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人知を越えた神の導き(2014.3.2)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録23章12~35節 イザヤ書55章11節

私たちは、主イエスとその御言葉に信頼し続けることにより、神の導きの中を歩ませていただくのです。ここでは、パウロ殺害の陰謀と露見とカイサリアへの護送という出来事の中に、人知を越えたとしか言いようのない神の導きを証言しています。

1.神の導きの不思議さ
ユダヤ人によるパウロの暗殺計画が実行されようとしました(12~15節)。これがそのまま放っておかれたなら、パウロによるローマでの伝道ができなく なるという危機を迎えたのです。「しかし」、そのことを聞きこんだパウロの甥によって、その情報がパウロに伝えられ、そのことがローマの千人隊長にも知ら されることとなったのです。千人隊長には、ローマの市民権を有するパウロの権利を守り保護する義務がありました(17~22節)。すかさず、千人隊長は、 万全の策を講じてパウロをローマ総督のもとに護送するようにしたのでした(23~35節)。こうした中にも、パウロは切迫した情況の中で、冷静な信仰的総 合判断をしたのでした。
神の救いの歴史を導いておられる神が、ご自身の計画を実現するために、パウロの甥や千人隊長を用いられたことに、不思議さを覚えます。神の時に、神の方法で、神の人を用いられるのです。私たち一人一人も、そうした神の人なのです。

2.神の導きの確かさ
こうした神の導きの背後には、先にパウロに語られた復活の主イエスの御言葉が゜働いていました(11節)。その導きは、復活された主イエスが共におられるという確かさであり、導きの時は確かであり、導きそのものに誤りはないという確かさです。
このことは、イザヤ書に語られている神の約束の御言葉にあるように(55章11節)、神は、苦難の中にあっては特別の支えをもって、試練の中にあっては希望を与えて導き、その使命を果たさせてくださるのです。
私たちの中に、神の導きを必要としない人は、一人もありません。また、教会も世界の全体も、神の導きを必要としています。神は、人知を越えた不思議な導きを、御言葉に立った確かな導きを与えてくださいます。皆が、それに従えますように。

導く星(2012.12.9)

宣教題  : 「導く星」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~9節

占星術の学者たちは、神が備えられた星の導きを受けて(民数記24章17節)、遠い道を旅し、ついに神の御子に出会うことができました。私たちの人生が、星という一時的に現れるものにではなく、いつも共におられる神に導かれることほど大切なことはありません。それによって、私たちの人生に新しい歩みが始まるのです。

1.神の導きは確かである
学者たちは、まだ真の神を知ることのない暗い世界に生きていました。それだけに、求めることにおいて熱心であり、真剣であり、切実であったと思われます。彼らは、特別な星の動きを自分たちの知恵や力によって判断してエルサレムまで導かれたのですが、そこには限界があって行き詰ってしまいました。彼らが御子イエスの誕生地ベツレヘムに導かれるのには、神の御言葉による導きが必要だったのです。
神の導きとその御言葉に対する信頼と服従に生きるときに、神は大いなる喜びをもって報いてくださいます。そこには、神が共におられるという確かさ、神の導きに誤りがないという確かさ、神の御言葉は偽ることがないという確かさがあるからです。私たち一人ひとり、教会、そして世界は、この神の導きを必要としているのです。

2.神の導きの中を歩み続ける
学者たちは異邦人でしたが、ひたすら神に向かう姿勢をもって、その導きに従う人たちでした。彼らには、神の御子イエスに出会う確信と喜びがありました。それに対して、エルサレムの人々は、ヘロデ王に対する恐れのゆえに、将来に不安を覚えました。祭司長や律法学者たちは、聖書知識を駆使して神の御子の誕生地を見出したものの、無関心で冷淡な態度をとりました。ヘロデ王にいたっては、ユダヤ人の王の座を奪われるのではとの不安から、憎悪の念に駆られたのです。
私たちは、神に対する無関心、冷淡、憎悪といった態度でいるのではなく、神の御子イエス・キリストの救いに与かる歩みを始めることが大切です。この神の救いと導きの中を歩み続けることは、人生の様々な不安や罪と死の恐れが取り除かれ、喜びに変えられる歩みとなるのです。これこそ、学者たちと同じ歩みなのです。

あと一歩でキリスト者(2010.9.26)

宣教題  : 「あと一歩でキリスト者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  10章34節~48節
ロ-マの軍人であったコルネリウスは、どこかで真の神を知り、その敬虔さは全家族だけでなく配下の者にまで影響を及ぼし、祈りと施しに生きていました(10章2節、7節)。しかし彼は、自分の信仰には何か根本的に欠けているものがあることを薄々気づいていたようです。彼が真にキリスト者となるには、神による備えと導きが必要でした。

1.伝道者を備えられた
ユダヤ人ペトロが、異邦人に対して何の偏見ももたないでキリストの救いへと導くためには、乗り越えなければならないハ-ドルがありました。それは、異邦人に対する偏狭な民族感情や生活感情から生じたものでした。そのために、コルネリウスが福音を受け入れることができるように、神は幻をもってペトロ自身の心を備えられたのです(9~33節)。ペトロは、この経験を通して、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(34節)と告白しています。
信徒はみな伝道者です。そのために神は、救われた者が求道者をキリストに導ける備えをして下さるのです。

2.求道者を導かれた
ペトロは厳かに、「すべての人の主」であるイエス・キリストの福音を語っています。このお方の十字架と復活によって「罪の赦しが受けられる」救いの道を証言しました(34~43節)。
それを信じたコルネリウスとその仲間たちには聖霊が降り、ユダヤ人同様に多国語で福音を証しし、神を賛美するという「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれ」たのです。それゆえに、彼らがバプテスマを受けるのは何の支障もないことでした(44~48節)。
私たちは、誰一人もれることなく洗礼の恵みに与かり、イエス・キリストのものとなり、その交わりに生きる信仰の一歩を歩み出しましょう。

神の導き(2010.5.2)

宣教題  : 「神の導き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章26節~40節
異邦人であったエチオピアの高官がバプテスマを受けるに至った過程には、明確な神の導きがありました。それは、救いの御業がなされるために用いられた人にも、救いに与かった人にもありました。主イエスの救いの御業が展開される時には、この神の導きを誰しもが経験するのです。

1.神の導きの深さ  26~28節
フィリボの足跡をたどると、彼は聖霊の導きの中を縦横無尽に用いられています。そうしたなかで彼は、サマリアでの大きな働きから、突如として荒れた寂しいガザに下るように命じられました。彼は、柔軟にその導きに従って「すぐ出かけて行った」のです。
「折から」福音を必要としているエチオピアの高官がいました。思いがけない神の設定です。それは、フィリボにとっても、高官にとっても未知の遭遇と言うべきものでした。全てをご存知の神は、明らかに二人が出会うように導かれたのです。
神の導きは、福音を届ける人にとっても、福音に与かる人にとっても、人知を超えた深いものであるという信仰の気づきをいただきたいものです。
2.神の導きの確かさ  29~40節
これは、エチオピアの高官がエルサレムでの礼拝を終えて、帰国する途中での出来事でした。彼が「預言者イザヤの書」を朗読しながら旅をしていた時に、聖霊に導かれたフィリボが近づいてきました。彼は朗読されていた御言葉を通して(イザヤ53章7~8節)、そこに記されているのは受難のイエス・キリストであることと、福音の真髄を語りました。聖霊が御言葉を用いて働かれるとき、主イエスの救いの御業が成されます。
この確かな神の導きは、福音に与かっている人を通して進められます。そして、自発的な信仰告白とバプテスマへと導き、自立した信仰の歩みへと導きます。
神の導きを必要としない人は、一人もいません。そして、教会も神の導きを必要としています。
それに従える一人ひとりであり、教会とさせていただきましょう。

新たな旅立ち(2009.12.27)

題   : 「新たな旅立ち」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章12節~15節
聖書の中には、多くの旅立ちの記事が記されています。それには、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」学者たちの旅立ち、幼子イエスを抱いたマリアとそれを助けるヨセフの密かな旅立ちがあります。
キリストに出会った者は、神の導きによる新たな信仰の旅立ちを始めるのです。

1.神の導きの確かさ
最初のクリスマスは、喜びや明るさだけではなく、悲しみや暗さもありました。暗さは、キリストを拒絶する姿に現れています。とりわけ、猜疑心の強かったヘロデ王は、幼児虐殺という残忍なことを行いました(16節)。このヘロデに見る罪の性質は、私たちの内にもあります。それは、私たちが自分自身を王として、真の王であるイエス・キリストを拒絶する時に現われてきます。この罪が、イエス・キリストを十字架に追いやったのです。
そのような中にあって、神は御言葉をもってヨセフを導かれました(1章23節、2章15節、23節)。ここに、神の導きの確かさがあります。私たちは、信仰者としての人生の歩みと教会の歩みに、神の強い導きがあることを確認し、そのことを感謝をもって証ししていきたいものです。

2.神の導きへの従順
この神の導きに対して、ヨセフは神に全面的な信頼を置いています。それが、御言葉に対する信仰の従順となって現れています(1章24~25節、2章14~15節、21~23節)。とりわけ、「夜のうちに」とあるのは、ヨセフの敏速に従っている様子がうかがわれます。先が見えない中で、今示されている御言葉に愚直なまでに従うヨセフの姿は、今日の私たちが忘れかけているものではないでしょうか。
絶えず御言葉を尋ね求め、開かれた御言葉の導きに従順に生きることが、信仰者の旅路の在り方です。私たちは、キリストを拒絶して閉め出してしまうのではなく、今この時この所からキリストを自分の全存在と生涯の王座に迎え入れて、新たな信仰の旅立ちをさせていただきましょう。