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クリスマスの約束(2019.12.1)

宣教題 「クリスマスの約束」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 マタイ1章1~17節 ガラテヤ4章4節

 イエス・キリストの系図を通して、神の救いの約束と、この神がどれだけスケールの大きなお方であるかを知って、信仰の応答をすることが必要です。

1.神の真実は深い 
 イエス・キリストの系図は、私たちの信仰の告白の系図です。アブラハムにおける神の約束、ダビデにおける神の約束は、キリストにおいて実現しました(1節)。この系図は3期に分かれ、それぞれの時期を特徴づけています。第1期は、イスラエルの民が高められていく過程を歩んだ時代です(2節~6節a)。第2期は、そのように繁栄をみたイスラエルか衰退し、バビロン捕囚の身となった下降の時代です(6節b~11節)。第3期は、暗い時代が続きながら、ついに待望のキリストを迎えることができて、神の約束がかなえられた時代です(12節~16節)。
 このように、この系図は、神の真実を言い表しています。真実の限りを尽くされる神は、今も私たちを捕らえて導いていてくださいます。

2.神の憐れみは尽きない 
 イエス・キリストの系図に、罪を犯したタマル(3節)とウリヤの妻(6節)、異邦人のラハブ(5節)とルツ(5節)の4人の女性が含まれています。ダビデも罪人の代表ですし、その他の王たちは神に対する節操を全うしなかった罪人でした。この系図には、こうした人たちが加わっているにも関わらず、神の約束は貫かれました。そして、この系図に、イエス・キリストがおられるのです(17節)。
 時が満ちて、キリストを通して現れてくださった神は(ガラテヤ4章4節)、人の罪を十字架で負って下さり、人のすべての弱さ、痛み、悲しみを共に背負われました。このように顧みていてくださる神の憐みは、尽きることがありません。

メッセージ(11MB)

あわれみの王である神(2014.11.30)

題   :「あわれみの王である神」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖書  : 出エジプト34章1~9節 ローマ5章8節

王である神が私たちのところに来られることを覚える季節がアドベントである。それでは、頑なな私たちのところに来て、共に歩まれる王とはどのような方なのだろうか。

1.力ある王
出エジプト記に登場するイスラエルの神である主は、巨大国エジプトの王であるファラオと戦われ、その軍隊に完全な勝利を取られた、力ある神である。しかし、頑ななイスラエルは、王である神が守るようにと伝えたことばに従わず、結果的に、神はイスラエルの敵となられた(32章)。イスラエルはかつてのエジプトの立場に置かれ、主はイスラエルと共に歩まないと言い切った(33:1?3)。しかし、モーセは、主が民と共に歩むことなしに、民はその使命を果たせないことを知っていたので、主がモーセ自身、そしてイスラエルの民と共に行くことを求め(33:15~16)、そのことの保証として、「あなたの栄光をお示しください」(33:18)、つまり神の本性を現してくださるように求めた。

2.あわれみの王
一人でシナイの山に上ったモーセ(34:1?4)に主は「主の御名」(34:5)を示された。イスラエルの信仰告白ともいえる34:6-7に主の姿が見事に描かれている。二つの特徴がある。まず、王である神はあわれみ深く、ゆるされる方。頑ななイスラエルに耐え忍び、彼らの罪と背きと過ちという重荷をすぐに罰することはない。むしろご自身がその重荷を負い、それをゆるす。もう一つの特徴は、王である神は罰すべき者を必ず罰する方。頑なであることが生む罪の責任を神は問われる。この二つの特徴のゆえに、あわれみと公平な神は信頼に足るお方である。そして、この神のゆえに、希望がなくなることはない。頑なな罪人、神の敵のためにも道を開いて下さったのがイスラエルの神であり、クリスマスにその誕生を祝うイエスである(ローマ5:8)。
イエスがあわれみの王であるからこそ、頑なな私たちも神の民として継続して歩むことができる。そして、頑なな私たちも変えられ、「主の嗣業」(34:9)となる使命を果たすようになる。他とは異なる、特別な存在として、あわれみの王イエスを証し続ける者へと変えられる。