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心燃える祈り(2011.4.3)

宣教題  : 「心燃える祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章32節~42節
この箇所は「ゲツセマネの祈り」と呼ばれおり、主イエスが十字架を前にして苦闘の祈りをささげられた所です。そこに居合わせた弟子たちが、主イエスの警告の言葉に不感症となり、醜態を演じた所でもあります。

1.主イエスの祈り
主イエスはこの時、ただならぬ激情に襲われておられます。人が理解できないほどの途方もない力の前に、父なる神から捨てられる者が経験するほどの恐れを持たれ(33節)、普段では見られない姿で祈っておられます(34~35節)。
これは、私たちが持つ弱さや恐れや罪を変わって受け取ってくださっている祈りでした。
それは、全能の神にひたすら信頼しつつ、全知の神への従順を表明された祈りでした(35~36節)。ここに、神の怒りを一身に受けようとしておられるお姿があります。
このようにして、主イエスは、ゲツセマネの激しい祈りから続く十字架の苦しみを経験してくださったので、私たちの「永遠の救いの源」となってくださることができたのです(ヘブライ5章8~9節)。

2.主の弟子の祈り
この主イエスの祈りを見聞きしていた弟子たちは、主イエスから「目を覚まして祈っていなさい」(34、38節)と命じられなければならないほど、事実「弟子たちは、眠っていた」(37、40、41節)のでした。主イエスはそんな彼らに同情しつつ、誘惑に陥らないために、試練に打ち勝つために祈ることを命じられたのです(38節、マタイ6章13節)。
私たちは、ゲツセマネの弟子たちのようでない、と誰がいえるでしょうか。十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされ、呼吸するようにキリストと交わり続けることによって、常に目をさまして心燃える祈りを続けることが大切なのです。

十字架への道(2010.3.28)

宣教題  : 「十字架への道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章32節~42節
エルサレムの町の東側にあたるオリ-ブ山の中腹にあった「ゲツセマネ」でのことです。そこで主イエスは、迫り来る受難を間近に控えて、その心の思いを父なる神に向かって訴えるように祈られました。さらに弟子たちに向かっても、その思いをはっきりと告げられました。

1.キリストの苦しみが現われている
ゲツセマネの祈りは、主イエスの壮絶な苦しみ、苦闘、苦悶の様を伝えています。主の苦しみは十字架上だけではなかったのです。そこに現わされた主の恐れと悲しみは、神を否む罪と死に対して抱かれたものでした(33~34節)。
それに対して主イエスは、神の御心に適う道を求められ、全ての人の罪に対して注がれる神の怒りを一身に引き受ける祈りをささげられたのです(35~36節)。
しかし弟子たちは、眠りこけてしまいました(37節)。肉体の疲れによって眠っただけではなく、魂も眠ってしまって神の御心に無頓着になっていたのです。主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)と語られたように、キリストの苦しみを覚えつつ、魂が目覚めていたいものです。

2.キリストの従順が現われている
ゲツセマネの祈りに見る主イエスのお姿は、徹底して人となられた神、どこまでも私たち人間の側に立ち続けておられる救い主を伝えています。主イエスは、「御心に適う」道を選ばれて、全てを明け渡されました。主は死に至るまで父なる神に従われたことを通して、従順を学ばれたのです(ヘブライ5章7~8節)。ですから私たちも、神への従順を学び続けていくことが大切なのです。
さて、ゲツセマネの祈りを終えられた主イエスは、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう」(41~42節)と言われました。人間の罪がどれほど絶望的であっても、死の闇がどんなに深く覆っていても、行き詰まりの中に八方塞がりでうめいていても、主イエスは立ちあがって歩み出してくださいます。今私たちは立ち上がって、信仰の従順の一歩を踏み出させていただきましょう。