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赦しを求めて(2015.11.8)

宣教題  「赦しを求めて」           宣教 高木 実 師
聖 書  ルカ23章26~43節

十字架を取り巻く三種類の人々は、人の罪深さの三つのタイプを示しています。
一つ目は、人の苦しみや痛みに対する無感覚、無関心な冷淡さです。十字架で苦しむイエス・キリストを前に、兵士達はイエスの着物をゲームで取り合っているのです(34節)。
二つ目は、自分の罪を認めない愚かさです。自分の罪のゆえ、同じく十字架につけられた強盗は、自分のことは柵に上げてイエス・キリストを罵っています(39節)。神の前に、自分の罪を認めることができない…これこそ最も根本的な罪だと聖書は教えています。
三つ目は、人の心に潜む残忍さです。祭司長、律法学者という宗教的な指導者たちまでもが、苦しむイエス・キリストに追い打ちをかけるように「あざ笑って」います(35節)。人の不幸や苦しみが、もっとひどくなればいいという残忍さを見ることができます。
一方のイエス・キリストは「彼らをお赦しください」(34節)と祈っています。このように十字架は醜い人間の罪の暗黒の真っ只中にこそ与えられた、神の赦しと和解をもたらす希望のメッセージなのです。
強盗の一人は自分の罪を認めました(41節)。「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11~24節)の弟息子は放蕩三昧したのち、自分の罪に気付き父のもとに立ち返ります。その悔い改めた弟息子を待ち受けていたのは父親の熱烈歓迎でした。神は悔い改めて神のもとに立ち帰ってくるのを、いつも待っておられるお方なのです。この強盗の一人も、放蕩息子のように父なる神に受け入れられ、その胸に抱き締められていたと言えるでしょう。神が与えてくださる救いは、良い行いや正しく生きた人生の報いとして与えられるものではありません。救いとは、このように受けるに値しない者に与えられる、まさに恵みなのです。

愛の秘密(2014.6.29)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ18章15~18節、25~27節 1ペトロ3章18節abc

聖書は、多くの人の神との出会いが記されている書といえるでしょう。ここでは、ペトロと主イエスとの出会い、その出会いが閉ざされずにどのように続いていったのかが語られています。それは、神の愛の秘密とも言えるような出来事でした。

1.私ではない  18章17節、25節、27節
ここでは、主イエスが十字架にお架かりなる前日に、その主イエスを裏切るペトロが語られています。ペトロは、主イエスの弟子だと指摘されたことに対し て、「違う(私ではない)」と言って、三度も主イエスを拒んだのでした。ここには、強い決意を持っていたペトロの無力さ、自分の決意や努力で神の前に正し く歩むことのできない彼の姿があらわにされています。この時、ペトロと主イエスとの距離は門の内外のわずか数メートルに過ぎなかったことでしょう。そんな に近くにおられる主イエスに「私ではない」「知らない」と言ったのでした。
「私ではない」と言い張って主イエスと関わりを持とうとしないで、神に背を向けて生きていこうとすることが罪なのです。その意味では、ペトロと私たちとは同じであることを認めざるを得ないのです。

2.わたしである  18章5節、6節、8節
この時同時に、主イエスは人々に捕らえられて、大祭司のもとに連行され尋問を受けておられました(1~14節、19~24節)。「ナザレのイエスだ」と 答える人々に対して、主イエスは「わたしである」と言われたと三回記されています。ここで主イエスは、ご自分を公然と明らかにされたのでした。このように して、裏切る者たちのために、主イエスは裏切ることなく十字架の道を歩まれたのでした。
このように主イエスは、私たちの弱さや罪ある者であることをよくよく知ったうえで、それらを包みこみ、見捨てることなく、身代わりとなって十字架に架 かって救いを全うしてくださったのです。それは、主イエスの愛を受けるに値する者として「神のもとへと導くため」だったのです(1ペトロ3章18節)。こ の主イエスの愛に包まれて歩み続けていきましょう。