聖書
言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(2コリント 9:15)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ 3:16)
礼拝音源(22.9MB)
20201224
言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(2コリント 9:15)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ 3:16)
礼拝音源(22.9MB)
20201224
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5章8節)
礼拝音源(21.0MB)
前 奏 | ||
招 詞 | エフェソ5章14節 | 司 会 者 |
頌 栄 | 29 | 一同起立 |
祈 祷 | 司 会 者 | |
主 祷 | 93-5 A | 一 同 |
交読詩編 | 8編1~10節 | |
会衆祈祷 | 一 同 | |
聖 書 | エフェソ5章6~11節 | |
使徒信条 | 93-4 1 A | 一同起立 |
賛 美 | 484 | 一同起立 |
牧会祈祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
宣 教 | 「光の子として歩みなさい」 | 川原﨑晃主管牧師 |
祈 祷 | ||
賛 美 | 503 | 一同起立 |
感謝献金 | ||
奏 楽 | ||
頌 栄 | 27 | 一同起立 |
祝 祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
後 奏 |
物事には、天地創造の時から神による区別がありました(創世記1章4節)。ところが、私たちの世界には、多くの分野で物事の区別がつきにくくなっています。憂えることは、神と人、善と悪、聖と俗といったことが曖昧になり、信仰の世界での区別がつきにくくなることです。
ここに、暗闇と光が明確にされています(8節)。これをどう聞くのでしょうか。
私たちは、暗い事件、おぞましい犯罪、自然災害また疫病などの恐ろしい出来事が続くことに不安を覚え、心に恐れが広がっていきます。このような暗闇に取り囲まれることは過去にも繰り返してきましたし、初代教会も経験したことでした。
暗闇は、このような外側からのものだけではなく、人々の内側に広がり取り囲こまれることによって経験します。それは、「あなたがたは、以前には暗闇でした」とあるように、私たちの姿でした(6節~8節)。そして、無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり、悪意、いろいろな汚れたこと、貪欲といった(4章31節、5章3節)「実を結ばない暗闇の業に加わらない」ように警告しています(11節a)。
しかし、今はそうではありません。暗闇の業は斥けられました。「今は主に結ばれて、光となっています」と明言しています(8節)。ダビデが「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」(詩編27編1節)と語ったことが、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)とあるように、今やキリストに信仰によって結ばれた者の内に成し遂げられたのです。
キリストに結ばれた者は、「光の子として歩み」、光に属する者として暗闇の中で輝くのです(8節)。それは、神の光を輝かせて歩むことであり、その生き方と関係してきます。「善意」という親切さや憐れみの行い、「正義」という神の目に正しいとされる歩み、「真実」で誠実な信頼するに足る歩みという実を結ぶのです(9節)。
このような生き方は、「何が主に喜ばれるか吟味」することによって整えられます(10節)。すなわち、信仰とその言動が試されることを通して、何が主に喜ばれるかをわきまえ知ることができるのです(ローマ12章2節参照)。さらに、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出」すという大胆な証しをすることによって確かなものとされます(11節)。このように、光であられるキリストに向かい合って生きることなのです。
「主はわたしの光」と証しし続けたダビデは、一時的であるにせよ、自分の欲望と自分の安泰を優先させて罪を犯し、失敗した人でした。彼の信仰は試され、徹底して砕かれ悔いる心とされて、回復の恵みに与りました。その苦い経験から、遺言のような意味合いで、光とされた幸いを証ししています(サムエル記下23章3~4節参照)。
私たちは、ささやかであったとしても、光に属する者として歩み続けるのです。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)
礼拝音源(17.6MB)
※奏楽の音が小さくなっています。申し訳ございません。
前 奏 | ||
招 詞 | 1コリント15章54b~55節 | 司 会 者 |
頌 栄 | 29 | 一同起立 |
祈 祷 | 司 会 者 | |
主 祷 | 93-5 A | 一 同 |
交読詩編 | 6編1~11節 | |
会衆祈祷 | 一 同 | |
聖 書 | マルコ2章13~17節 | |
使徒信条 | 93-4 1 A | 一同起立 |
賛 美 | 4 | 一同起立 |
牧会祈祷 | 石﨑善土伝道師 | |
宣 教 | 「招かれる罪人」 | 石﨑善土伝道師 |
祈 祷 | ||
賛 美 | 507 | 一同起立 |
感謝献金 | ||
奏 楽 | 305 | |
頌 栄 | 27 | 一同起立 |
祝 祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
後 奏 |
前回までに、イエスは福音を宣べ伝え、弟子を造り、病を癒し、罪を赦す権威を持つ救い主であることを証明された。その対象は信仰を持つユダヤ人であった。
イエスの宣教は次の段階へと進み、その対象に罪人が含まれるようになった。それが徴税人や罪人である。徴税人は、イスラエルを属国としていたローマのために税を集めていた。そして、余分に集めた分を自分の収入としていた。敵国の手先となり、不当に私腹を肥やしていたため、ユダヤ人の間では罪人と同様に見なされていた。
ユダヤ人は罪人や異邦人と同じ食卓に着く事はなかった。共に食事をすることは仲間であることを表すからだ。律法学者は、イエスが彼らと一緒に食事しているのを見て、神から遣わされた救い主だと言っているイエスが、なぜ罪人の仲間になっているのかと非難し、仲間に加わる事はなかった。律法学者は、律法と照らし合わせて正しいか正しくないかを判断していた。ファリサイ派とはユダヤ教の中の一派で、特に律法違反を厳しく取り締まり、罪から分離して決別しようとしていた。そのような背景で出て来たのが、彼らの質問とも避難とも言えるものであった。
律法学者は罪人に注目し、イエスが罪人の仲間(=罪人)になっていると言ったが、イエスには罪を赦す権威があったので、それは当てはまらない。むしろ、罪人たちは神の子と共に食卓に着き、神の子の仲間になっている。イエスは罪人を招いて罪を赦し、神の子とするために来られた。
イエスは、同席していた大勢の人が、罪を犯していないとは言っていない。彼らが罪を犯した事実は消えないし、罪のための裁きも無くなる事はない。しかし、イエス身代わりとなり、十字架で裁きを受けることで、罪を犯した本人は裁きからまぬかれる。イエスの罪の赦しの権威は、それが前提となっている。
聖書は、すべての人は罪を犯した(ローマ3:23)と言っている。誰一人として、律法学者のように、人の罪を探して裁いている場合ではない。罪人を招くイエスは、今もすべての人を招いている。そこには、私もあなたも含まれている。
律法学者の罪は、徴税人や罪人に比べれば小さいものであったのかもしれない。しかし、その為に自らの罪に気付く事なく、イエスのしている事を理解できず、救い主の仲間になることを拒んでしまった。その様になる事は避けたい。
この地上で生きている限り、困難な事は必ず起こる。そのとき、不平や不満、憎しみや裁く思いが沸いて来ることを避けられる人はいない。その結果、してはいけない事を、してしまう事もある。そのような“私”だからこそ、イエスは招いて下さる。辛い事、不満な事を神に向って言うとき、それは祈りとなる。神の食卓にありのままで着き、癒しと赦しのめぐみを受け取り、主に従って行こうではありませんか。
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(1コリント15章58節)
礼拝音源(18.7MB)
前 奏 | ||
招 詞 | 詩編68編20~21節 | 司 会 者 |
頌 栄 | 29 | 一同起立 |
祈 祷 | 司 会 者 | |
主 祷 | 93-5 A | 一 同 |
交読詩編 | 111編1~10節 | |
会衆祈祷 | 一 同 | |
聖 書 | 1コリント15章50~58節 | |
使徒信条 | 93-4 1A | 一同起立 |
賛 美 | 327 | 一同起立 |
牧会祈祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
宣 教 | 「大いなる逆転」 | 川原﨑晃主管牧師 |
祈 祷 | ||
洗 礼 式 | 67 | ※2部のみ実施。 録音されていません。 |
賛 美 | 528 | 一同起立 |
感謝献金 | ||
奏 楽 | 305 | |
頌 栄 | 27 | 一同起立 |
祝 祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
後 奏 |
キリストの十字架と復活に現された救いの福音は、過去の歴史ではなく、生きて働いている最新のニュースです。このキリストの復活にすべての拠り所を置く私たちは、死者の復活の希望に満ち、生きた信仰をもって生きるのです。
死の現実は、不可解ゆえに、最も恐れられているものです。聖書は、死が恐怖であるのは、「死のとげは罪」であると語ります。つまり、死は人間の罪の結果であり、その罪に対する神の審きが「死」であるから恐ろしいのです。
しかし、感謝すべきことは、罪のないキリストの十字架の死のゆえに「死は勝利にのみ込まれた」のです。罪は、キリストの死によって完全に滅ぼされたのです。そして、キリストが死から復活されたことにより、死からの勝利を勝ち取ってくださったのです。このように救いを与えてくださった神に、感謝あるのみです(57節)。
このように感謝する生活をする私たちに、パウロは「わたしの愛する兄弟たち」と親しく呼びかけ、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と励まし勧めています。それは、キリストによって成し遂げられた救いの福音をこの世界にあふれさせなさい、ということです。
主の恵みを「無駄」にしたくないとの切なる願いをもって主の業にあふれることは(1コリント15章10節、使徒言行録9章31節)、それがどれほどの労苦であっても、「決して無駄にならない」で神の栄光に行き着くのです(51~53節)。キリストの十字架から復活への大逆転の恵みにあずかっているからです。