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確信のある人生(2018.11.4)

宣教題  「確信のある人生」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ4章13~17節

 神は謙遜な者に恵みを与え、主の前にへりくだる者を高めてくださいます(4章6節、10節)。私たちは、へりくだって僕となられた主イエスの御心に従い、御心を行って生きるならば、確信のある人生を過ごすことができるのです。

1.主の御心に従って生きる  13~15節
 人は、たとえどんなにこの地上で栄えていても、活力に満ちて大きな仕事をしていたとしても、今の歩みが自分の思い通りに進んでいたとしても、誰にも「明日のことは分からない」し、「自分の命」がいつ取られるか分かりません(13~14節、ルカ12章16~20節参照)。
 自分が自分の主人となって、過去も現在も将来も自分の力で生きていけると考えているならば、それは「高慢」です。しかし、主イエスが自分の主人であるとの信仰をもって、「主の御心」に従って生きていくという謙遜さがあるならば、神は恵みをもって、大胆な人生の歩みをさせてくださいます(15節)。

2.主の御心を行って生きる  16~17節
 先にあったように、神を忘れて自分の思いだけで計画を立てて動き回るのは、主の前にへりくだっていないからです。それは、神の前に「悪いこと」であり、「罪」なのです。ですから、「なすべき善を知りながら、それを行わない」歩みではなく、「わたしに良いことをしてくれた」(マルコ14章6節)と言われる主の御心を行って生きることが大切です。
 主の前にへりくだるとは、自分がへりくだっているという意識すらなく、主の恵みで十分、これで良いとうなずかせていただけることです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(8MB)

主の御心はどこにあるのか(2018.4.8)

宣教題  「主の御心はどこにあるのか」     宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章1~6節  レビ19章18節b

イエス様が会堂に入って礼拝を守られました。しかし、この日、会堂に集まった人々のまなざしは天に向けられていませんでした。

1.神を愛し、人を愛する
 安息日の礼拝に片手の萎えた人が来た時、イエス様はこの人を癒されました。それは人々に律法を守ることで、神の御前にその正しさを主張する信仰が根本的に間違っていることを示すためでした。そして、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を全うするために律法は機能しているのだということを示されたのです。

2.沈黙という拒否の末に
 人々はイエス様の問いに「黙っていた」のです。彼らは、イエス様が言われるようには変わりたくなかったのです。しかし、イエス様が求めておられるのは「変わる」ことです。それは、今のわたしたちにも『あなたは変わらなければならない。』と言われているのです。この時、人々はイエス様の招きを拒否し、黙ってしまいました。その結果、彼らは、イエス様を殺すというところに至ったのです。

3.イエス様の招きに応える
 イエス様が、神を愛し、人を愛し、人に仕えることを明確に示されたのが十字架です。イエス様は今も「わたしに従って来なさい」とわたしたちを招いておられます。この招きにわたしたちが応えた時、神に向かって、隣人に向かって踏み出して行くことができるのです。そこに神の国への道が開かれるのです。
 自分のことしか愛せないようなわたしたちですが、イエス様の招きに応えて、神と隣人とを愛する者へと踏み出させていただきましょう。そこに主の御心があるのです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(7.7MB)

キリストの願い(2013.6.30)

宣教題  : 「キリストの願い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章12~16節
この聖書箇所には、二つの願いが明らかにされています。人の願いと(12節)キリストの願い(13節)です。「御心ならば」、「よろしい(わたしの心だ)」は、その意志や願いを表わしています。人の願いが、キリストの願いと一つになる時に、神の御業がなされます(2コリント5章20節)。

1.人の願い
「全身重い皮膚病にかかった人」は、主イエスの御前にひれ伏しています。この謙る姿勢は、真実かつ真に勇気ある姿です。しかも主イエスがなされることを期待しつつ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、自分の願いを切実に祈り願っています。彼の願いは、主イエスに委ねつつも、筋の通った嘆願の祈りだったのです。
私たちは、祈り願っても現実が変わらない時、いつしか嘆願の祈りをしなくなるということがあります。そうした時にこそ、主の恵みのご支配があることを信じて、主の御心を伺いつつ、真実に祈り願う歩みであり続けたいものです。

2.キリストの願い
主イエスは、この人の願いをそのまま受け入れてくださいました。彼に触れることにより一体となられ、「よろしい、清くなれ」と言われたのです。主イエスは、彼を憐れみ(マルコ1章41節)、彼の痛みを御自分の身に背負って、癒してくださったのです(イザヤ53章4節)。このようにして、彼は、神に受け入れられて神のものとされることにより神との関係が回復され、自立した生活を送ることによって社会での生きる道が開かれました。これがキリストの願いでした。
キリストが全ての人のために願っておられることは、主イエスの十字架と復活によって罪赦されて神との和解をいただき、神のために生きるとともに、他者のために生きる自立した者となることです。そこからは、人間相互の関係の回復も生まれてきます。