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本物の礼拝者(2016.1.10)

本物の礼拝者          宣教 鎌野 直人協力牧師
聖 書  ヨナ1章1~16節 フィリピ3章3節

1.主のことばから逃げる
ヨナはヤロブアム二世の時代(紀元前8世紀)、イスラエルの拡張を預言した。そして、そのことばのとおり、北王国は繁栄した(2列王14章25節)。ニネベを都とするアッシリア帝国が弱体化していたからである。主は、そのヨナに、立ち、ニネベへ行き、そこで呼びかけよ、と命じた(2節)。ヨナは立ち上がったが、ニネベとは逆方向のヤッファに下り、さらに西のタルシシュ行きの船に乗り込んだ(3節)。主とそのことばから逃れようとした。

2.主のわざへの二通りの応答
ところが、ヨナが逃げたところにも主はおられた。風を海に放たれ、大嵐が起こった(4節)。異邦人の船乗りたちは、おそれ、自分の神に叫び、積み荷を海に投げ捨てはじめた。ところが、ヨナは船底へと下り、寝ころび、夢の世界へと降っていった(5節)。船長は、立ち、自分の神に叫べ、と命ずるが、ヨナは聞こうとはしない。主のわざであると気がついているのに、平然としていた。一方で、船乗りたちは「神があるいは」(6節、口語訳)と神のあわれみに期待して、叫んでいる。本物の礼拝者はいったい、どちらだろうか。

3.主をおそれる
神の怒りの原因はだれか。人々はくじを引いて、御旨を求めた。くじは見事にヨナに当たる。「海と陸とを創造された天の神、主」(9節)をおそれる、と語る彼にはわかっていた。自分を海に投げ捨てれば、主は怒りをとどめ、海は凪ぐ(12節)。ヨナは冷静に語るが、人々はヨナが犠牲にならずにすむようにと努力する。それも限界。自分たちを滅ぼさないで、と叫びつつ、彼らはヨナを海に投げ捨てる(15節)。その瞬間、主は海を静める。船乗りたちは、あわれみの主をおそれ、礼拝をする(16節)。
主をおそれ、そのことばを守ったのは異邦人たちであった。主のあわれみに期待したのは彼らであった。選民であることに固執したヨナは偽物であることが暴露された。本物の礼拝者は、主のわざに気づき、主のあわれみにすがり、主をおそれる。あなたは、肉を頼みとするヨナか、それとも、キリスト・イエスを誇りとする船乗りたちか(フィリピ3章3節)。

畏れを抱いて(2014.2.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 詩編111編1~10節

主イエスは、迷信からくる恐れに対して励ましを(マタイ14章27節)、良心の呵責からくる罪の畏れに対して赦しを(マタイ9章2節)、死への恐れに対して勝利を(ヨハネ20章19節)与えられました。しかし、こうした恐怖の恐れではなくて、私たちが畏敬の畏れを抱くならば、活きた信仰の歩み、活きた教会の歩みとなります。

1.活きた信仰の歩み
詩編111編は、主への賛美で始まり、主に感謝をささげ、主の御業を喜ぶ中から、「主を畏れる」ことを歌っています(5節、10節)。恵み深く憐れみに 富んでおられる主であるからこそ、人は主に深い畏敬の念を抱くのです(4節)。主を畏れるとは、主なる神の救いに対して、自分の心と思いと生活を傾けるこ とであって、信仰者の財産です。
主を畏れることは、私たちの信仰生活を息苦しくしたり、力を失わせたりするものではありません。逆に、私たちがますます主なる神に引き寄せられて、私た ちに豊かな心と力と真剣さとを与えるのです(ローマ8章15節、11章20節)。主を畏れる心に生きることは、主への信仰を活き活きと生きることなので す。

2.活きた教会の歩み
さらに、神を畏れ敬う聖徒の群れこそが教会です(使徒言行録2章41~47節)。そこには、福音の教えに聴従し、聖徒の交わりをなし、聖餐に与り、祈る ことに「熱心であった」教会の姿があります(42節)。これは、時代や場所や状況が変わっても、変わらない教会の活きた歩みであり、主を畏れることを知る 教会であることを証ししています(43節)。
主を畏れる教会の礼拝、祈祷会、奉仕、交わりは、必然的に伝道する教会となるのです(44~47節)。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一 つにされたのである」と、伝道の主体は、いつも主イエス・キリストであることを証言しています。主を畏れつつ歩む日々が、活き活きと生きる信仰者の歩み、 教会の歩みとなっていくのです。

御言葉の力(2012.8.19)

宣教題  : 「御言葉の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 19章11~20節

主の御言葉の力は、いかに強いものであり、拡大されていくかが明らかにされています(20節)。それは、「このようにして」とあるように、神がパウロを通してなされた目覚ましい驚くべき奇跡を通して、人々の神に対する具体的な信仰が呼び起こされたことによりました。

1.神を畏れかしこむ  17節
ここに見る奇跡は(11~12節)、主イエスが地上におられた時にも同様に見られたものです(マルコ5章25~34節)。エフェソは迷信が盛んで、アルテミス神殿においては祭儀がなされ、小アジア全体からの多くの巡礼者がはびこっていました。こうした所では、キリストの福音を目に見える形で見せる伝道の仕方がなされたのです。
そして、イエスを信じていないユダヤ人の祈祷師たちが、試しに同じような奇跡を行なおうとしましたが大失敗し、逃げ出してしまうという有様でした(13~16節)。
そのことを知った人々は、神を畏れかしこむようになりました(17節)。それは、人間の全存在が根底から揺さぶられ、神を崇める者に造り変えてしまう畏れです。そして、神に対して感謝と喜びと希望を抱いて礼拝をささげる自由な者に造り変えてしまう畏れです。

2.キリスト信仰を告白する  18~19節
ここには、信仰に入った人々が、罪を具体的に告白し、キリストの救いに与かる真の悔い改めの実を結んでいる姿があります。それは、主イエスの十字架と復活に対する、彼らのキリスト信仰を告白したものでした。
私たちが、この点において不徹底になっていると、信仰に進歩が見られませんし、喜んで主に仕える力ある奉仕をささげることが難しくなります。
私たちが、キリスト信仰を告白することは、生涯にわたって神と関わることであり、生活の全領域に関わることです。これこそが、キリスト者であることのライフスタイルなのです。「このようにして」、私たちは、御言葉の力を日常生活で体験させていただくのです。

主を畏れる心(2009.7.12)

題   : 「主を畏れる心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 2章37節~47節
教会は、主を畏れつつ前進して来ました(9章31節)。
主を畏れる心が、恐れることを失った鈍感さから解き放ち、恐怖に対しては勝利させてくれます。そして、主を畏れる心は、生き生きとした信仰生活を生み出していきます(43節)。

1.真の回心へと導く  37~41節
神に対する恐怖の恐れは、神から離れようとしたり、神抜きで生きていこうと願ったりするようになります(創世記3章10節)。その結果、罪の責任転嫁が起こり、神への信頼、神の御心を知ろうとすることがなくなります。
しかし、神を畏れる心は、他に責任転嫁することなく、被害者意識を持つことなく、愛の神に近づかせます。ペトロを通して福音が語られたとき、人々は誠実に応答しました。「大いに心を打たれ」て罪の自覚が生まれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と切実な求道心が生まれました(37節)。そして、福音を受け入れて回心し、主イエスに対する悔い改めと信仰による洗礼の恵みに与かったのです(38~41節)。
このように、主なる神への畏れの心は、私たちを救いの喜びに変えるのです(ルカ23章40~43節)。

2.生きた信仰生活へと導く  42~47節
神に対する恐怖の恐れは、信仰生活を息苦しくし、愛、喜び、感謝、平安といった信仰生活の活力を奪います。
しかし、神を畏れる心は、主への賛美、感謝、喜びを本物にします。そして、私たちを主に引き寄せ、信仰生活の中心である礼拝生活と教会生活を生き生きとしたものにします(詩編111編)。それは、福音に聴き従うことによって(42節a)、福音を共有する交わりによって(42節b、44~45節、46節b)、神への全き信頼を通して(42c、46節a)培われます。
神は、このような信仰生活を歩む聖徒の群を信頼されて、神の宣教を進められます(47節)。私たちが主を畏れる心であり続けることによって、生きた信仰生活が展開されていくのです。