マタイ」カテゴリーアーカイブ

起きよ、光を放て(2017.3.19)

宣教題  「起きよ、光を放て」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ60章1~7節、19~22節 マタイ5章14節a

「あなたがたは、世の光です」。だから、「起きよ。光を放て」。聖書はそう招いている。世界や教会や自分が暗やみに包まれていても、いやそうだからこそ、「起きよ。光を放て」。

1. 主の栄光が輝いているから
私たちの光はどこから来るのだろうか。そして、捕囚からの回復にあってもいまだ苦しみもだえているシオンの光はどこから来るのだろうか。主の栄光がもうすでにあなたの上を照らしている(1~2節)。だから、主の光を映す鏡として、あなたは光を放つことができるのだ(19~20節)。事実、十字架で死なれたキリストが復活されたのだから、復活の光はもうすでに輝いている。

2. そうすればあなたの使命を果たせるから
シオンが主の光で輝く時、主に求められていた使命(2章1~5節)が実現する。失われていた者たちが戻り(4節)、これまで見向きもしなかった者が訪れ(3節)、豊かさと平和がもたらされ(5b~7節, 10~11節, 1節, 16節a, 17節, 18節)、シオン自身が喜びに満たされる(5節, 14~15節)。主のもとに人を導く使命が果すことができるようになったから喜ぶのだ。そして、主がそのあわれみによってこのことを実現してくださる。

3. 主を知り、強くされ、美しくされる
主の光に照らされて輝くとき、シオンも変えられる。救い主である主をさらに知り(16節)、主に従うゆえに強くされていく(21~22節)。そして、輝きに満ちた美しさが与えられ、その美しさがシオンを包む(7節, 9節, 13節, 19節, 21節)。主のあわれみが満ちるところこそ美しく輝くからだ(10節)。
だから、世の光よ、起きよ、光を放て。2000年前、時は来た。主はなしてくださった(22節)。十字架と復活の大きな恵みに押し出されて、あわれみの御手のうちに、復活のいのちによって歩み続けようではないか。

主がおられる所へ行く(2016.11.20)

宣教題  「主がおられる所へ行く」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ58章1~14節 マタイ25章40節

主が共におられることを私たちは求める。自分の祈りを主が聞き、それに応えて「共にいてくださる」と語って下さることを求める(4, 9節)。どうすればそのことが実現するのだろうか。捕囚後のエルサレムに住むユダヤ人たちは、断食によって自らを苦しめることを通してそれが実現すると考えた(5節)。ところが、主は彼らの断食を顧みず、祈りに応えてくださらなかった(3節)。

1. 断食か、社会生活か
なぜ断食を主は顧みてくださらないのだろうか。主がその人の宗教的な部分だけではなく、全生活を見ておられるからである。本当に主を尋ね求め、主を知ろうとしているのか(2節)、主は問われた。断食をしている人々の生活は、主が願っているものからはほど遠いものであったからだ。労働者を追い使い、争いをおこし、暴力を平気に用い、人々を束縛し、貧しい者にあわれみを施さず、安息日に休みをとらずに、人々をこきつかった(3, 4, 6~7, 9~10, 13節)。民の生活は、彼らと関わりを持っている諸国民の生活と変わらなかった。だからであろうか、宗教的に生きようと彼らは断食をした。しかし、神は、宗教的な自分と世に生きる自分を使い分けている者に厳しく対応された。

2. 全生活を見られる主
全生活を見直しなさい、と主は語りかけた。人々を解放し、貧者を顧み、安息日を守って、他者を休ませなさい、と命じた(6~7, 9~10, 13節)。断食をする宗教的な人であるか、ではなく、生活の現場でどう生きるか、が問われていた。自分よりも立場の弱い人々への解放と思いやりに生きるとき、そこに主が共におられて、祈りに応え、導き、満たし、いのちをあたえ、再建を果たしてくださる。そして、そのような人と共に主がおられることをまわりの人々も見るのだ。
イエスご自身もこのことをご存知だった。そして、羊と山羊の物語を語られた(マタイ25章31~46節)。自分よりも立場の弱い人々を解き放ち、思いやりを示す生きる場所にこそ、主が共におられる所であると述べられた。われらも主がおられる所へ行こうではないか。

神のあわれみを知る(2016.6.19)

宣教題  「神のあわれみを知る」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ4章1~11節、マタイ20章15節

自分以外のだれかを、それも自分に敵対するようなだれかにあわれみを示される神をあなたはどう思うか。

1. ヨナの怒り(1~4節)
神がニネベを滅ぼすことを思い直したのを知って、ヨナは不愉快に思い、怒った。当初、ニネベに行こうとはせずタルシシュへ逃げたのは、ニネベに行って語ったならばきっと神は思い直すと知っていたからだ。さらに、神が思い直したら、偽りを預言した者として、自分が恥を被ることも知っていた。思ったとおりになったので、ヨナは死ぬ方がましだ、とつぶやいた。

2. 惜しむヨナ(5~9節)
不機嫌なヨナは、熱さの中、ニネベがどうなるのか、見届けようとしていた。小屋を建て、日差しを避けた。主はとうごまの木を準備し、それはすぐに成長して、陰をつくり、ヨナを暑さから守った。不機嫌だったヨナが喜んだのもつかの間、翌日、神は虫を備えて、この木を枯れさせた。頭上から照りつける太陽と焼けつく東風のために、ヨナは苦しみ、再度、不機嫌になり、「死ぬ方がましです」(8節)と言いきり、「怒りのあまり死にたい」(9節)とさえ語るようになった。とうごまの木を惜しんだヨナは、それが奪われた時、不機嫌になり、怒った。

3. 惜しむ神(10~11節)
とうごまの木の件で怒っているヨナに主は、「お前はとうごまの木さえ惜しんでいる」(10節)と語った。自分が育てたわけでもないし、成長するのに時間がかかるわけでもないものが奪われて、怒っている、と諭した。そして、ヨナに主のニネベに対する思いを想像するように求めた(11節)。大いなる都、十二万以上の人、無数の家畜がいるこの地が滅びたとしたら、この町を育ててきた主はどれほど不機嫌になるだろうか。神はニネベを惜しんでいる。だから、すぐに怒らず、わざわいをくださず、むしろそれを思い直した。
私たちは、自分に敵対する者に対して神が気前よく振る舞う時、それをねたむ(マタイ20章15節)。自分の都合のいいように神を用いたいからである。しかし、神があわれんだのは、ニネベだけではない。理解しようとしないヨナさえもあわれみ、とうごまの木を備えられた。私たちの敵をあわれむ方だからこそ、私たちをあわれんでくださるのだ。

野の花を見よ(2016.5.29)

宣教題  「野の花を見よ」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ6章25~34節

造り主なる神は、悠久なる大自然、大宇宙を造られ、それを支えておられます。そればかりか、「野の花」とりわけ小さな花のひとひらに至るまで、まことに緻密で用意周到に造られました。この「野の花」を注意して見ることにより、愛の神を知り、自らの生き方を問い直したいものです。

1.造り主を信頼する
造花には命がなく、生花には命があります。命を創造することは、人間の科学の世界には許されていないのです。真似はできても、命を創造することは、造り主の独壇場です(29節)。野の花が花を咲かせて精一杯生かされているように、人は神から与えられた命を精一杯生きるのです(30節)。ここに、生きる喜びがあります。
よく考えてみるならば(28節)、野の花が造り主によって育てられ、運ばれるままに生きるように、人は造り主に信頼して生きるのです。ですから、自分のことだけでなく他人のことまで心配したり、今日だけのことでなく将来のことまで思い悩んだりしないで(31~32節)、神を第一として神に信頼して歩むのです(33~34節)。

2.備えてくださる主を信頼する
花は人生の無常さも教えています(30節、1ペトロ1章24節)。確かに、人にはいつ何が起こるか分からないという世のはかない現実があり、また人生の終わりの時が必ず来ます。さらに、神に造られた被造物は、様々な弱さがあることにも気づきます。その弱さを最も覚えるのが、罪の解決を得ていない状態にある時であり、自らの死を覚える時です。
しかし、そこでこそ神の愛に触れ、主イエスの救いに出会う時なのです。主イエスの十字架の愛を信じる者の罪を消し去って罪を責め立てることなく、復活の主イエスを信頼している者が死の恐怖で追い立てられることはありません。ですから、備えられた神の恵みの中を生き、神の前にまっすぐに生きることです(33節)。

この小さな者たちの一人にしたのは(2016.4.17)

宣教題  「この小さな者たちの一人にしたのは」     宣教 岩上 祝仁師
聖 書  マタイ25章31~46節
トルストイはこのたとえ話をもとに「愛のあるところに神はいる」という小説を書いた。靴屋のマルティンとして有名な動画である。愛の業の大切さを教えている。
マタイは主イエスのたとえ話を主の最後の説教として書いて、重要さを現した。

1. このたとえの中心は単に行ったか行わなかったかではなく、心から出て来る行動に主イエスは注目しておられる。
このたとえには、どちらも・・・・してくれた。・・・・してくれなかったという表現で、私たちの行動が問われている。しかし、良くたとえを読んでみると、行った者も、行わなかった者もどちらも「いつ、わたしは しましたか?(しませんでしたか?)」と語っている。それは無意識の行動、もう少し言い換えると私たちの普段のあり方そのものが問われている。私たちの心と性質が主の前に問われている。「木のよしあしはその実によって知られる。」今朝、まず私たちが罪を悔い改め、主イエスにつながることによって、良き実を結ぶ者とされていることを確認しよう。

2. 主イエスは、この言葉で私たちの生き方そのものを変えようとされた。
私たちは小さい者と相手を認識した時点で、その人を見下し、自分を高めてしまう傲慢の誘惑に陥っている。そして、小さい者のために何かが出来ることで、自己満足してしまう。さらに小さい者から見返りがない時には不平不満が出て来ることにもなる。そんな私たちに対して、主イエスは、最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしたのですと語られる。主イエスの愛に応答して、愛の業に励む様にと変えられるからこそ出来るようになる。自分のためでもなく、相手のためでもなく、主イエスのために愛に生きる様にとの主の招きである。
最後に、この神の愛に生きるためには、自らのもっている人間的な愛では到底間に合わない。自らの汚れた愛を主イエスの十字架によってきよめて頂き、聖霊によって私たちの心に注がれ、満たされる神の愛がこれを可能にする。そして、真実に愛を求め、愛に生きる者に主は永遠の御国を継がせて下さるお方である。

傷ついた葦を折ることなく(2016.2.21)

宣教題  「傷ついた葦を折ることなく」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  マタイ12章17~21節 1ヨハネ4章9節

人は、本来真っすぐに神に向かって生きるように造られたのですが、いつの間にかそうでない複雑な考え方をするようになりました。しかし、私たちは、今日開かれた聖書の御言葉に対して、真っすぐに応答するようにしたいものです。ここには、二つの問いかけがあります。

1.何を見ていますか。 18節a
「見よ、わたしの選んだ僕」との一言には、大切なメッセージがあります。
私たちの周囲には様々な宗教があります。それらの多くが、信仰の名のもとに何かをすることを求めたすることや、何か思いがけない不幸なことなどが起こると供養が足りないなどとの考え方をします。しかし、聖書は、私たちが何かをするのではなく、私たちに「見よ」と見上げることを求めています。それが信仰です。
そして、ただ漫然と見上げるのではなくて、「わたしの選んだ僕」を見よと言われます。この僕こそ、人の子として誕生してくださり、十字架の身代わりの死を遂げてくださり、復活されたイエス・キリストです。すなわち、信仰している私にではなく、イエス・キリストが大事であり、このお方に焦点を置くように招いておられるのです。

2.何によって生かされていますか。  18節b~21節
イエス・キリストがお持ちの「正義」は、私たちの弱い心、はかなく見える魂を生かし用いてくださいます(18節c~20節)。それは、神の愛の現れであるイエス・キリストによって「わたしたちが生きるようになる」ことです(1ヨハネ4勝9節)。このようにして、人が自分で神から遠い者であると思い込んでいる者に希望を与えてくださるのです(21節)。
イエス・キリストは、神と断絶して死んでいた者を生かしてくださり、失敗した人生に対して見捨てることなく生かしてくださり、その人を有用な人として持ち味を生かしてくださり、永遠まで生かしてくださいます。私たち一人ひとりは、自分自身が「傷ついた葦」「くすぶる灯心」であることを自覚して、正義と愛に満ちて生かしてくださるイエス・キリストを信じ受け入れ、信頼することから始めさせていただきましょう。

神の愛の奇跡(2015.12.20)

宣教題  「神の愛の奇跡」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ7章10~14節 マタイ1章21~23節

神の御子の誕生が告げられた「インマヌエル」の出来事こそが、クリスマスの奇跡であり、神の愛の奇跡です。そのことはすでに、イザヤを通して預言されていたことでした。「神は我々と共におられる」とは、どういうことなのでしょうか。
1.「神が共に」との救いが起こった  イザヤ7章14節
イザヤが預言した紀元前735年頃は、ユダの王アハズがアラムとエフライム連合と大国アッスリアとの狭間にあって危機的な状態にありました。その時イザヤは、不信仰に陥っていたユダの王と民に対して、神への信頼を持つように勧めました(7章1~9節)。続いて、神は「しるしを求めよ」と言われましたが、王は現実問題にとらわれたままでした(同10~13節)。そのような状態の王と民に対して、神自らが、一人のおとめが身ごもり男の子を産むという「しるしを与えられる」のです。それによって、「神が共におられる」ことを明らかにされ、勝利をもたらすとの約束をされたのです。
病気がなおった、敵が打ち破られた、困難に際して祈りが答えられたなども救いですが、確かな救いは、いかなる時にも「神が共におられる」という事実です。
2.罪からの救い主となられた  マタイ1章23節
イザヤの預言が成就したのは、イエス・キリストの誕生においてでした。「インマヌエル」とは、真の神と真の人が主イエスにおいて全く一つになったということであり、この主イエスによって、人が神と共にいることができる恵みが実現したのです。本来、聖なる神と罪人とが一緒にいることができないので、「罪から救う」ことを主イエスが十字架の身代わりの死を通して成し遂げてくださったことにより、人は神と共にいることができるようになったのです(マタイ1章21節)。
私たちは、インマヌエルの救いを信じ受け入れることによって、永遠の滅亡から「神は我々と共におられる」という永遠の命の中に導かれるのです(マタイ28章20節)。クリスマスは、そのような神と共にある歩みを新たに踏み出す時です。

クライマックスの到来(2015.12.13)

宣教題  「クライマックスの到来」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マタイ1章1節~17節

神はイエスの誕生のために二千年近くも準備され、その準備が42世代の系図にまとめられている。7世代を一日と考えると、神の準備の一週間が見えてくる。

1. 最初の六日間
まずアブラハムの選びからはじまる(創世記12:1-3)。全イスラエルに広がりつつも、特別な人を選んで神は準備を進め(2-3)、第14代目、神の準備の二日目のクライマックスにダビデが登場した(6)。イスラエルの王ダビデに与えられた使命は、世界を治め、世界を祝福すること、つまり、アブラハムへの約束を実現することであった。しかし、「ウリヤの妻によって」(6)が示唆するように、準備は順調に進まず、むしろ王国の歴史は下り坂を辿り、第28代目、神の準備の四日目に王エコンヤは民とともにバビロンへと移住させられる(11)。次の14代の間に、民はイスラエルへと帰還はしたが、本当の回復は実現せずにいた。

2. クライマックスとしての第六日目
第42代目、つまり神の準備の六日目の最後に大きな変化が起こる。福音書が語る「アブラハムの子ダビデの子、イエス」(1)が誕生されたからだ。イエスこそアブラハムへの約束を、そしてダビデ王の使命を果たすメシアである(16)。その誕生は特別であった。イエスはヨセフの子ではないが、ヨセフの妻マリアから生まれた(16)。そこに神の直接的介入を見る。さらに、神の準備の六日間、ずっとそうであったように、立場の弱い女性たち(タマル、ラハブ、ルツ、マリア)を通して、神はクライマックスを到来させた。さらに、天地創造の第六日目に人が創造されたように(創世記1章)、神の準備の六日目のクライマックスにアダムに与えられた使命を果たすメシア、まことの人イエスをこの地上に遣わされた。

3. 八日目に向けて
六日目のクライマックスに来られたメシアであるイエスは何をもたらしたのだろうか。「罪からの救い」(21)であり、創造の第七日目が象徴する安息の到来である(11:28-30)。そして、世界の民がイエスの弟子となり、この安息を世界に告げ知らせている(28:18-20)。今、私たちは神の第八日目、イエスが再び来られ、新しい天と新しい地が持たされる日を待ち望んでいる。アドベントは、神がこの世界のために準備されてきたご計画を覚えつつ、新しい世界の到来を待ち望む季節でもある。

求める者は受ける(2015.8.30)

宣教題  「求める者は受ける」           宣教 岡本宗子師
聖 書  マタイ7章1~12節

1.神の祝福に生きるために
主は何の条件もつけず、ただ「裁くな」と命じておられます(1節)。生まれつきの罪人であるもの同士が神の祝福に生きていく道は、それ以外にないからです。
私たちは、自分の真相には全く気づかず、人の欠けにばかり目が向き、その悪いところを認めさせ正そうとするものを持っています。けれども決して、そのような方法で問題を解決することはできません。
解決のヒントは12節にあります。それは裁きではなくゆるしと祝福を与えるということです。人間は多様ですから、自分にしてもらいたいことが人にもいいとは限りません。けれども、例外なくすべての人間が必要としていることがあります。それはゆるされることであり、愛され受け入れられることです。
主イエスによる罪のゆるしの十字架を通して、私たちは神の愛を知り、罪を悔い改めることができました。主は私たちの罪や過ちをいちいちとがめることなく、すべてゆるし、きよめ続けて、祝福を受け継ぐ者とし祝福の器として立ててくださっています。この主にあって人の罪をゆるし、励ますことが、私たちのなすべき祝福のわざなのです。

2.求める者は受ける
神を愛すること、隣人を自分のように愛することが、聖書がいう最も重要な掟です(マタイ22章37~40節)。しかし、このような愛は、私たち自身の中からは出てこず、聖霊によって神から受けるのでなければなりません。
ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われる主に、愛することができるように求めることです。そのためには、まず自分自身が悔い改めて、主の恵みと平安を新たに受けることができるように、十字架の前にへりくだりましょう。今日も、お互いが赦し愛し合って生きるために、聖霊によって豊かに注がれる神の愛を祈り求めましょう。

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。

命を生きる(2015.7.26)

宣教題  「命を生きる」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ16章13~28節

今回は、主イエスがペトロに問いかけられるという形で出会いをされています(26節)。ペトロを招かれた主イエスは(24~25節)、同じようにして群衆をも招かれました(ヨハネ12章25~26節)。主イエスは、私たちにどういう問いかけをもって招かれるのでしょうか。

1.自分の命の重さを見い出していますか
「何の得があろうか」(26節)と問いかけています。主イエスの福音は、私たちに本当の利益をもたらしてくださいます。それは、かけがえのない価値のある「命」です。それを見い出しているかと問いかけておられるのです。
主イエスは、ペトロにそのことを気づかせるために、ご自身が救い主であることを言い表わせるように導かれ、罪と死に勝利をもたらすものであることを明らかにされました(13~20節)。そして、そのことが実現するために、主イエスご自身が「必ず」十字架の死を遂げられ、そこから復活されることを明らかにされました(21~23節)。
主イエスのペトロに対するこのような問いかけは、私たちにもなされています。自分の命の重さと、その命を生きる道に気づかせるためにです。

2.主イエスに任せる生き方をしていますか
さて、自分の思うままに生きる、自分の欲望を満足させるように生きることは、「自分の命」を失うことになるのです。そうではなくて、「自分を捨て」て、すなわち自分にしがみつかないで、十字架に死んで復活された主イエスにしがみついて、その救いに与らせていただくことが大切なのです。主イエスに信頼していくならば、「わたしのために命を捨てる」と言われたように、主イエスに合わせて「命を生きる」ことができるのです(24~25節)。
私たちが真に自分に生きる道は、主イエスの十字架と復活の救いを信じ、このお方に任せて生きることなのです。

安心しなさい(2015.6.28)

宣教題  「安心しなさい」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ14章22~33節

主イエスとペトロとの出会いは、ペトロが主イエスに出会いに行く前に、主イエスがペトロに出会いに来てくださっています。その出会いは、繰り返され、深められていっています。この出会いの恵みは、主イエスと私たち一人一人の出会いおいても同じなのです。

1. 主イエスが来てくださるから  25節
ペトロたちは、夜の暗闇に舟を漕ぎ出しましたが、波と逆風に悩まされています。主イエスは舟に乗っておられなかったのです。この時、ペトロたちが主イエスに助けを求めることはなく、主イエスの方から彼らの所に行かれて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られ、ご自身を現しなさいました。
人が恐れを経験するものに、次のようなことがあります。迷信に脅えるということです。人の顔色や評判を恐れることです(箴言29章25~26節参照)。良心の呵責からくる恐れです。そして、死の恐れです(ヘブライ9章27節参照)。十字架に死んで復活された主イエスは、今も「恐れることはない」と解放の道を開いていてくださいます。恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配されているところに安心があるのです。

2. 主イエスのところに行くことによって  28節
「行かせてください」と願うペトロに対して、「来なさい」と主イエスは招かれています。しかし、再度ペトロは、風を見て怖くなり、逆巻く水を見て恐れています。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロを主イエスは諭し、同舟されました。こうして、ペトロたちは、繰り返し主イエスの招きを受ける中から、「本当に、あなたは神の子です」と信仰を言い表わしました。
私たちは、恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配される中で、信仰を言い表わすのです。共に居り続けてくださる主イエスのもとに居り続けるのです。主イエスの方から招いていてくださる確かさに、私たちは身を置くのです。

開かれた道(2015.5.31)

宣教題  「開かれた道」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ4章18~22節

主イエスが開かれた救いへの道は、狭い道です(マタイ7章13~14節参照)。それは、自分一人しか通れない狭さであり、神の前に一人になることを意味していると言えるでしょう。主イエスは、私たち一人一人に対して、ご自身が開かれた道について来ることを求めておられます。

1.主イエスに招かれている道
主イエスは、ペトロたちをご覧になり、お呼びになりました。彼らが、この招きを受けたときの詳しい状況や経緯や理由について何も語られていません。しかも、礼拝で説教を聞いていたとき、祈っていたときといったような場面ではなくて、主イエスは彼らがその職業に就いていた日常生活のただ中において招かれています。
主イエスは、十字架を通り、墓を通り、墓を打ち破って、永遠の命への道を、私たちのために歩き抜いてくださいました。そして、一人一人の全てをご存知の上で、ご自身を賭けたこの恵みをもって、私たちの現実に踏み込んで来られるのです。私たちは、この招きにあずかっているのです。

2.主イエスについて行く道
ペトロたちは、「わたしについて来なさい」と先立たれる主イエスの背を見つめるようにして歩み出しました。彼らは、主の招きに応えたのです。これが、主イエスを信じることであり、従うことなのです。
さらに、主イエスの招きは、ペトロたちの人生を新たにし、新たな使命を与えて遣わされるものでした。彼らに対する使命は、「人間をとる漁師にしよう」と語りかけられたもので、主イエスはその後も繰り返し語り、それを更新し続けられました。
主イエスは、ご自身について来る一人一人を各々の持ち場に遣わされます。それは、人生の最後に至るまで更新し続けられます。私たちは、主イエスの招きに応え、新たにされて、各々の生活の場へと遣わされて行くのです。

主の戦い方(2015.5.17)

宣教題  「主の戦い方」             宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア6章1~21節 マタイ5章16節

エリコを攻略しようとするイスラエルの民にとっての正しい戦い方とはどのようなものだろうか。

1.ヨシュアの命令に民が従う(6章1節, 6~21節)
城門を閉ざしていたエリコとの戦い方について、ヨシュアは民に命令を下した。一日目、祭司たちには契約の箱を担ぐ者と、角笛を吹き鳴らす先導者を備えることを、民にはその後を進んで町の周りを回るのとともに、主の箱の前を武装した兵士たちが進むように命じた(6~7節)。さらに、鬨の声を上げるように命じるまではことばを発しないようにとも命じた(10節)。彼らは忠実にその命を六日目まで守った(12~14節)。七日目には、七度同じように町を回った後、祭司が角笛を吹く際に、鬨の声を上げ、町のものをことごとく滅ぼし尽くすように命じた(15~19節)。民はヨシュアの命令に従った(20~25節)。契約の箱を担いで、城壁の周りを回るという奇妙な行動を求める命令に、民は最後まで従った。

2.ヨシュアを介して伝えられた主の命令に民が従う(6章3~5節)
ところが、ヨシュアの命令は、彼自身のものではない。主から受けた命令を民に伝えたに過ぎない(3~5節)。ヨシュア自身も、主の命令に従うひとりの人である。つまり、エリコでイスラエルが行ったのは、主の命令を一言たがわずに守る、上意下達という戦争の基本的な戦い方であった。

3. すでに勝利をとられている主の戦い方(6章2節)
主の命令に完璧に従ったから、イスラエルはエリコを攻略することができたか。そうではない。なぜならば、これは主の戦いであるからだ。まず、祭司たちが担いだ契約の箱は、主ご自身の臨在そのものである。この箱が町の周りを回ることを通して、主はエリコを着々と攻略された。さらに、主は「わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」(2節、新改訳)と語っている。主は戦いの前にすでに勝利をとっておられる。民は、主の勝利を目に見えるかたちにしたにすぎない。不完全で、失敗の可能性のあるイスラエルを通して、主はご自身の戦いを戦われる。これこそが、主が選ばれた戦い方である。
主の戦い方は、ヨシュアの時代も、今も、変わらない。主はすでに勝利をとっておられる。すでにご自身の光を輝かしておられる。そして、弟子たちという弱く、だめな人間を通して、主の光をこの世界で輝かそうと願っておられる(マタイ5章16節)。私たちも主の戦い方に加わらせていただこうではないか。

苦しみからの出発(2012.12.30)

宣教題  : 「苦しみからの出発」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章13~23節
過ぎ行く一年が、悲しみや試練が多かった人、充実した一年で将来の見通しのついた人と様々でしょうが、主イエスの御前ではすべてを感謝をもって迎えることができるのではないでしょうか。本日の聖書箇所に見るように、クリスマスの出来事が喜びや明るさのある中で、悲しみや苦しみといった暗さが前面にでています。ヨセフ一行は、苦しみからの出発をしています。

1.自分を王とする歩み
幼子イエスに対して、エルサレムの人々及び祭司長や律法学者たちは無関心を、何よりも幼児虐殺の首謀者ヘロデ王は猜疑心を抱いていました。これは、私たちが生まれながらに持っている主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた拒絶する態度に通じるものです。さらに、私たちが、主イエス御自身とその御業と御言葉を受け入れないで、自分を王としたがる罪の姿です。お互いが、今そのことを吟味しつつ、悔い改める必要があります。
この罪の暗さこそが、神の御子イエスをその誕生の時から苦しみへ、そして十字架の苦難へと追いやったのです。ただし、神は確かな御意志と御計画をもって、主イエスを十字架の死に至るまで守られました。

2.キリストを王とする歩み
ヨセフに見る神の御言葉に対する忠実さは、マリアを妻に迎え入れ、幼子をイエスと名付けることにおいて明らかでした(1章24~25節)。そして、彼が幼子イエスを連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと(2章13~15節)、幼子イエスを連れてイスラエルの地に帰ったこと(同20~21節)、ガリラヤのナザレへ行くように告げられたことに従ったこと(同22~23節)に見るように、愚直なまでに従ったのです。
そこには、幼子イエスを王の王、主の主であると信じた者の姿があります。このようにして、神の救いの御業は進められていったのです。
このような従順を生み出すのは、「日々、わたしたちを担い、救われる神」の確かさにあります(詩編68編20~21節)。私たちは、この神に感謝し、神を讃えましょう。