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愛の働き(2019.4.7)

宣教題 「愛の働き」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヤコブ5章19~20節

 この手紙の締めくくりの御言葉は、信仰の確信に触れるような勧めと約束で閉じられています。そこには、真理から迷い出た者を連れ戻そうとする、ほとばしり出るような主の愛と兄弟愛が満ちています。

1.連れ戻そうとされる主の愛 
 ヤコブは、「わたしの兄弟たち」と、心よりの愛を募らせて呼びかけています。一度主イエスを信じて従う道を歩みだしたにもかかわらず、そこから迷い出た者がいたからです。主イエスは、そのような者に対してひときわ愛に燃えて、回復へと招かれます(マタイ18章10~14節、ヨハネ6章39節)。
 私たちは、主イエスとその真理の御言葉から迷い出る可能性があります。しかし、私たちは、迷い出た者を連れ戻してくださる主イエスの愛の招きにお応えすることによって、信仰の再発見をさせていただけるのです。

2.連れ戻す兄弟愛 
 迷い出た者を連れ戻すために、「だれかが」役に立つことができるのです。一人ひとりには、それをさせていただける可能性があります。
 それは実に、大きな愛の働きです。まず、「罪人の魂を死から救い出」すこと、すなわち人を永遠の死、永遠の滅びから救い出すことになるからです。また、「多くの罪を覆う」ことになるからです。もし人を連れ戻さなかったら、その人が多くの罪に堕ち込んでいくことになり、それによって周囲に罪が広がっていきます。

 大きなことをしようとする必要はありません。人が迷い出ていると気づいたら、主の愛の迫りをいただく中から祈り、愛の働きをさせていただくのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(13.8MB)

傷つくまで愛する愛(2014.7.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ19章17~30節

全ての人に「傷つくまで愛する愛」を注ぎ与え尽くしてくださったのが、イエス・キリストです。それを具体的に現してくださったのが、主イエスがお架かりくださった十字架においてでした。このことを信じることによって、私たちに神の救いがもたらされたのです。

1.愛のあまりに黙された  17~24節
主イエスは、人々の裏切り、離反、嘲笑、ののしりの中にあっても、それらの人々に対して愛を貫かれました(ヨハネ13章1節)。そのために、口を開くことなく黙し続けられました(イザヤ53章7節)。
主イエスがそのようにされたのは、彼らの無知蒙昧さ、愚かさの罪からの救いのためだったのです。そのことが分かると、主イエスが十字架にお架かりくださったのが「私の罪のため」であったことが、はっきりするのです。

2.愛のあまりにとりなされた  25~27節
一方、十字架上の主イエスは、その周りにいる人々に対して、とりなしのわざをなさいました。母マリアと弟子を引き合わせることによって新しい神の家族の 交わりを作られました。そのように忠実に主イエスに従う人たちだけにではなく、悔い改める人のため、悔い改めずにいる人のためにもとりなさいました(ルカ 23章32~43節)。
私たちも、今も変わらずに、主イエスが愛の限りを尽くしてとりなしていてくださる「十字架のそばに」身を置こうではありませんか。

3.愛のあまりに身代わりの死を遂げられた  28~30節
主イエスが十字架の上で「成し遂げられた」ことは、私たちの罪と死の責めを身代わりに受けとめ、救いを完成してくださったことでした。
この時、主イエスは身代わりとなって、罪の審きを体で味わい「渇く」と言われました。それは、神からも人からも捨てられるという苦痛の叫びです。このよ うに主イエスが代わって十字架に死んでくださったからこそ、私たちの魂の渇きが癒されるのです。私たちはこの招きに応答して、ただ信じるのみです(ヨハネ 6章35節)。

一人一人を愛される主(2013.5.5)

宣教題  : 「一人一人を愛される主」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ 4章38~44節
主イエスは、何よりも一人一人を愛して、懇ろに届いてくださるお方です。その主の愛の御業は、カファルナウムにおける安息日の礼拝において(31~37節)、その日が暮れで安息日が終わる場面において(38~41節)、そして翌朝の宣教へと続いています(42~44節)。

1.日常的な事柄に関わってくださるために  38~41節
先には、大勢が集まっていた会堂での礼拝において汚れた霊に取りつかれた一人の人のいやしがなされ、ここではシモン・ペトロの家で彼の姑のいやしがなされました。人々は、会堂では言えなかったのですが、主イエスが家に来てくださったので話すことができたのでした。続いて、主イエスのもとに連れて来られた「一人一人に手を置いていやされた」のでした。
主イエスは、今も変わらず、誰に対しても一人一人に、しかも日常的な様々な出来事の一つ一つに、愛をもって関わってくださいます。これは、私たちにとって大きな慰めです。

2.必ず神の国に招き入れるために  42~44節
翌朝、主イエスは人里離れた寂しい荒野へ出て行かれて、父なる神とお会いし、その御心を求められました。そうしておられる主イエスを群衆は捜し回り、続けて多くの人々の病をいやしていただくことを求めました。父なる神の御心は、病を癒すことが最終目的ではなく、人々を神の国に招き入れ、そこで生きる喜びを宣べ伝えることでした。これは、必ず成し遂げられなければならないことだったのです。
神の国に招き入れられるとは、聖霊による罪の赦しが与えられ、聖霊によって神との平和の関係が回復され、聖霊による喜びが与えられる恵みに生きることです(ローマ14章17節)。このために、主イエスは十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。神の国の福音に生きる一人一人とさせていただきましょう。

主の愛のわざを覚えて(2013.1.13)

宣教題  : 「主の愛のわざを覚えて」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 2章6~16節
言者を通して語られる神はうっとうしいほどに熱い神である。紀元前八世紀、繁栄する北王国イスラエルで預言者として生きたアモスは、獅子の雄叫びのような主の声を多くの国々に向かって語った(1章2節~2章16節)。

1.主は熱い神:愛ゆえの「熱さ」
主はご自身の民の現状を知っている。不正が蔓延し、人と人との関係がひずんでいる状況を見聞きしたそれゆえに主は痛み、その現実を告発する(2章6~8節)。それは主が民とその歴史に深く関わっておられるからだ。出エジプト、荒野の放浪、約束の地の征服のすべてを実現させたのはこの神である(2章9~10節)。そして、アモスら預言者を送り、主の声を聞かせ、ナジル人を送り、主の聖なることを示しておられる(2章11節)。主はこれほど熱い、愛のわざをされたのは、イスラエルの父祖であるアブラハムと契約を結ばれたからだ。しかし、イスラエルは神の声を聞こうとはせず、主の聖なることを見ようとはしない(2章12節)。熱い神の愛のわざを拒否している。だから、主は預言者を通してほえたける。アモリ人に対してそうであったように大勇士としてイスラエルに攻撃を加えると言われる(2章13~16節)。その愛ゆえに思い切った行動を取られる。

2.主の熱さは悔い改めと使命のため
さばきの預言は、罪に対する神の憎しみの現れではない。民を切り捨てる神のあきらめのよさでもない。ヨナのことばがニネベの民を立ち返らせたように(ヨナ3章)、イスラエルが熱い神の雄叫びを聞き、自分の姿に気がつき、悔い改めることを願う主の愛の現れである。愛ゆえの熱いさばきである。さらに、民が主の名を聖なるものとする(アモス2章7節)という、アブラハムに与えられた使命をイスラエルが諸国民の間で果たすことができるように導くためにもこの預言は語られている。
預言のことばそのものが、熱い神の愛のわざである。それは甘ったるくなく、厳しい。しかし、教会がその使命を果たすものとなるようにと整えることばである。

主の愛と忍耐(2011.3.6)

宣教題  : 「主の愛と忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録13章13節~14節、2テモテ4章11節bc

神は、バルナバとパウロ、パウロとマルコといった関わりの中で、ひとり一人を造り変え、神の栄光を現わす器として用いられます。キリストの愛と忍耐は、「マルコと呼ばれていたヨハネ」(使徒言行録12章12節)を狭い檻の中に閉じ込めないで、伸び伸びと生かしました。

1.人を造り変えられる
マルコは、ペトロが「わたしの子マルコ」(1ペトロ5章13節)と言っているように、ペトロによって信仰に導かれたと思われます。彼はバルナバのいとこであったこともあり、パウロたちと一緒に海外宣教に遣わされました(使徒言行録13章5節)。
ところが、マルコは伝道旅行の途中で離脱し、出身教会のエルサレムに帰ってしまいました(使徒言行録13章13節)。そのようになった理由は、彼の信仰的な弱さ、福音理解の狭さといったものがあったと思われます。しかし、後にパウロは、ロ-マの獄中に一緒にいるマルコを「協力者」と呼び、執り成すほどになりました(コロサイ4章10節、フィレモン24節)。愛と忍耐に富んでおられる主は、このように人を造り変えられます。

2.人を用いられる
殉教前にロ-マの獄中にいたパウロは、テモテと一緒にマルコが来るように要請しています。というのは、彼は役に立つ器であると信頼していたからです(2テモテ4章11節)。
その後のマルコの消息は明らかではありませんが、少なくともペトロが見聞きした証言の記録である「マルコによる福音書」が記されました。主の愛と忍耐が、マルコをこのように導くとともに、バルナバやパウロやペトロの愛の配慮も用いられて、マルコを有用な器としたのでした。
主は愛と忍耐をもって、私たちに最善をなされるお方です。この主を信じ、信頼し、従う恵みを大切にしたいものです。

この人による以外に救いはない(2009.8.9)

題   : 「この人による以外に救いはない」
宣教:  川原﨑 晃  牧師
聖  書   : 使徒言行録 4章5節~22節
生まれながら足の不自由な男は、有りのままの自分を主イエスに委ねて、いやされ、救いに導かれました。このことを通してペトロは、「(イエス・キリストの)ほかのだれによっても、救いは得られない」ことを証言したのです(12節)。

1.主の激しい御愛が注がれている
この救いの出来事は、ペトロが民衆をキリストの救いと信仰への招きをする機会となりました(4章4節)。逆に、この事実を受け入れようとしない指導者たちは、ペトロたちを逮捕して留置し、議会で尋問しました(1~6節)。その尋問内容は、「何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」ということでした。ペトロは、「イエス・キリストの名による」救いの御業であると、単刀直入に答えています(7~11節)。
ここで強調されている「わたしたちが救われるべき」とは、救われるために主イエスの激しいまでの御愛が無制限に注がれているということです。主イエスのこの御愛が、十字架にまで行き着き、死を征服し、復活をもたらして下さったのです。
私たちは、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と信じて、主イエスに身を委ねるだけなのです。

2.主の激しい御愛に押し出される
この主の御愛を体験した者たちは、その御愛に迫られ、押し出されています。主の御愛は、「無学な普通の人」を用いて「大胆」にします。それらの人は、いつも主と共にいて、主イエスに救いの全てがあることを確信しています(13節)。
ここに、大胆に福音を語るペトロがおり、彼の傍らに立って祈り支え協力するヨハネがいます。そして、彼らの「そばに立っている」無言の証人がいます(14節)。この人こそ、主イエスによっていやされ救われた人でした。周囲の人々は、「この出来事について神を賛美していた」のです(21節)。
教会は、「ほかのだれによっても、救いは得られません」との福音を語り、それを祈り支え、その福音に生きる人によってつくられていくのです。