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招かれる罪人 (2020.4.19)

聖書

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)

礼拝音源(17.6MB)
※奏楽の音が小さくなっています。申し訳ございません。

礼拝順序

前  奏
招  詞 1コリント15章54b~55節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 6編1~11節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ2章13~17節
使徒信条 93-4 1 A 一同起立
賛  美 4 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「招かれる罪人」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 507 一同起立
感謝献金
奏  楽 305
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.罪人を招くイエス

前回までに、イエスは福音を宣べ伝え、弟子を造り、病を癒し、罪を赦す権威を持つ救い主であることを証明された。その対象は信仰を持つユダヤ人であった。

イエスの宣教は次の段階へと進み、その対象に罪人が含まれるようになった。それが徴税人や罪人である。徴税人は、イスラエルを属国としていたローマのために税を集めていた。そして、余分に集めた分を自分の収入としていた。敵国の手先となり、不当に私腹を肥やしていたため、ユダヤ人の間では罪人と同様に見なされていた。

ユダヤ人は罪人や異邦人と同じ食卓に着く事はなかった。共に食事をすることは仲間であることを表すからだ。律法学者は、イエスが彼らと一緒に食事しているのを見て、神から遣わされた救い主だと言っているイエスが、なぜ罪人の仲間になっているのかと非難し、仲間に加わる事はなかった。律法学者は、律法と照らし合わせて正しいか正しくないかを判断していた。ファリサイ派とはユダヤ教の中の一派で、特に律法違反を厳しく取り締まり、罪から分離して決別しようとしていた。そのような背景で出て来たのが、彼らの質問とも避難とも言えるものであった。

律法学者は罪人に注目し、イエスが罪人の仲間(=罪人)になっていると言ったが、イエスには罪を赦す権威があったので、それは当てはまらない。むしろ、罪人たちは神の子と共に食卓に着き、神の子の仲間になっている。イエスは罪人を招いて罪を赦し、神の子とするために来られた。

2.身代わりとなったイエス

イエスは、同席していた大勢の人が、罪を犯していないとは言っていない。彼らが罪を犯した事実は消えないし、罪のための裁きも無くなる事はない。しかし、イエス身代わりとなり、十字架で裁きを受けることで、罪を犯した本人は裁きからまぬかれる。イエスの罪の赦しの権威は、それが前提となっている。

3.招かれる人

聖書は、すべての人は罪を犯した(ローマ3:23)と言っている。誰一人として、律法学者のように、人の罪を探して裁いている場合ではない。罪人を招くイエスは、今もすべての人を招いている。そこには、私もあなたも含まれている。

律法学者の罪は、徴税人や罪人に比べれば小さいものであったのかもしれない。しかし、その為に自らの罪に気付く事なく、イエスのしている事を理解できず、救い主の仲間になることを拒んでしまった。その様になる事は避けたい。

この地上で生きている限り、困難な事は必ず起こる。そのとき、不平や不満、憎しみや裁く思いが沸いて来ることを避けられる人はいない。その結果、してはいけない事を、してしまう事もある。そのような“私”だからこそ、イエスは招いて下さる。辛い事、不満な事を神に向って言うとき、それは祈りとなる。神の食卓にありのままで着き、癒しと赦しのめぐみを受け取り、主に従って行こうではありませんか。

祝福の担い手(2019.7.14)

宣教題 「祝福の担い手」     宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ19章1~10節

 主イエスは、ザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」(9節)と言われました。訪れたとは、出来事が起こったということです。主イエスはこの出来事を通して、神の救いの祝福の担い手は、どういう人なのかを明らかにされました。

1.どういう出会いをするか 
 ザアカイは、この世の価値は富にあると考えてはいたものの、それでは本当の納得のいく人生を送れないという寂しさを覚えていました。徴税人を仲間としてくださる主イエスを見るために、彼はその踏み台として「いちじく桑の木に登った」のです(4節)。これは、何かの踏み台をもって主イエスを見ようとする人間の魂の状態を表しています。
 そんなザアカイに向かって、主イエスは彼の名を呼び、招き、交わりを持とうとされました(5節)。彼は、主イエスの御言葉をなぞるようにして、その救いの招きに引きずり込まれていきました(6節)。私たちひとり一人も同様です。

2.どういう生き方が生まれるのか 
 二つの問いかけを聞きます。一つは、つぶやく人たちのように、自分も罪人のひとりであることに気づいていないことはないか(7節、1テモテ1章15~16節)。
二つは、ザアカイのように、主イエスの救いの恵みに与って、心と生活が神の願われる価値観をもった生き方に変わっているか(8節、2コリント5章16~17節)。
 主イエスを受け入れて結び合わされたザアカイは、アブラハムと同じように神の祝福の担い手となりました。この救いの出来事は、ザアカイの家族に救いが及んでいく始まりとなったのです(9節)。これこそが、神から、隣人から失われていた、自分で自分を見失っていたひとり一人への救いの招きなのです(10節)。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(10.7MB)

主の弟子になる(2018.6.24)

宣教題  「主の弟子になる」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章25~35節

主イエスの大いなる救いの祝宴に招かれた者は、主の弟子として生きるようになります。それは、信仰者一人ひとりに対する主の恵みの招きです。

1.主の弟子になる道  25~27節、33節
信仰者は、「わたしの弟子ではありません」との主からの挑戦に応答する必要があります。それによって、家族よりも主を優先し聖別させていただくことにより、真に家族の絆は祝福を受けるのです(26節)。永遠の救いに招き入れてくださった主と一緒に十字架を負わせていただくことにより、他者の痛みを理解し、それを一緒に負わせていただくのです(27節)。神以外のものが心の王座を占領しているならば、それに別れを告げて神第一に生きるのです(33節)。
このような主の弟子の道を歩んでいるでしょうか。

2.主の弟子とされる祈り  28~32節
主の弟子の道を歩むには、「腰をすえて」主の前に静かに考えて祈ることが大切です(28節、31節)。主が「わたしの弟子ではありません」と言われるものがないかどうかを、神との祈りの交わりの中で明らかにしていただくためです。
腰を据えて静かに考えて祈る中に、主の恵みと祝福が及んでいくのです。

3.主の弟子の使命  34~35節
主の弟子として生かされ、主に従って、主の御心を実現させていただくために、主は私たちを使ってくださいます。すなわち、人々や社会の腐れを止め、味つけしていく塩のような存在としてくださるのです。
私たちの関心が、塩気のある主の弟子また群れでありますように!

メッセージ(11.9MB)

祝福への招き(2018.6.10)

宣教題  「祝福への招き」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章12~24節

 「あなたは幸いだ」(14節)「なんと幸いなことでしょう」(15節)とは、幸いがいつまでも続いている状態を言っています。ここで譬えられている「宴会」は、その幸いな祝福への神の招きです。

1.祝福への招きの原点を忘れるな  12~14節
 ここでの「宴会」の譬えは、神は「お返しをする」人ではなく、「お返しのできない」人を招くようにと言っています。つまり、その招きは、神の恵みによる一方的なものであり、何ら人の功績などを求められないということです。ですから、主イエスによる救いの恵みは、お返しもできない罪深い者に、無代価で与えられるのです。そして、主なる神の報いを期待する生き方をするのです。
私たち一人ひとりは、この神の祝福への招きの原点を忘れることなく、神の恵みに立ち続けているようにしたいものです。

2.祝福への招きを拒むな  15~24節
 神は、「盛大な宴会」と言われる救いの祝福に人を招き入れるために、様々な形で呼びかけて来られましたが、遂に神の僕である主イエスをお送りくださいました(16~17節)。ところが、その招きに対して様々な理由をつけて拒む人たちが次々に起こったのです(18~20節)。そこで、主イエスは、罪と汚れのゆえにどんなに卑しくて貧しい者をも招き入れてくださることを明らかにされたのです(21~24節)。
 私たち一人ひとりは、神の救いの招きを拒むことなく、それを後回しにすることなく、拒んだままの生活を送ることなく、「神の国で食事をする」すなわち、主イエスの十字架と復活に表された愛の中に留まり続ける生き方をするのです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(8.7MB)

主の御心はどこにあるのか(2018.4.8)

宣教題  「主の御心はどこにあるのか」     宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章1~6節  レビ19章18節b

イエス様が会堂に入って礼拝を守られました。しかし、この日、会堂に集まった人々のまなざしは天に向けられていませんでした。

1.神を愛し、人を愛する
 安息日の礼拝に片手の萎えた人が来た時、イエス様はこの人を癒されました。それは人々に律法を守ることで、神の御前にその正しさを主張する信仰が根本的に間違っていることを示すためでした。そして、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を全うするために律法は機能しているのだということを示されたのです。

2.沈黙という拒否の末に
 人々はイエス様の問いに「黙っていた」のです。彼らは、イエス様が言われるようには変わりたくなかったのです。しかし、イエス様が求めておられるのは「変わる」ことです。それは、今のわたしたちにも『あなたは変わらなければならない。』と言われているのです。この時、人々はイエス様の招きを拒否し、黙ってしまいました。その結果、彼らは、イエス様を殺すというところに至ったのです。

3.イエス様の招きに応える
 イエス様が、神を愛し、人を愛し、人に仕えることを明確に示されたのが十字架です。イエス様は今も「わたしに従って来なさい」とわたしたちを招いておられます。この招きにわたしたちが応えた時、神に向かって、隣人に向かって踏み出して行くことができるのです。そこに神の国への道が開かれるのです。
 自分のことしか愛せないようなわたしたちですが、イエス様の招きに応えて、神と隣人とを愛する者へと踏み出させていただきましょう。そこに主の御心があるのです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(7.7MB)

罪人を招くために(2018.1.21)

宣教題  「罪人を招くために」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章13~17節

イエスは、再び湖のほとり出て行き群衆を教えられ、通りがかりの道でレビが収税所に座っているのを見かけて声をかけました。それは何のためだったのでしょうか。

1.わたしに従いなさい
レビは、イエス様からの召しを受けた時、すぐに従います。ここで重要なのは、レビがすぐに従ったということです。彼は徴税人であり、当時は罪人の代表者的存在として、決して救われることはないと思われていました。しかし、そのレビをイエス様が弟子として召されたのです。彼には、何も誇りとするものがなかったのです。

2.罪人の最たる者から主の弟子に
罪人から主の弟子になった人物の代表的存在にパウロがいます。彼はテモテに、「わたしは、その罪人の中で最たる者」と言っています。そんな彼が復活のキリストと出会い回心し、主の弟子となります。 パウロも神の御前に誇るべきものなど何一つ無く、ただ主の十字架によって救われた。その恵みと神の愛に生きた人物でした。

3.罪人を招くために来られた主イエス
主の弟子とされたレビはイエス様を食事に招きます。それを見たファリサイ派の律法学者は、イエス様を非難しました。そこでイエス様は、「わたしが来たのは、・・・罪人を招くためである」と言われました。彼らは、自分の正しさに固執するあまり、罪人をも赦して招く大きな神の憐みを認めることができなかったのです。
わたしたちも、ただイエス様に招かれた罪人に過ぎません。レビやパウロのように、わたしのような者さえ招かれたことを心から感謝し、イエス様の愛と憐みと恵みを受けた者として歩ませていただきましょう。

あなたの名を呼ぶ神(2016.10.30)

宣教題  「あなたの名を呼ぶ神」        宣教 大嶋重徳先生
聖 書  ルカ19章1~10節

1.ザアカイの的外れ
この時代に徴税人をやるということは人々から嫌われるとわかっていて、自ら選んでしていた仕事でした。なぜザアカイは徴税人という仕事をしていたのでしょうか。裕福であったが幸福ではなかったザアカイの人生は私たちの歩みと重なるものがあります。

2.イエスを見ようとして
ザアカイはこの日、「イエスがどんな人か見ようとしたが」とあり、主イエスに会って話そうとしてこの場所に来たのではありません。しかし自分から主イエスに声を掛けようとはしなかったザアカイに、主イエスから声をかけられました。

3.ザアカイ、今日あなたの家に泊まることにしてある
「ザアカイ」と、主イエスはその人個人の大切な名を呼ぶのです。主イエスとザアカイとの出会いは、大切な存在として、名前を呼び、愛の目で見つめる出会いでした。今朝も主イエスは私たちの名前を呼んでくださっているのです。

4.急いでその木から降りてきなさい
「急いで降りて来なさい」。ザアカイが登ったいちじく桑の木。そこにはザアカイと主イエスとの間に木の高さほどの距離がありました。それは自分からは主イエスに声を掛ける事はしない距離でした。そこから主イエスは「降りて来なさい」と言われたのです。今日、あなたと主イエスとの間にある距離とは何でしょうか。

5.救いがこの家に来ました
主イエスとの出会いでザアカイは、「だれかから何かだまし取っていた・・・」と自らの罪を認めました。それはザアカイを愛し、ザアカイと共にいてくださる主イエスの愛を受け取ったからでした。主イエスがザアカイを招かれた場所は、ザアカイの家でした。信仰とは自分の生きている場所から逃げ出すことではありません。自分の生きているその場所で主イエスと共に生きていくことなのです。

安心しなさい(2015.6.28)

宣教題  「安心しなさい」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ14章22~33節

主イエスとペトロとの出会いは、ペトロが主イエスに出会いに行く前に、主イエスがペトロに出会いに来てくださっています。その出会いは、繰り返され、深められていっています。この出会いの恵みは、主イエスと私たち一人一人の出会いおいても同じなのです。

1. 主イエスが来てくださるから  25節
ペトロたちは、夜の暗闇に舟を漕ぎ出しましたが、波と逆風に悩まされています。主イエスは舟に乗っておられなかったのです。この時、ペトロたちが主イエスに助けを求めることはなく、主イエスの方から彼らの所に行かれて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られ、ご自身を現しなさいました。
人が恐れを経験するものに、次のようなことがあります。迷信に脅えるということです。人の顔色や評判を恐れることです(箴言29章25~26節参照)。良心の呵責からくる恐れです。そして、死の恐れです(ヘブライ9章27節参照)。十字架に死んで復活された主イエスは、今も「恐れることはない」と解放の道を開いていてくださいます。恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配されているところに安心があるのです。

2. 主イエスのところに行くことによって  28節
「行かせてください」と願うペトロに対して、「来なさい」と主イエスは招かれています。しかし、再度ペトロは、風を見て怖くなり、逆巻く水を見て恐れています。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロを主イエスは諭し、同舟されました。こうして、ペトロたちは、繰り返し主イエスの招きを受ける中から、「本当に、あなたは神の子です」と信仰を言い表わしました。
私たちは、恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配される中で、信仰を言い表わすのです。共に居り続けてくださる主イエスのもとに居り続けるのです。主イエスの方から招いていてくださる確かさに、私たちは身を置くのです。

開かれた道(2015.5.31)

宣教題  「開かれた道」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ4章18~22節

主イエスが開かれた救いへの道は、狭い道です(マタイ7章13~14節参照)。それは、自分一人しか通れない狭さであり、神の前に一人になることを意味していると言えるでしょう。主イエスは、私たち一人一人に対して、ご自身が開かれた道について来ることを求めておられます。

1.主イエスに招かれている道
主イエスは、ペトロたちをご覧になり、お呼びになりました。彼らが、この招きを受けたときの詳しい状況や経緯や理由について何も語られていません。しかも、礼拝で説教を聞いていたとき、祈っていたときといったような場面ではなくて、主イエスは彼らがその職業に就いていた日常生活のただ中において招かれています。
主イエスは、十字架を通り、墓を通り、墓を打ち破って、永遠の命への道を、私たちのために歩き抜いてくださいました。そして、一人一人の全てをご存知の上で、ご自身を賭けたこの恵みをもって、私たちの現実に踏み込んで来られるのです。私たちは、この招きにあずかっているのです。

2.主イエスについて行く道
ペトロたちは、「わたしについて来なさい」と先立たれる主イエスの背を見つめるようにして歩み出しました。彼らは、主の招きに応えたのです。これが、主イエスを信じることであり、従うことなのです。
さらに、主イエスの招きは、ペトロたちの人生を新たにし、新たな使命を与えて遣わされるものでした。彼らに対する使命は、「人間をとる漁師にしよう」と語りかけられたもので、主イエスはその後も繰り返し語り、それを更新し続けられました。
主イエスは、ご自身について来る一人一人を各々の持ち場に遣わされます。それは、人生の最後に至るまで更新し続けられます。私たちは、主イエスの招きに応え、新たにされて、各々の生活の場へと遣わされて行くのです。

キリストからの招待に応えて(2014.10.26)

宣教題:「キリストからの招待に応えて」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書: マルコ1章16~20節

だれでも問題を抱えている。自分自身のこと、家族のこと、職場のこと、地域のこと、国のこと、世界のこと、地球環境のこと。もっときれいな世界のはずなの に、そうでない。もっとずるくない世界のはずなのに、そうでない。これだけ問題があるのに、自分は何をしたらいいのか、わからないで。

1.問題だらけの世界に来られたイエス
現代の私たちと同じように、新約聖書が書かれた2,000年前のユダヤの地にも、数多くの問題があった。そして、だれでもが問題を抱えていた。社会から のけ者にされている。神の祝福が自分たちの上に溢れているわけではない。自分たちとは全く関係のない者が、王としてユダヤを、世界を治めている。でも、こ の問題を解決する術をしらない。自分がそれにどう関わったらいいのか、わからない。
そんな世界に来られたのがイエスである。イエスは、自分の働きを通して、もっときれいな世界が、もっとずるくない世界が始まる、と人々に語られた。それ は、イエスを通して、ほんものの神が王となって世界を造り変えられ始めたからだ。さらに、ガリラヤ湖で漁師をしていた二組の兄弟に、「人間をとる漁師にし てあげよう」(17)と語りかけた。神が始められた新しい世界のために働く使命を彼らに与えるためであった。

2.わたしについて来なさい
イエスの招きのことばは、「わたしについて来なさい」(17)であった。「自分のグループに入りなさい」という意味ではない。まず、それは、あなたには 価値があり、使命がある、という意味である。次に、今までの道を今まで通りにあなたが歩いている限り、問題は解決しない、という意味である。あなた自身が あなたの抱えている問題の原因のひとつであるからだ。三つ目に、解決のために、なによりも新しい王のあとを従うべきである、という意味である。今まで歩ん でいた間違った道を修正することなしに、問題の解決はない。この声を聞いて、漁師たちは、自分のもっているものを置いて(18、20)、イエスの弟子とな る道を選んだ。そして、イエスと共に、きれいで、ずるくない世界を生みだすプロジェクトに加わった。
イエスは今日も、同じように私たちを招待してくださっている。問題だらけのこの世界をイエスと共に変えていくプロジェクトに加わるように招いてくださっている。自らも問題の原因であることを認め、そのあわれみに招きに応えて、新しい王について歩んでいこう。

キリストに従う祝福(2013.7.21)

宣教題  : 「キリストに従う祝福」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章27~32節
私たちの教団と諸教会は、主なる神がキリストに従う弟子たちと同行してくださった中を歩んできました(出エジプト33章14節)。これこそが、これからも変わらない私たちの立ち位置です。レビと同じように、キリストに従い続けることは、祝福された歩みが造られていきます。

1.キリストが招かれる  27節
主イエスは、慈しみの心をもって徴税人のレビをごらんになられました。当時、徴税人は、ユダヤ人からは神に呪われた罪人と同じように見なされていました。主イエスは、レビが収税所にいるその場で「わたしに従いなさい」と、そのままを受け入れて招かれたのです。
主イエスは、レビに対するのと同じように、私たちを招いていてくださいます。

2.キリストの招きに応える  28節~29節a
「わたしに従いなさい」と、説明も条件もついていません。レビには、少なくとも罪人を招くために来てくださった主イエスに対する強い信頼がありました。そこで、座り続けていた収税所の席から立ち上がって、「イエスに従った」のです。
また、何もかも捨てたレビが、大盤振る舞いをしています。これは、献げることについて示唆を与えています。何もかも捨てて主イエスに従うことは、自分が持っている財・才能・時間・賜物・生涯などを「イエスのために」用いさせていただくことなのです。

3.キリストを紹介する  29節b~32節
こうして、レビは、自分の持っているものを最大限に用いて、主イエスの紹介に努めました。彼は、主イエスと同じ心で、自分と共に生きる人々を見直し、主イエスに招いていただいたように、彼らを招いたのです。
福音は、一番身近な所から伝わっていきます。そのためには、私たちが「イエスのために」生きるように変えられていることが大切です。

皆キリストの弟子(2013.6.2)

宣教題  : 「皆キリストの弟子」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章1~11節
キリストの弟子になることは、ペトロにとって大きな転機でした。私たちも、どのようにしてキリストの弟子になることができるのか、その道を探ってみます。

1.主イエスとの個人的な出会いによって  1~4節
群衆は、「神の言葉を聞こうとして」ゲネサレト湖畔まで押し寄せて来ました。主イエスは、群衆から離れて舟に乗りこんで教えておられます。それを一番近くで聞いていたのがペトロでした。彼がこのことを自ら選んだのではなくて、主イエスの方から彼を訪れてくださったのでした。
主イエスは、不漁のために途方にくれ、疲れ、空しい思い中にあるペトロと関わりをもたれました。このように主イエスは、私たちと個人的な出会いを求められるのです。

2.主イエスの前にひれ伏すことによって  5~8節
ペトロは、愚かで無駄と思われる主イエスの提案を受け入れ、「しかし、お言葉ですから」と、主イエスの御言葉に賭けています。それによって、ペトロは大漁を経験しましたが、主イエスの足もとにひれ伏さざるを得ない信仰の経験をしたのです。主イエスの聖さと力を知らされるとともに、自らの汚れと惨めさを知ったからです。
私たちは、主イエスの前にひれ伏し、主とその御業を受け入れなかったり、制限したりしている罪の赦しと聖別をいただくことが必要なのです。

3.主イエスと一緒に人を生かすことによって  9~11節
「わたしから離れてください」と語るペトロに対して、主イエスは「恐れることはない。今から後、人間をとる漁師になるのだ」と招かれました。これは、主イエスが私たちを、自分の幸福のためだけに生きるのではなくて、人を生かすために生きるように召しておられるということです。
私たちは皆キリストの弟子として招かれています。真摯に主イエスに従う一人一人となりましょう。

招かれる神(2013.3.17)

宣教題  : 「招かれる神」   宣教:   中沢 隆一 師
聖    書  : ガラテヤ1章1~5節
今回の新春聖会では「神の宴会への招き」と言うテーマの中で、午前の礼拝では「招かれる神」午後の聖会では「招かれる人々」と題してお話するように導かれています。
聖書は「神からの招きの書」であると言っても過言ではないと思いますが、その一番大きな究極の招きは、「神の宴会への招き」ではないでしょうか。午前には、「ガラテヤ1章1〜5節」より、その招かれる神がどのようなお方かに注目したいと思います。

☆ ご自身をわたしたちの罪のために献げて下さった神(4節)
神は罪人を招くための準備をなさいました。その準備が、その独り子をこの世に送り、十字架に死なせて救いの道を開くことでした。キリストは、ご自身を私たちの罪のために献げて下さった神です。キリストはその弟子に言われました『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』(マタイ16章24節)。

☆ イエス・キリストを死者の中から復活させた父である神(1節)
キリストは死者の中からのよみがえりによって、ご自身が神であることを証明なさいました。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神の御力が、信じる者の内に働き、罪を赦し、救い、新しく生きる命を与えます。

☆ 恵みと平和を与える神(3節)
キリストにある救いは、信じる者に与えられる神の恵みです。神からの贈り物です(エフェソ2章8~9節)。神の恵みにはいつも神の平和、神の平安が伴います。キリストは「わたしの平安を与える」と言われました。キリストの平安は世が与える平安とは異なります。

☆ わたしたちの神であり父である方(4節)
キリストを信じる者の内に「アッバ、父よ!」と呼ぶ御子の霊が与えられます。『イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです』(エフェソ1章5節)。
「この神」(5節、新改訳聖書)に栄光が!「この神」が罪人を招いておられる神です。