マタイ」カテゴリーアーカイブ

クリスマスの驚異(2012.12.23)

宣教題  : 「クリスマスの驚異」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章10~12節
クリスマス、それはキリストにひれ伏して拝む礼拝を意味しており、喜びにあふれる時です。この目をみはるような喜びは、人が作り出すものではなくて、神からいただくものです。それは、どのような中から生まれてくるのでしょうか。

1.素朴さの中に
最初のクリスマスは、誠に素朴な形で起こりました。神の御子イエスは、飼い葉桶で誕生されましたが(ルカ2章7節)、素朴でという以上に粗末な姿においてでした。
神の御子は、東の方から来た占星術の学者たちに対するように、幼子のままで出会ってくださったのです。
この神の素朴さは、キリストの生涯を貫き、十字架にまで至っています。私たちは、神の救いの現れである十字架において、神との出会いをさせていただくのです。

2.単純さの中に
主の天使の知らせを聞いた羊飼いたちは、そのことを単純に信じて神の御子イエスに出会いました(ルカ2章8~16節)。学者たちは、星に導かれるという単純なあり方で、喜びにあふれて幼子イエスに出会い、このお方を真の救い主と信じて、贈り物を献げて礼拝しました。
人間が単純に神を信じ、互いに信頼し合うこと、これが人間が人間とし生きる基本です。クリスマスは、神がこの単純さの中に御子イエスを託してくださった時なのです。

3.純真さの中に
イザヤは、御子イエスの誕生の約七百年前に、救い主の誕生を預言しました(イザヤ書9章5節)。それを成し遂げられたのは、「万軍の主の熱意」であり(同6節)、私たちを罪と死と滅びから救い出そうとされた神の純真さ、愛からでした。
この神の愛に対して、学者たちもまた持てる限りの愛を献げかつ安らいでいます。そして、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、新しい生き方を始めました。それは、私たちの新しい生き方でもあり、神の純真さと人間の純真さが出会う経験をする時なのです。

導く星(2012.12.9)

宣教題  : 「導く星」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~9節

占星術の学者たちは、神が備えられた星の導きを受けて(民数記24章17節)、遠い道を旅し、ついに神の御子に出会うことができました。私たちの人生が、星という一時的に現れるものにではなく、いつも共におられる神に導かれることほど大切なことはありません。それによって、私たちの人生に新しい歩みが始まるのです。

1.神の導きは確かである
学者たちは、まだ真の神を知ることのない暗い世界に生きていました。それだけに、求めることにおいて熱心であり、真剣であり、切実であったと思われます。彼らは、特別な星の動きを自分たちの知恵や力によって判断してエルサレムまで導かれたのですが、そこには限界があって行き詰ってしまいました。彼らが御子イエスの誕生地ベツレヘムに導かれるのには、神の御言葉による導きが必要だったのです。
神の導きとその御言葉に対する信頼と服従に生きるときに、神は大いなる喜びをもって報いてくださいます。そこには、神が共におられるという確かさ、神の導きに誤りがないという確かさ、神の御言葉は偽ることがないという確かさがあるからです。私たち一人ひとり、教会、そして世界は、この神の導きを必要としているのです。

2.神の導きの中を歩み続ける
学者たちは異邦人でしたが、ひたすら神に向かう姿勢をもって、その導きに従う人たちでした。彼らには、神の御子イエスに出会う確信と喜びがありました。それに対して、エルサレムの人々は、ヘロデ王に対する恐れのゆえに、将来に不安を覚えました。祭司長や律法学者たちは、聖書知識を駆使して神の御子の誕生地を見出したものの、無関心で冷淡な態度をとりました。ヘロデ王にいたっては、ユダヤ人の王の座を奪われるのではとの不安から、憎悪の念に駆られたのです。
私たちは、神に対する無関心、冷淡、憎悪といった態度でいるのではなく、神の御子イエス・キリストの救いに与かる歩みを始めることが大切です。この神の救いと導きの中を歩み続けることは、人生の様々な不安や罪と死の恐れが取り除かれ、喜びに変えられる歩みとなるのです。これこそ、学者たちと同じ歩みなのです。

最も小さいもの(2012.12.2)

宣教題  : 「最も小さいもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~6節

神の御子イエスの誕生の時期と場所が大まかに報告されています(1節)。その場所は、旧約聖書に預言されていたように「ベツレヘム」であり(6節、ミカ書5章1節)、その町は小ささを象徴するものでした。ここにおいて、神は救いの御業を始められたのでした。

1.最も小さいものを大切にされる神
神の御子は、大きな都エルサレムではなく、最も小さな町ベツレヘムに誕生されたことに注目したいと思います。このことを通して、神は小ささを大切にされるお方であることを示唆しています。これは、聖書を貫く大切なテ-マです。その例としては、イスラエル民族が選ばれたこと(申命記7章6~8節)、神の御子イエスの地上における父親と母親の役を神から担わされたヨセフとマリアが貧しく小さな存在であったこと(ルカ1章48節)などに見ることができます。
主イエスは、私たちの救い主であり、私たちと共にいてくださる牧者として、神から遣わされて来られました(1章21~23節)。神は、それほどまでに、小さな私たちを愛し大切にしてくださるお方なのです。主イエスの下に赴く一人ひとりとならせていただきましょう。

2.最も小さいものを用いてくださる神
愛の神は、この世における小ささ、貧しさ、卑しさを退けられるお方ではありません。かえって、大切にして用いてくださり、御自身の御業を進められるお方です。これもまた、聖書を貫くテ-マであり、ヨセフとマリア、羊飼いたち、そして東の方から来た学者たちが証ししています。
私たちは、信仰の歩みが深まるにつれて、自らが最も小さなものであることを自覚するようになります(1コリント15章9節、エフェソ3章8節、1テモテ1章15節)。神は、そのような最も小さいもの一人ひとりを用いて、御自身の恵みの御業をなされるのです。私たちは、自己卑下したり、高慢になったりしないで、神への信仰と希望と愛を働かせていただいて、神に用いていただこうではありませんか。

神の民の魅力(2012.2.26)

宣教題  : 「神の民の魅力」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖   書  : 申命記 4章5節~8節 マタイ 5章16節

人の前ではなく、神の前を歩むことを私たちは重んじています。しかし、人々に見られ、比較されてはじめて、神の民の魅力は明らかになります。ですから、人々の前でどのように生きるかも神の民はいつも問われています。

1.見られる存在として生きる
イスラエルに律法が与えられたのは、約束の地の「真ん中で」(申命記4:5、新改訳)それを行うためでした。さらに、律法に従うイスラエルを通して「諸国の民・・・知恵と良識が示され」(4:6)ます。このように、イスラエルは諸国民に見られる存在として生きる使命が与えられていました。隠されたともしびではなく、光を輝かすランプです(マタイ5:16)。「見せる」のではありません。人々の行き来の激しい場所で、淡々と律法に従って歩む姿が自然と人々の「目にとまる」のです。そして、目にとまって初めて、人々は「すべての掟を聞く」(申命記4:6)ようになるのです。この順序が逆になってはいないでしょうか。

2.比較される存在として生きる
見られ、そしてイスラエルの生き方を示した掟が聞かれたならば、諸国の民は比較を始めます。その生き方が「知恵と良識」(4:6)に満ちているか、主への祈りに信頼した生活であるかが比べられます。最終的には、イスラエルと他の国々ではなく、イスラエルに掟を与えた主が他の神々と比較されます(4:7~8)。聖書に描かれている神の姿、聖書が求めている人、教会、社会の姿は、どこに出しても恥ずかしくないものです。けれども、この聖書に生きるよう招かれている神の民はどうでしょうか。
魅力ある民とは「大いなる国民」(4:7~8)です。しかし、神の民の偉大さは、御言葉を私たちに与えられた主の偉大さであることを覚え、この方を指し示す民としての歩みへと進ませていただきましょう。

柔和な者の幸い(2011.1.30)

宣教題  : 「柔和な者の幸い」   宣教:   光田 隆代
聖    書  : マタイ  5章1節~11節
山上の説教は私たちを主と共にすがすがしい山の上に導き、平明な言葉で私たちを真理に導いてくれます。この有名な八福の教えで、今朝も新鮮な恵みを主よりいただきましょう。

1.幸いな人
聖書の神はシャローム、満月のような祝福を私たちの与えることを望まれます。その神が「ああ、なんとさいわいなのだろう」と感嘆して語られる言葉の中にこそ、真の幸福が映し出されています。この幸いを得させるお方が私たちの神です。

2.柔和な人
旧約聖書に登場するモ-セは「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と記されています(口語訳民数記12章3節)。彼はエジプトからカナンの地へ導く道中、イスラエルの民の不信仰と不従順に何度も悩まされました。しかし彼は忍耐深くとりなした人物です。「柔和」の特徴は、現実に目に見えてくる反抗、反逆などに対して、ストレートな反応を返しません。むしろ、その相手が将来必ず回復することを望む愛の心です。つまり、相手の態度に一喜一憂したりすぐ失望したりすることのない、本当に強い心を言うようです。
今の時代人間関係を作り上げることの難しい人たちが増えてきました。言葉で自分を伝えたり、相手を理解したりすることが困難になりつつあります。教会の交わりが健全になるために、お互いの言葉の使い方、理解の仕方に成長が必要でしょう。そして互いの関係を深めるためにも「柔和」が必要ではないでしょうか。
主イエスは罪深い私たちに対してさえ諦められません。むしろ十字架と聖霊によって必ず人があるべき姿に回復されることを信じられました。それは私たち一人一人にも当てはめられています。キリストの柔和は私たちの期待すべき望みの姿です。上からの知恵が必要なこの時代に、私たちも聖霊により頼み、キリストにある柔和で、前向きなお互いの関係に成長させていただきましょう。

求めよ、さらば与えられん(2010.8.29)

宣教題  : 「求めよ、さらば与えられん」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マタイ 7章7節~12節
祈りは、クリスチャンにとって、呼吸であり、仕事であり、神様との交わりにも欠かせないものであります。それでは、神様が言われる「祈り」とはどのようなものなのか、見ていきたいと思います。

1.誰に求めるのか
お祈りをする時、誰に祈るのか、がとても大切であります。それは、「求めなさい、そうすれば、与えられる」と約束して下さっている天の父なる神様に求めるべきであります(7節)。それでは一体、誰が求めるのでしょうか。「だれでも」(8節)とあるように「あなたも」「私も」であります。
私たちは日常生活の恐れや不安から、神様に求める代わりに、人や仕事等に求めてしまう時があります。ヤコブも恐れや不安の中にいた一人でした。兄エサウが自分の長子の特権や祝福をヤコブが横取りしたため、殺そうと企んでいたからです (創世記27:41) 。そんなある日、神様が夢の中で、ヤコブに近づいて下さいました(同28:13)。恐れの中にいた彼は、神様に「エサウから助けて下さい」と祈りました。
私たちもヤコブの様に恐れや不安を覚える時がありますが、その時、私たちは誰に信頼して祈るのか。ということがとても重要なのです。

2.何を求めるのか
神様に求めるべき物は、「天の国」(神の国)です(マタイ6:33)。天の国は神様が居られ、神様の恵みが溢れている世界です。この地上にいる間にも、天の国に生きることが出来るのです。
なぜ神様は、イエス・キリストを救い主と信じ求める者に天の国を与えて下さるのでしょうか。それは、神様が一人一人の問題や必要なものすべてをご存知で、それらがすべて天の国にあるからです。神様は、全ての祈りを聞いて下さいます。一人一人の祈りに対して、最善の道へと導き、必要な物を与えて下さるのです。
天の国を与えられた私たちは、神様との正しい関係によって、隣人との人間関係を築きあげることが出来るのです。ですから私たちは、隣人に対し愛をもって積極的に行動していこうではありませんか(12節)。

新たな旅立ち(2009.12.27)

題   : 「新たな旅立ち」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章12節~15節
聖書の中には、多くの旅立ちの記事が記されています。それには、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」学者たちの旅立ち、幼子イエスを抱いたマリアとそれを助けるヨセフの密かな旅立ちがあります。
キリストに出会った者は、神の導きによる新たな信仰の旅立ちを始めるのです。

1.神の導きの確かさ
最初のクリスマスは、喜びや明るさだけではなく、悲しみや暗さもありました。暗さは、キリストを拒絶する姿に現れています。とりわけ、猜疑心の強かったヘロデ王は、幼児虐殺という残忍なことを行いました(16節)。このヘロデに見る罪の性質は、私たちの内にもあります。それは、私たちが自分自身を王として、真の王であるイエス・キリストを拒絶する時に現われてきます。この罪が、イエス・キリストを十字架に追いやったのです。
そのような中にあって、神は御言葉をもってヨセフを導かれました(1章23節、2章15節、23節)。ここに、神の導きの確かさがあります。私たちは、信仰者としての人生の歩みと教会の歩みに、神の強い導きがあることを確認し、そのことを感謝をもって証ししていきたいものです。

2.神の導きへの従順
この神の導きに対して、ヨセフは神に全面的な信頼を置いています。それが、御言葉に対する信仰の従順となって現れています(1章24~25節、2章14~15節、21~23節)。とりわけ、「夜のうちに」とあるのは、ヨセフの敏速に従っている様子がうかがわれます。先が見えない中で、今示されている御言葉に愚直なまでに従うヨセフの姿は、今日の私たちが忘れかけているものではないでしょうか。
絶えず御言葉を尋ね求め、開かれた御言葉の導きに従順に生きることが、信仰者の旅路の在り方です。私たちは、キリストを拒絶して閉め出してしまうのではなく、今この時この所からキリストを自分の全存在と生涯の王座に迎え入れて、新たな信仰の旅立ちをさせていただきましょう。

ひれ伏し拝むクリスマス(2009.12.20)

題   : 「ひれ伏し拝むクリスマス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章1節~11節
クリスマスは、全ての人が神に立ち帰る時であり、また決起の時です。東の方から来た占星術の学者たちは、「拝みに来たのです。・・・ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて・・・贈り物として献げた」(2節、11節)とあるように、この二つの問いかけに応答した人たちです。ここに、彼らの信仰姿勢が明らかになっています。

1.キリストこそ私の神です
クリスマスは、私たち一人ひとりに対して、神が最高の贈り物である救い主イエスを与えてくださった時です(ヨハネ3章16節)。それによって神は、わたしたちを永遠の滅びから、永遠の救いに与からせてくださったのです。
ところで、人はイエス・キリストに対して、次のような三つの態度をとってきました。一つは、ヘロデ王のように、キリストに反感を抱き、抹殺しようとする冷淡な態度です。また、祭司長や律法学者のように、知識は持っていても、キリストに無関心な態度です。これらは、恐れと不安しか残りません。そして、学者たちのように、長い道程を導かれて求道し、御言葉を聴いて信じ、大きな喜びにあふれるという態度があります。これは、キリストこそ神と信じる信仰姿勢です。

2.キリストこそ私の宝です
学者たちは、幼子イエスにひれ伏し拝んで礼拝を献げています。その具体的な礼拝行為が、「宝の箱を開けて」、イエスこそ自分たちの最高の宝であることを言い表したことです。「黄金」を献げたのは、イエスこそはこの世のすべての人を治める王であることを、「乳香」を献げたのは、イエスが神と人間を結ぶ祭司であることを、「没薬」を献げたのは、イエスが十字架の死によって贖いを成し遂げる救い主であることを意味しました。
聖書に見る最初のクリスマスは、誰一人としてプレゼントを受け取っていません。むしろ、イエスに仕え、イエスのために献げる生き方を決断しています。そうすることは、神からの本物のプレゼントであるイエス・キリストを心と生活のすべての領域にいただくことになるのです。何と素晴らしいことでしょうか。

キリストに倣って(2009.12.13)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 1章18節~25節
クリスマスのメッセ-ジは、神が人を信頼された出来事を語っています。その結果、人が神を信頼し、人と人が信頼する関係に変えられていきます。このような信頼は、神の御旨に従うことによって生まれるのです。

1.キリストの従順
神が人となられたクリスマスは、私たちに希望を与えています。神は、先の「イエス・キリストの系図」に見た人間の罪の現実にもかかわらず、罪からの救い主イエスをお遣わしになったからです(21節)。そのためにキリストは、父なる神の御旨に従って、自ら十字架に架かって血を流し、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。それによって、「神は我々と共におられる」という恵みに生きる道が開かれたのです(23節)。
このキリストが私たちの内に来てくださるなら、私たちの生活は一変します。また、キリストが私たちの内に来てくださると、キリストのために何でもするようになります。そして、キリストと共にいるなら、私たちは神のことがよく分かり、それが喜びとなります。

2.ヨセフの従順
ヨセフは、婚約者マリアの妊娠を知って、不信と疑惑で悩み苦しみ、彼女に対する愛に傷ついていたことでしょう。しかし彼は、このことを公然と問題にして訴えることをせず、ひそかに縁を切ることによって、世の人の非難を自分が負う決心をしたのです。彼は、そうした犠牲をもいとわない愛を持つ「正しい人」でした(19節)。
こうした決心の背後には、ヨセフに神の働きかけがありました(20節)。彼は自分の正しい決心を越えて、また自分の不安や恐れに動かされないで、神が語られる御旨に従ったのです(24~25節)。それは、彼が不動の境地を極めたというのではなく、ただ聖霊に動かされて神を信頼したからです。
神を信頼して、神の御旨に従うことが、キリストに倣うことなのです。そうすることによって、キリストの御心に近づく者とされるのです。

恵みの確かさ(2009.12.6)

題   : 「恵みの確かさ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 1章1節~17節
私たちは、イエス・キリストに現わされた神の恵みに出会い、その恵みに生かされている者です。たとえ、私たちが打ちのめされそうな中を通されても、その恵みの確かさは変わりません。「イエス・キリストの系図」と言われるこの箇所に、その根拠を見い出すことができます。

1.真実な神ゆえに
イエス・キリストは、アブラハムに約束された祝福を成就させるために、またダビデに約束された真の王となるために来臨されました。そして、そこに明らかにされている系図には、時や場所を越えて、神の福音が秘められています。神の民が高められていく時代、また衰退していく時代、そして暗黒の中で救い主を待望する時代と特徴づけています。そのような様々な歴史を変遷しながら、神は約束を忘れることなく、ついにキリストにおいて全ての人々に救いがもたらされたことを明らかにしておられるのです。神の真実が、この系図を通して言い表されているのです。
神は、御自身を裏切ることのない真実な方です(2テモテ2章13節)。この神の真実が、私たちに慰めと希望を与えるのです。

2.愛の神ゆえに
この系図の中に、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻の4人の女性が記されています。彼女たちは、不義の罪を犯した人や神の祝福を受けられないと思われていた異邦人でした。また「ウリヤの妻」と語られたのは、ダビデの罪が明らかにされるためでした。男女間の節操だけではなく、神に対する節操はどうか、とも問われています。このようにして、一人ひとりが神の御前に罪人であることを明らかにされたのです。
そこで、全く罪も汚れもないイエス・キリストが、この罪人を救うために、罪人の一員として系図に入れられる必要があったのです。私たちは、神の御前に罪を悔い改め、その罪の大きさに勝る十字架の赦しの愛を受け入れるならば、神の家族の家系図に記された一員とされるのです(ヨハネ1章12~13節)。この神の恵みの確かさに支えられて導かれる者は幸いです。

恵みを待つ(2009.11.29)

題   : 「恵みを待つ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 11章2節~15節
バプテスマのヨハネが、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。・・・」(3節)と問いかけたことに対して、「わたしにつまずかない人は幸いである」(6節)と答えられました。幸いとして下さる神の恵みは、すでに主イエスによって与えられていますが、さらにその恵みを日々に待ち望む者には新たにされていきます。

1.恵みの主を待つ
バプテスマのヨハネは、主イエスの道を備えることを生涯の使命とした人物でした。しかし彼は、ここでは牢獄に捕えられ、まもなく最後を迎えようとしています。バプテスマのヨハネの弟子たちは、この現実を受け入れることができず、主イエスに疑問を投げかけたのです。主イエスは、そんな彼らがつまずかないように勧められたと考えられます。
ところで、バプテスマのヨハネ自身は、悔い改めることを語り(3章2節)、主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ3章29~30節)と証ししてきました。そして主イエスは、神の恵みの世界に罪の支配が挑んでくることを明らかにしつつ、ご自身の十字架の勝利を見ておられます(12~13節)。私たちは、十字架と復活に現わされた主の恵みを仰ぎ見続けることが大切です。

2.恵みの力を待つ
つまずいたのは、与えられた使命が失敗に終わった
のではないかとの疑問を抱いていた、バプテスマのヨハネ自身ではなかったかと思われます。彼は、試練の中にあって、自分が信じてきたことと、経験していることとのギャップに悩んでいたのです。彼が、そのことを主イエスに問いかけたことが幸いでした。それに対して主イエスは、神の恵み、神の救いの力は、もうすでに働いているので、「飼い葉桶に降誕され、十字架に架かるわたしにつまずかない人は幸いである」と語られたのです。
私たちは、様々な試練の中において、主イエスの救いの恵みの力がいつも働いていることを知ることが大切です。そこでこそ、試練に耐える力、愛する力を体験し、その中を生きていくことができるのです(2コリント12章9節)。

喜びは尽きず(2008.12.14)

題   : 「喜びは尽きず」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイによる福音書 1章18節~25節

クリスマスの出来事は、「聖霊によって」(18、20節)とあります。それは、人間が作り出したものではなく、神がなされた御わざであるということです。
この事実は、今日に至るまで人々に聖霊による喜びをもたらし、今も尽きることのない喜びとなっています。

1.神が私たちと共にいて下さるゆえに
主の天使が、「その名をイエスと名付けなさい」と告げられたのは、「この子は自分の民を罪から救う」お方であったからです(21節)。
主イエスは、私たちを神から引き離し、その結果価値観を狂わせ、人格を曲げ、良心を萎縮させて行動を麻痺させ、あげくは人と人の関係を歪めてしまう罪からの救い主であられたのです。そのために、十字架において血を流してくださいました(マタイ26章28節)。
さて、「その名はインマヌエルと呼ばれる」お方でもあり、その意味は「神は我々と共におられる」ということです(23節)。
神が共にいてくださることができないのは、私たちの罪だけです(イザヤ59章1~2節)。その罪を取り除くために、神の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。
十字架の死から復活された救い主イエスは、時とか場所に制約されることなく、いつでも、どこにでも共にいてくださるお方です(マタイ28章20節)。この喜びは尽きることがありません。

2.私たちも神と共にいるゆえに
ヨセフは、神の御ことばを重んじる「正しい人」でしたので、マリアが懐妊したことを悩み苦しみました。しかし、それが聖霊による神の御わざであることを信仰によって受け入れ、御ことばに従いました(24~25節)。それは、ヨセフが「私も神と共にいる」との信仰の自覚をもっていたからです。
自分の願いに、また自分の不安や恐れに動かされないで、さらに自分の正しさに立つのでもなく、神の御ことばに動かされ、聖霊に動かされていくとき、主が私たちと共におられ、私たちも神と共にいるとの尽きない喜びに満たされるのです。
待降節、そしてクリスマスを祝う時に、私たちは自らの喜びが何によるものかを問う必要があるのではないでしょうか。