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心燃やされて(2017/5/27)

宣教題  「心燃やされて」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ24章13~35節

イエスさまが復活されたことは、これまでも、今も、これからも変ることのないグッド・ニュースです。しかし、二人の弟子にとっては、信じられないことでした。
彼らの[目は遮られて」(16節)心沈んでしまっていましたが、イエスさまによって彼らの「目が開」(31節)かれ、心燃やされるようになったのです(32節)。

1.遮られた目  13~27節
二人の弟子は、目が遮られていたので、近づいて来た人がイエスさまであることが分かりませんでした。イエスさまは十字架において死んでしまわれたままであると思い、失望していたからです。イエスさまの十字架が、人の罪と死を滅ぼして永遠の救いに与らせてくださるものであったことに無知であったからです。死人の復活はないという偏見にとらわれていたからです。
そのような二人に「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始め」(15節)てくださり、語りかけてくださり、聖書を説き明かしてくださったのです(25~27節)。
あなたの人生行路において、イエスさまはいつから道連れになっておられますか。

2.開かれた目  28~33節
イエスさまは、二人の弟子たちと一つのかたまりのようになって、一緒に歩き続けられました。途中二人の弟子たちに「無理に引き止め」られたイエスさまは、宿泊するために家に入られ、一緒に食事をして交わりを持たれました(28~30節)。そうしたことを通して、彼らの目が開かれ、イエスさまが復活されて生きておられることが分かったのです(31節)。そして彼らは、イエスさまが聖書を説き明かしてくださったとき、自分たちの心が燃えていたことに気づいたのでした(32節)。
あなたも目が開かれ、復活されたイエスさまと出会い、心燃やされる生活を始めてみませんか。そのためには、御言葉に立つ信仰をもって歩み出す必要があるのです。

主の日を待望して(2017.5.14)

宣教題  「主の日を待望して」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  1テサロニケ5章1~11節

「とわに悔ゆる日」(旧讃510番)とは、キリストのご再臨すなわち「主の日は来る」という時です。これは確かなことであり、その時はいつなのかは不確かです(1~3節)。そこで、この「主の日」への備えをするという恵みに生きることが大切です。

1.信仰が覚醒されているように  4~8節
滅びが襲う夜と暗闇のところには、信仰的に眠りと酔いが支配しています。そこには、神の御言葉に聴くことを軽視したり、聴こえなくなってしまうほどに鈍感になった状態とがあります。
しかし、キリストに結ばれている「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」。「光の子、昼の子」とされている者たちは、「目を覚まして、身を慎んで」慎み深い生活をすることによって、信仰が覚醒されていくのです(6節)。それは、油断せずに主の日の備えを怠らない生活で、より積極的に信仰と希望と愛に生きることに熱心な生き方です(8節)。

2.いつも主と共に生きるように  9~11節
人が眠るのには、三種類あります。先に述べた信仰的な眠りがあります(5章6節)。
さらに、「イエスを信じて眠りについた」すなわち「キリストに結ばれて死んだ」という肉体の死を迎えますが、それは一時の眠りであり、「いつまでも主と共にいることになります」(4章14節、16~17節)。そして、「目覚めていても眠っていても」とある肉体の眠りの中にあっても、いつも十字架に死んで復活されたキリストと共に歩み続けるのです(5章10節)。
キリストが共におられるとの臨在信仰の延長線上に、主の日のすなわちキリストの再臨の栄光が輝いています。このことをもって互いに励まし合うことによって、互いの信仰は向上していくのです(11節)。