福音」タグアーカイブ

福音は一つ(2021.5.2)

聖 書

福音の真理があなたがたの内に常にとどまるように、私たちは、一時も彼らに屈服することはありませんでした。(ガラテヤ2章5節)

礼拝音源(25.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編118編23~24節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編127編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ2章1~10節
使徒信条 93-4  1A 一同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「福音は一つ」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 411 一同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリストの福音によって造り変えられたパウロは、人間の支えによるのではなく、独善でもなく、イエス・キリストを死者の中から復活させた父なる神の御業の中て生かされてきました(1章)。その福音は一つであることを明らかにしています(2章)。

1.福音の真理にとどまる  1~5節
パウロは、回心後17年目にして、バルナバとテトスを伴って「再びエルサレム」を訪問しました(1章18節、2章1節)。この間、パウロのうちに十分な福音理解が形成されていったと思われます。この訪問の動機は、神のご計画・ご指示によったことでしたが、エルサレム会議が開かれた時だったと考えられています(使徒言行録15章1~2節)。
教会は、イエス・キリストを信じるだけでは救われないと歪める主張に対して、罪人であるすべての人に対する無条件で、無代価で与えられる「福音の真理」に固く立ちました(3~5節)。この揺らぐことのない福音の再発見こそが、今日の教会を支えています。

2.神の恵みに立ち続ける  6~10節
エルサレム教会の指導者たちとパウロたちは、「人を分け隔て」なさらない神によって、互いに尊敬の念を抱いています(6節)。そして、誰もが神の恵みによって救いと使命への召しに与っていることを知っていたために、同じ福音のために各々に委ねられた使命に生きることを確認したのでした(7~8節)。そして、主にある一致の交わりとして「右手を差し出し」、教会に共通に与えられている使命を確認したのでした(9~10節)。
私たちの存在の原点が神の恵みであることを忘れることなく、その神の恵みに繰り返し立ち続けることが大切です。

バズる福音(2020年8月30日)

聖書

エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。(マルコ3章8節)

礼拝音源(47.9MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編100編1~2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 57編1~12節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ3章7~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 461 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「バズる福音」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 433 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.噂の拡散
最近使われるようになった、「バズる」とは、噂が急激に広まる事を意味しています。特にインターネットを通じて広まること、大部分の方から好ましい事として思われている状況のときに使用されます。例えば、サバの缶詰には、コレステロール価を良くする効果がある。という噂が「バズった」とき、サバ缶が爆発的に売れたという事がありました。しかし、このような噂は、表面的な現象や理解だけが広まり、深く理解されている事はほとんどありません。まさに噂なのです。

2.福音の拡散
イエスの宣べ伝えた福音は、「バズり」ました。そのため、『おびただしい群衆』がイエスの所に集まって来ました(7,8)。しかし、群衆が集まったのは『病人をいやされた』(10)奇跡という表面的な現象を求めていたからであって、本質である『悔い改めて信じる』(1章15節)ためではありませんでした。
そこに紛れていた悪霊は、『イエスは神の子』(11)である事実を、悪用して伝えるものでしたので、言いふらさないように戒められました(12)。

3.福音に向き合う
世の中には、幸せになるための噂が溢れています。私達は不安や欲望、野心のために、それらに耳を傾けます。また、親切心と自己満足のため、「バズる」ことに手を貸します。しかし、深い平安や確信は、人の噂や自分が作り出す噂に耳を傾けるのではなく、イエスに向き合ったときに得ることができます。

 

 

神の子イエス・キリストの福音(2017.4.23)

宣教題  「神の子イエス・キリストの福音」    宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章1~4節

 四福音書には特徴があり、それを見聞きした人、伝え方に多少の違いがありますが、伝えようとしていることは同じです。その違いを踏まえてマルコが告げようとした福音を見ていきましょう。

1.マルコの人物像
 ペトロが投獄された時、人々は家の教会に集まって祈ります。それが、マルコの母マリアの家でした。このように彼は、教会の子という環境の中で育った人物でした。また、マルコはバルナバのいとこであり、1回目のパウロの宣教旅行に同行しますが途中で挫折して帰ります。しかし後にパウロから愛され、信頼される人物となります。

2.神の子イエス・キリストの福音
1節の言葉は、この福音書の表題と言えます。マルコが伝えようとした福音は、イエス・キリストの業と言葉であり、このお方そのものなのです。そして、この福音をもたらしたイエス・キリストとは、神の子であるとマルコは告げています。それは、真の神の子、神そのものだという信仰を言い表しています。何故なら、イエス・キリストが真の神の子でなければ福音にならないからなのです。

3.旧約の預言として
 この福音書にはイエス様の降誕の記事はなく、洗礼者ヨハネの登場から書かれていますが、どちらも旧約聖書の成就であったということです。この二人の出会いは偶然ではなく、ここに神の御計画があったということなのです。
私たちも、自分が神の子のイエス・キリストの福音を聞いた、この事実を、神の御手の中の出来事として、しっかりと受け止めたいと思います。

福音の冠(2016.11.6)

宣教題  「福音の冠」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章17~20節

パウロは、テサロニケの信徒たちを母親のように、また父親のように愛したと縷々語ってきました(2章1~12節)。本日の箇所では、福音がもたらす交わりの喜びがあり、そこから生み出される結実の喜びがあることを語っています。

1.福音の交わりを喜ぶ  17~18節
パウロは、顔と顔とで会いまみえる交わりに勝るものはないことを知っていました。そこで、テサロニケ教会再訪を切願するだけでなく、実行に移そうと並々ならぬ決意をしています。しかし、その神の働きは、背後で阻止しようとする巧妙なサタンの仕業によって妨げられました。
パウロは、そうした中にあって、「顔を見ないだけで、心が離れていたわけではない」と、テサロニケの信徒たちとしっかり結び合わされていたことを喜びとしています。心が結び合わされているところには、祈りがあります(コロサイ4章2~3節参照)。私たちは、祈りを通して、全世界のまだ会ったことのない人々とも豊かな交わりを持つことができるのです。

2.福音の実を喜ぶ  19~20節
限りある地上での歩みをする私たちが、再臨の主イエスの前に立った時に、何を望みとし、何を誇りとし、何を喜びとするのでしょうか。ここに、喜びに満ちたパウロの姿があります。それは、自分を通して主イエスの救いに導かれ、養われた聖徒こそが、『わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠・・・実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉であり、喜びなのです』と告白しています。つまり、主イエスの福音に与った者の満ち溢れる喜びは、誰かが主イエスの救いに至る道を選択した時に、そのお助けができた時の喜びです。
私たちは、主イエスの再臨の時に、空手で主をお迎えすることがないように、今こそ主の業に励む幸いな者とさせていただきましょう(1コリント15章58節参照)。

伝えられる恵み(2015.2.1)

宣教題  「伝えられる恵み」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章9~12節

ペトロが証言するように、私たちは、福音を告げ知らせていただき、今も生きておられる主イエスを信じ受け入れ、主イエスと共に生きるのです。それほどに、主イエスは私たちに近い存在となってくださったお方なのです。ペトロは、そのことを生き生きと語り伝えています。

1.福音が伝えられる
「福音をあなたがたに告げ知らせた」(12節)との御言葉が響いています。それは、「この救いは」(10節)とあるように、ただ神の恵みによる「魂の救い」(9節)であり、今現に受けているもので、「終わりの時に」(5節)完成される救いの福音です。
なお、この魂の救いとは、単に心の救いを述べているだけではなく、主イエスを信じる人の生き方が大きく変えられる救いです。その人のうちに、愛と信頼と喜びが満ち溢れ、試練をも神への全き信頼へと純粋なものに変えていくのです(6~8節)。
この福音が今日まで告げ知らされてきたことは、大きな恵みでした。ですから、この魂を救う福音が、もっと早く、多くの人々に伝えられることが、私たちの切実な願いなのです。

2.聖霊に導かれた人を通して伝えられる
ペトロは、救い主がまだ訪れていなかった旧約時代を振り返っています。預言者たちは、やがて訪れる救いの時を待ち望みつつ、それが誰を意味し、どういう時を指しているかを探求し、注意深く調べたのでした。そして、彼らの「内におられるキリストの霊」によって、キリストの十字架の苦難と復活の希望の光を示してきたのです(10~11節)。しかも彼らは、それが自分たちの時代に実現するのではなく、やがてその福音によって救いにあずかる人々のために仕えているとの自覚を持っていました(12節a)。
福音は、今に至るまで、聖霊に導かれて福音を告げ知らせる人々によって届けられてきました。その恵みは、天使たちも見たいと切望しているのです(12節b)。そして、この福音を告げ知らせることは、私たちにも託されています。そのためにも、私たちは、まず福音の恵みをしっかり味わい、大切に見つめ直すことが必要なのです。

福音のために生きる(2014.11.9)

宣教題   :「福音のために生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ7章24~35節
明確で永続する生きがいを持たない人が多い中にあって、私たちは、神の国のため、福音のために生きるという素晴らしい生きがいが与えられています。このような生き方をした良い見本が洗礼者ヨハネでした。なぜ、こうした生き方をすることが大切なのでしょうか。

1.心棒のない生き方から  30~35節
洗礼者ヨハネが生きた「今の時代」は、乱れ混乱した時代でした。ファリサイ派や律法の専門家たちは、主イエスやヨハネの言うことを聞かずに、無視して「自分に対する神の御心を拒んだ」のでした(30~32節)。彼らは、真剣に聞かずに、聞き流して、自分勝手な生き方をしていたのです(33~34節)。
これは、私たちが生きている「今の時代」も同じです。自分さえよければよいと、自分勝手に、自分の価値判断で生活する傾向は、世界中に、世代を問わずにあります。その結果、乱れ混乱した不道徳な結果が生まれています。それは、心棒のない、流されてしまっている歩みです。
このように、福音のために生きる生き方を逃したら、救われる道はなく、破滅に至る人生が待っているのです。

2.一本筋が通った生き方に  24~29節
洗礼者ヨハネのように、福音のために生きることは、一本筋の通った生き方であり、人生のいのちです。彼は、確信ある生き方をし(24節)、簡素な生活をしていました(25節)。しかし、彼をして偉大ならしめたのは、主イエスを直接人々に紹介したことでした(26~28節a)。
主イエスは、『しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である』(28節b)と言われました。これは、主イエスを信じ受け入れた者は、ヨハネよりも優れているということです。その人たちは、主イエスの救いを経験して神の恵みに生きる者とされているので、それを人々に語り伝えるようになったからです。
主イエスのみが、私たち一人一人を救い、新たに生かしてくださるお方です。この福音のために生きることが、真に価値あることなのです。

福音から生まれるもの(2014.9.22)

宣教題 「福音から生まれるもの」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 ヨシュア2章1~24節 ローマ1章5節

よい知らせは人を動かし、人を変える。聖書が語る福音は、神がなされた素晴らしいわざの知らせである。そして、このよい知らせから生まれるものがある。

1. 神の素晴らしいわざ
荒野を放浪していたイスラエルの民は、約束の地に入ろうとしていた。新しい地に進む前に、ヨシュアは二人の斥候をヨルダン川の向こうにあるエリコに送った。最初に攻めるであろう町と周辺の様子を探るためであった。斥候たちはエリコに侵入するが、捕らえられそうになる。しかし、遊女ラハブの機転により追っ手から守られる(1~7)。その後、ラハブは、彼らに自分たちが聞いたこと、そしてそれに対する人々とラハブ自身の反応を話す(8~11)。ラハブは、神が葦の海でエジプトの王ファラオを打ち破ったことと、その神の働きをイスラエルの民がヨルダン川の向こう側で行ってきたことを知っていた(10)。イスラエルの民がエリコに到着する以前に、神とイスラエルのうわさはエリコに届いていたのだ。彼女は福音をもうすでに聞いていた。

2. 福音から生まれるもの
神の素晴らしいわざの知らせを聞いたエリコの人々はどう反応したのだろうか。彼らは恐怖におびえており(9)、イスラエルに立ち向かおうとする意志さえももっていなかった。世界を支配しているのは、イスラエルの神である主であることに気がついたからである(11)。本当の神を神とする思いが、ある者たちのうちに生まれた。だから、ラハブ自身は、二人の斥候に助けを求めたのだ(12~13)。福音を聞いても、それを拒絶するエリコの王のような者たちもいる。しかし、主を神とする者たちも誕生している。福音は神に信頼する神の民を生み出す。二人の斥候はラハブにどうすべきかの指示を与えたあと(17~21)、彼女の知恵に助けられて、無事にエリコを脱出し、ヨシュアのもとに戻る(22~24)。そして、イスラエルの民は神の素晴らしいわざが、自分たちを通して続いて行われることへの自信を深めていった。

十字架と復活によって神の民が誕生した。そして、神の素晴らしいわざの知らせである福音は、世界中に響いている。福音に反発する者たちの中にさえも、まことの王である主を恐れ、神の民に加わり、主に従う者はおこされている(ローマ1:5)。このように、福音は新しい神の民を生み出す神の力である。この力にもっと自信をもって、神の素晴らしいわざの知らせを語ろうではないか。

福音の継承と拡大(2014.9.8)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 使徒言行録28章23~31節

使徒言行録から教えられることは、主の弟子たちが万全の態勢、万全の準備が整ってから、伝道に着手したのではありませんでした。むしろ、彼らは聖霊に強いられて、伝道の場に引き出され、そこで苦闘し、悩み、祈ることを通して、訓練され、鍛えられ、吟味させられ、成長していったのです。それは、神戸中央教会の歴史も同様です。
福音宣教は、エルサレムからローマ、そして地の果てに至るまで続いています。

1.どのように福音を継承するのか  23~27節
ローマでのパウロは囚われの身でしたが、そこに訪れるユダヤ人たちに、神の恵みを具体的に実現してくださったイエス・キリストの福音を熱意と迫力をもって語たりました(23節)。聖霊によって、霊の目が開かれて、イエスこそ救い主であると信じ受け入れた者がいました。しかし、その福音に対して、聞こうともせず、心で理解しようともせず、神に立ち返って悔い改めようとしない者もいました(24~27節、イザヤ6章9~10節)。
イエス・キリストの救いは、信じ受け入れた時から始まり、人間の一生にかかわり、生活の全領域すべてにかかわることがらです。私たちは、今も変わらない普遍的で人を造り変えるキリストの福音を継承しているのです。

2.どのように福音が拡大されるのか  29~31節
パウロのローマでの日々は、独立のあるところに自由があり、自由のあるところに絶えざる創造的な働きがあったことを証ししています(30~31節)。囚われの身である彼にとっては、訪問客が大きな喜びであり、自由に伝道できたことも大きな喜びでした。もちろん、彼を通して語り続けられた福音は、神の恵みの世界へ導いてくださる主イエス・キリストとその救いでした。
さて、「使徒言行録」は、ここで終わっていますが、続く29章以降は、今日までの教会の歴史の中で書き続けられてきました。そして、福音が全世界に拡がっていきました。私たちの神戸中央教会もアンティオキア教会の姿勢に溢れて宣教を進めていくことにより、書き続けてきましたし、これからも書き続けていくのです。今、どんな書き方がなされているか、いかなることを書くかということが問われているのです。

どうしても伝えられなければならない福音(2014.6.22)

宣教 :宇井英樹 宣教師
聖書 :ルカ4章43節

貧しさや弱さ、社会的不公平や抑圧の中にいる人々、またそのような状況により壊れた家族、愛を経験していない人々に間近に接するなか、福音宣教とは何かについて考えさせられる。
人は「神のかたち」に造られた(創世記1章27節、口語訳聖書)。しかし、それが壊れている。その回復こそが、福音宣教の本質である。福音が良い知らせであるのは、神の国の訪れ、つまり神の義と神の愛の支配が、生活の中に具現化されていくからである。

1.誘惑 (ルカ4章1~12節)
(1)パンをあげる:一時的に物質的な必要に応える。「与える側、受ける側が定着する時、人間としての尊厳が失われる」(本田哲郎)。
(2)政治的な権威:軍事力、経済、科学などの人間的な支配力、影響力で変えようとする。「富や権力によっては人も社会をも救済できない」(本田哲郎)
(3)神をコントロールしようとする:自分たちの思い描く理想を立てあげようとする。そして、神の愛、あわれみ、助けを疑う。

2.神の国の具現
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)。
悔い改めとは、神の視点で物事を見る。神の国のパースペクティブ(展望)で生きること。福音宣教は神によってなされる。神と心一つにする人々を通して進められる。
一般的な人々と強い立場の人々は、悔い改めの実として、公義を行うようになる、神の国と神の義を求めて生きるようになる(ルカ3章10~14節)。
神は、神の国を具体化するために、弱い立場にいる人々、貧しい人々を用いる(イザヤ26章6節)。彼らも悔い改めが必要。彼らに意識の転換が起ことなし に、彼らの「神のかたち」は回復されない。彼らが自分たちを神の視点で見ることなしに、彼らの社会のなかに神の国は具現化されない。(ルカ14章34節) 「世が腐ってきた、光が失われたと、クリスチャンが文句を言うときは、自分たちが世の光、地の塩としての責任があることに目覚めるべき時」(ジョン・ス トット)。

福音はどうしても伝えられなければならない。貧しい人々、弱い人々にも、一般の人々にも、強い立場の人々にも。福音のみが、神のかたちを回復し、そこに神の国をもたらすのである。

敗者復活の福音(2014.4.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ16章33節 1ヨハネ5章5節

福音という言葉には、味のある響きがあります。福音は、誰もが聞かなければならないものです。そして、福音を聞いたなら、心を開いて受け入れ、福音に生きることが大切です。この福音の本体は、イエス・キリストご自身です。

1.「負けの味」を知り尽くしていてくださる
私たちが「世に勝つ」ことを願うのは、「世で苦難がある」中に、負ける経験を踏むからです。失敗する、負けるということは、挫折感や敗北感がつきまと い、恥をかいたり、面子もなくなったりします。誰も敗北者になることを好みません。さらに、強くなったら負けない、一生懸命やれば失敗しない、この信心を していたら不幸にならない、信仰をもったら苦しみはなくなるなどと考えがちです。
さて、キリストご自身が、地上の生活のスタートから十字架の死に至るまで、苦しみの連続でした。これを神の大失敗と言う人がいますが、キリストは、人が 経験する苦難や罪や死といったことを知り尽くしてくださったのです。そのような経験をする私たちのところに、キリストがおられるのです。

2.「勝ちの味」を経験してくださった
キリストの救いは、敗者復活の福音です。キリストが捕らえられて十字架に架けられて殺されてくださったお姿は、人の目には敗者としか映らなかったでしょ う。しかし、神の前に立つ私たちは、罪と不信仰の結果、当然神の怒りに触れて滅びへと向かう者でしかなかったのです(ルカ23章41節)。そんな私たちを 救うために、キリストは、苦しみと痛みと辱めのどん底から復活されて勝利者となられたのでした。このようにして、キリストは、勝ちの味を経験されたので す。
それは、私たちが苦難に勝ち、罪に勝ち、死に打ち勝つ勝利者とされるためでした。これは、「イエスが神の子であると信じる者」が与ることのできる勝利で す。それは、私たちがキリストに結ばれて生きるときに、キリストが勝利されたことを共に経験するのです。ここから、「勇気を出しなさい」との人生が始まる のです。

自由と愛(2013.7.7)

宣教題  : 「自由と愛」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章17~26節 1コリント9章23節
パウロは、いかなる時にもキリストを中心に置いて、ぶれない生き方をしました。そのパウロが、福音にあずかって真に自由な者とされ、かつ福音に共にあずかるためには、その自由が制約されてもキリストの愛に生きることを選んだのです。

1.福音にあずかる
パウロ一行はエルサレムに到着したとき、教会の人々の歓迎を受け、教会代表のヤコブや長老たちに挨拶をしました。そして、パウロを通して福音が異邦人に届けられたことの報告をするなかで、同行してきた異邦人教会の代表者を紹介し、献金がささげられた経緯や趣旨を語りつつそれを手渡したと思われます(17~19節)。この時パウロは、それらは「神が」なされた神の業であることを謙虚に証ししています。ここに、福音によって自由とされた者の生き方があります。
キリストの十字架と復活によって、私たちは永遠の滅びから永遠の救いにあずかることができたのです。この福音にあずかった者は、罪と死に支配されない自由な生き方をするようになるのです。

2.福音に共にあずかる
エルサレム教会の人々は報告を聞いて「神を賛美」しました。続いて彼らは、教会内にパウロを誤解して受け取っているユダヤ人信徒がいることを伝えつつ、その誤解を解くための対応策と(23~24節)、かつてのエルサレム教会会議で決定したことを守るべきことを提案しました(25節)。パウロは、異議を唱えることなく、間違えば命を奪われかねない危険な提案を受け入れたのです(26節)。彼をしてそうさせたのは、自由を制約されても、敵対する同胞を愛する愛からでした。愛のゆえに同化したのです。
パウロは、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と証ししています(1コリント9章19~20節、23節)。私たちは、福音に共にあずかるために、祈りを、奉仕を、献金をもって神にささげる生き方をするのです。

御子の福音(2013.4.14)

宣教題  : 「御子の福音」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ローマ 1章1~7節
福音は「神は愛である」とまとめることができる。そして、御子を通して表された神の愛(3)が福音である。

1.約束の実現(2-3)
イスラエルの王ダビデに対して、主は、彼の王国と王座は永遠に絶えることはないと約束された(サムエル下7:12-16)。一時期、途絶えてしまっていたが、神はイエスを「ダビデの子孫から生まれ」させ、神の王国を再興し、ダビデへの約束を守られた。「肉によれば」(3)の「肉」はユダヤ人を指している。だから、イエスが王としての来臨は、ユダヤ人の父祖アブラハムへの神の約束の成就をも指している。さらに、世界の最初の人アダムがもたらした罪と死という問題に対する解決の実現でもある。このようにして、御子を通して、神が旧約聖書で既に約束されていたことが実現した(2)。このようにして、神は約束を必ず守るというご自身の愛を、御子を通してこの世界に示された。

2.新しい時代の始まり(4)
イエスがまことの王であることは、「死者の中からの復活によって」(4)究極的には明らかにされる。復活のゆえに、十字架を呪いのしるしと考えるとらえ方を変えざるを得ない。神の力によってあらゆる力に勝利し、死せるイエスのからだに聖霊がいのちを与えることによって実現した復活は、罪と死に死んでいた人間が神の霊によって新しいいのちに生きることのできる、新しい時代の到来を表している。このようにして神は新しい時代をもたらすというご自身の愛を御子の復活を通してこの世界に示された。
アラムとの戦いにおいて、エリシャの召使いは敵の多くの軍隊しか目に入らなかったが、エリシャは自分たちを取り囲む神の軍勢を同時に見た(列王下6:15-17)。ともすればろくでもない知らせに溢れる世界しか見ていない私たちはあの召使いのようだ。しかし、御子の福音は、御子を通して神の愛を私たちに見せてくれている。だからこそ、御子の福音という視点から、ろくでもない、しかしすばらしいこの世界を生きたい。

福音を宣べ伝える民(2012.7.29)

宣教題  : 「福音を宣べ伝える民」   宣教:   鎌野 直人協力牧師
聖    書  : イザヤ 52章7節~10節  マルコ 1章15節

すべてが順調に行っている時に福音は必要ないかもしれません。しかし、最悪としか思えない現実の直面している時、良い知らせは必要です。

1.神は王になった
歴史の中でも最悪の状況に陥っていたイスラエルが聞いたのは、「シオンよ、あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)という知らせでした。すべてを分裂と争いへと仕向ける存在が支配していた世界に、主が王として即位されました。勝利をとられた主を中心に据えて、世界が再編成されるのです。そして主はシオンへと帰還されます(52:8)。
主によって救いと平和が、イスラエルを奴隷から解放し、ひずみ、破れ、とげとげしくなったあらゆる関係の修復がもたらされました(52:7)。ご自身が特別に選んだ民に対して果たすべき責任であったわざを主が実行されたからです(52:9)。そして、イスラエルに主がなされたわざとそのインパクトをすべての民は目の当たりにします(52:10)。

2.福音を宣べ伝える
「神は王となった」という福音を宣べ伝える召命を私たちはいただいています。福音とは、徹頭徹尾、神のわざについての良い知らせです。イスラエルの神である主が世界の王となったのも、目で見ず、耳で聞くことができなかった民が福音を知ることができようになったのも、すべて神がなされたからです。さらに、私たちだけが福音の宣教者ではありません。様々な方法を用いて、神ご自身がこの福音を宣べ伝えておられます。主の恵みのわざのゆえに新たに造り変えられた者として、どのような状況の中にあっても喜びの賛美の声を世界中にあげることこそわたしたちがもっと励むべきことではないでしょうか(52:9)。
イエスご自身、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とこの福音を宣べ伝えました。イエスのわざを通して、神は王となり、シオンに帰り、世界は再編成されたのです。ですから、わたしたちがおかれている現実が最悪であったとしても、「神は王」です。そのことを確信しつつ、どのような中でも、喜びの讃美の声をあげましょう。神のすばらしいわざの知らせを世界は心待ちにしているのですから。

福音の力(2012.2.5)

宣教題  : 「福音の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 17章1節~9節、1テサロニケ1章4節~7節
イエス・キリストの救いの福音は、人を新しく造り変え、その存在と言動が周囲にまで波及させていく力があります。それは、聖霊の力、そして聖霊による強い確信によってもたらされます(1テサロニケ1章5~7節)。そのために、福音に対する私たちの姿勢は、どうあればよいのでしょうか。

1.福音に心を開く  使徒言行録17章1~4節
パウロは、三週間にわたって「聖書を引用して論じ合い」ながら、イエス・キリストによる救いの事実を「説明し、論証し」ました。その結果、ユダヤ人、ギリシャ人、高貴な婦人たちが「信じて・・・従った」のです。聖書が開かれて説明される時に、聴く者の心も開かれて、語られていることが自分のこととして体験されるのです(ルカ24章32節、45節、使徒言行録16章14節、17章3節)。
私たちの救いの根拠は、私たちの内側にあるのではなくて、私たちの外側にあります。私たちが、「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れる」ならば(1テサロニケ1章6節)、聖霊は私たちの心の目を開いてくださり、肉眼で見ることのできる世界だけではなく、もう一つの神によって新たに生きる世界をみせてくださるのです。これが、福音の力です。

2.福音に生きる  使徒言行録17章5~9節
ユダヤ教の指導者たちは、イエスを主と告白する者たちが起こらないように政治的な非常手段に訴えました。そして、パウロたちを「世界中を騒がせてきた連中」と非難したのです。しかし、パウロたちは決して騒動や革命を起こそうとしたのではなく、ロ-マが誇る文明社会に福音の一石を投じたのです。その結果、福音は瞬く間に拡がっていったのでした。
福音は、聖霊の力と聖霊の強い確信をいただいた私たちを用いて前進していきます(使徒言行録2章17節、1テサロニケ1章5節)。それは、背伸びするのでもなく、肩を張るのでもなく、「私は主の前にこう生きる」という真実に福音に生きる姿勢から生まれてくるのです。

人知を超えて(2011.8.7)

宣教題  : 「人知を超えて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  16章1節~5節
私たちは、主の弟子であり、また主から遣わされて生きる使徒でもあります。絶えずこの自覚をもっていたパウロは、先の伝道旅行において殺されそうになったリストラにある教会を問安するために遣わされて行ったのです。その結果「こうして、教会は・・・」と人知を超えて前進して行きました。

1.同労者が見い出されたから  1~3節
パウロを通して福音の前進がなされていくには、シラスに加えて多くの人材が立てられ、福音が継承されていく必要がありました。そこで選ばれたのが、「テモテという弟子」でした。テモテは、信仰者家庭で育った純粋な信仰を持っていましたし(2テモテ1章5節)、「兄弟の間で評判のよい人」とその信仰と人柄が高く評価されていたからです(フィリピ2章20~22節)。ここでパウロは、テモテがユダヤ人の間でも福音を語るにふさわしい者とされるために、愛のゆえに割礼を授けています。それは伝道のためであって、決して救いのための条件ではありませんでした。
主なる神は、私たちが遣わされていく先々で、福音のための同労者を備えておられます。そこには、人知を超えた神の働きがあるのです。

2.福音の本質を見失わなかったから  4~5節
パウロたちは、先のエルサレム教会会議で明確にされた「イエス・キリストの救いの恵みに与かるには、ただ信仰によるのみです」との福音の本質をもって諸教会を励まし、力づけ、導いていきました。
「こうして、教会は」、まず内的な信仰が強められることが優先され、その結果教会の外的成長がなされていきました。この優先順位が、初代教会から今日まで守られてきたところに、健全な成長を見てきました(2章47節、6章7節、9章31節、16章5節)。
このように福音は、人知を超えて前進して行くのです。私たちは、福音の本質を見失わない霊性を持ち続けることが大切です。