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聖なる主をあがめよ(2016.1.31)

宣教題  「聖なる主をあがめよ」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ペトロ3章13~22節

私たちは、キリスト信仰のゆえに苦難を経験することがあります。しかし、天の御国の視点
に立ってそれを見るならば、キリストと共に勝利する者とされていることを知ります(13~14節)。ですから、恐れたり心乱したりすることなく、「心の中でキリストを主とあがめ」るように勧めているのです(15節a)。それは、どのような信仰の歩みなのでしょうか。

1.希望の弁明  15節b
ペトロは、キリストを主と告白することが「希望」であると言っています。なぜならば、キリストは十字架の苦しみを通して罪の支配下にある者を神のもとに導かれ、その死から復活されて勝利されたからです。そして、復活されたキリストは、昇天されて神の右に着座され、今も変わらずに尊厳と栄光と権威をもってすべてをご支配しておられるからです。人が洗礼に与るのは、このキリストご自身と御業を正しい良心をもって応答することなのです(18~22節)。
私たちは、この与えられた希望について説明を求める人には、「だれでもいつでも」(新改訳聖書)弁明できるように備えておくことが必要です。このようにして、この希望を語り伝え、また見せ、そして一緒に与ることが大切なのです。

2.弁明の態度  16節
弁明するものに求められる姿勢があります。自己主張せずまた尊大ぶらずに「穏やかに」語ることです。神への畏れと「敬意」をもって語ることです。「正しい良心」をもって、自分の生活態度が弁明することと矛盾することのなく生きることです。これらの三つが結ばれるとき、弁明は効果的に働くのです(16節a)。
福音の光は、敵対する人の目と心とを開きます(16節b)。その良い証しが、ステファノです
(使徒言行録7章54~60節)。彼は人々の激しい怒りや憎悪の中にあって、神の栄光と復活のキリストを見ていました。そして、その復活のキリストを証言し弁明しました。そこには、苛立つことなく落ち着いた姿がありました。
同じように私たちは、キリストをきよめてくださる主として心の中にお迎えしましょう。