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祈りと涙(2010.6.13)

宣教題  : 「祈りと涙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 21章9節~21節
ハガルが「声をあげて泣いた」(16節)とあることに代表されるように、涙を流したことがないという人はいないのではないでしょうか。そのような中で、人が神の御前で涙を流すときには、それが祈りとなる経験をします。それはまた、神がどういうお方であるかを知る経験ともなるのです。

1.顧みられる神
これより先にアブラハムは、妻サラとの間に子が与えられなかったために、女奴隷ハガルとの間に子をもうけることになりました。
その結果、この家族は複雑な関係となりました。神が荒野に逃亡するハガルに、歩むべき道と息子イシュマエルの将来を予告された時、ハガルは「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)」と告白しました(16章1~13節)。このように体験的に神を知ったハガルは、その後の彼女の生涯に多大の影響を与えたのです。
やがて、イシュマエルが誕生し、またイサクが誕生すると、状況は悪化しました。ハガルとイシュマエルは追い出され、彼らはあてどもなく荒野をさまようことになりました。彼女は、人生の理不尽さや無情そして自らの無力さを悲しみ、「声をあげて泣いた」のでした(21章9~16節)。
しかし、こうした涙を顧みられる神は、その涙を貴いものとして蓄え、記録しておかれるのです(詩編56編9節)。
2.祈りを聞かれる神
息子イシュマエルは、泣いている母ハガルを見て、代わりに祈っています。神は、その祈りを聞かれたのです(17節)。神は、祈っているイシュマエルと、祈られているハガルの間に立っておられたのです。
ところで、主イエスは、私たちの人生の悲しみ、痛み、罪の苦悩を、涙を流しながら受けとめ、その祈りを聞いてくださるお方です(ヨハネ11章35節、ヘブライ5章7節)。
泣く者がいて、共に涙する者がいます。祈る者がいて、祈られる者がいます。その間に主イエスが立っていてくださるのです。これが、教会の家族なのです。