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主は来ませり(2022.12.25)

聖 書

初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。(ルカ2章7節)

礼拝音源(31.8MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ヨハネ3章16節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編98編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ2章1~20節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「主は来ませり」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
洗 礼 式 67
賛  美 268 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスの降誕の出来事が、世界史的な出来事の中に位置づけられています(1~3節)。「すべての民に与えられる大きな喜び」(10節)の知らせだったからです。主イエスこそが、歴史の中心、すべてのものの中心、私たちの中心なのです。

1.へりくだって救い主を見る  1~7節
神の御子の誕生を迎えた地上での最初の場所が「飼い葉桶」でした(7節)。これほどまでに、主イエスは貧しい者の姿をとって来てくださり、私たちの救いを成し遂げられたのです。
このように「飼い葉桶」に寝かされている幼子を「救い主」として明らかにすることにより、私たちの「心の飼い葉桶」のような頑なな心を砕き、閉じた目を開かせ、驚くべき救いに目を注ぐように促しておられます。私たちは、へりくだって悔い改め、救い主を仰ぎ見るのです。ここに、クリスマスを祝う幸いがあります。

2.喜びの知らせを受け取る  8~20節
救い主の降誕の出来事から最も遠いところにいると見られていた羊飼いのもとに、「救い主」の誕生という福音が告げられました(10~12節)。それにより、天での栄光が地での平和に結び合わされる喜びの賛美となりました(13~14節)。
「今日」(11節)は神の救いが起こる「今日」であり(ルカ19章9~10節、23章43節)、私たち一人ひとりが受け取らなければならないものです。そこから、礼拝の人生また主への賛美の人生という新しい日常が始まります(15節、20節)。十字架にお架かりくださった「救い主」が、「飼い葉桶」の中に降誕されたのですから(7節、12節、16節)。

この一事のために(2021.12.19)

聖 書

家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2章11節)

礼拝音源(29.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 テトス2章11節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編100編1〜5節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マタイ2章1〜12節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「この一事のために」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
洗礼式 67
賛  美 258 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリスト礼拝こそが、クリスマスに最もふさわしい私たちのあり方です。東方の博士たちは、キリストに出会い、非常に大きな喜びに溢れてひれ伏し、礼拝をささげました(10~11節)。このことが、私たちに最も必要なことなのです。

1.キリストを知る
博士たちは、星に導かれて旅立ち、救い主に出会い、キリストを礼拝しました。キリストを拒絶して不安を抱いたヘロデ王、また聖書知識はあったもののキリストには無関心であった学者たちとは、大きな違いでした(3~8節)。博士たちは、大切な「宝の箱を開けて」献げました。黄金はキリストが真の王であることを、乳香は神と人との交わりの回復を、没薬はキリストの十字架の死を表しています。
私たちは、御言葉に導かれてキリストに出会い、その御前にひれ伏し礼拝を献げることを通して、キリストを知り続けるのです。

2.キリストによって揺り動かされる
博士たちは、「別の道を通って」いつもの日常の中へ帰って行きました(12節)。神と取引するように、神が語られることを聴き取り、それに服して従いました。それは、新しい歩みへの方向転換であり、神と共に歩み続ける新しい人生の旅路でした。
私たちは、キリストの前にひれ伏し礼拝を献げることを通して新しくされ、遣わされていきます(マタイ28章17節)。その日々の連続が、ついに天の御国におけるひれ伏す礼拝へと至るのです。キリストとその御言葉によって揺り動かされる聖徒の群れが、教会なのです。

大いなる決断の日(2019.12.22)

宣教題 「大いなる決断の日」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 マタイ2章1~12節

 クリスマスは、神が独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちのために立ち上がってくださった決起の日です。それに応じて、クリスマスこそ、私たちが神のもとに帰り、神に向かう決断の日です。

1.神の大いなる決起の日  1~9節
 クリスマスにまつわる人物たちは、神からの語りかけ、聖霊による導きのなかにあって、主イエスとの出会いをしました。
 その中でも、東の方から旅を続けてきた占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を熱心かつ真剣に求める旅を続けていました。しかし、彼らは自分たちの知識や力によってエルサレムまで来ましたが、救い主に会うことはできませんでした。御言葉によって「ユダの地、ベツレヘム」を示していただいて、神の導きいていただくことが必要だったのです。
 私たちは、神に引き上げていただき、御言葉に信頼を置く中から神に導いていただいてこそ、救い主イエスとの出会いがあるのです。

2.私たちの新しい歩みを決断する日 10~12節
 幼子イエスに出会った学者たちは、彼らの最も貴重な物を主イエスに献げて礼拝しました。そして、「別の道」を通って自分たちの国に帰ったのです。
 王の王、主の主であるイエスとの出会いを与えられた者は、もはや以前と同じ生き方をするのではなく、他の生き方が神によって備えられています。それゆえに、主イエスは、私たちが新しい歩みを決断するように招いておられます。
 主イエスは、私たちが待ち望んだ以上のことをされるし、祈った以上のことを経験させてくださいます。神のすごみを経験させていただきましょう。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(12.2MB)

クリスマスの驚き(2016.12.25)

宣教題  「クリスマスの驚き」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨハネ1章14節
クリスマスのストーリーには驚きが満ちている。マリヤに神の使いガブリエルが受胎を告知すること、ベツレヘムでの誕生、羊飼いたちに表れた神の使いたち、占星術の学者たちの登場。普通では起こらないようなことが連続して起こる。

1.言が肉になることの驚き
クリスマスの最大の驚きはなんだろうか。それは、言が肉となること(14節)、神である方が人となられた事実である。限界だらけで、何かに頼らなければ生きていけず、死が訪れる人に、限界などなく、弱ることもなく、完全な方、死ぬ事などない方がなられたのだ。神が極限まで、自ら進んで低くなられた姿に驚きを覚える。そして、この方はわたしたちの間に宿られたのだ(14節)。人には近づくことなどできないはずの方を、実際に見て、その方に触ることができるようになった。そして、私たちは神がどのような方であるか知ることができるのだ。

2.神のわざを知る驚き
神が人となって私たちの間に宿られたのは、なぜだろうか。それは、「神が人となられた」ことが生み出す大きな衝撃波がこの地上のあらゆる場所、あらゆる時代に行き渡らせるためである。事実、イエスは社会的弱者、貧者、病人のところに行き、自己欺瞞の人々に徹底的に反対し、自分を殺そうとしている人をゆるし、全世界のすべての悪をご自身の身に負い、死に、三日目に死人のなかから復活された。その生涯を通して大きな衝撃を与えた。そして、世界を変えられた。
「世界はなにも変わっていない」と思われるかもしれない。それは、あなたがイエスの生涯に表された驚きに気がつかず、そのあと、二千年間でこの世界に起こった驚きに気がつかないからだろう。この驚きに気がつかないから、あなたの人生は変わっていない。だからこそ、このクリスマスに、もう一度、その驚きに目を向けようではないか。神が人となられた驚きに気がついたあなたの人生は特別なものとなる。

クリスマスの驚異(2012.12.23)

宣教題  : 「クリスマスの驚異」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章10~12節
クリスマス、それはキリストにひれ伏して拝む礼拝を意味しており、喜びにあふれる時です。この目をみはるような喜びは、人が作り出すものではなくて、神からいただくものです。それは、どのような中から生まれてくるのでしょうか。

1.素朴さの中に
最初のクリスマスは、誠に素朴な形で起こりました。神の御子イエスは、飼い葉桶で誕生されましたが(ルカ2章7節)、素朴でという以上に粗末な姿においてでした。
神の御子は、東の方から来た占星術の学者たちに対するように、幼子のままで出会ってくださったのです。
この神の素朴さは、キリストの生涯を貫き、十字架にまで至っています。私たちは、神の救いの現れである十字架において、神との出会いをさせていただくのです。

2.単純さの中に
主の天使の知らせを聞いた羊飼いたちは、そのことを単純に信じて神の御子イエスに出会いました(ルカ2章8~16節)。学者たちは、星に導かれるという単純なあり方で、喜びにあふれて幼子イエスに出会い、このお方を真の救い主と信じて、贈り物を献げて礼拝しました。
人間が単純に神を信じ、互いに信頼し合うこと、これが人間が人間とし生きる基本です。クリスマスは、神がこの単純さの中に御子イエスを託してくださった時なのです。

3.純真さの中に
イザヤは、御子イエスの誕生の約七百年前に、救い主の誕生を預言しました(イザヤ書9章5節)。それを成し遂げられたのは、「万軍の主の熱意」であり(同6節)、私たちを罪と死と滅びから救い出そうとされた神の純真さ、愛からでした。
この神の愛に対して、学者たちもまた持てる限りの愛を献げかつ安らいでいます。そして、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、新しい生き方を始めました。それは、私たちの新しい生き方でもあり、神の純真さと人間の純真さが出会う経験をする時なのです。

暗闇に輝く光(2011.12.25)

宣教題  : 「暗闇に輝く光」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書   9章1節~6節

1.死の陰、暗闇
クリスマスには「暗やみ」が強調される。人々は暗やみの中を歩き、死の陰の地を歩んでいる(9:1)。国家的、宗教的、戦争による暗やみが国を覆っていた。心の奥に潜む暗やみ、自分の歩みの中にある暗やみがある。そして、私たちはその奴隷となっている。暗やみは表には出てこず、むしろ私たちのうちで増殖する。

2.暗闇に届く光
しかし、クリスマスには「暗闇に届く光」も強調されている。「大きな光」の到来というよい知らせが語られるからだ(9:1)。光が一切届かない場所にさえ届く光が到来する。光の到来は、当初、驚きと痛みを伴う。しかし、しばらくの後、喜びの宴がはじまる(9:2)。

3.王の誕生による解放と戦いの終わり
暗闇に光が届くきっかけとは何だろうか。天地創造の神が与えられた神の働きを代行する子どもの誕生である。彼は人知を越えた知恵で世界を治め、敵を打ち負かし、民が安心する統治を行い、戦いを終わらせ、国々に平和をもたらす(9:5~6)。あらゆる重荷と苦しみからの解放が到来し(9:3)、あらゆる戦いが終わりを告げる(9:4)。
クリスマスにその誕生を喜び祝うイエスこそ、暗闇に届く光をもたらす平和の王である。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。しかし、イエスの誕生だけですべての問題が解決したわけではない。イエスご自身が最も深い暗闇をその生涯と働きの中で通られた。世の暗闇が最も明らかとなる十字架で、憎しみ、苦しみ、暴力、痛みをご自身の身に負われた。だからこそ、暗闇の中にある私たちにイエスの光は届く。
イエスの再臨という夜明けが近いことをクリスマスは私たちに告げている。だからこそ、万軍の主の熱意によってもたらされた(9:6)光を覚え、感謝と賛美をささげつつ、主の再臨を待ち望もう。

降る愛(2011.12.18)

宣教題  : 「降る愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   4章9節~10節
クリスマスは、大いなる神が小さくなられて、幼子イエスとして、この地上に最も低く降ってくださった時です。私たちは、この出来事を「神は、独り子を世にお遣わしになりました。・・・ここに愛があります」と言い表していることに目を向け、そこに立ち帰り、そこから新たに出発するのです。

1.人を生かす愛  9節
神は、私たちに愛する価値があるから愛してくださったのではありません。神の愛は、神の方から示してくださったものであり、愛するに値するものを発見できなくても愛されるのであり、愛することによって価値あるものと造り変えてくださるのです。
それは、イエス・キリストによって私たちを生かす愛です。命の源である神と断絶して死んだような状態にあった者に、生きることの意味や目的や生きる力を与えられるのです。さらに、もうダメだと思われた人の生き方を変えて、その持ち味を生かして用いられるのです。そして、肉体の死で終わることなく、永遠にまで生かされるのです。
人は誰でも、自分を気遣ってくれて、自分の人生を肯定的に生かしてくれる人を求めます。イエス・キリストこそが、私たちにそれを成し遂げてくださるのです。

2.罪を贖う愛  10節
神に生かされることをとどめるのが、私たちの内にある「罪」です。罪は、神と人の本来の関係を破り、人と人との関係も人と自然との関係も破るもので、人間にとっての最大の問題です。それは、人間世界に悪や不義や不正や対立や争いとなって表れます。
愛の神は、この罪を放置しておくことができないので、ご自身の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。それは、神の独り子が十字架にお架かりくださり、「罪を償ういけにえ」となってくださったことによって明らかにされました。このことを信じる者に与えられる罪の赦しは、私たちが勝ち取った赦しではなく、贈られた赦しです。罪を赦された者は、真に生きる者となるのです。
「ここに愛がある」とは、何という素晴らしい宣言でしょうか。ほんものの愛に必ず会える「ここ」と呼び得るところは、イエス・キリストです。

ひれ伏し拝むクリスマス(2009.12.20)

題   : 「ひれ伏し拝むクリスマス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章1節~11節
クリスマスは、全ての人が神に立ち帰る時であり、また決起の時です。東の方から来た占星術の学者たちは、「拝みに来たのです。・・・ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて・・・贈り物として献げた」(2節、11節)とあるように、この二つの問いかけに応答した人たちです。ここに、彼らの信仰姿勢が明らかになっています。

1.キリストこそ私の神です
クリスマスは、私たち一人ひとりに対して、神が最高の贈り物である救い主イエスを与えてくださった時です(ヨハネ3章16節)。それによって神は、わたしたちを永遠の滅びから、永遠の救いに与からせてくださったのです。
ところで、人はイエス・キリストに対して、次のような三つの態度をとってきました。一つは、ヘロデ王のように、キリストに反感を抱き、抹殺しようとする冷淡な態度です。また、祭司長や律法学者のように、知識は持っていても、キリストに無関心な態度です。これらは、恐れと不安しか残りません。そして、学者たちのように、長い道程を導かれて求道し、御言葉を聴いて信じ、大きな喜びにあふれるという態度があります。これは、キリストこそ神と信じる信仰姿勢です。

2.キリストこそ私の宝です
学者たちは、幼子イエスにひれ伏し拝んで礼拝を献げています。その具体的な礼拝行為が、「宝の箱を開けて」、イエスこそ自分たちの最高の宝であることを言い表したことです。「黄金」を献げたのは、イエスこそはこの世のすべての人を治める王であることを、「乳香」を献げたのは、イエスが神と人間を結ぶ祭司であることを、「没薬」を献げたのは、イエスが十字架の死によって贖いを成し遂げる救い主であることを意味しました。
聖書に見る最初のクリスマスは、誰一人としてプレゼントを受け取っていません。むしろ、イエスに仕え、イエスのために献げる生き方を決断しています。そうすることは、神からの本物のプレゼントであるイエス・キリストを心と生活のすべての領域にいただくことになるのです。何と素晴らしいことでしょうか。

神の冒険(2008.12.21)

題   : 「神の冒険」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 2章8節~20節
クリスマス前の四週間をアドベントと言いますが、この言葉は、到来とか到着を意味する言葉から生まれました。そして、ここから冒険を意味するアドベンチャ-という言葉も生まれました。
神の冒険は、神の御子がご自分の在り方を捨ててこの世に来てくださったことです。私たちは、この救い主に正面から向かい合い、共に歩むことが求められています。

1.神の冒険のクリスマス  8~14節
神の救いの出来事である喜びの知らせは、権力者のアウグストゥスにではなく、小さな弱い命でしかない「乳飲み子」に託されました。これは、危険を冒してまでの神の冒険であり、十字架に向かって歩まれる冒険の道へとつながっています。ここに、神が御子を手放された愛と勇気が現れています。
さて、この出来事を最初に知らされた「羊飼いたち」は、社会的にも、宗教的にも除け者扱いにされていた「失われたもの」(ルカ19章10節)でした。羊飼いたちは、喜びに包まれ、天使たちは、神の救いが成し遂げられることを讃えています(14節)。羊飼いこそ、神の前の自分の貧しさ、また罪深さを知っている謙った者たちであり、「御心に適う人」でした。このように、クリスマスの出来事は、神の御心に適う人々に届けられてきたのです。

2.冒険へと駆り立てるクリスマス  15~20節
羊飼いたちは、告げ知らされると直ちに応答しました(15節)。
そして、御子イエス・キリストに出会って後(16節)、その出来事を伝えています(17節)。こうして彼らは、神を礼拝する者として、新しい人生を歩み出したのです(20節)。
神の冒険であるクリスマスの出来事は、私たちの人生もまた冒険へと駆り立てます。そして、神に変えていただき、神に用いていただく人生がつくられていきます。さらに、自分と他者との在り方や関わり方が変わります。慰められるよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、赦されることよりも赦すことを求めるようになります。
クリスマスの出来事は、私たちを冒険の人生に駆り立て、押し出すのです。