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天からの光(2014.6.1)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録26章1~23節

使徒言行録には、パウロの回心の証しが3回記されています(9章、22章、26章)。その回心は、決して人間の思索の積み重ねによって生まれたのではあり ません。「天からの光」によるのであり(13節)、パウロは「天から示されたことに背かず」、「光を語り告げる」ことに専念しました(19節、23節)。

1.人生を変革する  1~15節
回心するまでのパウロは、律法を重んじ、律法に生きることが何よりも第一のことと考えていましたので、復活のキリストを信じる信仰によって生きている 人々の群れがあることを受け入れることができませんでした(9節)。そこで、彼らを壊滅させることに熱心になったのでした(11節)。キリストは、そんな パウロの行く手を「天からの光」で遮られたのでした(12~13節)。
キリストは、キリスト者の群れの傍らに身を置いて一つになっておられるので、「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけられ、「わたしは、あなたが迫害し ているイエスである」と語りかけて、パウロを捕らえられたのでした(14~15節)。このように、キリストは、様々な状況にある一人一人に出会ってくだ さって、その全生涯を変革されるのです。

2.周囲に波及する  16~23節
キリストは、人生を変革されたパウロに、「起き上がれ、自分の足で立て」と命じ、キリストの証人として遣わされました(16~17節)。それは、キリス トを信じる人々を大いなる救いの祝福に与らせるために、福音を宣べ伝えるためでした(18節)。かくして、パウロは天から示されたことに忠実で、福音の光 を語り告げたことにより、それが周囲に波及して行ったのです(19~23節)。
このようにキリストは、キリスト者がその言動と存在をもってキリストを証しするように遣わされるのです。私たちは、いかなるところであっても、その置か れたそこを足場として、復活のキリストの証人となるのです。そこにおいて、福音の光が放たれ、波及して行くのです。

キリストのために苦しむ(2014.5.4)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録25章1~27節 フィリピ1章29節

聖書は、キリスト信仰を持っていても、試練や苦しみを経験することを少しも否定していません。むしろ、そうした経験の必要と貴さを明らかにしています (フィリピ1章29節)。パウロは、その宣教活動において、神の御計画の中にあって「キリストのために苦しむ」ことを経験し、そこに自分の生きざまを見い 出していました。

1.神の恵みの深さを知ることを  1~12節、23~27節
パウロはカイサリアの慰留所に2年間監禁されていましたが、その間ユダヤの最高権力者たちの彼に対する憎しみは消えていませんでした。彼らは、なおパウ ロを違法者として訴え続けますが、誰もそれを立証できませんでした。そこで、パウロは、ローマ市民権を用いて「私は皇帝に上訴します」と発言したのでした (11節)。この道こそ、神の最高の摂理の道であり、最も安全かつ合法的な形でローマに行ける道でした。神のくすしい恵みによって、このように神の導きが なされていくのです。
その後、フェストゥス総督やアグリッパ王たちは、パウロと会見しました。前者のこの世の栄光と野心に満ちた姿と、後者の神の恵みに与って黙し毅然として いる姿とは対照的です。神の恵みによって私たちの特権となるものがあります。キリストを救い主として受け入れる信頼と、苦しみの学校によって鍛えられる試 練です。

2.復活のキリストを証しすることを  13~22節
繰り返されるパウロへの審問には、大切な真理、パウロが命を賭けた真理が証しされています。それは、「このイエスが生きている」との力強い証言であり(19節)、これこそ神の恵みの証しです。
十字架に死なれたキリストは、復活されて今も生きておられ、罪と死と滅びの中に死んでいた私たちを生かし続けていてくださいます。それによって、価値観も 人生観も変えられて、いかなる試練や苦しみを経験しても、復活の命と永遠の希望の中を歩み続けることができるのです。私たちは、神の霊に満たされて、今も 「このイエスが生きている」とパウロと共に証しし、歩み続けたいものです。

神は人を用いられる(2009.11.15)

題   : 「神は人を用いられる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 6章1節~7節
教会は、救われた主の弟子が多く加えられていく中で、内にトラブルが生じました。その時教会が、どのような解決の道を与えられ、その結果どう展開していったかが証言されています。そのために、神は教会に人を立てられ、用いなさったのです。

1.御言葉に仕えるために  1~6節
教会に生じたトラブルは、愛の交わりの中で救済の手が差し伸べられていたことに対して、意思の疎通の欠如から「苦情」の声が起こったことでした。これは、教会の存亡にかかわる重大な問題でした。もし、使徒たちが性急に苦情問題だけを解決しようとして、そのことに忙殺されていたら、教会の第一の使命である「神の言葉をないがしろ」にするという危険性があったのです。このようにサタンは、使徒たちを最も大切なことから逸脱させようと巧妙に働きかけてくるのです。
使徒たちは、サタンの計略を見破り、適切な解決策を講じました。彼らが「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ために、愛の業の奉仕をする者を選んだのです。以来神は、キリストが仕えるために来てくださったように(マルコ10章45節)、御言葉に仕える者を求めてこられました。神は、仕える者に信仰と聖霊を満たし、謙虚に神と人に仕える知恵を与え、どこにおいても良い証しを立てさせてくださいます。

2.御言葉が広がるために  7節
「こうして、神の言葉はますます広まり」、主の御業は進展していきました。主の弟子たちは弟子としての役割をもって主に仕え、使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に打ち込むという、教会の本来の在り方が確立されたからです。使徒たちにとって一番伝道しにくい「エルサレム」において、しかも反対勢力の旗頭とも言うべき「祭司も大勢」信仰に導かれたことは、驚くべきことでした。
キリスト教会の今日の課題は、経済問題ではありません。人材問題です。聖霊によって造り変えられ、キリストにのみ仕える人が求められ、用いられるのです。「罪のみを憎み、神のほか何も畏れない者が百人いるなら、世界を動かすことができる」のです。信仰の厚い者にさせていただきましょう。

重んじる(2008.11.16)

題   : 「重んじる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章1節~20節
激しい突風の後の静かなガリラヤ湖風景、そしてゲラサ人の地方での激しい響きの後の突然の静けさは、今日の私たちが経験する日々の喧騒と聖日の静けさを思わせます。私たちは、この静けさに身を置くことによって、何を重んじるのかを気づかせていただきましょう。

1.ひとりの魂を重んじる 1~17節
汚れた霊にとりつかれた人は、正常な人間社会を好まないで墓場を住まいとし、足枷や鎖でも制することのできないほど狂暴で、石で自分を打ちたたくほど自虐的で、主イエスに反抗する霊に振り回されていました。そして、彼は「・・・かまわないでくれ・・・苦しめないでほしい」と、主イエスを救い主と認めていませんでした。これは、神との交わりを失い、その結果自らをコントロ-ルできない悲惨な状態です。
ところで、この人の姿は、救い主イエス・キリスト抜きで生きていけると思い込み、自分を愛することができず、他者との健全な交わりを持つことのできない罪人を表しています。
しかし、主イエスは、多数の豚を犠牲にするほどに、ひとりの人の生涯を悪魔の支配からキリストの愛のご支配に生きるように招かれるのです。私たちは、一人ひとりを愛し重んじておられるキリストのご支配を、拒むことのないようにしたいものです。

2.家族を重んじる 18~20節
悪霊にとりつかれた人が、主イエスと一緒に行きたいと願ったのは、ごく自然なことでした。しかし、主イエスは、この人が自分の家に帰り、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられました。彼の家族が、これまで心を痛め、また苦しんだことに対して報いる責任があったからです。また、彼が、神の恵みと主イエスの救いを家族に伝えることが大切だったからです。
その結果、彼の遣わされた地で「イエスが自分にしてくださったことを」伝えたので、家族のみか、置かれた地域に多大な感化を与えることになったのです(6章53節以下)。
私たちは、身近な家族に対して、「主が・・・あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」との証しをすることを大切にしたいものです。