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へりくだりなさい(2018.10.7)

宣教題  「へりくだりなさい」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ4章11~12節 ガラテヤ6章1~5節

 「ヤコブの手紙」は、徹底して謙遜に生きることを勧めています。ここでは、信仰者が自分を神の座に押し上げていないかと問いかけつつ(ヤコブ4章12節)、主の前にへりくだるようにと語っています(同10節)。

1.主の愛の眼差しを覚えて  ヤコブ4章11~12節
 主の前に高慢であることの一つの表れが、信仰者への悪口や裁きです。それらは、神の戒めである律法を無視し、そこに込められている神の御心を踏みにじることになるからです(レビ記19章16節、18節参照)。そのことを忘れている「あなたは、いったい何者なのですか」との鋭い問いを投げかけています。
 それは、神の愛の表れである主イエスの十字架と復活による救いを空しくする生き方です。私たちは、主イエスが一人ひとりに向けられている愛の眼差しを覚えつつ、互いに愛し合うことが求められているのです(ヨハネ13章34節)。

2.聖霊の実である柔和な心で  ガラテヤ6章1~5節
 しかし、他者の間違いに忠告や訓戒は必要です。それは裁くことではありません。ただ、それには条件があります。自分自身の内にある破れや痛みを被ってくださる主の恵みを覚えてへりくだる「柔和な心」をいただいていることです(1節)。他者の過ちや罪を、一緒に負わせていただく覚悟です(2節)。いろいろな点で「自分自身」はどうなのかとの謙虚に問いかけることです(3節、5節)。
 他者を愛するゆえに、その過ちや罪は黙認できません。それを指摘された者は、へりくだってそれを受け止めるのです。キリストの謙遜が、私たちの救いとなりました。それゆえに、キリストの救いが、私たちを謙遜にさせるのです。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(9.8MB)

互いの謙遜(2016.5.8)

宣教題  「互いの謙遜」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章1~5節

キリストの謙遜が私たちの救いとなり、キリストの救いが私たちを謙遜にします。
ペトロ、長老たち、若い人たちを含む信仰者が、「皆互いに謙遜を身に着け」続けているにはどういう霊的備えが必要なのでしょうか。

1.謙遜に人を導くように  1~4節
キリストの十字架の血によって贖われて神のものとされた一人ひとりが、結ばれて「神の羊の群れ」となっているのが教会です。ペトロと共に長老である者たちは、「キリストの受難の証人」であって終末の栄光にあずかる望みに生きていました(1節)。その彼らが、神の羊の群れとしてふさわしく形造り、養い育てるように命じられています(2節a)。また、神の召しに応えて、喜びをもって自発的に群を身守るように命じられています(2節b、ヨハネ21章15~17節参照)。そして、恥ずべき利益を求めることなく、熱く心が燃えていることが求められています(2節c)。
このように、キリストの僕として(ヨハネ13章12~17節参照)、謙遜に人を導くことによって輝いてくるのです(3~4節)。

2.謙遜に人に導かれるように  5節
続けて、「同じように、若い人たちも、長老に従いなさい」と勧めています。若い人たちは、同じように謙遜を身に着けて、キリストとその御言葉に対して、取り次がれる勧めに対して聴き従うことが大切です。人は服従の勧めに対して、最も不服従になりがちです。ですから、繰り返し、謙遜を身に着け続けることを体験的に学び続ける必要があるのです。
このように、導く人も導かれる人もキリストの謙遜によって神の羊とされたのですから、お互いが謙遜を身に着け続けさせていただいていることが大切です。謙遜に人を導く装い、謙遜に人に導かれる装いを身に着けさせていただくことにより、神の羊の群れは生きるのです。