)。これは、何かの踏み台をもって主イエスを見ようとする人間の魂の状態を表しています。
 そんなザアカイに向かって、主イエスは彼の名を呼び、招き、交わりを持とうとされました(5節)。彼は、主イエスの御言葉をなぞるようにして、その救いの招きに引きずり込まれていきました(6節)。私たちひとり一人も同様です。

2.どういう生き方が生まれるのか 
 二つの問いかけを聞きます。一つは、つぶやく人たちのように、自分も罪人のひとりであることに気づいていないことはないか(7節、1テモテ1章15~16節)。
二つは、ザアカイのように、主イエスの救いの恵みに与って、心と生活が神の願われる価値観をもった生き方に変わっているか(8節、2コリント5章16~17節)。
 主イエスを受け入れて結び合わされたザアカイは、アブラハムと同じように神の祝福の担い手となりました。この救いの出来事は、ザアカイの家族に救いが及んでいく始まりとなったのです(9節)。これこそが、神から、隣人から失われていた、自分で自分を見失っていたひとり一人への救いの招きなのです(10節)。

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神の現実を見て生きる(2019.7.7)

宣教題 「神の現実を見て生きる」     宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ1章15~23節

 パウロは、神をたたえる賛美(1章1~14節)と神への祈りをささげています。(同15~23節)。その神への祈りは、神の現実を見て生きるためには、何であれば、どうあればよいのかを明らかにしています。

1.神を深く知らされ続ける  15~17節、20~23節
 パウロは、エフェソの人々の信仰と愛に対して「絶えず感謝しています」(15~16節)。そして、とりなしの祈りが展開されています(17~19節)。その最初の祈りが、「神を深く知ることができるように」との祈りです(17節)。
 神は、キリストを十字架に死なせ、復活させ、昇天させて神の右の座に着座させ、すべてのものを支配下に置かれました(20~21節)。そして、教会においてこの「神を深く知る」ことができるようにしてくださり、その恵みを受け取らせてくださったのです(22~23節)。
 神を体験的に知り続ける中から、神の現実を見ることができるのです。

2.神が心の目を開き続けてくださる  18~19節
 続いて、神が「心の目を開いてくださるように」と祈っています(18節)。ところが、現実は人が見聞きしていることにとらわれて、神を信じることに意味も価値も見い出さず、神の御旨を尋ねることなしに生きていることがあります。
信仰とは、この世の現実だけしか見ないことを止めて、神の現実を見て生きることなのです。ですから、神の招きによる希望、信仰者が受け継ぐべきものの豊かさ、わたしたちに対する神の力の絶大さという救いの現実を見ることができるように「心の目を開いてくださるように」祈るのです(18~19節)。

私たちは、神が祈りに答えてくださるとの信仰を抱いて生きるのです。

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地の果てに至るまで(2019.6.23)

宣教題 「地の果てに至るまで」      宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 使徒言行録1章6~11節

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」私たちは、信仰を持つと同時に、宣教する事が神の命令であると言われ、努力してきたのではないでしょうか。

1.聖霊が降るとき
 しかし、イエスは宣教に行く前に、する事があると言われます。それは、聖霊が降るのを待ち、聖霊によって力を受けることです。宣教には、困難が待ち受けています。それは、異教との闘いであり、文化との闘いであります。海外宣教は更に多くの困難があります。気候や病気、食べ物、言葉の壁、経済的な事、クリスチャンの仲間、命の危険、人手不足等々、上げればキリがありません。その様な中で、失敗し挫折し、自分を見失ってしまう事があります。
 聖霊が降るとき、自分が罪人であることがはっきり分り、イエスが救い主であることが分かり、自分が救われていることが分かります。それは、自分が何者であるかが分かる事です。宣教(doing)をする前に、自分が何者(being)であるかが分かっていなければ、困難にあったとき、踏みとどまる事ができません。

2.わたしの証人となる
 地の果てには、頼りになるものがあまりありません。支えになってくれる家族、友人、頼れる医者、慣れ親しんだ食事、本や漫画、教師。それらは遥か遠くにあります。遠くにありますが、それらの支えがなければ、証人としてその地に立ち続ける事はできません。使徒たちが地の果てに宣教に出て行ったとき、エルサレムでそれを支援する使徒もいました。宣教は、出て行く人と残って支える人のチームです。どちらも主の証人であり、聖霊による力でする事が必要です。

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そこに救いがある(2019.6.16)

宣教題 「そこに救いがある」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ18章35~43節

 主イエスは盲人に、「何をしてほしいのか」と問いかけられることにより、彼の願いを知られ、また主イエスご自身の願いを明らかにされました。そのことを通して、神の救いへと招かれたのです。

1.あなたの願い  
 人は誰もが、その人なりの願いを持っています。そして、そうした人間の願いがこの社会を作り出していると思っています。
 さて、この盲人は、主イエスに対してただ一つのはっきりした切実な願いをしています。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶ盲人に対して、人々は「叱りつけて黙らせようと」しましたが、なお叫び続けています
 神は、いかなることに対しても「わたしを呼びなさい。苦難の日、わたしはお前を救おう」(詩編50編15節)と私たちを招いておられます。

2.神の願い  
 主イエスは、叫び呼び求める者に「何をしてほしいのか」と尋ねられました。そして、主イエスは、ご自身に対する彼の信仰に対して御業をなされました(41~42節)。そうしてくださるのは、神が愛のお方だからです。そのようにして、人間の願いと神の願いが一つになって、新しい人生が始まりました(43節)。

 このように、かつて盲人に成されたことは、今この私たち一人ひとりに成されます。神の願いは、自分の本当の姿が見えない、主イエスが見えない、また十字架上の主イエスの御言葉と叫びが聞こえないでいる者が、主イエスを仰ぎ見る目をもって、主イエスに従っていく人生へと歩みだすことです。そこに生きる意味があり、慰めと喜びがあり、使命が与えられる新たな人生があります。

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メッセージ(8.4MB)