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光の子として歩みなさい (2020.4.26)

聖書

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5章8節)

礼拝音源(21.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 エフェソ5章14節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 8編1~10節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ5章6~11節
使徒信条 93-4 1 A 一同起立
賛  美 484 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「光の子として歩みなさい」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 503 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

物事には、天地創造の時から神による区別がありました(創世記1章4節)。ところが、私たちの世界には、多くの分野で物事の区別がつきにくくなっています。憂えることは、神と人、善と悪、聖と俗といったことが曖昧になり、信仰の世界での区別がつきにくくなることです。

ここに、暗闇と光が明確にされています(8節)。これをどう聞くのでしょうか。

1.今や、光となっている

私たちは、暗い事件、おぞましい犯罪、自然災害また疫病などの恐ろしい出来事が続くことに不安を覚え、心に恐れが広がっていきます。このような暗闇に取り囲まれることは過去にも繰り返してきましたし、初代教会も経験したことでした。

暗闇は、このような外側からのものだけではなく、人々の内側に広がり取り囲こまれることによって経験します。それは、「あなたがたは、以前には暗闇でした」とあるように、私たちの姿でした(6節~8節)。そして、無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり、悪意、いろいろな汚れたこと、貪欲といった(4章31節、5章3節)「実を結ばない暗闇の業に加わらない」ように警告しています(11節a)。

しかし、今はそうではありません。暗闇の業は斥けられました。「今は主に結ばれて、光となっています」と明言しています(8節)。ダビデが「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」(詩編27編1節)と語ったことが、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)とあるように、今やキリストに信仰によって結ばれた者の内に成し遂げられたのです。

2.だから、光の子として歩みなさい

キリストに結ばれた者は、「光の子として歩み」、光に属する者として暗闇の中で輝くのです(8節)。それは、神の光を輝かせて歩むことであり、その生き方と関係してきます。「善意」という親切さや憐れみの行い、「正義」という神の目に正しいとされる歩み、「真実」で誠実な信頼するに足る歩みという実を結ぶのです(9節)。

このような生き方は、「何が主に喜ばれるか吟味」することによって整えられます(10節)。すなわち、信仰とその言動が試されることを通して、何が主に喜ばれるかをわきまえ知ることができるのです(ローマ12章2節参照)。さらに、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出」すという大胆な証しをすることによって確かなものとされます(11節)。このように、光であられるキリストに向かい合って生きることなのです。

「主はわたしの光」と証しし続けたダビデは、一時的であるにせよ、自分の欲望と自分の安泰を優先させて罪を犯し、失敗した人でした。彼の信仰は試され、徹底して砕かれ悔いる心とされて、回復の恵みに与りました。その苦い経験から、遺言のような意味合いで、光とされた幸いを証ししています(サムエル記下23章3~4節参照)。

私たちは、ささやかであったとしても、光に属する者として歩み続けるのです。

信仰の知恵をもって生きる(2018.8.12)

宣教題  「信仰の知恵をもって生きる」   宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ16章1~13節

神が人に与えてくださる知恵は、窮地に立たされた時に働きます。ここに登場する管理人のやり方は、とても褒められたものではありませんが、懸命に知恵を働かせた人のたとえ話です。信仰の知恵を働かせることの必要を教えています。

1.危機に対応していますか 
 主人は、不正な管理人を抜け目のない知恵ある人だと褒めています。管理人は、生きるか死ぬかの土壇場であると危機感を持っていたために、この世の知恵を最大限に用いて対応しようとしたのです。
 主イエスはこのたとえ話を通して、「光の子」である信仰者が苦難や誘惑といった危機に直面した時に、信仰の知恵をもって対応するように語られたのです(8節)。共にいてくださる主イエスによって支えられ、信仰の知恵をもって乗り越えていくのです。

2.信仰が首尾一貫していますか 
 このたとえ話は、この世の子らと光の子らとを対比しつつ、信仰者が生活の場で、徹底して光の子として生きているかと問いかけています。光の子として歩んでいると言いつつ、どこか妥協したり、曖昧にしたり、中途半端な歩みとなっていないかと語るのです(8節)。
 信仰者は、神によって「永遠の住まいに迎え入れて」くださるのですから(9節)、任されている富を生かし、首尾一貫して光の子として生きるのです(13節)。この世で起こってくる「小さな事」に忠実な者は、神が任される「本当に価値ある」すなわち「大きな事」にも忠実な者とされるのです(10~11節)。