第一コリント」カテゴリーアーカイブ

いつまでも残るもの(2019.9.15)

宣教題 「いつまでも残るもの」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 1コリント13章13節

 愛の神は、人間として大切なものを見失いつつある私たちに、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と語られて、この大切なものを受け取ってほしいと願っておられます。

1.人生は「信仰」から始めよう 
 聖書の「信仰」という言葉には「真実」との意味が込められています。人としての真の道は、すべてを創造された唯一の神を信じる人生にあります。
私たちが、この宇宙や大自然界の神秘を、人間の存在の不思議さを目の当たりにし、その背後におられる創造主の神の存在を認めて信じることにより、人として真の道を歩みだすことができるのです(イザヤ書40章26節)。

2.信仰は「希望」につながる 
 神を信じる人生には、不思議な希望が伴います。それは、困難に囲まれながらも、輝きを発して生かされるところから生まれる希望です(ローマ5章3~5節)。   
また、死に直面してもなお揺るがない、死をも超えた希望です。
真実な神は、死を乗り越え、突き抜け、永遠の世界にしっかり結びついてこそ得られる本物の希望を備えていてくださるのです。

3.「神の愛」こそが希望を与える 
 困難の壁を崩して進み、死の暗闇を打ち破るために必要なのは、「その中で最も大いなるものは、愛である」と言われる神の愛です。
 神の愛は、独り子イエス・キリストを通して現わされました。私たち罪人のために十字架で身代わりに死んでくださり、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。ここに、神の愛があります。この神の愛を「私のため」と受け取るだけです。

聖書朗読(0.1MB)

メッセージ(12MB)

祝福の根源(2019.9.8)

宣教題 「祝福の根源」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章28~48節 1コリント6章19~20節

 本箇所は、主イエスが平和の王として来られてエルサレムに入城され、この後十字架のご受難の道に向かわれた危機的な場面です。この時、人々は主イエスをお迎えしましたが、それが必ずしも主の御心に沿うものではありませんでした。

1.救い主の訪れを見過ごさないように  28~44節
 主イエスを迎えるに際して、二つのグループがありました。一つは、イスラエルの王として迎え入れた弟子たちや多くの群衆です(36~38節)。もう一つは、主イエスを拒絶したユダヤの宗教家たちで、主イエスを妬み、亡き者にしようとしていた者たちです(39~40節)。それに対して、主イエスは、ご自身を通してもたらされる神による平和の道を見失い、ご自身を通して神が訪れておられることを見過ごしている者たちへ、泣いて審きを予告されました(41~44節)。
 さて、私たちは、救い主イエスが私たちを訪れて良心に語りかけておられる御声を退けないで、「主よ」とお迎えして応答することが肝要です。

2.永遠の救いを失わないように  45~48節
 主イエスは、神を礼拝すべき神殿が強盗の巣となっており、そこにあった多くの罪のゆえに怒られました(45~46節)。それに対して、宗教家や指導者たちの主イエスに対する殺意はますますエスカレートしていきました(47節)。彼らは、本来の礼拝をする場所に戻そうとされた主イエスを無視して、自分たちの一時的な満足のために永遠の救いを失ったのです。
 さて、私たちは、主イエスが血をもって買い取られた神殿であり、神のものとされたのですから、そこを主イエスに明け渡すことが祝福の根源です(1コリント6章19~20節)。この恵みに生きるなら、霊的に老いることはありません。

聖書朗読(1.0MB)

メッセージ(8.0MB)

福音のためなら(2019.5.26)

宣教題 「福音のためなら」       宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 1コリント9章19~23節

1. 自由とは
 自由とは何でしょうか。イスラエルの民は、エジプトの奴隷であったとき、れんがを造ることを命じられ、ノルマを与えられ、厳しい労働を強いられました。断る権利がないのが奴隷です。神に導かれて解放された民は、安息日を与えられます。安息日は、労働をしなくて良い日です。労働を止められる事が、奴隷から解放されて、自由となった証拠でした。神が与えた自由は、しない事でした。

2. 不自由になる自由
 神は何にも支配されない、真に自由な方です。神はその自由を使って、ご自身を制約されています。神は不義も不正も、見捨てる事も決してしません。神は神として相応しくないことをしない事によって、神の本質を現わされます。ノアの洪水の後、二度と洪水によって滅ぼすことはしないと定め、ご自身を制限されました(創世記9章)。イエスは、荒野での誘惑において、石をパンに変える事を、しない事によってキリストである事を現わされました。パウロも神に倣って自らを制約し、自らすすんで「すべての人の奴隷になりました。」(19節)

3. 自発的な不自由
 私達は、神を愛し隣人を愛するように言われています。しかし、憎むことをやめられない相手、止めたいのに抜け出せない習慣が誰にでもあります。神は、従おうとする者に相応しくない事を、しない事に自由を使うように求めています。しかし、そんな事は出来ないと思う事があるのではないでしょうか。その、神に信頼しなすことをまず止め、祈ろうではありませんか。神は私達のどんな祈りでも、だれの祈りでも、神として聞かずにはいられない方なのですから。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(10.8MB)

恵みによって、今の私に(2017.12.31)

宣教題 「恵みによって、今の私に」     宣教 今田好一牧師
聖 書 1コリント15章3~10節

 復活の主が人々の前に現れたリストの最後に、パウロは自分を挙げて、神の恵みを感謝しています。

1.今のわたしに導いた惠み
 パウロは自分を「月足らずで生れたようなわたし」と表現し、更に神の教会を迫害した張本人として描きます。しかし神は、そんなパウロに主の十字架による全き赦しを与え、復活の主イエスを宣べ伝える者として用いられます。神は、パウロが弱い時に強くし、迫害に遭った時に助け、心挫ける時に新しい力を与えて下さいました。

2.恵みによる多くの働き
 パウロは、自分の働きが誰にも負けなかったと告白をします。それは神の恵みが溢れているから、共にいて下さった神の恵みによって多くの働きができたと語ります。神の恵みを深く感じたパウロは、その恵みを決して受けっ放しにはしませんでした。

3.内側で働く神の恵み
 パウロは、神の恵みを感じ、一生懸命働く者になった自分が偉いのではなく、素晴らしいのは私の内で働かれる神の恵みなのだと語ります。すべてが神の恵みであり、その恵みの与え主だけが褒め称えられるべきなのです。神の愛が欲しくて奉仕するのではなく、神への感謝が自然の表れとしてなされる奉仕のみが貴いのです。
 今年、与えられた恵みに感謝し、来る年のためにも、主は更に優る恵みを私たち一人ひとりに備えておられることを信じて歩みましょう。そして、今のわたしがあるのは主の十字架のゆえであることを心に覚えましょう。

大いなる逆転(2016.3.27)

宣教題  「大いなる逆転」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1コリント15章50~58節

キリストの十字架と復活の出来事は、過去の歴史ではなく最新のニュースであり、今も生きて働いている福音です。従って、死者の復活は揺るぐことのない希望です。
そこでパウロは、復活されたキリストによってもたらされる勝利の叫びを上げています(57節)。さらに、生き方が変えられたことを明らかにしています。

  1. 死に勝利して生きる 50~56節
    ここには、死の力の前に無力を知らされるばかりの私たちに、決して死がすべての終わりではないことを告げています。地上の有り様は過ぎ去り、朽ちていきます。しかし、終わりの日すなわちキリストが再臨されるときには、「この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」との神の御業がなされるからです(52~53節)。このことを信仰の目でしっかりと見るようにと告げています(51節)。
    そして、死に対する勝利が宣言されています(54節b~56節)。死は罪の結果であり、その罪に対するさばきが死です。しかし、キリストの十字架と復活によって、罪と死は完全に滅ぼされ、「死は勝利にのみ込まれた」のです。この世の命に望みをおかず、復活信仰に生きるところに勝利があります。

2. 主の業に溢れて生きる  57~58節
さて、復活信仰に生きる者は、死に勝利させてくださった神に感謝する生涯へと変えられます(57節)。そして、「主の業」に常に励む歩みに繋がっていきます。それは、いかなる時も、いかなる状況にあっても、キリストの十字架と復活によって成し遂げられた福音をこの世に証しすることに溢れる生き方です。信仰によってキリストに結ばれている者には、その主の業がどれほどの苦労であったとしても、決して「無駄」にはならないのです。
キリストの復活のゆえに、私たちの信仰も宣教も「無駄」にはなりません(15章14節)。また、そのキリストの恵みに徹して生きる者は、神の恵みを「無駄」にはしません(15章10節)。復活信仰がもたらす大逆転に生きる群で在り続けたいものです。

賢明な計略(2015.7.19)

宣教題  「賢明な計略」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア9章16~26節 1コリント3章18節

数ある選択肢の中から何を選ぶかで、その人が賢明であるか、明白になる。イスラエルの連戦連勝のしらせにどのように対応するかで、人々の知恵が試された。

1. 賢明そうな計略
イスラエルが攻略したアイからそう遠くない場所に住んでいたギブオンの民は、生き残りのために計略を立てた。古びた袋、靴、外套、干からびたパンを準備して、遠くからの旅人を装い、イスラエルの所に向かった。和を講じ、自分たちが滅ぼされることがないようにと願って行動した。彼らの虚偽をイスラエルは見破ることができず、契約を結んでしまった。三日後にギブオンの民の嘘に気づいたが、時すでに遅く。契約のゆえに、彼らを滅ぼし尽くすことはできなくなった。奴隷の身分ではあるが、ギブオンの民は命が保たれた。失うものも多くあったが、彼らなりの賢明な計略は、それなりに功を奏した。

2. 愚かな計略
ギブオンの民とは対照的なのが、彼ら以外の住民たちである(1~2節)。戦闘によってイスラエルに対抗しようと考えて、諸国連合を結成した。これは愚かな計略であった。10章以降に描かれているように、彼らはイスラエルの前に無残にも敗北する。いのちさえも失った。
彼ら同様に愚かさであったのは、イスラエルの民自身である。旧来の住民たちを滅ぼし尽くすように主から命じられていたのだが、ギブオンの民の計略を見抜くことができず(疑問には思ったが)、主の指示を求めることもなかった(14節)。善かれ悪しかれ、ギブオンの民との共存が彼らの運命となった。

3. 賢明な計略
最も賢明であったのは、2章に登場したラハブである。主のなされたわざを聞いて、主を神として認めた一方で、ギブオンの民のような策略を立てることはしなかったからだ。彼女は、イスラエルの神とその民を信頼することを選び取り、その結果、命が救われ、イスラエルの一員となる。
自分の知恵が神の偉大なみわざを見えなくしてしまうことがある(1コリント3章18節)。不安は確かに残る。しかし、「神を信頼する」選択を「あえて」行うとき、ラハブが味わったように主の真実を体験することができる。神を「あえて」信頼することこそ、最も賢明な計略である。

危機に際して(2013.8.4)

宣教題  : 「危機に際して」   宣教:   川原﨑 晃 牧師 聖    書  : 使徒言行録21章27~36節 2コリント1章9節 主なる神が用意されている危機は、危険(ピンチ)と好機(チャンス)が織り成される時です。主は決して、ピンチをお与えになるだけではなく、その裏側には必ずチャンスを用意されています。主と共に歩む者が経験する危機は、何を明らかにするでしょうか。 1.主は御計画を遂行される パウロは、死を迎えてもおかしくなかったという経験を何度かしています。この度もその一つに数えられます。アジア州のエフェソから来たユダヤ人は、パウロが死罪に値する重大な宗教的罪を犯していると訴え、全群衆を扇動してパウロを捕らえて境内から引きずり出したのです(27~30節)。そして、民衆がパウロを殺そうとしていた時、エルサレムを支配していたローマの千人隊長はパウロの身柄を確保させ、兵営でエルサレムが混乱状態に陥った真相をつかむために連行させたのでした(31~34節)。こうしてパウロは、危機一髪のところで窮地から助けられたのです。その背後には、パウロを通して主が福音宣教を進められる御計画があったのです。 私たちの信仰生活には、窮地に追い込まれて万事休すと思えることがあります。そうした中において主の助けがあるのは、主の御業が進められるという御計画があるからです。 2.復活の主の助けがある  ここに見るパウロの受難は、26章まで続きます。その有り様はエルサレムにおける主イエスの御受難と並行しています(36節、ルカ23章18節)。パウロは、アジア州のエフェソにおいても自分の命の危険を感じる苦難の中を通され(19章)、それは生ける望みを失うほどで、死の宣告を受けた思いをもったことでした。そのように、彼は一方で万事休すではないかとの恐れと、他方で死から復活された主イエスが共にいて助けてくださるという神への信頼が交錯する中で、神に望みを置いたのです(2コリント1章8~10節)。 全てを御支配しておられる私たちの主は、私たちが危機感を抱く時であっても、それを喜祈感に変わらせてくださるのです(1テサロニケ5章16~18節)。

自由と愛(2013.7.7)

宣教題  : 「自由と愛」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章17~26節 1コリント9章23節
パウロは、いかなる時にもキリストを中心に置いて、ぶれない生き方をしました。そのパウロが、福音にあずかって真に自由な者とされ、かつ福音に共にあずかるためには、その自由が制約されてもキリストの愛に生きることを選んだのです。

1.福音にあずかる
パウロ一行はエルサレムに到着したとき、教会の人々の歓迎を受け、教会代表のヤコブや長老たちに挨拶をしました。そして、パウロを通して福音が異邦人に届けられたことの報告をするなかで、同行してきた異邦人教会の代表者を紹介し、献金がささげられた経緯や趣旨を語りつつそれを手渡したと思われます(17~19節)。この時パウロは、それらは「神が」なされた神の業であることを謙虚に証ししています。ここに、福音によって自由とされた者の生き方があります。
キリストの十字架と復活によって、私たちは永遠の滅びから永遠の救いにあずかることができたのです。この福音にあずかった者は、罪と死に支配されない自由な生き方をするようになるのです。

2.福音に共にあずかる
エルサレム教会の人々は報告を聞いて「神を賛美」しました。続いて彼らは、教会内にパウロを誤解して受け取っているユダヤ人信徒がいることを伝えつつ、その誤解を解くための対応策と(23~24節)、かつてのエルサレム教会会議で決定したことを守るべきことを提案しました(25節)。パウロは、異議を唱えることなく、間違えば命を奪われかねない危険な提案を受け入れたのです(26節)。彼をしてそうさせたのは、自由を制約されても、敵対する同胞を愛する愛からでした。愛のゆえに同化したのです。
パウロは、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と証ししています(1コリント9章19~20節、23節)。私たちは、福音に共にあずかるために、祈りを、奉仕を、献金をもって神にささげる生き方をするのです。