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主がおられる所へ行く(2016.11.20)

宣教題  「主がおられる所へ行く」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ58章1~14節 マタイ25章40節

主が共におられることを私たちは求める。自分の祈りを主が聞き、それに応えて「共にいてくださる」と語って下さることを求める(4, 9節)。どうすればそのことが実現するのだろうか。捕囚後のエルサレムに住むユダヤ人たちは、断食によって自らを苦しめることを通してそれが実現すると考えた(5節)。ところが、主は彼らの断食を顧みず、祈りに応えてくださらなかった(3節)。

1. 断食か、社会生活か
なぜ断食を主は顧みてくださらないのだろうか。主がその人の宗教的な部分だけではなく、全生活を見ておられるからである。本当に主を尋ね求め、主を知ろうとしているのか(2節)、主は問われた。断食をしている人々の生活は、主が願っているものからはほど遠いものであったからだ。労働者を追い使い、争いをおこし、暴力を平気に用い、人々を束縛し、貧しい者にあわれみを施さず、安息日に休みをとらずに、人々をこきつかった(3, 4, 6~7, 9~10, 13節)。民の生活は、彼らと関わりを持っている諸国民の生活と変わらなかった。だからであろうか、宗教的に生きようと彼らは断食をした。しかし、神は、宗教的な自分と世に生きる自分を使い分けている者に厳しく対応された。

2. 全生活を見られる主
全生活を見直しなさい、と主は語りかけた。人々を解放し、貧者を顧み、安息日を守って、他者を休ませなさい、と命じた(6~7, 9~10, 13節)。断食をする宗教的な人であるか、ではなく、生活の現場でどう生きるか、が問われていた。自分よりも立場の弱い人々への解放と思いやりに生きるとき、そこに主が共におられて、祈りに応え、導き、満たし、いのちをあたえ、再建を果たしてくださる。そして、そのような人と共に主がおられることをまわりの人々も見るのだ。
イエスご自身もこのことをご存知だった。そして、羊と山羊の物語を語られた(マタイ25章31~46節)。自分よりも立場の弱い人々を解き放ち、思いやりを示す生きる場所にこそ、主が共におられる所であると述べられた。われらも主がおられる所へ行こうではないか。

豊かな信仰生活(2009.3.15)

題   : 「豊かな信仰生活」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章10節~20節
キリストにある者は、主からの豊かに満ち溢れた恵みと祝福をいただきつつ生涯を歩んでいきます。その秘訣は、「わたしを強めてくださる方のお陰で」(13節)、「キリスト・イエスによって」と、キリストご自身によるのです。

1.強めてくださる神  13節
フィリピ教会は、パウロの福音宣教のために愛の贈り物をしています。パウロは、感謝をもってそれを受け取ることによって、フィリピの教会とキリストの愛を分かち合っています。この主にある大きなパウロの喜びは、フィリピの信徒たちの信仰と希望と愛の結実であり、「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」でした(10節、15~18節)。
パウロ自身は、いかなる境遇に置かれても、それらに対処する秘訣を習い覚えて知り、授かっていました(11~12節)。キリストご自身が彼を支配されて「強めてくださる」ので、キリストにあって出来たのです(13節)。
私たちは、自らの「内なる人」を神によって強めていただいていないと、外に表れるもので一喜一憂しやすくなります(エフェソ3章16節)。私たちの信仰生涯と教会の歩みには、「わたしを強めてくださる」キリストの力が必要なのです。

2.必要を満たしてくださる神  19節
私たちを強めてくださる神は、また私たちに「必要なものをすべて満たして」くださるお方です。
創造主であられ神は、無尽蔵の富を出し惜しみなさいません。死んで復活されたキリストは、豊かな命を注いでいてくださいます。ただし、神が私たちに必要とされるものを知って上で、一人ひとりに届けてくださるのです。神がお与えにならないのは、必要でないからです。
私たちが喜んで神の業を担わせていただくときに、神はその人の必要を満たしてくださいます。神が心に留めておられることがらに、私たちも心に留めて献げていくときに、神は祝福されます。
「わたしの神」が強めてくださり、満たしてくださるとの信仰の確信に立って、「わたしたちの父である神」を讃える教会とさせていただきましょう(20節)。