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恵みは尽きることがない(2021.2.20)

聖書

私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1章16節)

礼拝音源(23.95MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ローマ12章1節 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 イザヤ書40章26~31節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章14~18節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 342 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「恵みは尽きることがない」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 451 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

ヨハネによる福音書が書かれた時代は、イエス・キリストの恵みに対する確信が揺らぎかねない状況下にありました。そのような時に、尽きることのない豊かな恵みに与り続けることを証言しているのです(14節、16節、17節)。

1.キリストの栄光を見る恵み  14節
私たちと同じ人間になられたキリストが、私たちの間に宿ってくださったことによって、私たちに安息を与え、喜びと感謝に満たしてくださいます。それによって、神の栄光を見させていただくことになりました。
神の栄光は、キリストの全生涯において現されました。とりわけ、十字架において神の救いを成し遂げられたことによって(ヨハネ12章23~24節)、復活された勝利を通してです(同17章24節)。罪のゆえに神の栄光を受けられなくなっていた私たちは(ローマ3章23節)、キリストの十字架と復活の恵みによって、キリストの仲間とされたのです。

2.恵みの上にさらに恵みへと導かれる  16節
キリストを通して現わされた恵みは、継続して与えられていきます。一つの恵みを受け取ったら、新しい恵みを受け取り続けるのです。順境には順境の恵みが、逆境には逆境の恵みが、強くされた時には強くされた時の恵みが、弱さを覚えた時には弱さを覚えた時の恵みが、試練の時には試練の時の恵みが、病める時には病める時の恵みが、悩める時には悩める時の恵みがあります。それは尽きることがありません。
一人ひとりにふさわしく差し出されている恵みは、心を開いて受け取り続けるのです。神の前に謙虚にされ、キリストの恵みに立ち続けるのです。

神の恵みに戻る(2020.3.1)

宣教題 「神の恵みに戻る」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ4章25~32節

 私たちが心の底から新たにされ続けるならば(4章23~24節)、その生活に変化が生じます。そして、その恵みに生きる生き方を見た人々にも変化をもたらします。

1.恵みを与える  25~31節
 主の恵みによって新しい人を身に着けていることにより、その言動が新しくされます。実際的には、次のように勧められる生き方です。
偽りを捨てて、愛の真実の言葉を語りなさい(25節、4章15節)。悪魔は、その愛の言葉を語ることを壊そうと隙を狙ってくるので、怒ることがあっても、罪を犯してはなりません(26~27節)。正当な働きで収入を得ることによって、困っている人々に分かち与えなさい(28節)。悪い言葉を口にしないで、人を造り上げる言葉が語られ、神の恵みが伝えられるようにしなさい(29節)。聖霊による救いの保証をそこなうような言動で、聖霊を悲しませることにないようにしなさい(30~31節)。
恵みを与える生き方に変えられ続けている教会でありますように。

2.恵みを与え合う  32節
 新しい人を身に着けた人たちは、「互いに」親切にし、憐みで接するようになり、何よりも「互いに」赦し合う生き方に変えられます。
 赦すことができたことは大きな恵みです。神と人に赦していただいていることを知ることも大きな恵みです。それは、互いに恵みを与え合う交わりから生まれます。そのようにさせていただくことのできるのは、キリストの十字架の事実によって、神が一人ひとりを赦してくださっていることを体験しているからです。

恵みを与え合い続けることのできる教会でありますように。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(9MB)

恵みの賜物(2019.9.1)

宣教題 「恵みの賜物」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章1~13節

 この手紙は、教会とは何なのか、教会に生きることと教会に仕えることとはどういうことなのかを中心に語ります。本箇所では、話題を転じて挿入するようにして、神の恵みを賜わっている者の生き様を伝えています。

1.ひとり一人の生涯が変えられる  1~9節
 神の救いの「計画」の全貌は、キリストによって、聖霊の御働きによって「啓示」され開かれました(3節、4節、5節、9節)。そのご計画は、ユダヤ人も異邦人も皆等しく、神の民としての約束と救いに与ることを定められ、それをキリストによって実現されました(6節)。この福音こそが、神の恵みの賜物であり(7節a)、それを受け入れた者の生涯を変えるのです。
 さらに、「この福音に仕える者」とする恵みの賜物でもあります(7節b)。この恵みの生涯を歩み続けるならば、恵みにより謙遜にされ続け、深められていく歩みとなります(8節、1テモテ1章15節)。

2.その苦難の中に栄光を見る  10~13節
 こうした神の恵みを賜わっている者の生涯は、苦難を経験しないとは限りません。むしろ、キリストのために、他者の救いのために受ける「苦難」の歩みでもあります(1節、13節)。それゆえに、パウロは、キリスト者とその教会に「落胆しないでください」と励ましているのです。そのことの中に神による「栄光」を見るからです(13節)。

 教会のための苦しみは、教会に生きる喜びと分かち難く結びついています(コロサイ1章24節)。それは、キリストが十字架と復活を通してたどられた価値ある歩みです。私たちも、この信仰の確信を高らかに宣言しましょう(12節)。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11MB)

この恵みにしっかり立って(2016.8.14)

宣教題  「この恵みにしっかり立って」        宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章12~14節

「クリスチャンとしての立ち位置は」との問いに対して、ペトロが「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」と語っているように、恵みのうちに立ち続けることです。ペトロがここに至るまで、簡潔かつ力強く「勧告をし」「証しし」てきた恵みとは、どういうものなのでしょうか。

1.神の恵みで満ちている
ペトロが、「あなたがたにこのように短く手紙を書き」と言っているのは、「神のまことの恵み」の豊かさを語り尽すことができないほどに、神の恵みは大きく、偉大であるということなのです(12節)。
この手紙には「恵み(カリス)」との言葉が多用されていますが、「神の御心に適う」とも翻訳されており(2章19~20節)、神の恵みの豊かさを表しています。苦しみもまた神の恵みであり、その時にこそ、ひときわ聖霊なる神はクリスチャンに寄り添い、その恵みを自覚させてくださるのです(4章14節)。神の恵みを立ち位置とするゆえに、「信仰にしっかり踏みとどまって」歩むのです(5章9節)。

2.恵みの交わりに生きている
この手紙が結ばれるに際して、神の恵みに共に生きるペトロの協力者が紹介されています(12へ13節)。シルワノ(シラス)は、パウロと労苦を共にする協力者でした(使徒言行録15章40節、16章19節)。彼は、ペトロが「忠実な兄弟と認めて」おり、洗練されたこの手紙を書いたのです。また、失敗経験のあるマルコを再出発させ、「わたしの子マルコ」と呼んでいます。そのマルコが「福音書」を残したのです。
さらに、ローマにあってペトロと共に戦う人々との祈りによる交わりがありました。ペトロ自身は、「互いに」真実な愛と平和(平安)が保たれた交わりを願って祈っています(14節)。その彼を支えていたものは、主イエスの絶えざる執り成しの祈りでした(ルカ22章32節)。私たちは、この祈りの交わりを重んじるのです。

私たちを支えるもの(2014.10.5)

宣教題  :「私たちを支えるもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 1ペトロ1章1~2節

私たちは、ペトロや「各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち」と同じように、天の御国を目指して、人生を旅する者です。たとえ同じ場、同じ状況下 にあったとしても、過去を振り返りつつ、将来へと身を転じて踏み込んでいくのです。それを支えるものは何でしょうか。

1.主の恵み
この手紙は、迫害と苦難の中にある聖徒たちと諸教会に向けて書かれたものです。その内容を一言で表現すると、「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」(5章12節)とあるように、神の恵みにしっかり立つようにということです。
ペトロは、自分の身に与えられた主イエスの恵みを深く思わずにはおれませんでした。彼は、主イエスに従う道を踏み出しましたが(マタイ4章18~20 節)、主イエスの十字架を前にして、弱さと無理解ともろさを露呈しました(同26章69~75節)。そのようなペトロのために祈り、赦し、力づけ、回復さ せてくださったのは、復活の主イエスでした(ヨハネ21章15~19節)。
私たちも同様に、十字架の血によって罪を赦され、復活の主イエスに結ばれて神のものとされたのです。この主の恵みゆえに、主イエスに従い続けることが光栄ある歩みなのです。

2.主の愛の選び
主の弟子であったペトロは、「イエス・キリストの使徒」と自己紹介しています。彼は、主イエスと共に生活し、主イエスから直接訓練を受け、主イエスから 選ばれて任命を受け遣わされた人でした。同様に離散者にして寄留者であった聖徒たちも、選ばれて遣わされた人たちです。この選びは、主なる神が人をよく知 られた上で、愛によって「選ばれたのです」。
私たちは、主と共に歩み、御言葉によって教えを受けて導かれ、神の愛による選びをいただいて各々の持ち場に遣わされていることを忘れてはなりません。
主に従う者、また主に遣わされた者としての歩みは、今までの恵みと平和で足りるというのではありません。この恵みと平和が「ますます豊かに」注がれるように祈り願い求めながら、主の恵みと愛の選びの中を歩み続けるのです。

恵みに生きる(2014.8.31)

宣教 宮崎 浩 師
聖 書 エフェソ1章1~14節
パウロはローマの獄の中でこの手紙を書いています。「獄中書簡」とも呼ばれています。そして、この手紙の箇所は「恵み」について教えています。「恵み」とは、常に信仰と結びついていて、信仰は「恵み」による感謝から来るものです。

1.神の豊かな恵み   4~7節
私たちの信仰にとって大事なことは「恵み」とは何かという認識です。信仰と言いながらキリスト教の信仰とは違うものに変質したり、簡単に信仰から離れていく人が多いのは私たちキリスト者の「恵み」の理解に問題があるのです。「恵み」はギリシヤ語でカリスマと呼ばれ、「賜物・贈りもの」という意味があります。人間が努力したり、働いて得ることのできるものではなく、三位一体の神による一方的なものであり、「恩寵」と呼ばれるものです。そして、その輝かしい恵み、豊かな恵みは、①選び(4節)②罪の赦し(7節)③神の子である身分(5節)です。主イエス・キリストを信じ、従う時に「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に」(ローマの信徒への手紙10章12節)与えられる賜物・贈りものなのです。

2.神の恵みに生きる 8~14節
イエス・キリストを信じる者には豊かな恵みが与えられています。神に選ばれていることのこの上もない喜び、イエス・キリストの十字架で流された血により私たちの罪が完全に赦されていることで恐れからの解放感、心の平安を得ることができたこと、また私たちが神の国に入ることができる相続者であることで将来への希望をもつことができたことです。そして、その恵みは誰も奪うことのできないもの、その保証として神は聖霊による証印を押されたのです(13節)。それらの恵みのなかで私たちが生きるとき、個人の信仰生活、教会生活、家庭生活が輝かしいものとされます。その生活は神が導き、神が共に働き、万事が益となるからです。(ローマの信徒への手紙8章28節)そして、神の栄光がほめたたえられるのです。どうぞ私たちに聖霊が与えられ、心の目が開かれ神を見、神の豊かな恵みが明らかにされ、神との愛の交わりを常に持ちつつ生きることができますように。

大いなる救い(2013.12.1)

宣教題  : 「大いなる救い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトスへの手紙 2章11~15節
教会では、待降節のことをアドベントと呼んでいます。アドベントには、神の独り子イエスの降誕の出来事を表す場合と、主イエスの再臨を表す場合とがあります。このことを、ここでは「現れ」と表現しています(11節、13節)。
私たちは、主イエスの初臨と再臨の間に生きる者として、日々に信仰の応答をしつつ生きることが求められています。

1.すべての人への神の恵み 11節
神の救いは、「すべての人に」等しく差し出されたのであり、それを受け取ることに一人の例外もありません。それは、人の世に存在する様々な相違をもたらすものとは違って、すべての人に届けられた神の恵みです。
世界で最初のクリスマスの喜びの知らせは、主の天使によって羊飼いたちにもたらされました(ルカ2章8~11節)。そこでは、「民全体に」「今日」「あなたがたのために」と告げられています。このメッセージは、今の私たち一人一人に対しても同様に告げられている神の恵みです。この神の恵みは、自分には必要ない、自分には関係ないと退けるならば、それは神の愛を拒絶することなのです。

2.完全な永遠の救い 12~14節
「救い」という言葉が、二度繰り返されています(11節、13節)。ここでいう救いとは、神と人との歪みや破れが回復される神の救いを語っています。すなわち、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、私たちを罪と汚れから「贖い出し」(14節)、聖別された神のものとしての歩みにしてくださるのです(12節)。そして、私たちが、主イエスが再臨される時にあずかる完全な永遠の救いを首を長くして待ち望みつつ、日々に「良い行いに熱心な民」(14節)にしていただくのです。
私たちの日常は、主イエスの再臨に備える日々であることが大切です。主イエスによって、永遠の滅びから永遠の救いに与っていることを感謝して、良い行いに熱心で、ささげる生き方をさせていただきましょう(マルコ14章6節)。

与える恵み(2013.3.3)

宣教題  : 「与える恵み」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録20章32~38節
私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死を通して神の愛を体験し、その愛に応えて信仰の従順と献身に生きる者とされました(1ヨハネ3章16節)。この愛に生きる者たちが、主イエスの愛を土台として、神の教会を造り上げていくのです(エフェソ4章16節)。そこでは、本日の聖書箇所が明らかにしているように、与える恵みが支配しています。

1.恵みが継承されるために  32節
神の恵みの御言葉は、私たち一人ひとりまた教会の信仰と歩みの立脚点です。パウロは、任命されたエフェソの指導者たちと教会が造り上げられていくために、彼らを「神とその恵みの言葉」にゆだね、与え切ろうとしています。この世で最も信頼できるのは、主イエスも言われたように不変の神の御言葉なのです(マタイ24章35節)。
神の恵みの御言葉が、人を救いに導き、信仰の歩みを全うさせ、教会を造り上げていきます。そのような宣教の御業が、一代限りではなく何世代にもわたって伝えられ、そして受け継がれていくために、続く人々を神の恵みの御言葉にゆだね切り、与え切っていくさわやかさが必要なのです。

2.恵みが分かち合われるために  35節
パウロは、他人のものをむさぼることなく、自分自身の生活のためだけではなくて「共にいた人々のためにも」テント造りの仕事をしながら福音を伝えました(33~34節、18章3~4節)。パウロは、立場の弱い人々や働きたくても働けない病の中にある人々たちと共に福音の恵みを分かち合い、教会が愛の共同体として造り上げられていくために、主イエスに倣って「与える」生き方を選んだのです(35節)。
そうした彼の生き方の原点は、復活の主イエスと出会って恵みに触れ、それまでのように自分の思いに仕えるのではなく、神の御思いに仕える生き方に変えられたところにありました。パウロと共におられた十字架と復活の主イエスは、今も私たちと共におられて、恵みを分かち合う生き方をさせてくださるのです。

恵みを無にしない(2009.5.24)

題   : 「恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコによる福音書  8章1節~21節
主イエスは、「群衆がかわいそうだ」と言われ(2節)、いつも憐れみを注ぎ続けられました。そこから溢れ出た今回のパンの奇跡は、先回のパンの奇跡(6章30~44節)と同様に、主イエスの恵みの御業でした。私たちは、今日も変わらない主イエスの恵みを無にすることはできません。

1.満ち溢れる恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、多くの共通するものがあります。中でも、「残った」パン屑を籠に集めたことは(8節)、神の恵みを無駄しないことを教えています。 ところで、主イエスは、偽善と世俗主義の悪影響が及んで、神の恵みが変質させられることを嘆き悲しまれました。弟子たちが、信仰をもって神の恵みを受け止めることができなくなったからです(11~21節)。
さて、私たちは、神の満ち溢れる恵みを変質させ、信仰によって受け止めることができず、それを無にしていないかと問われます。キリストの救いの恵みは満ち溢れており(2コリント9章18節)、その喜び、慰め、栄光、感謝、希望も満ち溢れています。主イエスに心柔らかくしていただき、信仰の目、信仰の耳を開いていただきましょう。

2.拡大されていく恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、相違点もあります。注目すべきことは、先回は弟子たち方が心配して主イエスに相談しましたが(6章35~36節)、今回は主イエスの方から話しかけておられます(8章1~2節)。
前者は、主イエスが弟子たちの信仰をテストされたことに重きをおき、後者は、弟子たちの異邦人に対する冷淡な態度に対して主イエスが憐れみの御業をされたことに重きをおいています。
私たちは、常に主イエスの御業に満ち溢れ、それが拡大されていくことが求められています。ですから私たちは、今ある全てを主イエスの御手に委ねて、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」(1コリント15章58節)と、神の恵みを拡大させていく使命を果たしていくのです。

信仰の手(2009.1.11)

題   : 「信仰の手」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章21節~34節
ここに登場する「女」は、救い主イエスに触れることにより癒され、健やかな生活を送るようになりました。彼女は、イエスの救いの力に信仰によって与ったのです。
主イエスが、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのは、何に根ざしているのでしょうか。

1.主の恵みに捉えられる信仰  25~30節
この女は、苦悩、ためらい、迷いの中にいました。それは、12年間の病との闘いという肉体的・精神的な苦痛であり、治療のために財産を使い果たした経済的な苦労であり、当時の社会においては汚れた者として受け入れられなかった偏見による苦悩でした。このように、どこにも持って行き場のなかった時に、彼女は一筋にイエスに期待して触れたのでした。それは、イエスが「自分の内から力が出て行ったことに気づ」くほどの触り方でした。
女は、受ける資格も価値もないにもかかわらず、主の恵みに捉えられていたのです。イエスは、それを「あなたの信仰が」と言われたのです。人は、どうしても他の人に知らせることのできない心の一隅を持っています。信仰とは、そこで主の恵みに捉えられることなのです。

2.主の恵みの力に生かされる信仰  30~34節
女が触れることによってイエスの内から出ていった「力」は、彼女を救う力でした。それは、イエスの十字架による罪の赦しの力であり、イエスの復活によって与えられる死に打ち勝つ力です。さらに、様々な苦悩や苦難からも勝利させる力です。
女は、このような恵みの主に対して、畏れおののきつつ、あるがままの自分をさらけ出しています(33節)。ここに、神の前にも、人の前にも過去にとらわれない救われた者の姿があります。
主の恵みの力に対する信仰は、単純かつ純粋であることが大切です。理屈や余計な飾りはいりません。そして、その信仰は深められていくことが大切です。単純さを保ちながら、愛において、物事の考え方において深められていくことが求められます。そのために、私たちは信仰の手を差し伸べ続けていることが必要です。