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新しい救い(2020.3.22)

宣教題 「新しい救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章14~23節

 救いという言葉は、思想的な意味で、経済的な意味で、道徳的な意味で、病のいやしといった意味などに用いられます。ところで聖書は、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いについて語ります。それは、全て人に必要な新しい救いです。

1.その救いに招かれているのは、あなた! 
 主イエスは、十字架に架かられる前日に、使徒(弟子)たちを食事に招きたいと「切に願って」準備してくださり、主イエスを中心にして弟子たちも周りに座りました。それは、かつてイスラエルの民が、神の救いを経験したことを記念しての「過越の食事」でした(14~15節)。この「出エジプト」の出来事は、神の審きが過ぎ越すということを意味する救いであり、囚われているところから解放されて新しく出発することを意味する救いでした(出エジプト12章)。
 主イエスは、罪人に対する神の審きを十字架上で身代わりに受けてくださり、新しい歩みをスタートする救いに招いていてくださいます。

2.その救いを受け取るのは、あなた! 
 主イエスが与えてくださるパンを食することは、主イエスと一つになることであり、ぶどう汁を飲むことは、十字架で流してくださった罪の赦しの恵みに与ることを意味しています(19~20節)。
 この主イエスが差し出された救いは、一人ひとりが自分で受け取ることによってのみ、自分のものとすることができるのです(17節、1テモテ1章15~16節)。「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16章16節)と招かれる主イエスの救いを受け取って歩み出すのは、あなたです。

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永遠の救い(2020.2.23)

宣教題 「永遠の救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ21章25~38節

 イエス・キリストを救い主と信じている者は、神が一人ひとりにご計画をもっておられるゆえに将来への望みがあり、世界が聖書の語る通りに進んでいくという安心を持っています。そこで、今日の聖書箇所では、次のことを問いかけています。

1.世界の終わりが見えていますか  25~33節
 聖書は、この世の終わりについて直截に語ります。世界大の規模で異変が起こり、人々が気を失うほどの混乱に陥れるものです(25~26節)。そのようなことが起こるなら、神の永遠のご支配が近づいていることを知ることになり、それを「決して滅びない」神の御言葉によって確かめることができます(29~33節)。
 そしてその時、再臨される主イエスを全ての人が見ることができるのです(27節)。それは、魂も体も罪と死から完全に解放され、大いなる神の救いの完成がもたらされる時です(28節)。

2.あなたの将来が見えていますか  34~36節
 それに対して、私たちはどのような備えをしていればよいのでしょうか。神を見失った生活に対して心が鈍くなり、その虜になってしまうことのないように気をつけ、審判者である主イエスの前に立つことのできるように、「いつも目を覚まして」祈ることです(34~36節)。
 そのような備えをしている者は、人間は死んで終わりではなく、死後にさばきがあることを知っています(ヘブライ9章27節)。ですから、十字架と復活によって罪と死に勝利された主イエスを信じるのです(ヨハネ3章16節)。それは、永遠の滅びから救い上げて、神の永遠の栄光にあずからせる救いです。

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ノアの箱舟と大洪水(2019.9.22)

宣教題 「ノアの箱舟と大洪水」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 創世記7章1~5節

 洪水物語は世界中にあり、誰でも絵本や物語を聞いた事、見た事があると思います。聖書には、ノアの洪水のことについて、創世記6章から8章に書かれています。

1.洪水はなぜ起こったか
 神様は天地を創造されたとき、できたものを見て、「良かった」と言われ、満足されました。そして、地を人の管理に任せました。しかし、人は常に悪いことばかり思い計るようになり、神様は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。そこで、地にいるすべてのものを洪水によってぬぐいさる事にされました。(創世記6章6節、7節、14節)

2.ノアとその家族はなぜ救われたのか
 そのような中にで、ノアだけは神様に良い人だと認められます。(創世記7章1節) そして、洪水が起こる前に箱舟を造り、動物や食料、家族をその中に入れ、洪水から逃れるように命じられます。ノアは神様に従い、その通りに行います。ノアの家族は、ノアの言う事を聞いて一緒に箱舟に乗り込み、救われました。

3.大洪水はもう起きないのか
 神様は洪水の後、水によってすべて滅ぼすことは決してない。虹がその約束だと言われました。(創世記6章16節)
 世界が滅びるほどの大洪水は起こさないと神様は約束されました。しかし、地に不法が満ちたとき、火で焼き尽くされると聖書は警告しています。逃れられるのは、神様の言われたことを聞く人だけです。今、イエス・キリストを救い主として信じるように神様は言われています。

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永遠に渇かない水(2018.2.25)

宣教題  「永遠に渇かない水」        宣教 今田好一牧師
聖 書  ヨハネ4章7~15節
今日の御言葉から、神の救いが、すべての人に分け隔てなく及んでいることを見ていきたいと思います。

1.イエス様との出会い
 サマリアのシカルという町の井戸のそばで休まれたイエス様は、人目を避けて昼に水をくみに来たサマリアの女に「水を飲ませてください」と語りかけます。彼女は、この言葉に驚きます。何故なら、当時ユダヤ人はサマリア人を見下していたからです。しかし彼女は、それによって、この男性に少しずつ関心を持ち始めたのです。

2.永遠に渇かない水
 イエス様は彼女に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。すると女は「その水をください」と求めます。そして、イエス様に五人の夫について言い当てられた時、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言って、イエス様に心を開いたのです。

3.出会いは人生を変える
 自分の過去を言い当てられた女は、宗教的な話をイエス様にします。しかしイエス様は、「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われました。それは、キリスト教ではなく、キリストご自身を信じるように言われたのです。彼女は、今話しているこの人が、キリストと呼ばれるメシアだと知ったのです。そして、この方こそが「永遠に渇かない水」の与え主だと信じ受け入れた時、彼女の人生は大きく変えられたのです。
 わたしたちも、イエス様が与えてくださる永遠に渇かない水を、直接イエス様ご自身に祈りを通して求めていきたいと思います。

傷つくまで愛する愛(2014.7.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ19章17~30節

全ての人に「傷つくまで愛する愛」を注ぎ与え尽くしてくださったのが、イエス・キリストです。それを具体的に現してくださったのが、主イエスがお架かりくださった十字架においてでした。このことを信じることによって、私たちに神の救いがもたらされたのです。

1.愛のあまりに黙された  17~24節
主イエスは、人々の裏切り、離反、嘲笑、ののしりの中にあっても、それらの人々に対して愛を貫かれました(ヨハネ13章1節)。そのために、口を開くことなく黙し続けられました(イザヤ53章7節)。
主イエスがそのようにされたのは、彼らの無知蒙昧さ、愚かさの罪からの救いのためだったのです。そのことが分かると、主イエスが十字架にお架かりくださったのが「私の罪のため」であったことが、はっきりするのです。

2.愛のあまりにとりなされた  25~27節
一方、十字架上の主イエスは、その周りにいる人々に対して、とりなしのわざをなさいました。母マリアと弟子を引き合わせることによって新しい神の家族の 交わりを作られました。そのように忠実に主イエスに従う人たちだけにではなく、悔い改める人のため、悔い改めずにいる人のためにもとりなさいました(ルカ 23章32~43節)。
私たちも、今も変わらずに、主イエスが愛の限りを尽くしてとりなしていてくださる「十字架のそばに」身を置こうではありませんか。

3.愛のあまりに身代わりの死を遂げられた  28~30節
主イエスが十字架の上で「成し遂げられた」ことは、私たちの罪と死の責めを身代わりに受けとめ、救いを完成してくださったことでした。
この時、主イエスは身代わりとなって、罪の審きを体で味わい「渇く」と言われました。それは、神からも人からも捨てられるという苦痛の叫びです。このよ うに主イエスが代わって十字架に死んでくださったからこそ、私たちの魂の渇きが癒されるのです。私たちはこの招きに応答して、ただ信じるのみです(ヨハネ 6章35節)。

家族に祝福を(2014.1.1)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録16章31節

今年、私たちの教会は、「祝福の源である家族」を標語に進んでいくように導かれています。私たちは、世界の礎である家族に祝福がもたらされるために、何を大切にしなければならないのでしょうか。

1.家族の大切さ
天地創造、世界の起源、創造の冠として人間を造られたことなど、壮大なスケールから始まる創世記が、その本論に入るとアブラハム家の物語に絞られ、その後の家族が全世界に祝福を及ぼす源となっていったことを語っています(創世記18章19節)。
また、主イエスは、家族を重く見ておられました。その十字架上で、母であるマリアのために配慮された事実にも(ヨハネ19章26~27節)、それを知るこ とができます。そして、パウロは、家族を顧みることの大切さを語っています(1テモテ5章8節)。聖書は意外なまでに家族を大切にしています。
私たちは、家族を大切にして、具体的にどのように家庭を作っているか、また作ろうとしているかが問われています。

2.家族が主の救いに与る大切さ
神の祝福の源である家族であるためには、主の救いに与り、天の喜びに息づく家族に変えられることが大切です。
人類は、その祖であるアダムとエバが神に背いたことによって、神の祝福を失いました。今もなお家族や家庭に見られる混乱や乱れのルーツは、ここにありま す。神の救いの御計画は、神と人との関係の回復だけではなく、それを起点とした人と人との回復、家族の救いを意図しておられます。
フィリピにあった牢の看守一家が、主イエスを信じ、全員洗礼を受けて、喜び溢れる家族になりました(使徒言行録16章16~34節)。彼らは、主イエスに人生の土台を置いて、主に信頼する歩みを始めたのです。
一人の人の救いの祝福は、その家族に及んでいく始まりとなります。私たちの一人一人と家族の「主」が、イエス・キリストなるように祈り願いましょう。

大いなる救い(2013.12.1)

宣教題  : 「大いなる救い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトスへの手紙 2章11~15節
教会では、待降節のことをアドベントと呼んでいます。アドベントには、神の独り子イエスの降誕の出来事を表す場合と、主イエスの再臨を表す場合とがあります。このことを、ここでは「現れ」と表現しています(11節、13節)。
私たちは、主イエスの初臨と再臨の間に生きる者として、日々に信仰の応答をしつつ生きることが求められています。

1.すべての人への神の恵み 11節
神の救いは、「すべての人に」等しく差し出されたのであり、それを受け取ることに一人の例外もありません。それは、人の世に存在する様々な相違をもたらすものとは違って、すべての人に届けられた神の恵みです。
世界で最初のクリスマスの喜びの知らせは、主の天使によって羊飼いたちにもたらされました(ルカ2章8~11節)。そこでは、「民全体に」「今日」「あなたがたのために」と告げられています。このメッセージは、今の私たち一人一人に対しても同様に告げられている神の恵みです。この神の恵みは、自分には必要ない、自分には関係ないと退けるならば、それは神の愛を拒絶することなのです。

2.完全な永遠の救い 12~14節
「救い」という言葉が、二度繰り返されています(11節、13節)。ここでいう救いとは、神と人との歪みや破れが回復される神の救いを語っています。すなわち、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、私たちを罪と汚れから「贖い出し」(14節)、聖別された神のものとしての歩みにしてくださるのです(12節)。そして、私たちが、主イエスが再臨される時にあずかる完全な永遠の救いを首を長くして待ち望みつつ、日々に「良い行いに熱心な民」(14節)にしていただくのです。
私たちの日常は、主イエスの再臨に備える日々であることが大切です。主イエスによって、永遠の滅びから永遠の救いに与っていることを感謝して、良い行いに熱心で、ささげる生き方をさせていただきましょう(マルコ14章6節)。

真実な救い(2011.11.6)

宣教題  : 「真実な救い」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 16章19節~20節
主イエスが弟子たちと共に働かれたので、彼らは確信をもって福音の働きをすることができました。『彼らの語る言葉が真実である』ことが証しされ、人々に真実な救いとして受け入れられていきました。

1.勝利をもたらす救い
私たちが、「いまキリストはどこにおられるか」と問われたならば、「天に上げられ、神の右の座に着かれ」ていますと答えます。それは、遥か遠い所で静観しておられるということではなく、「主は彼らと共に働き」とあるように、弟子たちと共に歩まれた地上の在り方とは違った状態でおられるということです。すなわち、いつでも、どこでも共にいてくださって(マタイ28章20節)、福音の働きを共に進めてくださり、真実な救いへと導いてくださるのです。それは、「主イエス」の勝利の支配が、いつでも、どこにでも及んでいくということです。
私たちは、信仰者としても、教会としても様々な信仰の経験をし、試練を受け、また思わぬ方向へと導かれていくものです。そのような時、「神はこのことを通して何を教えていてくださるのか」と問いつつ、主イエスは私たちを勝利をもって支配しておられるということを本気で信じることが大切です。

2.拡がり続ける救い
主イエスがご自分の弟子たちと共に働かれて、彼らの語る言葉が真実であることを、主の臨在と同行という確かなしるしをもって明らかにされたことは、今も変わらずに続けられていることです。
また、主イエスは、ご自身の弟子たちを通して、「永遠の救いに至る・・・福音を広められた」(結び二)とあるように、今も変わらずに私たちを用いて、救いのご計画を進めておられます。
私たちは、十字架に死んで復活された福音の灯を消してはなりません。今も私たちと共に働かれる主イエスの恵みを無にするわけにはいきません。私たちが語る福音の言葉が真実であることを証ししないわけにはいきません。

愚かと見える道(2011.6.26)

宣教題  : 「愚かと見える道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  15章16節~32節

聖書は、「愚かさ」ということについて多くを語っています。とりわけ、神の救いが、イエス・キリストの十字架という一見愚かに見える方法で現わされました。そして、そのキリストためには、私たちが喜んで愚かになる道を歩むことを証ししています。

1.救いをもたらす道
ロ-マ兵に引き渡された主イエスは、「ユダヤ人の王」と見立てられての侮辱を受けられました(16~20節)。また、ゴルゴタで十字架につけられてくださった時には、そこを取り囲む人々からののしられました(29~32節)。それの侮辱の言葉は、主イエスが「他人は救ったのに、自分は救えない」ということと、「今すぐ十字架から降りる」のを見たら信じるということでした。
私たちは、彼らの言い分とは逆のところに真理を見い出しています。主イエスは、自分を救わなかったからこそ、人を救うことができたのです。十字架から降りられなかったからこそ、救い主なのです。この愚かに見える救いにこそ、「神の力、神の知恵」(1コリント1章21~25節)が明らかにされています。私たちは、神の恵みによって、この救いを受け入れるのです。

2.祝福をもたらす道
シモンは、主イエスの十字架を「無理に担がせ」られました(21節)。彼は十字架を担ぎながら、眼中から兵士や群衆も消えて、十字架上の主イエスのみが見え、救いの御言葉のみが聞こえるようになったのです。無理やりの恵みを通して、彼は主イエスに近づけられたのです。無理やりに十字架を担がせた人の手は、実は神の恵みの御手でもあったのです(ロ-マ16章13節)。
こうした経験は、私たちも日々に与えられているものです。主の十字架を無理やりにと思える形で担っていくことが、自分自身と周囲に大きな祝福をもたらします。今日も十字架の主イエスを仰ぎ、主の十字架を担って、従う者となりましょう。

この人による以外に救いはない(2009.8.9)

題   : 「この人による以外に救いはない」
宣教:  川原﨑 晃  牧師
聖  書   : 使徒言行録 4章5節~22節
生まれながら足の不自由な男は、有りのままの自分を主イエスに委ねて、いやされ、救いに導かれました。このことを通してペトロは、「(イエス・キリストの)ほかのだれによっても、救いは得られない」ことを証言したのです(12節)。

1.主の激しい御愛が注がれている
この救いの出来事は、ペトロが民衆をキリストの救いと信仰への招きをする機会となりました(4章4節)。逆に、この事実を受け入れようとしない指導者たちは、ペトロたちを逮捕して留置し、議会で尋問しました(1~6節)。その尋問内容は、「何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」ということでした。ペトロは、「イエス・キリストの名による」救いの御業であると、単刀直入に答えています(7~11節)。
ここで強調されている「わたしたちが救われるべき」とは、救われるために主イエスの激しいまでの御愛が無制限に注がれているということです。主イエスのこの御愛が、十字架にまで行き着き、死を征服し、復活をもたらして下さったのです。
私たちは、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と信じて、主イエスに身を委ねるだけなのです。

2.主の激しい御愛に押し出される
この主の御愛を体験した者たちは、その御愛に迫られ、押し出されています。主の御愛は、「無学な普通の人」を用いて「大胆」にします。それらの人は、いつも主と共にいて、主イエスに救いの全てがあることを確信しています(13節)。
ここに、大胆に福音を語るペトロがおり、彼の傍らに立って祈り支え協力するヨハネがいます。そして、彼らの「そばに立っている」無言の証人がいます(14節)。この人こそ、主イエスによっていやされ救われた人でした。周囲の人々は、「この出来事について神を賛美していた」のです(21節)。
教会は、「ほかのだれによっても、救いは得られません」との福音を語り、それを祈り支え、その福音に生きる人によってつくられていくのです。