十字架」タグアーカイブ

世界とあなたのための十字架(2023.5.21)

聖 書

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ 3:16)

礼拝音源(32.3MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 エレミヤ29章11節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編34編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ3章16節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 鎌野直人副牧師
宣  教 「世界とあなたのための十字架」 鎌野直人副牧師
祈  祷
賛  美 430 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 鎌野直人副牧師
後  奏

宣教要旨

1. 世界を愛された神
 世界を愛する神がおられる。神は、この世界を造られたからこそこれを愛されるのだ。世界を大切にし、その最善を願っておられる。さらに、神は世界のために人を造り、この世界を整えてよくし、美しくし、豊かにする使命を与えた。そして、この使命を果たすことができるように力と、力を用いる自由を人に与えられた。

2. ひとり子を与えられた神
 与えられた力と自由を人は自分のために用いるようになった。その結果、自分も世界もだめにしていった。そこで、神は自らが愛する世界のために行動をした。アブラハムを選び、エジプトから救い、律法を与え、住む地へと導いた。世界を回復するためだ。しかし、民は世界を破壊し、自らを破壊しつづけた。神は彼らに警告を与えた。それでも応答しない民は自分の国から追い出された。そこで、神はひとり子であるイエスを送り、その働きのクライマックスとして彼を十字架に架けた。イエスがすべての破壊を自らの身に負ったので、人は罪から解放され、命の道を進むことができるようになった。

3. 信じる者に与えられる使命
 こうして、イエスのわざのゆえに、人がその使命を果たす道が開かれた。永遠の命とは、死後のことだけではなく、今、ここで人としての使命を果たす道をも表している。この道を進みなさい、御子を信じなさい、と神は私たちを招いておられる。神が与えてくださるこの素晴らしいプレゼントを受け入れ、神の働きに加わろうではないか。

大きな慰め(2020.9.13)

聖書

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23章46節)

礼拝音源(26.7MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編68編20~21 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 62編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章44~56節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 464 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「大きな慰め」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
洗礼式 (第二礼拝) 67
長寿祝福・感謝の時
賛  美 528 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

この箇所は、主イエスの十字架の最後の場面です。その主イエスの十字架による救いは、歴史と世界に大きな変化をもたらしました。それは、イスラエルだけではなく、全ての人にもたらされた大きな慰めです(ルカ2章25節)。

1.新しい生きた道が開かれたから  44~46節

神の御子が失われるということは、全世界を暗黒に追い込むことでした(44節~45節a)。しかし、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」(45節b)ことに表されているように、主イエスは十字架の死をもって、神と人との間のあらゆる隔てを撤廃してくださり、その交わりを回復してくださったのです。

そして、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(46節)と、主イエスは父なる神に御自分の全てを委ね切られました。それゆえに、誰でも神に近づく新しい生きた道が開かれたのです。私たちは、この主イエスに揺るがない信頼をおくのです。

2.新しい神の御業が始まるから  47~56節

主イエスの十字架によって、神の救い、神の恵みの御業が始まりました。百人隊長は、神を信じなかった者でしたが、神を信じ始めるようになりました(47節)。群衆たちは、胸を打ちながら、自分たちの至らなかったこと、間違っていたことを認め、罪深さを知らされ、悔い改めへと導かれました(48節)。ヨセフという議員は、主イエスの御姿と御言葉に接し、心が変えられ、勇気ある人に変えられました(50~54節)。

主イエスの十字架によって、私たちの全ての闇が光へと移し変えられました。ここに、私たちの慰めがあります。この慰めを人に届ける者とさせていただきましょう。

 

 

 

キリストは他人を救った(2020.8.23)

聖書

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23章43節)

礼拝音源(28.6MB) 

礼拝順序

前  奏
招  詞 第1ヨハネ3章16節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 51編1~21節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章32~43節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 298 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストは他人を救った」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 433 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

人は誰でも死に向かい合って生きていますが、キリストの十字架の救いの恵みによって生きるならば、その死は勝利となります。キリストは、当時の人々に「他人を救った」と嘲られましたが、それは私たちの救いと深いかかわりがあるのです。

1.キリストは十字架で命を捨てられた

自分を救うことなく他人を救われたキリストは、私たちの罪を負って神に呪われてくださったのです(イザヤ書53章3~5節)。そのようにして、自発的にご自分の命を捨ててくださったのです(ヨハネ10章11節、18節)。

そうすることによって、私たち一人ひとりの罪を赦し、失われた神との交わりを回復してくださいました(34節)。人が求めてやまない愛と平安は、キリストによる罪の赦しを受け入れることから生まれるのです。

2.キリストは罪人を救われる

神を恐れたひとりの犯罪人は、自らは十字架刑を受けることは当然だと認めつつ、キリストは十字架に架かられる必要のないことに気づきました(40~41節)。それゆえに、彼はキリストの憐れみにすがり、信頼して「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」との願いを申し出ています(42節)。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とのキリストの呼びかけに応答した時が、彼の「今日」の救いとなりました(43節)。

私たち一人ひとりは様々な状況下に置かれています。それがいかなる時であっても、キリストの呼びかけに応答する「今日」が、あなたの救いの時となるのです。

 

 

 

 

十字架を担う者(2020.8.9)

聖書

人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。(ルカ23章26節)

礼拝音源(27.8MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ4章23節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 46編1~12節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章26~31節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 297 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「十字架を担う者」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 504 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

十字架を担うとは、苦難を担うことです。キレネ人シモンは、この時まさに十字架を担っている苦難です。エルサレムの娘たちは、近い将来に十字架を担って苦難に遭う日が来ることが語られています。

1.苦難は危機の時である  27~31節

これまで主イエスと一緒に旅をしてきたエルサレムの娘たちが、嘆き悲しんでいます。沈黙してこられた主イエスは、口を開いて大切なことを語られました。それは、これまでエルサレムに危機が迫った時には警告してこられた神が(30~31節)、この後神の審きが訪れることに対して、自分自身と自分の子供たちのために泣くようにと語られました(28~29節)。

同様に私たちは、自分が罪人であることを知って悲しみ泣き、そこから主イエスの十字架によって解き放たれた者であることを感謝して涙するのです。

2.苦難は祝福の時である  26節

この時、誰一人として十字架を背負おうとする者はいませんでした。そうした中、キレネ人シモンは、主イエスに代わって無理やりに十字架を背負わされたのです(マルコ15章21節)。ところで、この思いがけない苦難が、シモンの一家にとって救いの機会となり、祝福の源となる家族となって歩み出すようになりました(ローマ16章13節)。苦難がその信仰の成熟と人格形成に大きな役割を果たしたのです。

私たちは、絶えず主イエスの十字架と復活の救いに与り続け、強いられた恵みの十字架を担う祝福に生きるのです。

 

 

 

キリストを十字架につけたのは(2020.7.26)

聖書

そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。(ルカ23章25節)

礼拝音源(29.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ11章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 40編1~18節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章13~25節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 287 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストを十字架につけたのは」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 441 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリストは、十字架に架けられて死なれました。その醜悪さは、十字架に架けられたキリストの醜悪さではなく、人間の罪の醜悪さを表しています。

1.私(たち)の罪が

一言で「罪」と言いますが、様々な形で表れます。祭司長たちと議員たちと民衆には、ねたみと怒りと憎しみがあります。ピラトには、恐れと責任転嫁をする優柔不断さがあます。これらが、キリストを十字架に架けたのです。

キリストの十字架の場に、私(たち)は居合わせませんでした。しかし、生ける唯一の神がいては都合が悪い、罪をさばくような存在は自分には必要ない、自分の思うことは何でもしてみたいといった神への反逆と自己中心の罪が、キリストを十字架に架けたのです。十字架は、私(たち)のこの醜悪な罪が露骨に表されたものなのです。

2.私(たち)の罪の身代わりに

しかし、十字架には、悲惨な醜悪な面だけではなく、もっと本質的な意味があります。キリストは、本来十字架刑を受けるべきであったバラバに代わって十字架にお架かりくださったのです。不思議にもバラバは、キリストの十字架の意味を世界に告げ示す生き証人となったのです。

キリストは、すべての人の罪の身代わりとなって死なれました。キリストは、私(たち)の罪を誰よりも恐れ、悲しまれながら、ご自身が死に定められたことを喜んで身に引き受けられたのです。私(たち)の信仰は、このキリストの十字架の前に立って歩み出すことから始まります。そこから、新しい生活が造られていくのです。

 

 

祝福の道(2019.5.19)

宣教題 「祝福の道」       宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ18章24~34節

 アブラハムに与えられた祝福は(創世記12章2~3節)、神の救いの歴史の中で脈々と受け継がれ、遂にイエス・キリストによって成し遂げられました。この祝福が与えられたところには、それまでのままで終わらないで、必ず変化がもたらされています。

1.主イエスが開いてくださった道  31~34節
 永遠の命は、主イエスを信じる者が無代価でいただくものです。そのための道は、神が主イエスの十字架と復活を通して開いてくださいました。そのことは、これまで繰り返し語られてきたものの、主の弟子たちは「理解できなかった」のです(34節)。
 主イエスは、私たちの罪の赦しの贖いのために十字架の道を歩まれました(ルカ5章20節、ヨハネ14章6節)。それによって、私たちの罪は赦され続けているのです。このことが心と生活に刻み込まれることにより、信仰が強められるのです。

2.主イエスが全うさせてくださる道  24~30節
 さらに、日々自分の十字架を背負って、主イエスに従っていく十字架があります(ルカ9章23節)。主イエスは、そのことを金持ちの議員についての問答の中で明らかにされたのです。そして、真に主イエスに従うときに、この世での祝福と後の世では永遠の命の祝福を受けることを明らかにされました。十字架に死んで復活された主イエスが「神にはできる」と言われる御言葉に信頼することによって、納得のいく力が湧いてくるのです。
 主イエスと同様に、自分の十字架を背負う道こそが、神の御心です。その道を進んでいく者に、主イエスは助けを与え、その道を全うさせてくださるのです。

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(10.7MB)

十字架が生み出す祝福(2016.3.20)

宣教題  「十字架が生み出す祝福」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ガラテヤ3章6~14節

十字架を麗しいと思う。しかし、二千年前、十字架は忌まわしい、呪われたものであった。呪いの十字架が麗しいものへと変わったのだ。それには理由がある。
天地を創造された神は、人を通してご自身の祝福を世界に満たそうと願われた。人はそれを拒絶した。しかし、神はそこからの回復の道を計画された。アブラハムとその子孫イスラエルを祝福し、彼らを通して世界のすべての民を祝福しようとされたのだ(8節)。そのために、イスラエルが神とともに歩み、世の光として生きることができるように律法を与えた。ところが現実はどうだろうか。神の祝福は世界の民には及ばなかった。むしろ、祝福の民であるイスラエルは呪いの下にあって苦しんでいた。「呪い」という大きな重荷が壁となって祝福を止めていた。そうであるのに、人々はいまだに「呪い」しか生み出さないものを慕い求めていた。

二千年前の受難日、神はこの「呪い」そのものを用いられた。ご自身の独り子であるキリストを十字架につけられたのだ。キリストは呪いそのものとなられ、イスラエルの上にある呪いと世界中の呪いをひとり、その身に負われた(13節)。キリストが重荷を負われ、取り去られたので、神の祝福がイスラエルから世界へと流れるのをとどめる壁が取りのけられた。その結果、神の霊が神の民の上に留まり、神の祝福が異邦人へと広がっていった(14節)。

本当に祝福は広がっているだろうか。私の目の前には、呪いが満ちているばかりではないだろうか。どうしたら、アブラハムの祝福が私にまでの及ぶのだろうか。アブラハムと同じ信仰に生きることによってである(7節, 9節)。神がなされたこと、そしてこれからなされることへの信頼、「呪いの十字架」によってあらゆる呪いの重荷が取り去れたと信じる信仰によってである。今までの方法を繰り返し用いても、律法がそうであったように、呪いをもたらすだけである。神がなされたこと、そしてこれからなされることに信頼する。信仰とは、無理やり「信じます」で生まれるものではない。祈り求める者に神が与えてくださるものだ。そして、アブラハムの信仰が与えられたとき、呪いの十字架は、祝福を生み出す麗しい十字架となる。

赦しを求めて(2015.11.8)

宣教題  「赦しを求めて」           宣教 高木 実 師
聖 書  ルカ23章26~43節

十字架を取り巻く三種類の人々は、人の罪深さの三つのタイプを示しています。
一つ目は、人の苦しみや痛みに対する無感覚、無関心な冷淡さです。十字架で苦しむイエス・キリストを前に、兵士達はイエスの着物をゲームで取り合っているのです(34節)。
二つ目は、自分の罪を認めない愚かさです。自分の罪のゆえ、同じく十字架につけられた強盗は、自分のことは柵に上げてイエス・キリストを罵っています(39節)。神の前に、自分の罪を認めることができない…これこそ最も根本的な罪だと聖書は教えています。
三つ目は、人の心に潜む残忍さです。祭司長、律法学者という宗教的な指導者たちまでもが、苦しむイエス・キリストに追い打ちをかけるように「あざ笑って」います(35節)。人の不幸や苦しみが、もっとひどくなればいいという残忍さを見ることができます。
一方のイエス・キリストは「彼らをお赦しください」(34節)と祈っています。このように十字架は醜い人間の罪の暗黒の真っ只中にこそ与えられた、神の赦しと和解をもたらす希望のメッセージなのです。
強盗の一人は自分の罪を認めました(41節)。「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11~24節)の弟息子は放蕩三昧したのち、自分の罪に気付き父のもとに立ち返ります。その悔い改めた弟息子を待ち受けていたのは父親の熱烈歓迎でした。神は悔い改めて神のもとに立ち帰ってくるのを、いつも待っておられるお方なのです。この強盗の一人も、放蕩息子のように父なる神に受け入れられ、その胸に抱き締められていたと言えるでしょう。神が与えてくださる救いは、良い行いや正しく生きた人生の報いとして与えられるものではありません。救いとは、このように受けるに値しない者に与えられる、まさに恵みなのです。

栄光の王の入城(2014.4.13)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: 詩編24編1~10節 ヨハネによる福音書1章11~12節

パームサンデーはイエスがエルサレムに入城されたことを記念する主日である。あえてエルサレムに上っていかれたのは、そこに神殿があったからだ。

1.エルサレムの神殿
「主の家」(詩編23:6)とはエルサレムに建てられた神殿のことである。この神殿を主が特別に選ばれた(聖別)(24:3)。だから、イスラエルの民 は、神に会い、ささげものをし、礼拝するために神殿に上っていった。そして、この神殿を、世界の所有者であり(1)、世界の創造者であり(2)、それを確 かに支えておられる神、天と海と地の王である方が自らの住まいとされた。

2.エルサレムに住むべき人
世界の王である主が住んでおられるエルサレムの神殿に上り、この方に会うことができるのは、どのような人だろうか。人の血を流すことのない「潔白な手と 清い心」をもつ人であり、人を欺く、むなしい偶像を慕わない人である(4)。むしろ、この神殿を住まいとされる主にだけあらゆる求めを祈り求め(6)、力 に満ちた、雄々しい主を自分の王として喜んで迎え入れる人(7−10)こそ、エルサレムの神殿に上るにふさわしい。栄光の王のそばにいて、その祝福と恵み を一杯に受けることができる(5)。

3.イエスが向かわれたエルサレム
イエスはエルサレムに入城され、人々はイエスを王として歓迎した。ところが、エルサレムはいまや流血の町であり、ローマ兵、さらにはユダヤ人によっても 偶像崇拝が行われている町であり、イエスを喜んで迎え入れず、いつ殺そうかと企てていた町であった。そして、イエスを王として迎え入れず、彼を十字架に架 けた。自分の民の所に来たのに、民はこの方を拒絶した(ヨハネ1:11)。王であるイエスはそのような場所に進んでいかれた。
しかし、王であり、主である方を拒絶したエルサレムが栄光に輝く場所となった。拒絶の象徴である十字架が、栄光の王の王座となったからである。だからこ そ、この受難週、私たちが拒絶しても、そこでイエスが神の栄光を表されることを覚え、十字架を通して、神の祝福が神を拒絶する私たちの真ん中に差し込んで いることを覚えたい。この神の恵みがあるからこそ、イエスを王として受け入れるという応答が生まれてくるのだから(1:12)。

あなたにとって十字架は(2013.3.17)

宣教題  : 「あなたにとって十字架は」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ガラテヤ1章1~5節
「ガラテヤの信徒への手紙」が明らかにしていることは、恵みとしての十字架であり、十字架が一切の根拠であるということです。あなたにとって十字架は、「つまずき」(5章11節)、それとも「誇り」(6章14節a)、そのどちらですか。

1.キリストが負ってくださった十字架
罪なき神の独り子イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、呪いから贖ってくださり、代わって審かれるために御自身を献げてくださったのです(1章4節、3章13節)。このキリストの十字架によって、私たちの罪は赦され、神との和解の道が開かれ、新たに生まれ変わり、永遠の命に生きる者となったのです。
しかし、そのような救いの恵みに生きる者とされたにもかかわらず、以前と同じ過ちを繰り返してしまうという罪の心や性質が残っていることに気づかされることがあります。そのような古い私たちは、キリストと共に十字架につけられて死に、復活のキリストと共に新しい人によみがえらされ続けているとの信仰に立つのです(2章19~20節)。また、神に従おうとしない自己中心の思いも十字架につけられ、解き放っていただくのです(5章24節)。さらに、あらゆる罪悪をもたらすこの世は十字架につけられ、私たちもこの世を十字架につけてしまうのです(6章14節b)。キリストは、十字架の恵みを鮮明にして従う者に、勝利をもたらしてくださるのです。

2.私たちが負うべき十字架
このように与えられた恵みには、課題を負わせていただいているという恵みが含まれています。ところで、私たちが真に誇るべきものは、キリストの十字架を誇るということです(6章14節a)。そして、負うべき重荷を負ってこそ、十字架を誇る歩みとなるのです。
それは、誰もが負っている共通の困難や課題そして弱さといった「互いの重荷を負い」(6章2節)、その人でなくてはならない「めいめい、自分の重荷を負う」(6章5節)ことです。私たちは、そうした経験を通して、臨在の主による安らぎが与えられ(マタイ11章28~30節)、十字架を負う恵みを知るようになるのです。

身代わりとして十字架に架かられたキリスト(2011.10.23)

宣教題  : 「身代わりとして十字架に架かられたキリスト」   宣教:   唐木 照雄 師
聖    書  : マルコ 15章25節~39節

1. 十字架を背負い処刑場に向かうキリスト
主イエス様は、十字架に架かる為にゴルゴタの丘に向かいます。そこは犯罪人が処刑される場所であります。そしてその十字架と言うのは、想像するのに、犬きくて、重たくて荒削りの十字架ではなかったであろうか。恐らくその十字架は主イエス様の肩にぐいぐいと食い込んで来た事と思います。しかも十字架を背負った主イエス様に対して死刑執行人であるローマの兵士は、時間までにその刑を終わらせたいという思いから早く歩けと言わんばかりに急き立ててまいります。

2.想像を絶する苦しみを受けられるキリスト
やがてゴルゴタの丘に着いた主イエス様は、自ら背負って来た十字架上に両手、両足を縛られ、死刑執行人によって有無を言わさずに、あの太い犬釘にも似た釘がガン、ガンと打ち込まれたと言うのであります。この時の肉体的な痛みについては、ある方は『痛みは、時とともに増して行き、裂かれた肉体の痛み、ことに不自然な姿勢の結果、手足は硬直し頭脳、肺、胃におけるはなはだしい充血、血管の膨張、身を焼かれるような渇き、めまい、頭痛、しかもこうしたものが、すべて同時になされる時、しかも意識はまだ失うまでにいたらず、その苦しみは、人間の想像を絶する耐え難い苦しみとなって起こって来る』と語っています。

3.キリストは何故このような苦しみを受けなければならなかったのか
何故キリストはこのような苦しみをしなければならなかったのであろうか、私たちの罪の身代わりとしての苦しみであったと聖書は告げております。いわば十字架とは、捨てられなくても良いお方が捨てられ、捨てられて当然の者、いや、捨てられなければならない者が捨てられることなく救われる為であったと言うのです。今まで父なる神様を喜ばせてばかり来たお方が、父なる神様を少しも喜ばせなかったような者として取り扱われ、今まで、父なる神様を少しも喜ばせなかった者が、全く父なる神様を喜ばせてばかり来た者のように受け入れられる。つまり上なる者が下に、そして下なる者が上に、この交差、クロスこそがイエス・キリストの十字架であったと言うのであります。

愚かと見える道(2011.6.26)

宣教題  : 「愚かと見える道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  15章16節~32節

聖書は、「愚かさ」ということについて多くを語っています。とりわけ、神の救いが、イエス・キリストの十字架という一見愚かに見える方法で現わされました。そして、そのキリストためには、私たちが喜んで愚かになる道を歩むことを証ししています。

1.救いをもたらす道
ロ-マ兵に引き渡された主イエスは、「ユダヤ人の王」と見立てられての侮辱を受けられました(16~20節)。また、ゴルゴタで十字架につけられてくださった時には、そこを取り囲む人々からののしられました(29~32節)。それの侮辱の言葉は、主イエスが「他人は救ったのに、自分は救えない」ということと、「今すぐ十字架から降りる」のを見たら信じるということでした。
私たちは、彼らの言い分とは逆のところに真理を見い出しています。主イエスは、自分を救わなかったからこそ、人を救うことができたのです。十字架から降りられなかったからこそ、救い主なのです。この愚かに見える救いにこそ、「神の力、神の知恵」(1コリント1章21~25節)が明らかにされています。私たちは、神の恵みによって、この救いを受け入れるのです。

2.祝福をもたらす道
シモンは、主イエスの十字架を「無理に担がせ」られました(21節)。彼は十字架を担ぎながら、眼中から兵士や群衆も消えて、十字架上の主イエスのみが見え、救いの御言葉のみが聞こえるようになったのです。無理やりの恵みを通して、彼は主イエスに近づけられたのです。無理やりに十字架を担がせた人の手は、実は神の恵みの御手でもあったのです(ロ-マ16章13節)。
こうした経験は、私たちも日々に与えられているものです。主の十字架を無理やりにと思える形で担っていくことが、自分自身と周囲に大きな祝福をもたらします。今日も十字架の主イエスを仰ぎ、主の十字架を担って、従う者となりましょう。

キリストの忍耐(2011.6.5)

宣教題  : 「キリストの忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ15章1節~15節  2テサロニケ3章5節
主イエスが十字架につけられてくださったのは、裁判において裁かれてくださったことによりました。それを受けとめてくださったところに、「キリストの忍耐」が表れています。

1.限りなく寛容であられた
主イエスは、神を冒涜したとの理由で死刑の判決をくだした最高法院のユダヤ人によって(14章53~65節)、主イエスには罪がないと知りつつも「十字架につけろ」との群衆の叫びに負けてしまったピラトによって(15章1~15節)、そして呪いの言葉をもって主イエスを裁いたペトロによって(14章71節)、十字架の死に定められたのでした。
この一連の出来事を、ペトロは「わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(2ペトロ3章15節)と語り、パウロは「キリスト・イエスがまずわたしたちに限りない忍耐をお示しになり」(1テモテ1章16節)と証ししています。キリストの寛容と忍耐には、ただ驚くばかりです。
バラバではなくキリストが、「わたし」ではなくキリストが代わって十字架にお架かりくださったことを受け入れることのできる人は幸いです。

2.いかなる時も動揺されなかった
主イエスが、群衆の侮辱の声だけが聞こえる中を動揺することなく、十字架の道を耐え忍び通されたのは、父なる神の救いのご計画に堅く立っておられたからです(10章32~34節)。そのことを明らかにされた出来事が、「主の晩餐」においてでした(14章22~26節)。
私たちは、このようなキリストの忍耐が内に造られていくことを願います。そのためには、私たちが、様々に揺れ動く出来事に出合う時に、弱い私たちの心を導いてくださる主イエスを仰ぎ、心を主に明け渡すことです。そして、聖霊によって神の愛を注いでいただき、キリストの忍耐に与からせていただくのです(2テサロニケ3章5節)。

むりやりの恵み(2009.4.5)

題   : 「むりやりの恵み」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 15章21節~41節
主の十字架は、神の必然の出来事でした(マルコ8章31節)。主イエスは、この十字架の道を黙々と進んで行かれました。その十字架の周りには、一緒に十字架に架けられた人たちをはじめ、多くの人々が向かい合っています。
私たちは、今、どのように十字架に向かい合っているでしょうか。

1.十字架の主に直面している  39節
主イエスは、十字架にかかって、私たちの罪を担ってくださいました(1ペトロ2章22~24節)。そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれました(34節)。この叫びは、私たちが受けなければならない罪ゆえの審きを、その審きを受ける必要のない主イエスが身代わりになって審かれてくださったことを表しています。
その十字架の前に、主イエスを見下す人々(29~32節)、背を向ける人々がいました(23~24節)。しかし、百人隊長は、「イエスの方を向いて、そばに立っていた」のです。そして彼は、十字架の主の前に真正面に立って、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。私たちは、主イエスを十字架に追いやったことがどんなに深い罪であるかを知って、十字架の主に真正面に向き合う者でありたいものです。

2.十字架の恵みに直面している  21節
主イエスは、十字架を担いで刑場までの道をたどられました。途中、その十字架を「無理に担がせ」られたのがキレネ人シモンでした。彼にとっては、これは苦痛の時でしたが、十字架の主イエスを最後まで見守り、その叫びと祈りを見聞きしました。むりやりに担がされた十字架は、時間の経過とともに喜びに変わり、家族にまで救いが及ぶ恵みとなったのです(ロ-マ16章⒔節)。
私たちは、シモンと同じように、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マルコ8章34節)との招きに「日々」(ルカ9章23節)に応答していくなら、主イエスの恵みの大きさ、その救いの重さを見せていただき、ダイナミックな信仰の歩みとなります。主イエスは、責任をもって、十字架を貪る者の歩みを全うさせてくださいます。