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同じ心をもって(2008.11.23)

題   : 「同じ心をもって」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章19節~30節
パウロの各手紙の最後は、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」といった挨拶で締め括られています。そこには、神の恵みに対する感謝が溢れ出ています。それはパウロだけではありません。テモテもエパフロディトも「同じ心」でした。

1.同労者の心で生きる
テモテは、パウロと同じ思いを抱いて、自分をフィリピの教会員の立場に置いて愛の配慮をしました(20節)。また、彼はパウロと共に福音に仕えることにより、人々がキリストの救いに与かることができるように祈り労しました(22節)。
また、エパフロディトは、福音のためにパウロと共に祈り労する同労者であり、福音のために戦う戦友でもありました。具体的には、フィリピ教会からの献金を携えて獄中のパウロのところを訪れて励まし、慰めています(25節)。しかも、フィリピの教会を代表してパウロに仕え、キリストのために犠牲を惜しまず、命を懸けるほどでした(30節)。
このようにパウロは、イエス・キリストの恵みに共に与かっている同労者に対して、感謝の思いをもって証しています。共に祈り合い、共に慰め合い、共に仕え合うのに最も必要なことは、主イエスが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことです(ヨハネ13章34~35節)。

2.キリストの心を生きる
キリストの心を知らされたパウロにとって、彼の周りにいる同労者たちこそキリストの心を生きる人たちでした(5節)。そのことは、テモテがイエス・キリストのことを追い求め(21節)、エパフロディトがキリストのために生きることを第一としたことに見られます(30節)。
さて、主の恵みに対する感謝は、具体的に感謝をささげることによって表されます。主なる神に礼拝をささげることによって、賛美をささげ、奉仕をささげ、献金をささげるというようにです。ここに、キリストの心を生きる者の姿があります。
感謝をもって、キリストの心を生きる者とさせていただきましょう。

救いの達成を(2008.10.5)

題   : 「救いの達成を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章12節~18節
人は、一つのことをやり遂げたいとの願いを持っています。そして、私たちは、救いを全うしてくださる真実な主に在って、「自分の救いを達成する」ことを努めたいと願います。

1.信仰による従順によって  12~13節
私たちは、キリストの十字架の死と葬り、復活と昇天と着座という救いのみわざに対する信仰によって、救われたのであり、救われ続けているのであり、救いの完成にあずかるのです。「ただ信じなさい」とは、キリストの救いにすがる以外に自分ではどうすることもできないという、自力に絶望した告白です。
その救いを達成するためには、信仰による従順が求められます。信仰と従順は、切り離すことができません。そして、主に従いたいとの謙虚な恐れとおののきをもって、救いにあずかり続けることを願うのです。
なお、その願いを起こさせ、救いを成し遂げてくださるのは、私たちの内に働きかけていてくださる神ご自身です。

2.従順な生活を通して  14~18節
この救いを達成するために、「よこしまな曲がった時代の中で」どのように生活し、実を結んでいくのでしょうか。
「神のなさることは本当に正しいのか」、「神は余りにも多くのことを求められる」などと、不平や理屈、つぶやきや疑いを持ったりすることが、私たちを不従順にさせます。主に従う生活は、神の前でも、人の前でも非難されない純真な品性と人格が備えられた生活を歩むことです。
そして、魂に命を与え、養ってくれる「命の言葉をしっかり保」って自分のものにし、みことば通りに生きることによって、キリストを輝かす歩みをすることです。
パウロは、キリストの再臨の日を見据えて、人々の救いの完成のために労苦と犠牲をささげることに勝ち誇る喜びを覚えていました。私たちが、信仰による従順な生活をすることは闘いです。しかし、そこには勝利があります。この勝利こそが、キリスト者の「喜び」なのです

キリストの心(2008.9.7)

題   : 「キリストの心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章 1節~11節
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(5節、文語訳聖書)と、キリストと共に、キリストのために生きる者は、キリストの心を大切にするように勧めています。その心は、「へりくだって」とあるように(3節、8節)、謙遜な心です。これこそ、私たちが受け継いでいく信仰のいのちです。

1.キリストの謙遜が私たちの救い
キリストの心の中心は、キリストの愛です。キリストの愛の中心は、キリストの謙遜です。真の神であられるキリストが、人となられて罪以外の全てのことを経験してくださり、その地位も立場も無にして仕えてくださいました(6~7節)。その極みが、十字架の死に至るまで従順であられたことです(8節)。
主イエスは、十字架という唯一の目的のために従順であることを学びつつ、従い通されました。これによって、私たちの救いの源となられたのです(ヘブライ5章8~9節)。
父なる神によって最も高く挙げられたキリストこそ、主と告白され、全ての被造物によって礼拝を受けられ、讃えられるべきお方です(9~11節)。

2.キリストの救いが私たちの謙遜
このキリストの謙遜こそが、パウロがフィリピ教会に対して切願した一致の土台でした。さらにパウロは、一人ひとりの信徒がキリストの愛と慰めと恵みによって霊性を整えられ、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志しが一つになるようにと切願しています(1~2節)。
そのために大切なことは、キリストの救いのゆえに、自分優先ではなくて、キリスト優先を貫くことです(3~4節)。そこでは、他者が生かされ、教会が生かされ、神の栄光が現されるために、自分の主張を撤回し、自分の利益を捨てることが求められます。キリストと同じように、謙遜になって従順を学び続けることによって、真に他の祝福の源となることができるのです。
謙遜であられるキリストが、私たちの内に力強く働かれ、そのキリストに生きていただくという信仰に生きる教会となりましょう。

生きざまは死にざま(2008.8.3)

題   : 「生きざまは死にざま」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章20節~30節
キリスト者の死生観の中心には、いつもキリストがおられます。
パウロが、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と告白したように、その生は復活のキリストによって支配され、死もまた復活のキリストの恵みによって支配されているのです。

1.生きる意義
「生きるとはキリスト」とは、生きること即キリストということです。このように告白するキリスト者は、喜びの時であれ、また苦しみの時であれ、絶えずキリストの人格とみこころに完全にとらえられているのです。
ですから、イエス・キリストの十字架の死によって贖い買い取られて神のものとされた者は、パウロと同じように「この身によって」キリストが拡大されていくことを願うのです(20節)。
そして、パウロとフィリピの信徒が一つにされて、福音の信仰のために共に戦ったように、「キリストのために苦しむ」という恵みに生きるのです(27~30節)。互いが、このように生きることを通して、「実り多い働き」をさせていただきたいものです(22節、24~26節)。

2.死ぬ価値
一般に、死はマイナスであり、人を虚無にし、一切が終わりで受け入れられないものと考えられています。キリスト者でさえ、「死ぬことは利益なのです」とか「はるかに望ましい」(21節、23節)とは受け入れられないと言う人もいます。
しかし、人間の最後の敵とも言える「死」が価値あるものと告白できるのは、キリストの十字架と復活の事実のゆえに、肉体的束縛と永遠の死から解き放たれてキリストと共に永遠に生きる望みがあるからです。「あなたは死と墓を見つめるな、復活されたキリストを仰げ」との勧めに耳を傾けたいものです。
キリスト者の生き方は、限りある肉体だけの人生に関わって生きるのではありません。永遠の命を与えられていることを覚えて、生きている時も死ぬ時も、永遠の命に生きることを具体的に現させていただくのです。

キリストのすばらしさ(2008.7.6)

題   : 「キリストのすばらしさ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章12節~20節
イエス・キリストの救いをいただき、いつも感謝をもって喜び満ちていたことを証しするのが「フィリピの信徒への手紙」です。
ここでパウロは、自分の身によってキリストのすばらしさが現され、さらに拡大されることを絶えず願っています(20節)。それは、どのようにして成されたのでしょうか。

1.生きざまを通して  12~18節
まずパウロは、監禁という自分の身に起こった生きざまを通して、キリストのすばらしさが拡大されていったことを語っています。それが、福音が新しい展開に切り開かれていくという、福音の前進に役立ったというのです。
すなわち、監禁されるという苦しみを通してでしか伝えることのできない人々に、福音が届けられたのでした(4章22節)。その結果、他のキリスト者の信仰に確信を与え、信仰を深め、彼らを福音の証し人としました(12~14節)。
ところが、純粋な愛の動機で福音を語るだけでなく、自分を誇示するという自分中心の動機で福音を語る者もいました。
それでもパウロは、一貫して、キリストが告げ知らされていることのみを喜びとしました。キリストのすばらしさが現されることのみを喜んだからです(15~18節)。そこに行き詰まりはなく、前進あるのみです。

2.祈りと聖霊の十分な供給によって  19節
以上のような一連の試みは、パウロに霊的成熟をもたらし、キリストに似たものにされていく救いの道となりました。彼は、監禁されている中で、つぶやかず、いらだたずに、常に喜び、絶えず祈り、事ごとに感謝するという聖別にあずかることを体験的に知ることとなったのです。
そのように確信させてくださったのは、聖徒の祈りと聖霊の十分なまでの供給によるのでした。それはちょうど、聖霊が指揮者のようになって、聖徒たちが祈りを合わせて一つとなっていく時に、どんな行き詰まりや困難の中にあっても、キリストのすばらしさは拡大し、福音は前進していったのです(マタイ18章18~19節)。
私たちは、自分が何者であるかを現すのではなく、いかなる時も、キリストのすばらしさを現させていただきたいものです。

福音にあずかる(2008.6.1)

題   : 「福音にあずかる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章1節~11節
私たちが、いかなる状況下にあっても、またどのような時にも歓喜の生活を送ることは難しいものです。私たちの人生全般に喜びが満ち溢れているためには、イエス・キリストに結び合わされて、福音にあずかり、また福音にあずかり続けることが大切です。

1.福音にあずかっていることの感謝  3~8節
「福音にあずかっている」とは、イエス・キリストの十字架と復活によって現された神の救いの福音を聴いて、それを信じ救われたところから始まります。この福音の惠みを共有する私たちは、聖霊との交わり(2章1節)とキリストの苦しみにあずかりつつ(3章10節)、福音のために重荷を持って福音を伝えていくことにより、福音に生きる喜びを分かち合っていくのです。
フィリピ教会は、その誕生の最初の日から(使徒言行録16章11~40節)、この手紙が記された時まで、パウロの宣教の働きを共有してきました(フィリピ4章14~15)。パウロは、そのことをキリストの愛の心をもって受けとめ、感謝しています。
福音にあずかった者として、福音のために自らとその人生、そして時や財などを共有し、福音が広められていく喜びを経験したいものです。

2.福音にあずかり続けることへの祈り  6節、9~11節
私たちは、福音にあずかり続け、やがて「キリストの日」と言われる主の再臨の日に、主の御前に立つことのできるよう願っています。そのためには、それを成し遂げ全うさせてくださるイエス・キリストご自身に信頼し、任せていくことが大切です。
そして、私たちが、神を愛し、他者を愛し、キリストの体なる教会を愛する愛に富ませていただき、鋭い感覚を与えていただくことが大切です。それによって、何が神のみこころに適う重要なことであるかを判断させていただきつつ信仰生活を歩んでいくのです。
以上のことに、私たちの祈りの焦点が置かれていることが重要です。そうした中から、私たちはキリストの体なる教会に身を委ねるものとして、福音にあずかり続けていく喜びを経験したいものです。

力に溢れて(2008.4.6)

題   : 「力に溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章10~14節  2コリント 12章9~10節
私たちが、『わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたいのです』と言い表すことができるのは、『わたしの惠みはあなたに十分である』と宣言してくださるキリストによって出来るのです。私たちは、満ち足りた中でも渇き求めて生きるのです。

1.キリストの「愛の力」に満ちている
ここで言われている満足は、悟りとか精神修養の類ではなく、また特別な信仰者が身につけているというものでもありません。全てのキリスト者に与えられています。それは、『わたしを強めてくださる方』が私たちの全てをご支配してくださるとき、すなわちダイナマイトのように力ある『キリストの力がわたしたちの内に宿る』ことによって可能となるのです。
このキリストの力は、愛の力です。私たちが、この愛の力によって満ち足りていないと、他の人や環境に責任転嫁をしたり、トラブル・メ-カ-となったりしかねません。キリストの愛の力によって、真に実力あるキリスト者また教会とさせていただきましょう。

2.キリストの「惠みの力」で十分である
私たちがキリストの惠みの力で十分であれば、どんな境遇にあっても満足することができます。その惠みの力は、『弱さの中でこそ十分に発揮される』のです。
だれもが持っている弱さは、罪と死に自分で打ち勝つことが出来ないということです。その罪を担われたキリストの十字架と、罪の結果である死に完全に勝利されたキリストの復活において、キリストの惠みの力が最大に発揮されました。

私たちがこの惠みにあずかり続けるなら、自分の人生を肯定して受け入れることができます。また、生きる力が湧いてきます。
そして、ゆるす力、愛する力、祈る力、伝道する力、献げる力、奉仕する力が生まれてきます。『わたしを強めてくださる方』に主役になっていただき、私たちが脇役に徹していくことが、一切の力に溢れる歩みの秘訣です。

キリストに倣って(2008.2.24)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:  鎌野 善三 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節
キリスト教の中心は、キリストご自身です。クリスチャンは、常にキリストご自身を意識し、このお方の生き方に倣って歩む必要があります。パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、そのような歩みがどういうものかを次のように解き明かします。

1.同じ思いとなる
私たちは、そんなに熱心なクリスチャンでないかもしれません。けれど「幾らかでも、キリストによる励まし」があるのなら、「同じ思い」となるように努めましょう。主が私たちのために命を捨ててくださったことを思うとき、私たちも他の人々のために、幾らかでも犠牲を払う生き方ができるのです。フィリピ教会にも意見の対立があったと思われますが(4:2参照)、どの教会もそんな問題を抱えています。しかし、主イエスに倣うなら必ず一致でき、みんなの「喜びが満たされる」のです。

2.へりくだる
一致の妨げとなるのは、利己心と虚栄心です。逆に一致をもたらすのは「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることです。自分ができないことを他の人がやってくれていると考えるとき、教会は生きた「キリストのからだ」となります。へりくだるとは、「自分は何もできない」と言うのではなく、積極的に「他人のことにも注意を払う」ことです。もし何かをして「ありがた迷惑だ」と言われたときに、「ごめんなさい」と言えることこそ、本当のへりくだりです。

3.神に従う
主ご自身がへりくだりの最高の模範を示して下さいました。神の身分でありながら、自分を無にして、人間と同じ者になられました。さらに主は、父なる神の御心に従って、十字架の死に至るまで従順であられたのです。神の子であるお方さえ従われたのですから、私たちも当然そうすべきです。聖書を通して、悔い改めるべきことを示されたなら、奉仕の姿が問われたなら、献身の招きがあったなら、従順にその声に聞き従いましょう。従う者に、神は豊かな報いを用意しておられます。

キリストのことを思う機会が多ければ多いほど、私たちはこのお方に似たものとされます。本来私たちは、神の姿に似せて創造されたのですから。

生きることはキリスト(2008.2.24)

題   : 「生きることはキリスト」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  1章12節~26節
パウロ先生は、自分が獄中にとらわれている時にも、神様によって愛され、神の愛のふところに捕われている実感をもっているために、いつも周囲の人たちを愛の心をもって励ますことができたのです。

1.福音の前進
パウロは、自分が捕われて牢獄にいることも前向きに捕らえています。それは彼が捕われの身でありながら、看守や牢獄の中にいる犯罪者たちにもイエス・キリストについて語り続けたために、福音が兵隊たちの間にも知られ、救われる者が起こされるほどでした。
わたしたちは小さな困難も愚痴やひがみの原因にすることが多い者です。しかし、困難も福音の前進に役立つように求めるべきです。

2.愛の動機
わたしたちが福音を伝えるのはどこに動機があるでしょう。パウロの時代も現代も同じような動機があります。
ある人たちは、伝道をすることさえ自分の利益のために、つまり自分が人からほめられたいためにしています。
このような人々は、伝道や主のための奉仕でさえ自分の見栄のためにしています。このような人は、ほめられると奉仕をしますが、人に認められなかったらしなかったり、不満をおぼえたりします。

3.生きるとはキリスト
「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とパウロは言います。わたしたちの生きている意味はどこにあるでしょう。
わたしたちは、神のご愛のゆえに、キリストの十字架によって罪ゆるされ、復活によって新しい命に生かされ、神に導かれ、神と共に歩むお互いです。
つまりわたしたちは、キリストから離れては一瞬たりとも生きることはできないはずです。キリストを信じるということは、キリストと共に生きるということです。
本気でキリストと共に生きましょう。

目標を目指して(2008.2.3)

題   : 「目標を目指して」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  3章12節~21節
本日は、教会総会の礼拝でもありますので、1月6日の新年礼拝で語った同じ箇所の、今年の標語の箇所から導かれています。さて、わたしたちは新年を迎えて一ヶ月を送り、どれほどの前進が出来たでしょう。一年間を振り返るときに神様の前にも、自分自身にも喜び、感謝のできる目標に向かって近づけるものでありましょう。

1.キリストに捕らえられているわたしたち
パウロは、熟練し、聖徒として練り上げられ、不純物を取り除けられ、キリストの形に造り上げられたかと思える大聖徒が「既に完全な者となっているわけでもありません」と言っています。
しかし、パウロは「捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言います。
わたしたちもキリストに捕らえられたお互いです。捕らえられたものらしい生き方をしたいものです。

2.完全な者にされているわたしたち
キリストに捕らえられているということは、キリストの完全な救いに与かった者です。そのような特権に与ったわたしたちは、毎日、ひたすら走ることが大切です。
完全な救いすなわち、完全な神の子どもにされたわたしたちです。そのわたしたちがさらに神様からの賞が与えられると言うのです。あのパウロの言う「義の冠」(2テモテ4:8)であり「命の冠」(ヤコブ1:12)、「栄冠(栄光の冠)」(1ペテロ5:4)です。

3.本国の備えられたわたしたち
先の賞をいただいたわたしたちは、主イエス・キリストのおられる御国に入れて頂ける特権が与えられていますが、そこは、新しい命をいただいて神の子とされた者たちの本国なのです。
しかも、イエス・キリストはそこから再臨されます。わたしたちが御国に移される前に再臨があれば、また感謝なことに約束の御国に移していただけるのです。
この地上においてこうした、このような輝く目標の与えられた恵を覚えて教会の前進、成長を願い、愛と平和に輝く神戸中央教会として頂きましょう。

信仰の前進(2008.1.6)

題   : 「信仰の前進」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節
今日は、教会の標語である「信仰の前進」から語らせていただきます。パウロは、わたしたちから見れば完成された信仰者で、だれも近づくことの出来ないほど偉大な聖徒だと思われます。
しかしパウロは「わたしは、既に完全な者になっているわけでもありません。」と告白しています。ここに信仰の成長の秘訣があります。つまり、「自分は既に完成された者である。」というところには成長は望めないのです。
パウロはここで、完成を目指すクリスチャンを競技場でゴールを目指して走るスポーツ選手にたとえています。

1.後ろのものを忘れて走る
かつての経験、かつては熱心であったことはあまり重要ではありません。神様は今あなたがどのような信仰生活を送っているかに興味をもたれます。
かつての栄光にしがみついていては前に進みません。かつての罪や弱さを引きずっていては走れません。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ12:1)。

2.目標を目指して走る
マラソンのような長距離走でも、短距離走でも選手の目標はゴールです。ここでパウロの示すゴールは、キリストの復活の力と喜びに与ることです。さらに賞を得るために走るのです。ここでいう賞とはパウロの言う「義の栄冠」(2テモテ4:8)です。
ひたすら目標を目指しましょう。先日ベラカで学んだロトの妻のように、後ろを振り返ることなく走るのです。

3.完全な者として走る
完全な者になっているわけではありませんと言いながら、ここでは「完全な者は」と言っておられます。
わたしたちは完全な救い、すなわち、イエスキリストの完全なあがないの十字架と復活という救いに与った者です。そうであれば、完全な救いに与った者らしく信仰生活を走り抜きましょうと言うのです。