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神われらと共に(2019.12.15)

宣教題 「神われたと共に」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 マタイ1章18~25節

 「インマヌエル」とは、まことの神がまことの人と一つになられたイエス・キリストのことです。このお方と信仰によって結ばれることによって、神が私たちと共にいてくださるのです。それは、「聖霊によって」成し遂げけられました。

1.聖霊のわざである 
 主イエスの誕生は、処女からの誕生というよりも、聖霊のわざであることが強調されています(18節、20節)。このイエスこそが、神から遣わされた唯一の救い主です(21節)。この救いの事実が、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と結びついているのです(23節)。
 主イエスは、神と人との間を隔てている罪からの救いの道を開いてくださるために来臨されました。その救いの極みが十字架の贖いでした。私たちは、聖霊のわざによって、主イエスを信じ、神のものとしていただき、神と共に生きる者としていただいたのです(1コリント12章3節)。

2.聖霊に動かされる 
 聖霊による受胎告知が「明らかになった」(18節)ことに対して、ヨセフは悩み、自尊心を傷つけられ、不信と疑惑で苦しみ、宗教的な「恐れ」の中を過ごしたことが窺われます。「正しい人」であったヨセフは、「ひそかに縁を切ろうと決心」しました(19節)。しかし、ヨセフは、その正しさを越えて、聖霊に動かされてその決心を変更して神の御旨に従ったのです(24~25節)。

 私たちは、自分の願い、自分の計画、自分の不安や恐れに動かされないで、ただ聖霊に動かされて神の御言葉と御旨に従って歩みだし、神と共に歩み続けるのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(9MB)

大いなる委託(2018.5.20)

宣教題  「大いなる委託」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ24章44~49節

 復活された主イエスが人々と食事を共にしながら語られることに、人々は耳を傾けています(36~43節)。それは、新しい夜明けへの備えの時でした。主イエスは、ご自身の証人として人々を遣わすに際して大切なことをされました。

1.心を開かれる  44~48節
 主イエスは、すでに旧約聖書で預言されていた十字架と復活による罪の赦しを得させる救いの真理を分からせるために、人々の心を開かれました。そのように、主イエスに心を開いていただいた者は、人々に福音を宣べ伝える主の証人となるのです。
 主の証人は、福音を「エルサレムから始めて」地の果てに至るまで、そして今日の私たち一人ひとりにまで届ける働きをしてきました。主の証人とされている一人ひとりは、その恵みと特権に与っていることを忘れないようにしたいものです。

2.聖霊を注がれる  49節
 主イエスは、かつて地上で始められた働きを、今なお継続しておられます。しかし、その働きを委託された弟子たちは、それにふさわしくなかった者たちでした。そこで、主の働きは、聖霊を注いでいただいた弟子たちを主の証人として遣わすことによって進められ、教会は前進していきました(使徒言行録2章32~33節)。
そのためには、弟子たちが「都にとどまって」、聖霊が注がれるのを待ち望むことが必要でした(使徒言行録1章3~5節)。そこでは、一人ひとりの弟子たちが、祈り合う中で心探られ、砕かれた心をいただいて不純なものが除かれ、謙虚な心にされた時に聖霊が注がれたのでした(使徒言行録1章14節)。私たちは、このようにして聖霊を注いでいただくことによって、主の証人としてふさわしい者とされるのです。

聖書朗読(10.9MB)

お祈りとメッセージ(0.4MB)

聖霊による生活(2017.6.4)

宣教題  「聖霊による生活」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  1テサロニケ5章12~22節

聖霊は、今も変らずに教会の歩みの中で個々人の生活を確立しようと働いておられます(使徒言行録2章3~4節)。私たちは、その聖霊の火を消さないで(1テサロニケ5章19節)、燃え立たせていただく生活を歩んでいくのです。

1.教会の交わりを愛で輝かせるために  12~15節
再臨待望に生きる教会は、指導者と信徒また信徒と信徒の関係が健全で、それによって各々の信仰が確立していきます。教会の指導者は、心を注いで信徒と共に労苦し、霊的指導と養いと戒めをもって導きます。その指導者は、その働きの尊さのゆえに尊敬を受けるのです。そして、互いに平和に過ごすのです(12~13節)。また、指導者と信徒また信徒と信徒相互においては、戒め、励まし、助け合い、すべての人に寛容であり、すべての人に対していつも善を行うように努めるのです(14~15節)。
このような教会の交わりは、聖霊が結ばせてくださる愛によって造られていくのです(ガラテヤ5章22節)。

2.聖なる者の信仰が造り上げられていくために  16~22節
いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することは、神のご意思であり願いです。それは、キリストに結ばれていることにより、聖霊が実現してくださいます(16~18節)。さらに、すべてを吟味して良いものを守ること、あらゆる悪いものから遠ざかって善を追求することの基準となるのは、聖書の御言葉です(21~22節)。ですから、神から授かった御言葉を軽んじてはいけないのです(20節)。
聖霊は、この御言葉の真理を認めさせ、理解させ、それを信じて従って生きることをさせてくださいます(1コリント2章13~14節、12章3節)。ですから、この御言葉を軽んじるならば、聖霊の火は消えてしまいます。
教会の愛の交わりの中で聖なる者の信仰を造り上げてくださるのは、聖霊なのです。

聖霊による心のきよめ(2016.5.15)

宣教題  「聖霊による心のきよめ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  使徒言行録15章6~11節

ペンテコステに聖霊の降臨を経験し、力強い前進を見た初代教会は、ほどなくして様々な課題に直面することになりました。それは、聖霊の働きが一方的なものではなく、人の側の在り方と無関係でないことを明らかにしているのです。神が聖霊を与えて人々の心をきよめてくださるのも、信仰によるのです(8~9節)。

1.心がきよくされる必要
異邦人も割礼を受けるべきだと主張したユダヤ人たちは(5節)、きよめられる必要のあるクリスチャンの姿を表していると言えます。それは、彼らの心にあったもので、差別意識あるいは優越感(8~9節)、律法主義あるいは無慈悲さ(10節)、神を試みる思い(10節)が問題なのです。
これらは、クリスチャンの心にもあり得るもので、きよめられる必要があります。そのままであったら、自分自身が自由でないし、人を苦しめることにもなるし、教会を混乱させることにもなって、神の栄光を現すことができないのです。聖書は、人の心がきよくされることの幸いを強調しています。

2.心がきよくされる道
クリスチャンは、主イエス・キリストによる救いの恵みを信仰によって受け取った者です(11節、エフェソ2章8~9節)。その心がきよめられ続けるのも同じです(1ヨハネ1章7節)。それを可能にしてくださるのが、聖霊なのです。クリスチャンは、自分の姿に気づかせられて、そこからきよめられることを祈り求め、扱われ、悔い改め、示さけるままに従うのです(使徒言行録5章32節)。
私たちは、「人の心をお見通しになる神」であるからこそ(9節)、きよめられる必要のある性質、とりわけ「かたくなな心」(マルコ3章5節)を聖霊によってきよめていただき、聖霊に満たされて歩むことが求められています。
あなたの「ペンテコステ」は!

キリストの愛を知って(2015.1.1)

宣教題  「キリストの愛を知って」   宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ヨハネ3章16節

私たちの神は、一つの所にその愛を集中させ、独り子をお与えくださいました(ヨハネ3章16節)。一所懸命に神が私たちを愛してくださったのです。今年の教会標語である「福音にあずかる」とは、キリストの愛の現れである救いを体験的に知ることです(1ヨハネ3章16節)。

1.キリストの捨て身の愛の中にいる 
キリストの捨て身の愛は、夫婦の愛、親子の愛、教友の愛、友人の愛といった互いの愛とは比べることはできないほどの犠牲を伴うものでした。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」とあるように、そのご降誕から地上の生涯の全てにわたって命を投げ出し、十字架の死にまで至ってくださいました。
私たちは、キリストの愛の中に安んじて生きることに、不安になることがあります。自分の救いを実際の神の御業よりも小さく考えてしまうからです。私たちは、自分が知っているよりも、もっと大きく救われているというキリストの愛を体験的に知って、その愛の中に生きる者とさせていただきましょう(1ヨハネ3章19~20節)。

2.聖霊によって神の愛が注がれている 
神の愛は、キリストの十字架と復活という救いの御業によって実現され、聖霊によって私たち一人ひとりに具体的に注がれています(ローマ5章5節)。
この聖霊によって神の愛が注がれ続けているなら、愛が愛を生む力となって言動に表れてきます。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」との豊かな永遠の命に生きる者とされるのです。このことが、互いに愛し合い(1ヨハネ3章11節)、兄弟を愛する(同14節)という教会の交わりの中で培われているかと問われています。さらに、教会の枠を越えて、家庭における夫が、妻が、子どもが、両親が兄弟となってキリストの愛の対象となっているかと問われています。
私たちは、その日常の日々の生活の中において、キリストの愛を体験的に知ることが大切なのです。

この喜びを地の果てまで(2014.6.18)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ24章44~53節

キリストは、十字架に死んで3日目に復活され、その後40日目に昇天されました。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(51節)とありま す。これは、キリストが弟子たちと一緒におられた地上の生活とは異なる在り方になられて、いつでも、どこでも私たちと共にいてくださるということです(マ タイ28章20節b)。

1.それで十分なのか  50~53節
「ルカによる福音書」を締めくくる記述は、この福音書の続編とも言うべき「使徒言行録」に受け継がれています。ここには、弟子たちがキリストから祝福を受け、「大喜び」で神殿の境内で神をほめたたえていた幸いが語られています。
キリストは、「祝福しながら」共にいてくださるお方です。弟子たちは、そのキリストのご支配にあることを覚えて伏し拝みました。そして、故郷のガリラヤ ではなく、いかなる困難が待ち受けていても「大喜びでエルサレムに帰り」、いかなる時にも「神をたたえていた」のです。
ここに、キリストの福音の喜びに与かっている人々の姿があります。では、これでもう十分であり、この上何も必要ないのでしょうか。

2.なお必要を  47~49節
キリストは、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節、使徒言行録1章3~5節)と命令されています。ペンテコステの日に、聖霊が降り、聖霊に満たされる必要があったのです(使徒言行録2章1~4節)。
確かに、弟子たちは、神をほめたたえていましたが、その信仰は個人的な領域にとどまっていたものでした。神の計画は、彼らが教会を形成し、地の果てまで 福音を宣べ伝えるキリストの証人となることでした。その意味で、信仰が個人の幸せにとどまっていてはならないのです。そのためには、困難をも乗り越えさせ る聖霊の力が必要だったのです(使徒言行録1章8節)。
私たちは、救いの喜びを与えられています。しかし、ルカによる福音書で終わらずに、今もなお、使徒言行録に生きる必要があるのです。

ほんものの信仰(2011.5.1)

宣教題  : 「ほんものの信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   13章42節~52節
異教の地でのパウロの説教は、神の愛と恵みに満ち、罪の赦しの福音が提示され、「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」ものでした(42~43節)。
その結果、ほんものの信仰とはどういうものかが明らかにされたのです。

1.神の御言葉に動かされる
パウロが、キリストの十字架と復活の福音を「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(39節)と語りかけたことに対して、続けて福音を聴きたいと願って集まる者たちと、「ねたみ」のゆえに口汚くののしる者たちとに分かれました(44~45節)。
この時、パウロとバルナバは、神の伝道のご計画を深く理解し、神の御言葉に動かされて冷静かつ勇敢に語っています(46~47節)。そして、神の救いのご計画を聴いた異邦人たちは、神の選びに与かって永遠の命を得ることができたことを喜び、神の御言葉を讃えつつ、信仰に導き入れられました(48節)。
福音を語る者と聴く者が、共に神の御言葉に誠実であるなら、ほんものの信仰が培われていくのです。

2.聖霊に満たされている
「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)のですが、ユダヤ人たちは、人々を煽動してパウロたちを迫害し追い出しました(50~51節)。
パウロたちの伝道は失敗だったのでしょうか。いいえ、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」のです(52節)。彼らは、恐れや不安でなく、聖霊に満たされ、神と共にいることを証ししたのです。
また、弟子たちがパウロたちに依存していたのではなく、主イエスの弟子となり、聖霊に依り頼んで、聖霊による喜びをもって生活し、伝道していたのです(1ペトロ4章12~14節)。
このように聖霊に満たされ続けるならば、自立したほんものの信仰に立たせていただけるのです。

聖霊の注ぎ(2008.1.20)

題   : 「聖霊の注ぎ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書  32章15節~20節
イザヤ書28、30、31、33章の冒頭は「災いだ」で始まっています。しかし、間に挟まれるようにして、本章は「見よ、正義によって一人の王が統治し、高官たちは、公平をもって支配する」(1)から始まっています。
ここで言われている「一人の王」は、9章5、6節で預言されている「ひとりのみどりご」であり「驚くべき指導者、力ある神」と呼ばれるお方であり、「正義をその腰の帯と」されるお方です。このお方の後に神の霊がおいでになります。

1.聖霊の注ぎ
神の霊は、天地創造のときに働かれた霊であり聖霊です。この聖霊なる神は正に三位一体の神、聖霊なる神であり、ヨハネ14:16、17でイエス様が約束され、使徒言行録2:1~4で弟子たちの上にお降りになったお方なのです。

2.聖霊に満たされた結果
聖霊がおいでになったところには公平と正義が住むようになります。この正義の源である聖霊の生み出すものは平和であり、安らかな信頼です。
憂いなき休息の場所にすむことができるというのです。つまり、聖霊は正義の神であり、平和の神であり、休息を与えられる神なのです。
わたしたちの心の中に、真の安らぎや平和が無いなら、そこに聖霊の働きを止めているものがないか、よく点検してみる必要があります。ここに言われる、聖霊に満たされ、支配されているときには、争ったり、傷付け合ったりするはずが無いからです。

3.災いの向うにある祝福
神に背き、聖霊を悲しませる歩みを続けるとき、神が乗り出して裁きを行われます。しかし、素直に悔い改め主に立ち返るとき、主は祝福をもって臨んでくださいます。種を蒔き、家畜を放牧するという表現は家庭生活が安定し、家族が安全に守られていることを指します。
聖霊に満たされた人々の家庭には安心と平和があるのです。神を中心にした交わりと祈りの家庭は、「わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう」のです。