フィリピ」カテゴリーアーカイブ

愛する者のための祈り(2019.10.20)

宣教題 「愛する者のための祈り」    宣 教  矢島志朗勧士
聖 書 フィリピ1章1~11節

人は「神にかたどって」造られ、交わりに生きる者とされている。牢獄にいるパウロから送られたこの手紙からは、人間関係について多くを教えられる。

1.キリスト・イエスに結ばれている者(1~2節)
「聖なる者たち」という言葉には「他のものと異なっている」「分離している」
という意味がある。「キリスト・イエスに結ばれている」という言葉をある学者は、「絶えずキリストにある大気の中で、キリストの御霊の中で生きること」と述べる。私たちは神様によってこの世の者とは異なる者とされ、日常のすべての場において御霊に導かれ、主の臨在のうちに歩む者とされているのである。

2.感謝の祈り(3~8節)
パウロはフィリピの人たちの「存在」を喜び、共に福音にあずかっていることを感謝している。神様は良い業を成し遂げてくださるという確信があった。そして「愛の心」をいだいていた。これは「かわいそうに思う」「深くあわれむ」という表現に通じる、熱い思いをあらわす言葉である。

3.愛する者のための祈り(9~11節)
パウロは、フィリピの人たちの愛が豊かになり、本当に重要なことを見分けられるようにと祈った。また彼らが清いものとなり、義の実を受ける者となるようにとも祈った。一人一人の神様との関係が豊かにされ、愛が増して実が結ばれることを切に願い、熱心に祈ったのである。私たちも兄弟姉妹同士、このように祈り合う関係に招かれている。お互いが神様をさらに知る者とされて、置かれているすべての場所でキリスト・イエスにあって生き、共に主の働きをさせていただけるように祈っていきたい。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(15MB)

キリスト者の完全(2018.3.18)

宣教題  「キリスト者の完全」        宣教 大頭眞一師
聖 書  フィリピ3章1~14節

「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)は、真剣なキリスト者たちを悩ませてきました。愛において完全でありたいと願いながらも、「得た」と言い切れないためらいは、だれにもあるからです。パウロはそんなためらいから自由です。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・ひたすら走ること」(フィリピ3:13~14)がなすべきただ一つのことだと言うのです。「キリスト者の完全」は、私たちが神さまと人とに向かう姿勢の完全です。この完全は「今ここで」可能です。
そんな私たちが聖さにおいて成長していくために、いくつかたいせつなことがあります。

(1)信仰体験は多様ですから、他の人の体験と自分の体験を比べることはできません。それぞれに十分な恵みが与えられています。

(2)昨日の完全は、今日の完全ではないかもしれません。私たちの成長とともにさらなる前傾姿勢が可能になっていくからです。

(3) 私たちは力を尽くしてもなお、過ちや罪から逃れることができません。しかしその度ごとに、悔い改めて赦され、神と人との回復していただくなら、キリスト者の完全は保たれていきます。

 教会は、愛の学校であり温泉病院です。罪による病や傷は、みことばの温泉と仲間との交わりというリハビリによって癒されていきます。じっくりと、深いところで。そしてそれぞれが置かれた場所でていねいに生きるのです。

生きることはキリスト(2018.1.1)

宣教題 「生きることはキリスト」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 フィリピ1章20~21節

 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益です」との告白は(21節)、パウロのひたむきな心構えが伝わってきます。それは、私たちの生活の試金石でもあります。

1.私たちの生涯の中心は  21節
 パウロは、「わたしにとって、生きるとは」キリストに仕えることですとも、キリストのようになるとも言っていません。キリストが、彼の信仰と生活と奉仕の動機であり、目標であり、生涯であったからです。それは、彼がキリストにすべてをお任せし、明け渡して、キリストがその生涯の主となっていてくださった証しです。そこで彼は、古い自我性に死んでキリストに生きていただいている、肉体の死をも永遠の命に生きるものとされているゆえに、「死ぬことは利益なのです」と喝破しています。
このようにキリストを中心にして生きることが、私たちの共通のそして共有すべき人生観また死生観です。

2.私たちの切なる願いは  20節
 このような信仰者としての在り方また生き方は、パウロがどんなに厳しい環境にあっても福音を前進させる動力となり、内に燃える切願となったのです。それは、どういう場合にも、キリストによって贖われて聖霊の宮とされている自分の身によって、キリストが誰の目にもハッキリと見えるほどに拡大されるようになることです。しかも、キリストが、特別なときだけでなく普段の生活の中で、大胆に証しされるようになることです。
 これこそが、私たち一人ひとりの、そして教会の切なる願いです。

低いところに来られる神(2016.10.23)

宣教題  「低いところに来られる神」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ57章14~21節 フィリピ2章8節

教会に来ると「すばらしい信仰者になるように」というプレッシャーを感じる。いつも神に従順で、なにごとがあっても神に信頼し、揺れることがない人を神は祝福し、つまずきとなるものを取りのけてくださる、と考える。

1. 低くされるべき民
神が祝福される人々は思っているほど信仰的ではない。むしろ、「貪欲」(57章17節)で、「強欲で飽くことを知らない」(56章10節)人々だ。その罪のゆえに、主は怒り、その人を打ち、自らを隠す。それでも、彼らは背き続けた(57章17節)。この後、彼らは打ち砕かれ、へりくだらさざるをえない状況に追い込まれた。それでも、主は彼らを「わたしの民」(57章14節)と呼ばれている。

2. 低いところに来られる神
神は「高く、あがめられ」(57章15節)る方である。イザヤ書6章においてイザヤと出会い、預言者自身が自らの汚れたことを認めざるを得ないほどの方である。この神にふさわしい者とならねばならない、と常識は語る。ところが、この方は「打ち砕かれ、へりくだる霊の人と共に」住む(57章15節)神である。へりくだらざるを得ない者が弱り果てていることを知り、むしろ彼らを生かし、いやすために、神は低いところに来られる。砕くことではなく、「わたしの民」を造り変え、生かし、働きへと備えることがその目的だ。

3.平和の到来
神は平和の到来を語る。くちびるの汚れた者にさえ、くちびるの果実を創造される。砕かれた者をいやし、導き、回復し、平和を与える(57章19節)。ただし、神は拒み続けるかたくなささえも、許容される。
この神の姿を、高い方であったのに、十字架の死に至るまで低くなられたキリスト(ピリピ2章8節)に見出す。取税人や罪人たちのところに行き、砕かれた彼らと共に食事をされた方だ。この方を拒絶し続けた者たちもいた。しかし、低くなられたキリストを喜んで迎え入れる者を、神は信仰者と呼び、そのような者のところまで来てくださる。

本物の礼拝者(2016.1.10)

本物の礼拝者          宣教 鎌野 直人協力牧師
聖 書  ヨナ1章1~16節 フィリピ3章3節

1.主のことばから逃げる
ヨナはヤロブアム二世の時代(紀元前8世紀)、イスラエルの拡張を預言した。そして、そのことばのとおり、北王国は繁栄した(2列王14章25節)。ニネベを都とするアッシリア帝国が弱体化していたからである。主は、そのヨナに、立ち、ニネベへ行き、そこで呼びかけよ、と命じた(2節)。ヨナは立ち上がったが、ニネベとは逆方向のヤッファに下り、さらに西のタルシシュ行きの船に乗り込んだ(3節)。主とそのことばから逃れようとした。

2.主のわざへの二通りの応答
ところが、ヨナが逃げたところにも主はおられた。風を海に放たれ、大嵐が起こった(4節)。異邦人の船乗りたちは、おそれ、自分の神に叫び、積み荷を海に投げ捨てはじめた。ところが、ヨナは船底へと下り、寝ころび、夢の世界へと降っていった(5節)。船長は、立ち、自分の神に叫べ、と命ずるが、ヨナは聞こうとはしない。主のわざであると気がついているのに、平然としていた。一方で、船乗りたちは「神があるいは」(6節、口語訳)と神のあわれみに期待して、叫んでいる。本物の礼拝者はいったい、どちらだろうか。

3.主をおそれる
神の怒りの原因はだれか。人々はくじを引いて、御旨を求めた。くじは見事にヨナに当たる。「海と陸とを創造された天の神、主」(9節)をおそれる、と語る彼にはわかっていた。自分を海に投げ捨てれば、主は怒りをとどめ、海は凪ぐ(12節)。ヨナは冷静に語るが、人々はヨナが犠牲にならずにすむようにと努力する。それも限界。自分たちを滅ぼさないで、と叫びつつ、彼らはヨナを海に投げ捨てる(15節)。その瞬間、主は海を静める。船乗りたちは、あわれみの主をおそれ、礼拝をする(16節)。
主をおそれ、そのことばを守ったのは異邦人たちであった。主のあわれみに期待したのは彼らであった。選民であることに固執したヨナは偽物であることが暴露された。本物の礼拝者は、主のわざに気づき、主のあわれみにすがり、主をおそれる。あなたは、肉を頼みとするヨナか、それとも、キリスト・イエスを誇りとする船乗りたちか(フィリピ3章3節)。

キリストのために苦しむ(2014.5.4)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録25章1~27節 フィリピ1章29節

聖書は、キリスト信仰を持っていても、試練や苦しみを経験することを少しも否定していません。むしろ、そうした経験の必要と貴さを明らかにしています (フィリピ1章29節)。パウロは、その宣教活動において、神の御計画の中にあって「キリストのために苦しむ」ことを経験し、そこに自分の生きざまを見い 出していました。

1.神の恵みの深さを知ることを  1~12節、23~27節
パウロはカイサリアの慰留所に2年間監禁されていましたが、その間ユダヤの最高権力者たちの彼に対する憎しみは消えていませんでした。彼らは、なおパウ ロを違法者として訴え続けますが、誰もそれを立証できませんでした。そこで、パウロは、ローマ市民権を用いて「私は皇帝に上訴します」と発言したのでした (11節)。この道こそ、神の最高の摂理の道であり、最も安全かつ合法的な形でローマに行ける道でした。神のくすしい恵みによって、このように神の導きが なされていくのです。
その後、フェストゥス総督やアグリッパ王たちは、パウロと会見しました。前者のこの世の栄光と野心に満ちた姿と、後者の神の恵みに与って黙し毅然として いる姿とは対照的です。神の恵みによって私たちの特権となるものがあります。キリストを救い主として受け入れる信頼と、苦しみの学校によって鍛えられる試 練です。

2.復活のキリストを証しすることを  13~22節
繰り返されるパウロへの審問には、大切な真理、パウロが命を賭けた真理が証しされています。それは、「このイエスが生きている」との力強い証言であり(19節)、これこそ神の恵みの証しです。
十字架に死なれたキリストは、復活されて今も生きておられ、罪と死と滅びの中に死んでいた私たちを生かし続けていてくださいます。それによって、価値観も 人生観も変えられて、いかなる試練や苦しみを経験しても、復活の命と永遠の希望の中を歩み続けることができるのです。私たちは、神の霊に満たされて、今も 「このイエスが生きている」とパウロと共に証しし、歩み続けたいものです。

喜びに生きる(2012.1.15)

宣教題  : 「喜びに生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書      : 使徒言行録 16章25節~34節、フィリピ4章4節

「喜びを物語る」イエス・キリストの福音は、主イエスと私また私と他者との出会い、関係、結びつきを通して波及していきます。その結果私たちは、主イエスにあって常に喜びに生きる者とされるのです。

1.主への礼拝に生きる
ここに至るまで、占いをしていた女性、彼女によって利益を得ていた人々、役人が登場しましたが、彼らに迷信と商売と政治の混乱した状況が伺えます(16~24節)。続いて登場した看守には、仕事上の失敗によって自縄自縛している様子があります(26~27節)。彼らには、救いを失った人間の共通した姿が見てとれます。福音は、そういう状況の中に伝えられる必要があるのです。しかし、そういう世界に福音を伝えることは、伝道の苦しみを経験することでもありました(23~24節)。
ところでそうした最中、パウロとシラスは真夜中の牢獄の中で、神を賛美し、神に祈るという神への礼拝をささげています(25節)。ここに、教会が教会であり続ける姿があります。イエス・キリストの救いに与かっている私たちは、いかなる時にも礼拝をささげる喜びに生きるのです。

2.主の救いに生きる
パウロとシラスは、看守の求めに対して、彼とその家族に対して神の言葉を語り、全家族が主イエスを信じることを勧めました(29~32節)。看守は、パウロとシラスが深い淵にあって神に賛美して祈り、敵対している者を思いやるという神のなされる御業に触れ、またパウロたちの導きに対して信仰の応答をし、家族も一緒に洗礼を受けたのです(33節)。そして彼は、パウロたちを自分の家に招いて食事を共にして信仰と愛の交わりを持ち、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのです(34節)。
イエス・キリストの十字架と復活は、私たちの罪を解決し、神との関係を回復します。そこには絶えず「喜び」と「神の平和」があり、「広い心」があります。そして力を合わせ、福音のために戦う喜びがあります(フィリピ4章2~7節)。私たちには、このような主の救いに生きる喜びがあるのです。

福音のための交わり(2010.7.25)

宣教題  : 「福音のための交わり」   宣教:   鎌野 直人師
聖   書  : フィリピ1章1~7節

関西聖書神学校には現在21名の神学生が学んでいる。みことばと聖霊に導かれ、祈り、神のめぐみの広さと深さを経験し、整えられた品性を持ち、教会を立てあげる伝道者を養成するための働きは80年以上、継続している。

神学校の働きとそれぞれの教会の働きとはどのように関わっているのだろうか。それは「福音のための交わり」(1:5)である。パウロとフィリピの教会が福音を宣べ伝えるための交わりの中にあったような関係を教会と神学校はもつべきだ。

パウロとフィリピの教会は、手紙を送り、喜びと感謝と願いと取りなしを祈り、具体的にものを送るという形で福音のための交わりを持っていた。この交わりを通して、パウロの宣教の働きは進められ、フィリピの教会も義の実に満ちあふれることによってその地域での宣教を進めていった。

福音のための交わりには三つの特徴があった。まず、それは継続した交わりであった(1:5)。次に、この交わりは神が始め、神が導き、神が完成されるものである(1:6)。最後に、困難と戦いの中にあるからこそ、この交わりを通して共に神のめぐみにあずかることができる(1:7)。

神学校は現在、困難の中にある。だからこそ、福音のための交わりがさらに深められなければならない。学んでいる学生が整えられ、新しい学生が加えられ、神の栄光と誉れを表す神学校となるように祈っていただきたい。

キリストがすべて(2009.3.29)

題   : 「キリストがすべて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師

聖書  : フィリピ 4章21節~23節 復活されたキリストは、世の終わりまで常に私たちと共にいて下さり(マタイ28章20節)、私たちと親密な交わりを持ってくださいます。 このように、キリストが私たちのすべてとなってくださるので、聖なる者の交わりは豊かなものなり、神の祝福に生きるようになるのです。

1.聖なる者の交わりに生きる  21~22節 この手紙の結びは、パウロ及び彼と一緒に神に仕える者たち、そして聖なる者とされた者たちから、フィリピの聖なる者たちに送られた挨拶となっています。聖なる者とは、「イエス・キリストは私の主です」と告白した者のことです。彼らは、贖い主であるキリストに結ばれ、キリストの復活の命に与っている者たちです(ヨハネ15章5節)。 聖なる者たちの間には、キリストにある愛と信頼とによって親しい交わりがありました(1章5節、同7節、2章1節、3章10節、4章14節)。違いをもった人たちが、共通のものを見つめ、それを共有することを確認しつつ交わっています。このように、キリストがすべてとなっている者たちの交わりは、おごりも、嫉妬も、気負いも、気落ちもありません。

2.神の祝福に生きる  23節 パウロの手紙の最後は、必ず「主イエス・キリストの恵み」で締めくくられています。私たちの信仰の出発も、信仰の過程も、その終着もキリストの恵みによって導かれます。そして、神は、私たちを恵みの器として用いてくださいます。 パウロは、この神の恵みが「あなたがたの霊と共にあるように」と祈っています。これは、一つの御霊によって一つとされているキリストの教会の上に、そこに結ばれている一人ひとりの上に霊的祝福があるようにとの祈りです。 礼拝は、牧師の祝祷である祝福の言葉で終わります。それは、祝福を祈るというよりも、祝福を告げるのです。その週に死を迎えることがあっても、祝福のうちに死ぬのです。厳しい試練が訪れても、祝福のうちにある確信をもって戦うことができるのです。神が御顔を背けられることはないからです(民数記6章24~26節)。

豊かな信仰生活(2009.3.15)

題   : 「豊かな信仰生活」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章10節~20節
キリストにある者は、主からの豊かに満ち溢れた恵みと祝福をいただきつつ生涯を歩んでいきます。その秘訣は、「わたしを強めてくださる方のお陰で」(13節)、「キリスト・イエスによって」と、キリストご自身によるのです。

1.強めてくださる神  13節
フィリピ教会は、パウロの福音宣教のために愛の贈り物をしています。パウロは、感謝をもってそれを受け取ることによって、フィリピの教会とキリストの愛を分かち合っています。この主にある大きなパウロの喜びは、フィリピの信徒たちの信仰と希望と愛の結実であり、「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」でした(10節、15~18節)。
パウロ自身は、いかなる境遇に置かれても、それらに対処する秘訣を習い覚えて知り、授かっていました(11~12節)。キリストご自身が彼を支配されて「強めてくださる」ので、キリストにあって出来たのです(13節)。
私たちは、自らの「内なる人」を神によって強めていただいていないと、外に表れるもので一喜一憂しやすくなります(エフェソ3章16節)。私たちの信仰生涯と教会の歩みには、「わたしを強めてくださる」キリストの力が必要なのです。

2.必要を満たしてくださる神  19節
私たちを強めてくださる神は、また私たちに「必要なものをすべて満たして」くださるお方です。
創造主であられ神は、無尽蔵の富を出し惜しみなさいません。死んで復活されたキリストは、豊かな命を注いでいてくださいます。ただし、神が私たちに必要とされるものを知って上で、一人ひとりに届けてくださるのです。神がお与えにならないのは、必要でないからです。
私たちが喜んで神の業を担わせていただくときに、神はその人の必要を満たしてくださいます。神が心に留めておられることがらに、私たちも心に留めて献げていくときに、神は祝福されます。
「わたしの神」が強めてくださり、満たしてくださるとの信仰の確信に立って、「わたしたちの父である神」を讃える教会とさせていただきましょう(20節)。

信仰者の楽しみ(2009.3.1)

題   : 「信仰者の楽しみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章1節~9節
キリスト者は、「主によって」「主において」とあるように、主にある者です(1節、2節、4節、7節)。それは、キリストに身を置く者であり、キリストとの交わりの中に生涯を歩む者です。その生活は、キリストとの交わりを楽しむことにより、信仰と品性が造られていくのです。

1.主にある信仰  1~3節
フィリピの教会は、愛の祈りと労苦また献げものをもってパウロの伝道に惜しみなく協力しました。パウロは、そんなフィリピ教会と聖徒たちを愛し、慕い、喜び、自分の伝道生涯の冠だと言っています。そして、主にあって、主の再臨と栄化の恵みに与かる望みの信仰に堅く立っているように勧めています(1節)。
しかし、この教会には、福音のために共に戦ってきた婦人たちの間に不調和がありました。パウロは、彼女たちに主にあって同じ思いを抱き続け、教会内が互いに協力し合い、支え助け合うように懇願しています(2節)。
不調和が生じたら、互いはみなキリストの体に連なる一人ひとりであるとの自覚、互いに福音宣教の協力者であるとの自覚、互いは「命の書に名が記されている」との自覚をもって、「主にある信仰」に徹することが大切です。

2.主にある品性  4~9節
主にある信仰によって結ばれる聖霊の実が、主にある品性となっていきます。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と、主にある者は、いつでも、どこでも、どんなときでも喜びが溢れてきます(4節)。そして、その喜び溢れているなら、共におられる主の「広い心」でもって、赦し合い、愛し合うことができるようになります(5節)。
さらに、主にある喜びがあるところには、「神の平和」が信仰者の心と考えを支配します。それを妨げる思い煩いから解き放たれるためには、主なる神への全き信頼をもって、感謝をもって具体的に祈りと願いをささげることです(6~7節、ヨハネ11章41節参照)。このように、御言葉に生きる者と共におられる「平和の神」が、私たち信仰者を楽しませてくださるのです(8~9節)。

将来の先取り(2009.2.1)

題   : 「将来の先取り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 3章12節~21節
パウロがここで描き出しているのは、競技場で汗を流しながら「目標を目指してひたすら走る」キリスト者の姿です。しかも、過去を引きずって生きるのではなく、将来を先取りして現在を生きている姿です。そのように生きることが出来た秘訣は、どこにあったのでしょうか。

1.キリストに集中する  12~16節
キリスト者のスタ-トラインは、自分の努力・善行・功績・修業によるのではなく、キリストの救いの恵みに対して、ただ信じる信仰によるという、この一点です。 しかし、この恵みは、キリスト者を怠惰にしたり、自己満足に陥らせてしまうものではありません。キリストに捕らえられているゆえに、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」歩むことです。過去の罪は忘れて、キリストの十字架の血による赦しときよめに与り続けるのです。失敗を忘れて、主なる神に委ねるのです。キリストのために成した業を忘れて、将来に向けて進んでいくのです。
そして、目標を目指してひたすら走り続け、追求していくのです。その目標はキリスト御自身であり、私たちの全領域をキリストに御支配していただくことです。キリストにあって全き者は、キリストに集中し、このように考え、そして生きるのです。

2.キリストを慕う  17~21節
私たちは、パウロに倣う者として、キリストの再臨とそれに続く栄光の祝福に与り、分かち合っていくのです。キリストがそれを成し遂げてくださるので、私たちはキリストを慕うのです。
そして今や、私たちはキリストが恵みをもって支配しておられる天に属する者として、キリストに捕らえられ、キリストを慕うのです。「我らの国籍は天に在り」(文語訳聖書)との御言葉が、私たちの信仰生活の中で力を発揮しているでしょうか。この御言葉によって慰められ、励まされ、明確な方向付けをいただいているでしょうか。また、この御言葉によって支えられ、深く影響されているでしょうか。
将来を先取りして生きる私たちは、十字架に死んで復活されたキリストに捕らえられ、そのキリストに集中し、キリストを慕う者でありたい。

人生の損得勘定(2009.1.18)

題   : 「人生の損得勘定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ  3章1節~12節
パウロは、人生の計算に強い人でした。「見なすようになった」「みています」とは(7~8節)、計算しているという意味です。彼は、この世のどんな楽しみ、喜び、宝よりも、はるかに優れた一切のことがキリストのうちにあることを知っていたのです。なぜ、このように告白できたのでしょうか 。

1.価値観が変革されたから  1~8節
フィリピ教会は、喜びに溢れる教会でしたが、キリストの福音に反する教えに惑わされる危険もあったので、パウロから注意を受けています(1~2節)。大切なことは、聖霊による礼拝をささげ、キリストのみを誇りとし、人間的なものに頼ることがないように勧めています(3節)。
パウロ自身は、復活のキリストに出会うことにより、それまで価値を置いていたものが一切意味のないものとなりました(4~7節)。そして、キリストを知り、キリストを得ることが、最も素晴らしい価値あるものとなったのです。この価値変革の経験は、彼の回心の時に始まり、その生涯に変わることなく続いたのです(8節)。
私たちは、このような価値観の変革のために、キリストを体験的に知る必要があります。

2.生き方が変革されたから  9~12節
キリストを知ることは、私たちの生き方をどのように変えるのでしょうか。
まず、神の恵みのゆえに、信仰によって神の義が与えられます(9節b)。その時から、キリストとの生きた交わりを深めていく自分のうちにキリストを見いだします。それは、自分がキリストの内にいる者と認められていることなのです(9節a)。そして、キリストご自身と復活の力を知ることにより、キリストのために受ける苦難に与り、キリストの栄光に与っていくのです(10節)。
私たちは、このようにキリストに捕らえられているからこそ、復活の恵みに「何とかして」与りたいと願うのです(11~12節)。
私たちは、キリストを知ることのあまりの素晴らしさのゆえに、キリストによって生き方を変えていただくのです。

同じ心をもって(2008.11.23)

題   : 「同じ心をもって」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章19節~30節
パウロの各手紙の最後は、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」といった挨拶で締め括られています。そこには、神の恵みに対する感謝が溢れ出ています。それはパウロだけではありません。テモテもエパフロディトも「同じ心」でした。

1.同労者の心で生きる
テモテは、パウロと同じ思いを抱いて、自分をフィリピの教会員の立場に置いて愛の配慮をしました(20節)。また、彼はパウロと共に福音に仕えることにより、人々がキリストの救いに与かることができるように祈り労しました(22節)。
また、エパフロディトは、福音のためにパウロと共に祈り労する同労者であり、福音のために戦う戦友でもありました。具体的には、フィリピ教会からの献金を携えて獄中のパウロのところを訪れて励まし、慰めています(25節)。しかも、フィリピの教会を代表してパウロに仕え、キリストのために犠牲を惜しまず、命を懸けるほどでした(30節)。
このようにパウロは、イエス・キリストの恵みに共に与かっている同労者に対して、感謝の思いをもって証しています。共に祈り合い、共に慰め合い、共に仕え合うのに最も必要なことは、主イエスが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことです(ヨハネ13章34~35節)。

2.キリストの心を生きる
キリストの心を知らされたパウロにとって、彼の周りにいる同労者たちこそキリストの心を生きる人たちでした(5節)。そのことは、テモテがイエス・キリストのことを追い求め(21節)、エパフロディトがキリストのために生きることを第一としたことに見られます(30節)。
さて、主の恵みに対する感謝は、具体的に感謝をささげることによって表されます。主なる神に礼拝をささげることによって、賛美をささげ、奉仕をささげ、献金をささげるというようにです。ここに、キリストの心を生きる者の姿があります。
感謝をもって、キリストの心を生きる者とさせていただきましょう。

救いの達成を(2008.10.5)

題   : 「救いの達成を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章12節~18節
人は、一つのことをやり遂げたいとの願いを持っています。そして、私たちは、救いを全うしてくださる真実な主に在って、「自分の救いを達成する」ことを努めたいと願います。

1.信仰による従順によって  12~13節
私たちは、キリストの十字架の死と葬り、復活と昇天と着座という救いのみわざに対する信仰によって、救われたのであり、救われ続けているのであり、救いの完成にあずかるのです。「ただ信じなさい」とは、キリストの救いにすがる以外に自分ではどうすることもできないという、自力に絶望した告白です。
その救いを達成するためには、信仰による従順が求められます。信仰と従順は、切り離すことができません。そして、主に従いたいとの謙虚な恐れとおののきをもって、救いにあずかり続けることを願うのです。
なお、その願いを起こさせ、救いを成し遂げてくださるのは、私たちの内に働きかけていてくださる神ご自身です。

2.従順な生活を通して  14~18節
この救いを達成するために、「よこしまな曲がった時代の中で」どのように生活し、実を結んでいくのでしょうか。
「神のなさることは本当に正しいのか」、「神は余りにも多くのことを求められる」などと、不平や理屈、つぶやきや疑いを持ったりすることが、私たちを不従順にさせます。主に従う生活は、神の前でも、人の前でも非難されない純真な品性と人格が備えられた生活を歩むことです。
そして、魂に命を与え、養ってくれる「命の言葉をしっかり保」って自分のものにし、みことば通りに生きることによって、キリストを輝かす歩みをすることです。
パウロは、キリストの再臨の日を見据えて、人々の救いの完成のために労苦と犠牲をささげることに勝ち誇る喜びを覚えていました。私たちが、信仰による従順な生活をすることは闘いです。しかし、そこには勝利があります。この勝利こそが、キリスト者の「喜び」なのです