旧約聖書」カテゴリーアーカイブ

ノアの箱舟と大洪水(2019.9.22)

宣教題 「ノアの箱舟と大洪水」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 創世記7章1~5節

 洪水物語は世界中にあり、誰でも絵本や物語を聞いた事、見た事があると思います。聖書には、ノアの洪水のことについて、創世記6章から8章に書かれています。

1.洪水はなぜ起こったか
 神様は天地を創造されたとき、できたものを見て、「良かった」と言われ、満足されました。そして、地を人の管理に任せました。しかし、人は常に悪いことばかり思い計るようになり、神様は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。そこで、地にいるすべてのものを洪水によってぬぐいさる事にされました。(創世記6章6節、7節、14節)

2.ノアとその家族はなぜ救われたのか
 そのような中にで、ノアだけは神様に良い人だと認められます。(創世記7章1節) そして、洪水が起こる前に箱舟を造り、動物や食料、家族をその中に入れ、洪水から逃れるように命じられます。ノアは神様に従い、その通りに行います。ノアの家族は、ノアの言う事を聞いて一緒に箱舟に乗り込み、救われました。

3.大洪水はもう起きないのか
 神様は洪水の後、水によってすべて滅ぼすことは決してない。虹がその約束だと言われました。(創世記6章16節)
 世界が滅びるほどの大洪水は起こさないと神様は約束されました。しかし、地に不法が満ちたとき、火で焼き尽くされると聖書は警告しています。逃れられるのは、神様の言われたことを聞く人だけです。今、イエス・キリストを救い主として信じるように神様は言われています。

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主こそ救い(2019.8.25)

宣教題 「主こそ救い」       宣 教  宮澤 清志師
聖 書 エレミヤ17章1~14節

 私たちは、「祝福される」すなわち「幸いな人」とは、周りの環境に恵まれ、何の苦労もなく生きている人であると考えます。しかし、この箇所においては、祝福された人にも暑さや干ばつが襲うとあります(8)。一見、呪われた人(5)と同じ境遇のように感じられます。
では「呪われた人」と「祝福された人」とは、いったい何が違うというのでしょう。

1.罪の中の人間の姿
 まず、ここでは神を失った人間の姿は、「人間」に信頼する生き方であると語ります(5)。自分を信頼し、自分が築き上げた「富」(11)を信頼し、結果、その人は「神を失った者」(11)となるというのです。
 また、そのような人は「荒れ地の裸の木」(6)にたとえられています。からからに乾ききった不毛の地、炎暑の地を住まいとする人のようだとこの箇所は語ります。
 そして聖書はそのような人の心を「とらえ難く病んでいる」(9)と語るのです。そのような心の現実に振り回され、心に傷を負い、自らを傷つけているのが人間の姿であるような気がします。

2.人間に対する神の愛
 そのような罪の中にいる人間に対して、預言者エレミヤは神に嘆きます。エレミヤは、人間の現実の姿にただ涙し、嘆いているのではなく、救われる道があると説くのです。それが、救い主である主のもとに帰ることなのです。

 「癒し主」であり「救い主」であるお方のもとに帰ることができますように。

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神が召すとき(2019.6.30)

宣教題 「神が召すとき」          宣 教  大嶋重徳師 
聖 書 イザヤ書6章1~13節

ウジヤ王の死んだ年にイザヤは神殿で幻を見ます。神の為さることの全てに神のご計画があるのであれば、この時、イザヤに神は語らなければならないことがありました。イザヤの住む南ユダ王国は偶像礼拝、姦淫、不品行が満ち、形だけの礼拝をする民が多く居ました。すでに預言者の働きを始めていたイザヤにとって、ユダの状況は怒りと裁きの預言を語るしかなかったのです。

しかし神はご自身をイザヤにあらわされ、イザヤに「わたしは汚れた唇の者」さらに「汚れた唇の民の中に住む者」(5節)と自らの罪とユダ王国の罪人の繋がりの中にいる自らの存在の告白に導かれます。そして「すると」(6節)という言葉と共に、神の側の一方的な救いの業が起こり、「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)という赦しの宣言がイザヤに聞こえてくるのです。

キリスト者は、自らの罪深さを深く知りつつ、尚、礼拝の只中で神の圧倒的な赦しに身を置いていることを深く知らされていく者とされているのです。そしてさらにイザヤは驚くべき神の声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(8節)。この驚くべき神の召命の実際を聞いたイザヤは「主よ、いつまででしょうか」(11節)と自らが受けた救いをあのイスラエルの民の中でいつ実現するのでしょうか?という祈りをささげ、キリスト預言に生涯をささげました。

私たちは今日、自分に与えられた救いの事実からどのように主の召しに生きるように導かれているでしょうか。

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数えてみよ 主の恵み(2018.12.30)

宣教題  「数えてみよ 主の恵み」       宣 教  今田好一牧師
聖 書  詩編103編1~5節

主の2018年最後の礼拝を迎え、この一年をふり返って、主が与えてくださった恵みの数々を思い起こし、主に感謝を献げさせていただきましょう。

1.わがたましいよ、主をほめよ
全身全霊をもって主をほめたたえなければ、神への感謝を忘れてしまうほど、わたしたちは愚かで鈍い者です。神の恵みは湧き溢れる泉から、わたしたちに注がれ、潤され続けているのだから、そのことを忘れないようにしたい。わたしたちが、神の恵みを何一つ忘れないためには、ひとり静かに神の恵みを思い巡らすことが大切です。その時、感謝と賛美が終わることはないのです。

2.すべての不義を赦された者として
すべての不義を赦された者の神への感謝の理由を以下に六つ記します。
(1)わたしのすべての不義を赦してくださった。(2)わたしの家族のすべての病を癒してくださった。(3)死と滅びからの贖いを成し遂げてくださった。(4)恵みとあわれみとの冠を与えてくださった。

3.一生良いもので満たしてくださる
(5)神が創造主であり、養い主でもあられる。(6)わたしたちと教会を常に新しくしてくださる。わたしたちの肉体は衰えますが、永遠にきよめてくださる霊と共に、永遠の命を宿す栄光の体が与えられる日が来るのです。
わたしたちが、主の恵みを数え、主に栄光を帰し、今年一年の守りと励ましと、救いの恵みの確かさを喜び、新しい年に向かって若々しい命と力を更新していただき、御国を目指して歩みましょう。「数えてみよ 主の恵み」を!

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思いがけなく来られる神(2017.12.3)

宣教題 「思いがけなく来られる神」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 マラキ3章1~5節

 待降節(アドベント)は、クリスマスを迎える準備を日々に過ごすこととともに、再び来臨されるキリストを待望する備えをする時です。旧約の最後の預言者マラキは、そのことを語っています(1節)。「主は来られる」、それが私たちの信仰です。

1.不信仰が支配する中に 
 「主が来られる」ということが叫ばれる時は、いつも危機的な状況においてです。マラキが預言をした時は、神の民の信仰に深い失望感や無力感が支配していました(2章17 節、3章14~15節)。これは。今日の私たちを取り巻く状況と酷似しています。
 この時に、「主は突如、聖所に来られる」つまり思いがけなく主が来られる、それに先立って「道を備える」主の使者が送られてくると語ったのです(1節)。ここに、救い主イエス・キリストの来臨の事実と、その道備えをしたバプテスマのヨハネのことが預言されています。

2.信仰が回復されるために 
 このように主が来られるのは、主の審きの時でもありました(2節、5節)。この終わりの時が来たら、民は神の憐れみにより赦される以外に頼るものはないのです。そこでは、まず祭司たちが(2~4節)、続いてその民全体が聖別されるのです(5節)。
 今日の私たちに神の憐れみが現わされたのは、救い主イエス・キリストが来臨され、その十字架と復活によって救いの成し遂げられたことです。そして、再び来臨される主を待望しつつ歩んでいます。その間私たちは、主イエス・キリストによる救いの福音を、大胆にお伝えしていくことです(2テモテ4章1~2節)。
 クリスマスは、教会が、そして聖徒たちが新たに立ち上がる時です。

背負ってくださる主(2017.11.26)

宣教題 「背負ってくださる主」       宣教  今田好一牧師
聖 書 イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節

わたしたちにとって、老後のことはとても切実な問題です。でも、もし十分な備えができなくても神を信じる者にはすばらしい保証があります。それは神の約束です。

1.人それぞれが背負っているもの
 わたしたちには誰も代わることのできない、自分で負うしかない重荷があります。そして負いきれずに押しつぶされそうになることがあります。だからこそ、優しく寄り添ってくれる存在が必要なのです。それが、主イエス・キリストなのです。

2.人に背負われている神々
 バビロン捕囚となっていたイスラエルの民は、傷ついた心の中で、バビロンの神々が動物や人に背負われている勇壮で華々しい祭りを見ていました。しかしペルシアによるバビロニア帝国の崩壊の危機に際して、バビロンの守護神であるベルとネボは守護どころか、それを負う人々の重荷となり、ペルシアに仕えることになるのです。

3.人を背負ってくださる主
 主なる神は、イスラエルの民に、「あなたたちは生まれた時から負われ・・・老いる日まで白髪になるまで・・・わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3~4)と言われました。それはわたしたちの過去、現在、未来にかけてのすべてであり、わたしたちの歩みの最初から終わりまで神の守りの中にあるということなのです。

 全世界の多くの人々が老後の生活に不安を覚えている現代において、神の約束はいよいよ大きな力となります。そして、わたしたちが歳を重ねていく中で、主に背負われていることを素直に認め、「わたしは・・・背負って行こう」と言ってくださる主に人生をお委ねしましょう。きっと平安で満たされることでしょう。

主との憩いの中で(2017.9.10)

宣教題 「主との憩いの中で」      宣教 今田好一牧師
聖 書 ゼカリヤ8章1~8節

わたしちがいくら歳を重ねても、その人の存在価値が変わることはありません。なぜならイエス・キリストの贖いによって私たちは神の子どもとされているからです。

1.神の恵みに満ちた平安
神は、ペルシアの王キュロスやダレイオスを用いてユダヤの人々に神殿を再建させます。神殿再建には若い人材が適しています。しかし、ゼカリヤは、「エルサレムの広場には再び老爺、老婆が座するようになる」と語ります。つまり、そこは人々の憩いの場であり、神の恵みに満ちた平安で覆われている場所だったのです。

2.憩いの場所としての教会
わたしたちの祈りの中に、子どもたちへの信仰継承があります。そして、家族や友人との憩いの場の提供の実現として、子どもからお年寄りの方々が集う教会という祈りも込められていると思います。まさにゼカリヤが語っていることです。子どもやお年寄りが神様からすっぽりと守られて生きている姿を通して、周囲の人々は自分のことのように心休まり、平安な気持ちになる。それが憩いの場所としての教会なのです。

3. キリスト者は生涯現役
歳を重ねるということは御国への引っ越しを始めることです。それが老いるということです。しかし、仕事を引退するということはあっても、人生を引退するということはありません。まして神の子どもであるわたしたちにとって、キリスト者を引退するということはないのです。だから、すべてのキリスト者は生涯現役だということなのです。
教会は、そこに集うすべての人々のエルサレムです。この神の恵みの中に生かされていることを覚え、主との憩いの中を歩ませて戴きましょう。

 

信仰による再出発(2017.4.2)

今日の宣教要旨
宣教題  「信仰による再出発」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  創世記22章1~14節 ヘブライ11章17節
アブラハムを祝福される神は(創世記12章2節)、全能の神(17章1節)であり、永遠の神(21章33節)であられます。ところが、それを覆すかのように、彼に信仰の試練を与えられました(ヘブライ11章17節)。彼にとっては、神が約束されたことと(17章19節)矛盾する要求をされたことが理解できなかったでしょう。

1.説明はできないが
アブラハムは、約束の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられたことに対して、自らも納得できない、人にも説明して語る言葉を持たないままで「その場所」に来たのでした。これは、神を信じているのになぜ、神は約束されたのになぜ、といった信仰の土台が揺さぶられるようなことでした。
神の前に試され、扱われ、訓練されつつ前進できるのは、「信仰によって」です。人には説明出来ないことであっても神は何もかも分かっておられます。神はある必要からこのようにされるのです。神は必ず備えてくださるのです。神は後で、試練の中にある者にも他の人にも説明してくださるのです(ヨハネ13章7節参照)。

2.二人は一緒に
「二人一緒に歩いて行った」(22章6節、8節)とは、何と幸いな父と子でしょうか。試練の中で、二人が一緒でないことがあるからであり、一緒であっても前進しないことがあるからです。しかし、二人のうちどちらかが欠けても成り立たない中を歩き続けることができたのは、父の信仰に子が従い、子の信頼に父が励まされていたからです。神は、そのような二人を守り続け、導き、備えられたのです(11~14節)。
私たちは、信仰者としての様々な関わりの中で、アブラハムとイサクであることを知る必要があります。このような神の試みの中あって、なお神を信頼し、神に従うことを通して、神は祝福され、勝利を与えてくださるのです(22章16~18節)。

起きよ、光を放て(2017.3.19)

宣教題  「起きよ、光を放て」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ60章1~7節、19~22節 マタイ5章14節a

「あなたがたは、世の光です」。だから、「起きよ。光を放て」。聖書はそう招いている。世界や教会や自分が暗やみに包まれていても、いやそうだからこそ、「起きよ。光を放て」。

1. 主の栄光が輝いているから
私たちの光はどこから来るのだろうか。そして、捕囚からの回復にあってもいまだ苦しみもだえているシオンの光はどこから来るのだろうか。主の栄光がもうすでにあなたの上を照らしている(1~2節)。だから、主の光を映す鏡として、あなたは光を放つことができるのだ(19~20節)。事実、十字架で死なれたキリストが復活されたのだから、復活の光はもうすでに輝いている。

2. そうすればあなたの使命を果たせるから
シオンが主の光で輝く時、主に求められていた使命(2章1~5節)が実現する。失われていた者たちが戻り(4節)、これまで見向きもしなかった者が訪れ(3節)、豊かさと平和がもたらされ(5b~7節, 10~11節, 1節, 16節a, 17節, 18節)、シオン自身が喜びに満たされる(5節, 14~15節)。主のもとに人を導く使命が果すことができるようになったから喜ぶのだ。そして、主がそのあわれみによってこのことを実現してくださる。

3. 主を知り、強くされ、美しくされる
主の光に照らされて輝くとき、シオンも変えられる。救い主である主をさらに知り(16節)、主に従うゆえに強くされていく(21~22節)。そして、輝きに満ちた美しさが与えられ、その美しさがシオンを包む(7節, 9節, 13節, 19節, 21節)。主のあわれみが満ちるところこそ美しく輝くからだ(10節)。
だから、世の光よ、起きよ、光を放て。2000年前、時は来た。主はなしてくださった(22節)。十字架と復活の大きな恵みに押し出されて、あわれみの御手のうちに、復活のいのちによって歩み続けようではないか。

主はシオンに来られる(2017.2.12)

宣教題  「主はシオンに来られる」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ59章15b~21節 マルコ1章14~15節
神はこの世界を見られたら、どのように判断されるのだろうか。
主は捕囚から帰還した民の姿を見、そこで正しいさばきが行われていないのを見た(15節)。流血、虚偽、不正が満ち、平和などない。社会の問題の原因は、神の民自身にある(1~8節)。民も、自分たちが暗やみの中を歩んでおり、正義も、救いも、まこともない世界を作りあげてしまったことを自覚している(9~15節)。そんな神の民が神のわざをなすことなど、不可能である。

1. 正しいさばきのために介入される主
世界の現実を見られた神は、それを放置なさることはされない。主は、戦いに長けた勇士として、その世界に介入されて、そこに正しいさばきをもたらす。正義も救いもないところに、それをもたらす勇士として介入され、それぞれにそれぞれのわざにふさわしい報いをもたらすのである(16~18節)。世界を破壊するためではなく、修復するためにそれを行われる。そして、主の霊の働きのゆえに、世界中の者たちは、主の介入を認めるに至る(19節)。

2. 主はシオンに来られる
そして、主はシオンに来られる。問題だらけのシオンに、エジプトからイスラエルを救い出した「贖う者」(20節)として来られる。背く者には、それにふさわしい報復が与えられる。しかし、かたくなな心を解き、罪を悔いる者、つまり、主に立ち帰る者には、救いと再生を与えられる(20節)。シオンは造り変えられ、契約は更新され、神のなさる正しいさばきという介入を証しする者として世界へ遣わされる。神の聖霊とみことばが共に働いて、世界は彼らを通して修復されていくのである。
この世界を見られた主は、イエスを通してこの世界に介入され、世界を修復し、修復のわざを行う民を生み出された。イエスはイスラエルに来られ、シオンに来られ、私たちのところに来られた。罪を悔い、主に立ち帰るところから私たちのこの世界における働きは始まる。

神の臨在に触れて(2017.1.8)

宣教題  「神の臨在に触れて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ6章1~13節

ここには、神の臨在に触れたイザヤが、預言者として立ち上がるに至った恵みと召命の経験が語られています。人は、神とどういう関わり方をしたかによって、その人の神を見る見方、その人の信仰の在り方と生涯を決めると言えるでしょう。
1.聖なる神を見る経験  1~4節
ウジヤ王が死んだために、民は悲嘆にくれ、南ユダ王国全体が不安定になって激動の時代を迎えようとしていました(7章1~2節)。そのような時に、イザヤが民を祝福するために神殿を訪れ、神との出会いを経験したのです。
それは、イザヤが神を見るという出会いでした。そこには生きておられる神の臨在がみなぎっており(1節、4節)、イザヤは「栄光の主」を見ています(3節)。さらに、超越しておられる「聖なる神」を見ています(3節)。そして、「王なる万軍の主」を見ていました(5節)。このような神が、私たちが信じるイエス・キリストであり、この方に私たちの存在の根拠を置いて、信仰の歩みをしていくのです。

2.聖なる神の恵みの御業を見る経験  5~13節
こうした神との出会いの経験は、自分の真相を見る経験となります。聖なる神の御前に「ああ、わたしは、もうだめだ」(5節、新改訳聖書)と告白する者となるのです。神が分かるということは、自分の罪と汚れが分かるということです。そのようなイザヤに、神は恵みによって「汚れた唇」がもたす罪と汚れをきよめられたのです(6~7節)。それは、罪と汚れの中にある者を主イエス・キリスト十字架の血と聖霊によって罪を赦しきよめてくださる恵みの御業を表しています。
続けて神は、罪と汚れのゆえに苦しみ、御言葉に聴き従おうとしない頑固な人たちに(9~13節)、イザヤと同様な神の恵みに与った者を遣わして用いてくださいます(8節)。「わたしを遣わしてください」との召しに応答する者とされましょう。

主がおられる所へ行く(2016.11.20)

宣教題  「主がおられる所へ行く」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ58章1~14節 マタイ25章40節

主が共におられることを私たちは求める。自分の祈りを主が聞き、それに応えて「共にいてくださる」と語って下さることを求める(4, 9節)。どうすればそのことが実現するのだろうか。捕囚後のエルサレムに住むユダヤ人たちは、断食によって自らを苦しめることを通してそれが実現すると考えた(5節)。ところが、主は彼らの断食を顧みず、祈りに応えてくださらなかった(3節)。

1. 断食か、社会生活か
なぜ断食を主は顧みてくださらないのだろうか。主がその人の宗教的な部分だけではなく、全生活を見ておられるからである。本当に主を尋ね求め、主を知ろうとしているのか(2節)、主は問われた。断食をしている人々の生活は、主が願っているものからはほど遠いものであったからだ。労働者を追い使い、争いをおこし、暴力を平気に用い、人々を束縛し、貧しい者にあわれみを施さず、安息日に休みをとらずに、人々をこきつかった(3, 4, 6~7, 9~10, 13節)。民の生活は、彼らと関わりを持っている諸国民の生活と変わらなかった。だからであろうか、宗教的に生きようと彼らは断食をした。しかし、神は、宗教的な自分と世に生きる自分を使い分けている者に厳しく対応された。

2. 全生活を見られる主
全生活を見直しなさい、と主は語りかけた。人々を解放し、貧者を顧み、安息日を守って、他者を休ませなさい、と命じた(6~7, 9~10, 13節)。断食をする宗教的な人であるか、ではなく、生活の現場でどう生きるか、が問われていた。自分よりも立場の弱い人々への解放と思いやりに生きるとき、そこに主が共におられて、祈りに応え、導き、満たし、いのちをあたえ、再建を果たしてくださる。そして、そのような人と共に主がおられることをまわりの人々も見るのだ。
イエスご自身もこのことをご存知だった。そして、羊と山羊の物語を語られた(マタイ25章31~46節)。自分よりも立場の弱い人々を解き放ち、思いやりを示す生きる場所にこそ、主が共におられる所であると述べられた。われらも主がおられる所へ行こうではないか。

低いところに来られる神(2016.10.23)

宣教題  「低いところに来られる神」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ57章14~21節 フィリピ2章8節

教会に来ると「すばらしい信仰者になるように」というプレッシャーを感じる。いつも神に従順で、なにごとがあっても神に信頼し、揺れることがない人を神は祝福し、つまずきとなるものを取りのけてくださる、と考える。

1. 低くされるべき民
神が祝福される人々は思っているほど信仰的ではない。むしろ、「貪欲」(57章17節)で、「強欲で飽くことを知らない」(56章10節)人々だ。その罪のゆえに、主は怒り、その人を打ち、自らを隠す。それでも、彼らは背き続けた(57章17節)。この後、彼らは打ち砕かれ、へりくだらさざるをえない状況に追い込まれた。それでも、主は彼らを「わたしの民」(57章14節)と呼ばれている。

2. 低いところに来られる神
神は「高く、あがめられ」(57章15節)る方である。イザヤ書6章においてイザヤと出会い、預言者自身が自らの汚れたことを認めざるを得ないほどの方である。この神にふさわしい者とならねばならない、と常識は語る。ところが、この方は「打ち砕かれ、へりくだる霊の人と共に」住む(57章15節)神である。へりくだらざるを得ない者が弱り果てていることを知り、むしろ彼らを生かし、いやすために、神は低いところに来られる。砕くことではなく、「わたしの民」を造り変え、生かし、働きへと備えることがその目的だ。

3.平和の到来
神は平和の到来を語る。くちびるの汚れた者にさえ、くちびるの果実を創造される。砕かれた者をいやし、導き、回復し、平和を与える(57章19節)。ただし、神は拒み続けるかたくなささえも、許容される。
この神の姿を、高い方であったのに、十字架の死に至るまで低くなられたキリスト(ピリピ2章8節)に見出す。取税人や罪人たちのところに行き、砕かれた彼らと共に食事をされた方だ。この方を拒絶し続けた者たちもいた。しかし、低くなられたキリストを喜んで迎え入れる者を、神は信仰者と呼び、そのような者のところまで来てくださる。

あらゆる問題の根(2016.9.18)

宣教題  「あらゆる問題の根」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ56章9節~57章13節 ローマ1章23節

山積みの問題に直面すると、素早く一度に全部解決できる方法に私たちは探す。しかし現実は、問題の根が深いため、簡単に解決できる方法などない。聖書は、あらゆる問題の根は、神が造られたものを神として重んじること、すなわち偶像崇拝だと言っている(ローマ1:23)。本来あるべき位置を逸脱するならば、すばらしいものも問題を引き起こしていくのだ。

1.なすべき働きをとどめる偶像崇拝
神の義のわざである「バビロン捕囚からの帰還」をイスラエルは経験したにもかかわらず、当初思っていたような変化が起こらない。むしろ、国や社会の現状を見張るべき人が、その働きを怠っている。危険の到来を警告すべき人が、その仕事をなまけている(イザヤ56:10)。指導者たちは民を導く知恵を持たず、自分勝手に歩んでいる。誰一人として本来なすべきわざを行えないでいる。自分が得をすることだけを求め、足る事を知らないからであ(56:11)。これも一種の偶像崇拝だ。

2. 偽りの希望に生きるようにさせる偶像崇拝
偶像崇拝をしている人々もいた(57:3)。彼らは、主に対して真実に歩むことによって平和をもたらそうとしていた人をあざけった(57:1~2, 4)。偽りの神々のために自分の子どものいのちさえも犠牲とした(57:5)。「高い山」(57:7)すなわちエルサレムの神殿に上り、そこで自分が選んだ神を礼拝した(57:7~9)。驚く事に、偶像崇拝によって力を得たのだ(57:10)。しかし、いざという時、彼らが拝んでいる存在は彼らの叫びを聞く事はない。むしろ風の一息で失せてしまう(57:13)。彼らは偽りの希望に生きている。その希望は必ず失望に終わる。
あらゆる問題の根に取り組むために大切なのは、主に「身を寄せる」(避け所とする)という応答をもって、神に問題を地道に解決していただくことである。解決のための手段を自分で集めてなんとかすることをあきらめて、神にそれを集めて頂くのだ(56:8)。そのとき、私たちが義と誠実と真実をもって神に対して答えることができるように、問題の根に向き合うことができるように、神は私たちを押し出してくださる。

神様の切なる願い、それはリバイバル(2016.8.28)

宣教題  「神様の切なる願い、それはリバイバル」   宣教 犬塚直樹師
聖 書  創世記35章1~15節

神様の御思い、願いは何でしょうか。それは、リバイバルです。リバイバルとは神様があなたを訪ねて下さること。ご自分の民に出会ってくださり、死んでいた魂を甦らせてくださることです。なぜなら私たちの魂は何度も死んでしまうことがあるからです。創世記35章はヤコブの生涯の集大成で、リバイバルが訪れると、どのように目に見える祝福があるか分かります。

1.肉の人ヤコブ
家族さえも陥れ自我丸出し、自分さえよければという人でした。信仰者家庭に生まれましたが、自分で神様に出会った体験がなかったので、自己中心のところがありました。あなたは神様に出会いましたか。あなたは救われましたか。

2.ヤコブの転機
第1のリバイバルはベテル(28章)です。お兄さんに追われ、孤独で危機的な状況で神様に出会いました。神様の方から近づいて下さいました。今までアブラハムの神、イサクの神でした。しかし、ヤコブは主が私の神であることを体験しました。そして3つの請願をするのです。①主を私の神とします②宮を建てます③十分の一をささげますと。けれども彼の信仰は順調ではなく、3つの請願は忘れてしまい、魂は死んでいくのです。
第2のリバイバルはヤボクの渡し(32章)です。再び兄エソウに会うという不安と恐怖に満ちた時も、神様は彼を訪ねてくださいました。ヤコブの家庭を祝福しようと主自ら来られたのです。御使いとの格闘で、もものつがいがはずれ砕かれました。神様が求めておられることは「砕かれた魂。砕かれた、悔いた心」です。

3.ヤコブへの祝福
(1) 神様に出会う、これ以上の祝福はありません。神様は不信仰や失敗を繰り返してきて、もう投げ出されてもいいような彼を愛し彼に出会って下さいました。(2)祝福の約束を受けるのです。主は御言葉を実現するために来られます。問題の解決がそこにあるのです。(3)ヤコブが祝福されたばかりか、その子ヨセフが幻を受けて、やがてイスラエルの民を救いました。こんな祝福が自分や家族、孫にまで広がるのです。
では、リバイバルはどんな人に与えられるのでしょうか。神様を慕い求める人です。